2014年06月24日(火)

今日の自分を信じて進め。

テーマ:思考と行為

・・・こんなことって、あるのだろうか。


たった今の話。
「今日はパソコンで記事を書こう」と思って、
最近スマホで書いた記事を、読み直してみていた。
なんとなく画面をスクロールしていると、
6月19日の記事『すべては繋がっている?』 の中に、
「収束していく。」
という一行があった。


どこかで同じようなことを書いた気がする・・・。
探してみると、5月11日に『収束していく。』 という記事を書いていた。
しかも、5月14日には、
「この記事はもう少し寝かせておこう 」と言っていた。


「自分のメモを寝かせておこう」なんて発想は、普段しない。
僕は性格的に、放置することをあまり好まない。
なのに、この時は、なぜかそう思ったらしい。
そして忘れていた。
・・・なんという忘れっぽさ。
また、なんという偶然。
本当に、自覚がなかった。少なくとも意識の上では。


これを書いている自分でさえも「自作自演じゃないか」と思えるような話だけれども、
嘘じゃない。
さっきまで、本当に忘れていた。




僕は、単に言葉をもてあそんでいるだけではなかった。
本当に収束していくのだ。
自分でも忘れていたのに、
よりによって、「すべては繋がっていく」と書いた、その記事に繋がった。


・・・もちろん、単なる偶然かもしれない。
そこに僕が、過剰な意味を見出してしまっているだけかもしれない。
でも、それでも構わない。
はっきり言って、これは完全に自己満足の世界だ。


僕は、僕をもっと信じようと思った。
信じるに足ると思うから信じるのではない。
信じるという行為そのものに意味があるから信じる。
ただそれだけだ。
それが、信じる理由。


昨日の自分に負けるな。
今日の自分を信じて進め。
立ち止まらず、振り返らずに進んで、
一息ついたところで振り返ってみた。
ただそれだけで、現に、こんなふうに繋がっていたのだから。
もう信じて進むしかない。
AD
いいね!した人  |  コメント(7)  |  リブログ(0)
2012年06月28日(木)

「考える」と「行動する」のあいだ

テーマ:思考と行為

「考えるだけでなく、行動しなければいけない」
と言う人がいる。
僕も言う時があるし、
僕が言われる時もある(言われる時のほうが圧倒的に多い)。


でも、
「考える」のをやめて、「行動」を始める、
というのは、
実際、かなり思い切りが要る。


行動が大事
だと、頭ではわかっていても、
実際に行動に移すのは、なかなか難しい。
極端な話、
「『行動しなければいけない』と、考える」
だけで終わってしまう。
そうなると、ただ考えることを余計に増やしただけで、
実際には何の行動も起こせていない、
ということになってしまう。




たぶん、
「考える」と「行動する」のあいだに、飛躍があり過ぎるのだ。


「考える」
から、一気に「行動する」へとシフトするのは、
簡単そうに思えて、実は簡単ではない。
だから、
なかなか行動できないなら、とりあえず言ってみる
のが良いのではないかと思う。


行動できないなら、とりあえず言ってみな。
・・・というのが、この記事の趣旨。
「考える」と「行動する」の間には、「言う」があって然るべきだろう。
言えば、誰かから何らかの反応が返ってくるかもしれないし、
自分の口から発した言葉に引きずられる形で、自然と行動してしまうこともある。
意識的に行動していくのは、それからでも遅くはない。
少なくとも、
ただ考えるだけで終わってしまうよりは、ずっとましなはずだ。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2012年01月03日(火)

基本的なこと(思考と行為)

テーマ:思考と行為

未来について思考するときは、理性を働かせよう。
過去の経験を踏まえ、その延長上にある未来を予測しておこう。


しかし、実際に行為するときは、感情で動いたほうがいい。
刻一刻と変化するこの世界に対応していくには、理性ではとても間に合わないからだ。
それに、理性による刷り込みのせいで、
世界を新鮮な目で捉えるセンサーが鈍ってしまう可能性もある。




思考することと、行為することは別物である。
しかし、両者は互いに密接に連動している。


・・・実は、思考する場面と行為する場面のタイミングの割り振りがとても難しい。
その割り振りを少し間違えただけでも、
ちぐはぐな言動、ちぐはぐな生き方になってしまう。




→ 『基本的なこと(世界)』

→ 『基本的なこと(思考と行為)』

→ 『基本的なこと(コミュニケーション)』

→ 『基本的なこと(記憶/記録)』

→ 『基本的なこと(心/感情)』

→ 『基本的なこと(人間/人生)』

→ 『基本的なこと(時間)』

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2011年11月03日(木)

一歩を踏み出すこと

テーマ:思考と行為

踏み出せない人は、踏み出せない。
「一歩踏み出してごらんよ」と言える人は、その人自身が自己完結しているだけであり、
その言葉が、言葉通りの効力をもって相手に届くことはない。




踏み出せないなら、踏み出せないことに徹するべきだ。
むしろ、中途半端に踏み出そうなんてしないほうがいい。
・・・極論だろうか?
不満があるなら教えてほしい。反論は大歓迎。


だって、現に踏み出せないんだろう?
じゃあ踏み出せないじゃないか。
仕方がないだろう。
「何が何でも踏み出さなければいけない」と決まっているわけじゃないんだ。
踏み出さない人生だってある。
変に踏み出してバランスを崩し大怪我をするよりは、よっぽど良い。


それとも踏み出したいの?
それなら、どうすれば踏み出せるかを考えて、できることから実行に移すしかない。
答えが見つかるかなんてわからない。
肝心なのは、自分が踏み出したいかどうかだ。
「答えが見つかるなら踏み出す」
・・・なんて言ってる間は、本気で踏み出したいとは思ってないんだと思うよ。
そもそも見つけようとしなければ、答えなんて見つからないものだからね。




くどいかもしれないけど、
何が何でも踏み出さなければいけないわけじゃないよ。
嫌味とかじゃなくて、本気でそう思ってる。
あんまり食い散らかしたって仕方がないんだから。
自分が踏み出したいと思わないのなら、
その一歩は決して自分からは踏み出せないし、踏み出す必要もない。


要は、「自分がどうしたいか」だよ。
踏み出したければ、踏み出せばいい。
踏み出したくなければ、踏み出さなければいい。
ただ、それだけのことだ。


もちろん、
本当は踏み出したいけど「踏み出せない」と言う、
というのも、ありだよ。
人間、心の内のことを正直に言うだけが能じゃないから。
グチりたい時だってあるだろうし、ゴネたい時だってあるでしょう。
でも、
相手はその言葉を真に受けてしまうかもしれないから、
それは覚悟しておかなければいけない。
他人の心の内なんて、自分のことのようにはわからないのが普通だから。

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2011年06月23日(木)

言いたくても言えない

テーマ:思考と行為

「ストレスが溜まっている」
と言うこと自体が、ストレスの元になってしまう場合がある。




そもそも、「ストレスが溜まっている」とは、なかなか言いづらい。


程度の差こそあれ、皆、ストレスを抱えながら生きている。
自分だけがつらいわけじゃないのに、
「ストレスが溜まっている」
なんて、被害妄想のような気もするし、自意識過剰な気もする。
だから恥ずかしくて言えない。


もし、言ってしまったとしても、だいたい後悔する。
こんなことを言ったばかりに、周囲の人に余計な気遣いをさせてしまっているのではないか、
とか、
こんなことを言っても皆が嫌な思いをするだけで、良いことは一つも無かったのではないか、
とか。


そう思うと、余計、ストレスが溜まる。
「ストレスが溜まっている」と言ってしまったことが、大きなストレスの元になる。


だから言えない。
ストレスが溜まりに溜まって、はち切れそうな時ほど、
「ストレスが溜まっている」と言うこと自体が苦しくて、何も言えなくなる。




言いたくても言えなくなる“閾値いきち”がある。
そこを超えてしまうと、
言いたければ言いたいほど、言えなくなっていく。


ひどくなると、雑談もできなくなる。
余力があるうちは、ちょっとした雑談くらいならできる。
でも、本当に言いたいことは、そんな雑談なんかじゃない。
談笑している自分が、ひどく表面的に感じられる。
まるで自分が自分を演じているみたいに。


・・・それでも、本当に言いたいことは、どうしても言えない。
言おうとしても、胸のあたりでつかえてしまうのだ。




実は、その先に、もう一つの“閾値いきち”がある。
言えないことなのに言ってしまう“閾値”である。
ストレスが溜まりに溜まって、はち切れてしまった段階だ。


ここまで来ると、めちゃくちゃである。
自分でも自分がわからなくなり、これまで積み上げてきたものも見えなくなる。
破壊的な言動を、衝動的に起こす。


その言動の多くは、理性的に捉えれば「百害あって一利なし」だけれども、
本人にとっては、もう、そんなことはどうでも良くなってしまっている。
自分で自分を維持することができず、それまで貫いてきていた「軸」から自分が大きくはみ出していく・・・。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2010年08月03日(火)

何か言ってみる

テーマ:思考と行為

とりあえず、何か言ってみたほうがいいよ。
考えがまとまるのなんて、ずっと後なんだから。


そもそも考えというのは、まとまった瞬間に死ぬんだ。
既にまとまっている考えを聞かされることほどつまらないものはないけど、
それは、もう死んでるからだよ。


今、この記事を書いてる僕もそうなんだけど、
言おうとしてる途中(僕の場合は書いてる途中)で、何を伝えようとしたか、わからなくなっちゃっても
それはそれでいいんだよ。
解釈なんて、後でどうにでもつけられるし、
つけたくなくたって自然についちゃうんだから。


そんなことを気にするよりも、
その衝動を解き放ったほうがいいよ。
方向が定まらないまま始めてみることによって、初めて定まる方向、ってのもあるし。


ほら、こういうのも悪くないでしょ。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2009年05月27日(水)

原点に返ること/初心に返ること

テーマ:思考と行為

「原点に返って」とか、
「初心に返って」とか、
そういう言葉をよく聞くし、僕もよく使う。


でも、こういうことは意識しすぎると、かえって変になる。
変になる、というのは、
例えば、・・・眠れない夜に、「眠ろう」と意識すればするほど眠れなくなってしまうようなこと。
つまり、原点や初心を意識しすぎると、
逆に、原点や初心がわからなくなってしまう。




原点とか初心は、過去のものではない。
今も自分に備わっているはずの、生きる上での基軸となる部分。
かつて、自分の生き方を強く決意した時の、その起爆剤にあたるもの。
それが原点であり、初心だ。


初心に返ることは、
「自分の行き方を強く決意した時」のことを思い出し、記憶を辿って懐かしむこと
ではない。
当時、自分の目に映っていた光景は、
今、ここにいる自分の目の前には無いのだから。


初心に返ることは、
その当時と同じ新鮮な気持ちから出発し、今、目の前に広がっている光景と対峙すること
だと思う。




原点に返っても、初心に返っても、
今、目の前に広がっている光景を見据える眼が曇っていない限り、
あるいは、当時とまったく同じ光景が広がっているのでない限り、
同じことの繰り返しには決してならない。


「原点に返る」
「初心に返る」
とは、新たにすべてを捉えなおすことと、ほぼ同義。
ただし、すべてを捉えなおす時の心の持ちようだけは、
もう一度、自分自身の基軸に戻してみる。
それが、原点や初心に返ることの、妥当な意味だと思う。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2008年10月23日(木)

「自己否定」の本懐

テーマ:思考と行為

自己否定。


他人から否定されることを恐れ、先回りして自ら否定してしまうこと。
また、そうすることによって、他人からの否定を免れようとすること。
一見、自分を厳しく律しているように見せながら、むしろ他人から律せられないようにする。
・・・そこに、「自己否定」の本懐がある。
つまり、一種の“逃げ”だ。


だから、自己否定は本心からのものではないし、自発的なものでもない。
自分ではない誰かの視点に立った時、自分を否定する眼差しに気づいて、
その視線に耐えられずに自ら認めてしまうのが自己否定だ。




僕は、今まで、事あるごとに自己否定を繰り返してきた。
それが自分の本心であるかのように装う方法や、そのための言い回しも身につけてきた。
しかし、
誰にも理解されなくても、僕にとっては大事なことがある。
誰の目にも馬鹿馬鹿しく映るものでも、僕にとっては手放せないものがある。


いずれ死ぬことがわかっていても、本能的に生きようとしてしまうのと同じ。
くだらない、と思う(思われる)より遥か以前に、まず衝動的な欲求がある。


思考は、この欲求の味方であるべきか、それとも他人の視線に沿うべきなのか。
僕は、今まで他人の視線に沿い過ぎていた。
これからは、もっと自分の欲求の味方でいようと思う。
自分のくだらない欲求を満足させながら、他人の視線にも沿うようにしたい。
その工夫のためにこそ、思考を働かせなければいけない。
どちらか片方の味方であってはならないのだ。




人それぞれのくだらない欲求は、およそ他人からは理解されないものばかり。
しかし、それは生きることそのものであり、人生からは決して切り離されない。


だからこそ、一人一人それぞれに思考(脳)が与えられているのだ。
“深遠なる宇宙の真理”を見出すためだけなら、
思考がわざわざ個人に与えられる必要はなかった。


自己否定した時、個人の思考は停止する。
もっとも、生き抜くためには「自己批判」の視点を持つのも大切だけれども、
個人の思考が「自己否定」するのはいけない。
ましてや、他人から否定されないための自己否定など、もってのほかだ。
それでは何のために僕の身体に脳がくっついているのか、わからなくなってしまう。




・・・肝に銘じていきたい。
僕は、僕を生かすのだと。

いいね!した人  |  コメント(3)  |  リブログ(0)
2008年09月08日(月)

「考えすぎ」礼讃

テーマ:思考と行為

どうせ考えすぎてしまうのなら、中途半端に考えたりせずに、
もっと徹底的に考えるんだ。
心の底から納得がいくまで、考え続ければいい。


「どうして自分は考えすぎてばかりで、行動できないのだろう」
・・・そう考えたなら、
「考えることをやめて行動に移ろう」、なんて下手なことは思わずに、
どうして行動できないのか、じっくり考えるんだよ。
むしろ、どうして行動できないのか、自分で納得のいく答えが見つかるまで何もするな。


そうやって徹底的に考えることだけに集中していれば、
驚くほど単純な答えが、ひょいと与えられる。
嘘だと思ったら、試してごらん。
もしかすると嘘かもしれないから、それを確かめるためにも、試したほうがいいよ。




「もし試して失敗したら取り返しがつかない」・・・だって?
ほら、そこがまだ考え抜いてないんだよ。
どうして取り返しがつかないって決め付けるのさ?
僕は納得いかないよ。


「どうして取り返しがつかないと思うのか」
「どうして試したら失敗するような気がしたのか」
「試してみる気が起きることと、そうでないことは、どう違うのか」
これらのことを納得させてくれなくちゃ、
僕も引き下がれない。


・・・あ、もちろん、
お互いが納得できるまで無理に試させようなんて思ってないから、安心していいよ。
君も“考えすぎ”を自覚しているらしいけど、
つまり、
その程度では全然“考えすぎ”のうちに入らない、ってことを言いたかったわけさ。




もっと、もっと考え抜いたほうがいい。
本気で、心の底から納得したい、と思うなら、
「自分は考えすぎだ」
なんて簡単に言い切ることも、そもそも変なんだよ。
だいたい、他人の心の中を覗き込んだこともないくせに(というか出来ないからね)、
どうして自分は考えすぎだと言えるのだろう?
考えすぎかどうかなんて、そう簡単には他人と比べられないよね?
周りの人から「考えすぎだ」と言われるから、とか、
その程度のことで、自分を考えすぎだと決め付けているかもしれない。


・・・でも、やっぱり自分は考えすぎだ、という実感もあるよね。
じゃあ、その実感は、どこから出てくるのだろう。
そのことについても、まだあまり考えてないよね。
ほら、まだ考えることはたくさんあるんだ。


「考えたって、答えなんか出ない」
そう言い切るのは、決まって、考えることを途中で諦めた人さ。
途中で諦めたら、納得のいく答えが目の前にあったって気付かない。
もちろん、考えることだけが正しい道ではないから、
考えることを途中でやめても、それはそれでいいんだ。
でも、どうせなら、諦めるのではなく、
「考えることなんてやめてしまえ」
と、自分の心の底から納得したうえで、やめたいよね。


どちらにしても、考え抜いていけば、
そのうち納得できるんじゃないかな。
・・・そもそも、納得できるところまで行けると思っているから、考えてしまうわけだよね。

いいね!した人  |  コメント(3)  |  リブログ(0)
2008年03月15日(土)

ポジティブになりたい

テーマ:思考と行為

「ポジティブになりたい」と思考することは、それ自体が、ポジティブでない行為だ。


ポジティブになりたい。
・・・それはつまり、今の自分がポジティブではない、ということだ。
「ポジティブになりたい」という思考は、とりもなおさず現状の自己否定から始まっている。




思考することと行為することは、食い違っている場合が多い。


例えば、
「眠ろう」と思えば思うほど、実際には眠れなくなっていく。
しかし、
実際に眠ってしまう時には、「いよいよ眠るぞ」などとは思いもしない。


ポジティブになることについても、同じことが言える。
「ポジティブになりたい」と思えば思うほど、それ自体が、ポジティブでなくなっていく。
しかし、
「ポジティブでなくても構わない」と思うようになると、実際の行為としてはポジティブになっていく。




ポジティブになりたくても、ポジティブになれない人がいる。
そのような人に向かって「ポジティブになれ」と迫っても、ほとんど逆効果だ。
なぜなら、
ポジティブになれない人は、
「ポジティブになれ」と迫られることによって、ポジティブになれない自分を改めて見せ付けられ、
自己嫌悪感や自己否定感が増して、ますますポジティブでなくなってしまうからだ。


目標は、実際にポジティブになることであり、「ポジティブになりたい」と思考することではない。
「ポジティブになること」が正しいとしても、
「ポジティブになること」を思考することによって実際の行為がポジティブでなくなっていくことは正しくない。




思考することと行為することは、食い違っている場合が多い。


もし、答えがそれを「行為」することであるのなら、
それを直接的に「思考」することは、あまり賢明でない。


特に、ものを教える立場の人に、このことを初めからよくわかっておいて頂きたいのです。




ちなみに、少し前に『ポジティブになれない』 という記事を書きました。
この記事では、
「ポジティブになれない人は根本的にポジティブになれないのだ」
ということをまくし立てていました。
同じ人間が同じようなテーマで書いても、日によってこんなに違うとは・・・。
たぶん、そもそも論点や趣旨が違うんでしょうね。
同じようなテーマで書かれた記事は、その辺の微妙な違いがわかりにくくなりますね。

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。