2016年10月06日(木)

「考えすぎ」っ子ラボ

テーマ:コラボレーション

最近、創作系の記事が増えてきたので、

ブログを分けることにしました。

 

思いつきや感じたことなど「独り言」系テキストは、従来通り

『考えすぎ』に、

創作・発信系のものは、今後は

新ブログ『「考えすぎ」っ子ラボ』に掲載していきます。

 

これまでに掲載した記事は、そのままにしておきます。

たぶん、ボリュームの大きい記事は、

新ブログに投稿していくことになると思います。

 

よろしくお願い致します。

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2011年10月15日(土)

言葉について

テーマ:コラボレーション

今年の春から初夏にかけて、
岩岡梅亀さん と、「『伝える』ということ」 について対話し、記事にしました。


あれから四か月。
今度は、「『伝える』ということ」の中でも特に僕が重視している、
「言葉」について、Angelaさん と対話させて頂きました。
8月下旬から9月下旬にかけて、交互にメールをやりとりしたものです。


(岩岡梅亀さんとのやりとりも含め)対話全体を通して改めて思ったのは、
「人に何かを伝える」ということのスタンスは、人によって全然違うのだ
ということです。
たぶん、伝え方も、受け取り方も、皆違う。
それぞれ個人的に伝え、個人的に受け取っている。
だから、表面上は伝わっているように見えても、
皆、少しずつズレながら伝わり、受け取っているわけです。


その辺を顧みずに、
自分の伝え方(あるいは受け取り方)だけに固執してしまう所から、
「『伝える』ということ」も、「言葉」の伝わり方も、おかしくなっていくのかもしれません。




一般則なんか、ないと思ったほうがいい。
それよりも、個人的に、いきいきと伝えたほうがいい。
どんなことも、どんな瞬間も、自分を全開にして即興で伝えていくしかない。
・・・それが、今回、Angelaさんとの対話を通して強く感じたことです。


Angelaさんとの対話(本編)は、下記リンク先からお読みください。
http://angela.lala.cc/kotoba.html


また、Angelaさんは、こんなふうに今回の対話を紹介してくださいました。
http://ameblo.jp/angela/entry-11048376007.html
僕の紹介のしかた(この記事)とは、全然テイストが違います。
毎回そうなんですが、同じ対話をした当事者同士でこんなにも違うものか、と思います。

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2011年06月13日(月)

『伝える』ということ

テーマ:コラボレーション

この記事は、
岩岡梅亀さん (通称:かめさん)とやりとりさせて頂いたメールを掲載したものです。
もともと、かめさんと知り合ったきっかけは、
僕のブログを見たかめさんから、メールを頂いたことでした。
かめさんとのお付き合いは、
メールから始まり、メールで続いています。
直接お会いしたことはないのに、こうして伝え合っている、ということが、
不思議でもあり、またおもしろいです。


というわけで、
今回のテーマは、「『伝える』ということ」。


(たぶん)年齢が近いこともあり、
今までにコラボさせて頂いた方と違って、同じ高さの視線で話ができたような気がします。




【まこっちゃ】


だいぶ前に、
『コミュニケーションの意義』
という記事を書きました。


コミュニケーションにおいて重要なのは、
実は、伝えたい内容そのものよりも、伝えようとしている人の姿勢や態度、その雰囲気なのだ。
・・・そういう趣旨の文章です。
今でも、基本的な考え方は変わっていません。
そもそも、「伝えたい内容がそのまま相手に伝わる」なんてこと自体、あり得ない気がします。


ただ、だからと言って、
「伝えたい内容そのものなんか、伝わらなくてもいいんだ」
とは、どうしても思えません。
今、こうして話している時もそうですが、
やっぱり僕は、伝えたい内容を伝えたいからこそ、現にこうして伝えようとしているわけです。


「伝えたい」とか、「わかりたい」といった動機がなければ、
そもそも現実のコミュニケーションは始まりません。
これは、かなり大きな矛盾だと思います。
「伝えたい内容そのものよりも、その場の雰囲気が重要」であるものが、
「伝えたい」という動機付けが無くては始まらないわけですから。




そもそも、「伝える」ってどういうことなんでしょうね。
「伝わった」とは、どのような状態のことを言うのでしょうか。
確かに伝わった保証など無いのに、「伝わった」と思える時がある、ということも不思議です。


かめさんは、
「伝える」ということについて、
どのように捉え、どのようなことを考えていらっしゃいますか?




【岩岡梅亀】


まこっちゃさんの考え、読ませてもらいました。
う~ん、確かに矛盾していますね。


例えそれが不可能であっても、「相手の話そのものを理解しようと頑張る」姿勢がまた心を打ち、
関係が深まるんでしょうね。






僕が「伝える」ということについて思うのは、

一つは「伝え方」に関して、です。



独り言、二人称的な発言、三人称的な発言、ブログ・ツイッターでの発言、報告としての発言、詩など、

伝えようとしている「内容」が同じでも、状況や相手によって発言の仕方が大きく違ってくると思います。

話される言葉はもちろん、口調、間、抑揚などが変わってきます。

ですが、そういった表面に現れた差異だけでなく、「伝え方」の中にはもっと根本的な差異があるような気がします。

「相手」と「発言(というより表現)」とは切り離しては考えられないと思っていて、


「表現」はその時その場その相手限りのものだと思っている…のですが、ちょっとまとめきれていない部分があるので、自分でも何を言おうとしているのかがわかりません(笑)また話していく内にわかってくればいいですが。






「伝える」ということについてもう一つ思うのは

自分の伝えたいことがそっくりそのまま相手に「伝わる」のかどうか、です。

まこっちゃさんも「あり得ない」とおっしゃっていますが、僕もそう思っています。

個人の心の中に生じてきた「伝えたいこと」とその人の「心」とは切り離せないと思います。

「伝えたいこと」は、それが浮かび上がってきた(母体となった)「心」の中でしか生きられないような気がします。




ですが、確かに「通じる」という事態はありますし、不思議ですね。

そういえば「通じる」にも単純に「説明が通じる」というものもあれば、「気持ちが通じる」「心が通じる」というものもありますね。






どうも僕はまだまこっちゃさんのおっしゃりたいことを掴みあぐねている(察しあぐねていると言う方が失礼がないでしょうか)ので、もっとお聞きしていきたいんですが、

ご紹介いただいた記事の最後で

「コミュニケーションのなかで大切なのは、相手の話そのものを理解しようと頑張ることよりも、
むしろ、そのコミュニケーションを通して、相手全体を感じ取ることなのではないか」と結論されていますが、

やはりまだそこに何か煮え切らないようなものを感じていらっしゃるのでしょうか?




【まこっちゃ】


そうですね。
煮え切らないものを感じてます。


「相手の話そのものを理解しようと頑張ることよりも、相手全体を感じ取ることが大切だ」
と言いながら、
そのこと自体をわかって欲しい、と思っている僕がいます。
だから、
「そうだよね、相手全体を感じ取ることが大切なんだよね」
なんて簡単に同意されてしまうと、
違和感があります。
もっと、ちゃんと真剣にわかろうとして欲しい、と感じてしまうんです。


たぶん、
「・・・することが大切だ」
という命題の下で行為されることのすべてが、
僕にとっては、本能的にむず痒く感じられてしまうのだと思います。
平たく言えば、
「『大切』だからするのかよ!」
って感じです。
1.大切
2.だから、する
という順序そのものに、僕は、異様な違和感を覚えます。


・・・かめさんの質問に対する答えになっているでしょうか?




「伝え方」の問題は、確かに、
「伝える」ということを考えるにあたって避けては通れない問題だと思います。


「伝え方(あるいは表現)」と「伝えようとしている相手が誰か」ということは、
おっしゃる通り、切り離せないですね。
僕も、かめさんに伝えようとしてこうして書く文体と、
誰にともなく書く記事の文体とは、自分でもわかるくらい違います。
伝えることのできる内容の範囲とか幅も、文体による制約を多分に受けますから、
これは、けっこう根本的な問題ですよね。


文化圏によって(例えばアメリカと日本で)考え方が違うのは、
言葉が違うからだ、とよく言われますが、
それは少なからず当たっていると思います。
日本語で考えるのと、英語で考えるのとでは、
どこか考え方の仕組みそのものが根本的に違っている気がします。


でも、一方で「翻訳」ということもされていて、
それなりに成り立っていますよね。
だから、まったくバラバラでもない。
どこかで「ちゃんと伝わっている」と、僕自身、思っています。
僕も、「全然伝わらない」と思いながらこんなふうに長々と書くほど暇じゃありません(笑)。


もし、「伝え方」に根本的な差異があるのだとしたら、
幅広いコミュニケーションというものが、どのように成り立っている(あるいは成り立っているように見える)のか、不思議でなりません。




【岩岡梅亀】


僕は自分のブログの中で「・・・することが大切だ」と結構言っていると思いますが(笑)、


僕も、それに対して「そうだよね、大切だよね」と簡単に同意されてしまうと
違和感というか、寂しく思ったり抵抗を感じたりする場合があります。
気軽に書いている文章だったら気になりませんが、思いつめて書いた文章だったらそう感じるかもしれません。
「もうこれ以外にないんだ・・・」という血の涙を流す(大袈裟ですが)思いで自分自身に言い聞かせている言葉なのに、
安易に同意されてしまうと、それが産まれるに到るまでの痛みがなかったことになってしまうような気がするからです。
ですが、流す血は自分自身の身体から出るものなので、伝わらないのは当たり前だと割り切っている部分もありますが。



「伝え方」に関してですが、感覚的な表現で申し訳ないですが、僕は「関係性の手」の伸ばし方によって違いが出てくると考えています。
相手とわかり合いたいと思っているときには、相手に向かって手を伸ばしているような感覚がありますので、「関係性の手」ととりあえず表現してます。
この「関係性の手」の伸ばし方には様々種類があると思います。
例えば、相手と「通じ合っている」と感じるときには、相手の身体に手が直接触れているような感覚でしょうし、
触りたいけど触れなくて恐る恐る伸ばす手もあるでしょうし、
ブログやツイッターの中には、誰に向かってでもなくとりあえず手を出しておいて、誰かこの手を握ってくれないかな、というようなニュアンスで出す手もあると思います。



それから、まこっちゃさんが「翻訳」とおっしゃったので、そこから「通じること」について連想したのですが、
例えば自分とは異なる言語を使う人に対して自分の思いを伝えようとする場合に、こちらの意図が相手に理解してもらえたときには、「通じた」という言い方をしますよね。
ですが、例えばうろ覚えの番号で電話をかけたとして、電話が繋がったときにも「通じた」という言い方をしますよね。
前者と後者には違いがあると思います。
前者においては「こちらの意図が伝わったかどうか」が問題になりますが、後者においては「繋がるかどうか」が問題になります。
「気持ちが通じた」「心が通じた」というのは後者でしょうね。


「関係性の手」によって自分と相手とが一本の“線”で繋がっている状態が「わかりあっている」「通じ合っている」という状態だと思います。
こちらで「あ」と発音すれば、あちらで「あ」と響くというような。
「自分の言いたいことが相手に伝わるのかどうか」を考えるときには、間主観的と言いますか、
視点の置くところを自分でも相手でもなく、その間を繋ぐ“線”に置く方がいいんじゃないかな
と、こうして書きながら段々と思えてきました。
結局は、まこっちゃさんが最初におっしゃったように、「内容そのもの」よりも「雰囲気」が大事、ということになりますが。




【まこっちゃ】


なるほど。
「関係性の手」の伸ばし方によって、
「伝え方」そのものが根本的に違ってくる、ということですね。


確かに、伝えたい内容そのもの以前に、
「どんな風に伝えたいか」によって、
「伝え方」自体が規定されてしまっていて、
それに引きずられる形で、「伝えたい内容」の姿も違ってくる気がします。


「通じる」ということの意味合いも、
おっしゃるように多岐にわたっています。
どういう場合に、どういう意味合いの「通じる」になるのか、
・・・という話も確かにおっしゃる通りだと思いますが、
こんなに複雑なことをわかってしまう(またはわかった気になれる)自分が奇妙に思えます。


最近、まだ1歳にならない息子を見ていて思うことがあります。
僕や妻の仕草を、息子が時々真似する(ように見える)んですが、
彼にとって、自分の体のその場所が、僕や妻のその場所と同じ場所に相当する、
ということが、どうして彼にわかるのか、非常に不思議です。
彼自身の全身を、彼は見たことがないはずなんです。
でも、相手の同じ場所と、自分の同じ場所の対応づけができているから、
真似できるわけですよね。
いつ、どうやってわかったんでしょうか。


視点の置き場を、相手でも自分でもなく、
その間を繋ぐ“線”に置く、というお話は、とても興味深いです。
言われてみれば、
特に「わかりあおう」としている相手との会話では、
そういう意識の持ち方をしている気がします。
逆に、敵対視している相手との会話では、
同じ“線”でも、自分の側に極端に寄せた位置に視点を置きますよね。
でも、この感覚って何なんでしょうね。
誰にも教わってませんし、それこそ伝えようのない感覚だと思うんですが、
なんとなくわかる気がします。


不思議ですよね。
「伝え方」の仕組みに関して、
人間に共通の何かがあるんでしょうか。




【岩岡梅亀】


息子さんがいらっしゃるんですね。
ご両親の真似をされるんですか。可愛らしいですね。


確かになぜ相手と自分の身体の対応づけができているか、不思議ですね。
きっと心理学の子どもの認知の発達などを扱う分野の中にはその答えになるような説があるんでしょうが、
その種の説明で言い尽くせるようなものなのか、それとも言い尽くせないものなのか、

微妙な感じがします。
ちょっと僕には馴染みがないので何とも言えないですが。



「なぜ通じるのか」ですよね。
あまり考えたことがありませんでした。


卑近な例で、“誰かがタンスの角で足の小指をぶつけたのを見て、思わず自分の小指が痛いような気がした”
ということについて、
おそらく普通に考えるなら、相手の心(痛み)を想像したとか、
自分の過去の同じような体験を思い出したにすぎない、
というような説明が考えられると思います。
ですからその痛みは、想像や記憶などのイマジネーションのようなものが引き起こした、

あくまでも「自分自身」の痛みである、とされると思います。


ですが僕はなんとなく、単なるイマジネーションと言い切ってしまえるものではないんじゃないか、と思っています。
“現代人には相手の身になって考える想像力が足りない”とよく言われていますが、
これはもちろん「想像力」ですが、今まで使われてきた意味よりももっと広い意味での「想像力」
だと思います。
少なくとも、鍛えて「力」を伸ばすことができるようなものではないと思います。


相手を理解しようと「想像力」を働かせて気張るよりも、
肩の力を抜いて、妙なこだわりを捨てて相手と向き合った方が
「わかりあえる」ことが多いということは、きっと僕の思い込みではないと思います。



そうかと言って、相手と自分を繋ぐもののことを
“気”“波動”“魂”というような言葉を安易に使って説明することにも気が引けます。

この種の言葉は、本人の中で意味が曖昧なまま使うと単なる観念になってしまう気がしますので。



まとまりのない文章を書いてしまいました。
あやふやなものについて書いたので結局あやふやな内容になってしまいました。
自分の心と相手の心をつなぐ「何か」、共通する「何か」、について、
まこっちゃさんは何か考えをお持ちでしょうか。




【まこっちゃ】


返信が遅くなってしまいました。


「なぜ通じるのか」
「なぜ、『通じる』と思えるのか」
それは、想像力で補うような部分もあるが、単にそれだけではないし、
かといって“気”や“波動”といった神秘的な言葉で片付けてしまうのも違う気がする。
・・・といった所でしょうか。
僕も、まったく同感です。


僕の考えもまとまっているわけではないんですが・・・。
かめさんが、前に「どういう相手か」ということによって根本的に大きく違ってくる、
とおっしゃってましたが、
そこは大きなポイントだと思います。
つまり、「伝わる」ということの普遍的な定義とか、
共通の原理があるわけではなくて、
基本的に個別的なものなのだと思います。
ただ、単に個別的であるだけなら、
共通の言語である日本語も成り立たなくなるわけですから、
やはり何か共通「的」な枠組みがあるような気がします。


でも、その枠組みは、
外部から規定されているものではなく、
同じ枠組み(である言語など)を使っている者それぞれが、個別的に勝手に使っていながらも、
いつの間にか自然と使い方が共通してしまっているような、
そういう緩い枠組みなのだと思います。




その枠組みを共通させているのは、たぶん人それぞれの感覚や感性じゃないかと思います。
たぶん、「人類共通の」感覚や感性があって、
個人差はあっても似たような状況で似たようなことを感じ、似たように理解して似たように反応する。
だからわかりあえるんじゃないかと。


でも、それも幻想かもしれません。
1ヶ月前に東日本で大地震が起きて、今も余震が続いていますが、
今、僕が強く思うのは、
「同じ日本」という感覚は幻想だった、ということです。
記事でも書きました。
http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10847075594.html


普段あまりスポーツ観戦をしない僕ですが、
それでもオリンピックなどで日本の選手が出場しているのを見ると、
「なんとなく」「同じ日本人として」応援しています。
でも今、被災地の人々の状況を伝えるテレビニュースの画面と、
僕がこうして生きている状況の間には、
あまりにもギャップがあります。
誤解を覚悟で言いますが、「同じ日本とは思えません」。
現地の方からすれば、僕のこの感覚は非常に薄情だろうと思いますが、
実際そうなのだと思います。
現地の状況を「わかる」と言えば、明らかに嘘になってしまいます。


でも、こういう事態になる前には、
そんなことは思いもせずに、ごく自然に、東北の人も僕も同じ日本人だと思っていました。


それでも、そういうことを多少でも思えるのは、
テレビ報道があったからです。
偏った報道がされている、といった批判もあるようですが、
限られた時間内での放送に対し、多くを求めるのは無理が過ぎる気がします。


最初の話とは趣旨がずれるかもしれませんが、
「本当に伝わったかどうか」を別にしても、
兎にも角にも伝わってきたこと、伝えられたことをベースに判断し、生きている場面が極めて多い、
と改めて痛感します。
「本当に伝わったかどうか」さえ微妙なのに、
伝わってきてしまったことを前提にしてものを感じ、考えて判断し、行動して生きているわけですよね。
その中で、伝えることの責任の重さも大きく問われるような気がします。


「本当に伝わる」ということがよくわからないからといって、
影響の大きさを思えば、無責任ではいられないわけです。
そう考えると、とても怖いです。
僕が今、こうして喋っていることも、それが相手にどう伝わるかもよくわかっていないくせに、
気づかないうちに大きな影響を及ぼしてしまうわけですよね。


かめさんは、そういう怖さを感じることはありますか?




【岩岡梅亀】


なるほど。やはりそうですか。
個別的に勝手に使っていながらも、いつの間にか自然と使い方が共通してしまっているような枠組み・・・。
本当にそんな気がしますね。


そういえば、魚や鳥が群れでいるときに、
まるでその群れが一つの生き物であるかのようにして動いていますよね。
きっとその中の一匹(羽)というのは、自分自身の動きだけで完結しているんだと僕は思います。
「群れとして」というよりも、「自分として」行動しているんじゃないでしょうか。
もちろん、意識は持っていないでしょうが(笑)
ですがそれを群れの外から眺めた場合に、
結果的に全体が一つの生物のようになっているんじゃないかなと思います。


「個別的ながらも普遍的」というのがキーワードのような気がしますね。
一人ひとりは全力で個別的に生きているのに、客観的に見ると実は皆同じことをやっている。
しかも協力関係も自然にできあがっている。
そんな気がします。


人間同士でも、感覚や感性を共通させる型のようなものがあるのかもしれませんね。



「同じ日本」に関する記事、読ませていただきました。
僕にも震災後に書いた記事があります。
http://iwaokabaiki.blog15.fc2.com/blog-entry-78.html
まこっちゃさんの考えと似たようなことなのかどうかはちょっとわからないですが。


その記事の根本にあるのは、「同じでないものを同じとしていく」ということです。
まこっちゃさんもおっしゃるように、
被災された方と「同じ」気持ちであるとは、僕にもとても思えませんが、
その幻想である「同じ」を幻想のまま、いわば理想のようにして、
「われわれ同じ日本人だ」と一人ひとりが覚悟を決めていくのが大事じゃないのかなと思います。
まこっちゃさんの記事にも、個々人の自覚が大切だということが書かれていたので、
共通する部分があるのでしょうか。



怖さについてですが、
本当のことが伝えられないために、発言していく度に誤解が増殖していく、ということや、
本質的に人間社会が誤解で覆われている(にも関わらず成り立っている)、
ということに対する怖さでしょうか。
それとも、自分の発言が誰にどんな影響を及ぼすかわからない、という怖さでしょうか。



情けないことですが、僕が感じるのは自分の発言が誤解されたらどうしようという、
自己中心的なところからくるような怖さくらいのものです。


ただ、相手にも自分と同じように一つの人生がある、と感じた場合に限っては、
自分が与える影響がその人にとってどういう結果をもたらすか、ということが怖くなってきます。
どんな行動がどんな影響を与えるかもわからないですし、
そもそもどうなれば善くてどうなれば悪いのかもわからないですから。
責任の取りようもないところに自分はいつも立っているんだなと思うと怖くなったりはします。




【まこっちゃ】


また返信が遅くなってしまいました。
すみません。




震災後に書かれた記事、拝読しました。
ただ、僕が直感的に思ったのは、
その「同じ日本人じゃないか」という感覚がまさに幻想ではないのか、
ということです。
身も蓋もない言い方で、申し訳ありません。
でも、今の僕には、
どうしても、その「同じ日本人」を出発点として定めることができません。
やはり幻想に思えてしまうんです。


そもそも、地縁、血縁といった感覚は、
初めから定義されてそこにあるもののではなく、
生計を共にしながら支えあう時間と空間を共有する経験を通して、次第に沸き起こってくるものなのではないでしょうか。


だから、その感覚が持てない人に、
「同じ日本人じゃないか」と言ったところで、そもそも通じないわけです。
また、その感覚を持っている人にとっても、
それは当然にそこにあるものではなく、
支えあって生きてきた軌跡と、これからもそうして生きていくであろう展望があって初めて
成り立つ概念であるわけです。
その意識がなければ常に崩れ去る、・・・というか、そもそも幻想なのだ、と。


とはいえ、その幻想を心の支えにして生きていることも事実です。
幻想を幻想と思わなければ、本人にとってそれは真実です。
その狭間で、人は自分を保っているのかもしれませんね。




伝えることの怖さについては、
おっしゃるように二種類ありますね。
その両方の意味で、「怖い」と感じます。


まさにおっしゃるように、
相手にも自分と同じような人生がある、とイメージすると、
言葉を一つ発することもひどく恐ろしく思えてしまいます。
自分の日常を振り返れば、誰かの一言によってその後の行動が大きく変わってしまう、
ということは多々ありますよね。
もちろん、自分の場合は、
自分なりに自分で判断した結果そう行動しているつもりでいますから、
そんなに大問題だとは普段あまり感じていませんが、
同じことが、自分の何気ない一言から相手に及ぼす影響についても言える、と気づくと、
急に変な怖い気持ちになります。
例えば、破壊力の大きな兵器を「ぽん」と預けられて、いつでも発射できる状態で立っているような。




でも、こうして、
怖いと言いながらもべらべらと喋ってます(笑)。
「自分が、かめさんに何か取り返しのつかない影響を及ぼしてしまうのではないか」
という気持ちよりも、
別の気持ちが勝っているからなんですよね。


他の誰にでもこうやって話すか、というと
(まあ、けっこう話すほうですが)やはり相手によって話し方は変わってきます。
どういう反応が戻ってくる相手かによって話す内容も話し方も変わるわけですが、
そもそも、反応が戻ってくることが愉しいんですよね。


何が愉しいのかは、お互い違うことを感じているのかもしれない。
でも、こうしてやりとりが続いている時間があり、それを共有している。
それが続いていくことが予想される。
そのことが不思議で、また愉しくて、僕に「次の言葉」を言わせるのかもしれません。




あと、また話は逸れますが、
今回は返信がだいぶ遅れてしまいました。


時間的に余裕がなかったからなんですが、
僕からの返信が遅れている間に、かめさんの考え方や捉え方が変わっていく、
といったことはあるのでしょうか?
僕の場合、時間が経つだけで考え方や意見が変わってしまうことも少なくない(迷惑ですよね)ので、
かめさんの場合はどうなのか、ふと訊きたくなりました。




【岩岡梅亀】


そうですね。
僕も「同じ日本人」というのは幻想だと思っています。
同じではないものを同じだと言っていくことに救いがあるんじゃないかなと僕は思うんですが。
ですから、「同じ日本人」というのを出発点としてではなく、
目標として、しかも永遠に到達できないからこそ目指していく目標として
掲げたらどうかなと考えています。


「同じ日本人」というのは、同じだという根拠があってそう言うのではなくて、
在日外国人の方を見て「同じ日本に住む人だ」と思えれば
それで「同じ」と言ったらいい、という程の意味です。


他と区別して自分の所属するグループの結束を固めようとすると、
他のグループとの間に諍いがおきますので、
そうではなく、各自が器を大きくするというか、
自分とは異なって見える人でも、
なるべく「自分と同じ人間だ」と心を開いていけたらいいと思いますので、
それを理想として掲げたらどうかなと密かに考えています。


「同じ県民だ」だと他の県民と対立が起きやすそうですし、
「同じ地球人だ」だと漠然として実感が湧かないですし、
やはり「同じ日本人だ」くらいがちょうどいいのかなと思います。


ですが確かに、同じとは思えていないのに「同じじゃないか」「仲間じゃないか」
と言って肩に手をかけられると反発したくなりますね。
そういえば僕がそう反発したくなるタイプの人間なのを忘れていました(笑)


なんにせよ、あまり無闇に「同じだ」とか「わかる」とは言えないんですね。
相手に強要すべきものではないですから、気をつけないと駄目ですね。


テーマとは随分離れてしまいました(笑)



他の人に影響を与えることについて。
お互いに影響し合っているというのは仏教でいう「縁」と言い換えていいと思いますが、


自分があらゆる人と縁で繋がっていると思うと、
それは恐ろしさを生みもしますが、逆に心の支えになったりする場合もありますね。
自分が存在したという証がその人の中に残るわけですから。
(むしろそれゆえに恐怖へと繋がるのかもしれませんが)


ところで、まこっちゃさんは、本来別々の人間が同じ時間を共有し関係が築かれていく、


ということに対して独特の感受性を持ってらっしゃるように思いますが、
僕はそれが素直にすごいなと思います。
僕はなかなかそうは思えなくて、
周りの人達や新たな出会いなどにもあまり感謝したり心を動かしたりできませんので。



見習うようにします。




それから、
時間が経つことによって考えが変わるかというご質問ですが、
考えは大きくは変わっていませんが、
なるほどそういう視点もあるなとか、
あそこはこう表現しておくべきだったなとか、説明不足だなと思うことはよくあります。




このコラボのやりとりも、実際に会って話してその日の内に終わってしまうものとは違って、
文字だけのやりとりを1ヶ月以上に渡ってやっているわけですよね。


まこっちゃさんからいただくメールは紛れもなくまこっちゃさんの主張ですから、
これがまこっちゃさんの主張なんだなと思って受け取るんですが、
実はその裏ではまこっちゃさん自身がもう新たな別の考えを持たれていたり、
実際はわかりませんが意見を変えられていることも
あるわけですよね。


ですが僕にはそういうことが起こっているかどうかはわかりませんから、
目の前のその文章こそがまこっちゃさんの真意なんだと受け取ってしまいます。
もちろんまこっちゃさんにとっての僕の場合もそうですよね。


あと、誰かにブログやメールなどで自分を批判されたり文句を言われた場合でも、
その文章を読む度に相手がいつも怒っているような気がしてきます。
文字には怒りが表されていますから。


ですが、実際のその人はというと、
すっかりこちらのことを忘れて楽しく過ごしている場合もありますよね。
文句を言うだけ言ったその瞬間にすっきりして
怒るどころか気分がよくなっている場合さえ普通にあると思います。
こちらがその怒りの文章を読んでいるその同時刻にでも。


そう思うと「言葉」というのは本当にやっかいだなと思いますし、
人間関係というのも、本当にまこっちゃさんがおっしゃるように、
そういうある種の誤解の上でなぜか上手い具合に成り立っているんだなぁと改めて思います。




【まこっちゃ】


このあたりで、いったん区切らせて頂いてもよろしいでしょうか。
なんか、伏線的なテーマがざくざく増えてしまい、収拾がつかなくなりそうなので(笑)。




お話させて頂いた内容の全体を通して思ったのは、
「伝える」ということに関して、あまり厳密に定義しようとか思わないほうが良さそうだ、
ということです。
何事もそうなのかもしれませんが、「伝える」ということに関しては特に禁忌なのではないか、と思えてきました。
「伝える」ということの意味や伝え方を、変に固定化すると、
たぶん、かえって伝わらなくなります。


かめさんが、
「同じ日本である」を前提にするのではなく、
おそらく達成されることがあり得ないような、幻想かもしれないような目標として、それを掲げ続けることが重要なのだ、
という話(と僕は理解しました)をされていたのが印象的でした。
この話も、「それは本当に重要なのか?」と突き詰めて考え、統一的な根拠を探す、といった類のものではなくて、
兎にも角にも、まずは皆でそれを掲げるのだ(と言い続けるのだ)、
という意思表明をするわけですよね。
それが、いつの間にか気づけば伝わってしまっている。
「伝える」ということには、そういう側面が大きい気がします。


論理的には何の根拠も無い絵空事であっても、
言っている本人が大真面目に熱心に語っていれば、臨場感あふれるリアルな事実として相手に伝わってしまうことがあります。
「伝える」ということにおいて、もう、それは事実であるわけですよね。




今回は、問題提起がたくさんありました。
話がいろいろ飛んでしまったので、
改めて別の機会に、提起された問題の一つ一つについてお話させて頂きたいと思います。


今後とも、宜しくお願い致します。




【岩岡梅亀】


本当に伏線的なテーマがどんどん出てきましたね。
それだけこの「伝える」というテーマが深い含蓄を秘めているものだったのだと
前向きに捉えておきましょう(笑)



よくよく考えると、「『伝える』ということ」をテーマにしてこうしてお話をするということは、
なかなか珍しいことなのではないかなと思います。



お話させてもらって改めて思ったことですが、
僕よりもまこっちゃさんの方がはるかに「伝える」ということに関して
敏感でいらしたと思います。
中でも、
コミュニケーションというものが誤解を重ねながらも奇跡的に成り立っている
ということについては、僕もやりとりの中で改めて深く考えさせられました。




まとめというわけではありませんが、
「伝える」というテーマでの今回のやりとりの中に一貫していたものは、
コミュニケーションのその中には人と人との間を繋ぎ、
それを成り立たせている“何か”があり、
それは発された言葉そのものやその言葉の意味よりも
重要な意味を持っているのではないか、
ということだったと思います。


コミュニケーションというものは単に、
それぞれ独立した「人」と「人」との間を
客観化され物と化した「言葉」が行き来しているということではないのでしょうね。




今回は本当に面白いやりとりができ、嬉しく思っています。
ぜひとも、今回メインでは取り上げられなかったものについてや
全く別のテーマについても今後お話ができたらと思います。


こちらこそ、今後とも宜しくお願い致します。

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2009年07月07日(火)

死についての対話

テーマ:コラボレーション

『Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾』 から、約1年半。
今回のテーマは、「死」です。


「死」をテーマに話してみたい、ということは、
以前から(Angelaさんから)言われていました。
その流れで、昨年の秋頃から、
個人的な意見交換という形で、「死」をテーマにメールをやりとりしていました。


第四弾は、そのメール全体を、Angelaさんがまとめてくださったものです。
基本的に書き下ろしで、推敲はしていません。
読みにくい箇所、意味の取りにくい箇所があるかもしれませんが、
その場合はコメント等で教えて頂けると嬉しいです。


Angelaさんとのコラボレーション企画 第四弾

→ 『死についての対話』




なお、第四弾の公開にあたり、
Angelaさんは、こんな有り難い記事 を書いてくださいました。

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2008年03月02日(日)

Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾

テーマ:コラボレーション

Angelaさん とのコラボレーション企画、第三弾です。


第一弾では、『世界音痴について』 というテーマで対談を行いました。
「世界音痴」というエッセイ集を読み、その感想を語りあう、という形式でした。


第二弾では、『寓話 占い師と青年』 という作品を共著で書き下ろしました。
互いに登場人物の一人になりきって、その書簡のやりとりを作品として仕上げました。


そして第三弾となる今回は、
『Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾』
です。




「そのままじゃないか」
と思われるかもしれませんが、
特にテーマを決めていないので、ほかに書きようがありません。


今回、コラボレーション記事を書くにあたり、
次のような取り決めをしました。
(1) 特にテーマを決めず、いつも記事を書くのと同じように書く
(2) ただし、相手の記事を読んで、それをきっかけに書く
(3) 最初の記事は、「まこっちゃ」が書く


ルールは、これだけです。
Angelaさんと僕で交互に3記事ずつ、合計6記事を書き上げました。


書き終えた今になって思えば、
今回のコラボレーション全体のテーマは、「哲学と経験」ということになるような気がします。
でも、一つ一つの記事は、それぞれ独立しています。
皆様のご感想を伺いたいので、お気軽にコメントをお寄せください。




<目次>

1.「そもそも・・・」から始まる問い  by まこっちゃ

2.サルトルとボーヴォワール  by Angela lala

3.きっかけは落ちこぼれ  by まこっちゃ

4.揺るぎない信念  by Angela lala

5.「経験の力」  by まこっちゃ

6.経験と信じる力  by Angela lala

→ Angelaさんのブログで目次を見る




~ 企画の終わりに ~


今回は、かなり「見切り発車」的に始まったコラボでしたが、
人生における(特に思考と経験の面での)主要な問題点や注意点が、自然と浮き彫りになったような気がします。


「哲学」をテーマに書き始めた時は、
「自分らしい記事といえば、『哲学』なのかな」
という気持ちだけで始めましたが、
終わってみると、西洋哲学の歴史を軽くなぞったような印象を持ちました。
有名な哲学者たちが残した思索も、
結局のところ、誰もが一度は心に思うようなことについて明確に言葉で表現したものに過ぎないのだ、
・・・ということを、改めて体感したような気持ちです。


近年、多くの人々に親しまれているインターネットサービスの「ブログ」ですが、
「個人からの発信」の枠を出ていないものがまだ非常に多い、と感じます。
Angelaさんと企画した今回の企画は、
「個人からの発信」の枠を維持しつつ、相互の関連性をわかりやすくしたらどうなるだろう、
ということの試みでもあります。
(こういう試みである、というのは僕自身が勝手に思っているだけですが。)
繰り返しになりますが、
一つ一つの記事についてでも、全体を通してでも、どんなものでも構わないので、
感想などコメントを頂けると、僕としては嬉しいです。


頂いたコメントもまた、コラボレーションの一部になる。
・・・そんな僭越なことも、実は(内心では)思っています。

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2008年03月02日(日)

「そもそも・・・」から始まる問い

テーマ:コラボレーション

「哲学」とは何だろう。


この問いについて、
多くの人たちが考え、多くの人たちが答えてきた。
けれども、その答えは人それぞれ。
中には、
「『哲学』とは何か、という問い自体が無意味である」
と言う人もいる。




でも、現に「哲学」という言葉がある。
「哲学」という言葉で、何かが言い表されているはずだし、
この言葉は日常的にも使われている。


人それぞれの意味を持つ、「哲学」という言葉。
この言葉そのものをいっぺんに定義することは難しいかもしれないが、
哲学と呼ばれるものの“共通点”なら挙げられるように思う。


哲学と呼ばれるものの“共通点”。
それは、
「問いから始まるものである」ということと、
「その問いが、『そもそも・・・』から始まる問いである」ということだ。




単に「問いから始まる」だけであれば、
方程式2x+1=7の解を問う数学や、ピラミッド建造の理由を問う歴史学、
『吾輩は猫である』の主人公に名前をつけなかった作者の意図を問う文学など、
およそ学問と呼ばれるものすべてに共通して言える。


しかし、
そもそも2x+1=7とは何を意味しているのか、
そもそもピラミッドは本当に存在しているのか、
そもそも『吾輩は猫である』の“名前の未だない猫”は本当に主人公なのか、など、
「そもそも・・・」から始まる問いを立てた時、そこから始まるのが「哲学」なのだ。




もっとも、
「そもそも・・・」と問い始めたことについて、最終的に納得のいく答えが得られれば、
その問いは解消し、同時にその哲学も終わる。
そして、代わりに思想や学問が誕生する。


古代ギリシアの哲学者として名高いデモクリトスは、
「そもそも、この世界は『原子』の組み合わさり方が変化することによって、姿を多様に変えているのではないか」
と考えた。
・・・当時、哲学として考え抜かれたその考え方も、今では原子論として自然科学の一部に組み込まれている。


また、フロイトやその弟子のユングは、
「そもそも、人間には自覚できない潜在意識や深層心理があるのではないか」
と考えた。
・・・この考え方も、後に心理学と名を変えて、一つの巨大な学問体系の礎となった。




自然科学(物理学、天文学、数学など)、人文科学(心理学、言語学など)、社会科学(法学、経済学など)、・・・。
哲学は、あらゆる学問の礎を担ってきた。


では、そもそも、「哲学」とは何だろうか。
この問いに対して納得のいく答えが出た時、あなたの哲学は、そこで終わるのだと思う。




この記事を読んで、Angelaさんはこんな記事 を書かれています。
→ 『Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾』 目次にもどる

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2008年03月02日(日)

きっかけは落ちこぼれ

テーマ:コラボレーション

結局、僕は、
哲学というものが何なのか、よくわからない。


友人や親から、
「おまえは哲学的なことばかり考えている」
と指摘されるから、
自分でも、「そうか、こういうことが哲学的なのか」とは思っているけれども、
正直のところ、哲学が何なのか、さっぱりわからない。


だから、哲学を学ぼうとする人の気持ちもわからないし、
哲学者を尊敬する気持ちもわからない。
誰か一人の哲学に傾倒していく気持ちもわからない。




僕は、たぶん、哲学に興味があるのではなく、
ただ単に、納得できないことを自分で納得したいだけなのだと思う。
自分を納得させてくれるものが「哲学」でなければならない、
・・・なんて少しも思ってなくて、ただ、納得したいだけ。


とは言っても、哲学者と呼ばれる人たちの残した言葉を読むと、
「この人たちも、自分で納得できないことを納得したくて考え抜いたのだろう」
と感じることは多い。
納得したいことが似通っていれば、彼らの言葉は非常に参考になる。
けれども、何を納得したくて考えたのかがよくわからず、さっぱりピンと来ない言葉も多い。
そういう言葉は、(少なくともその時の自分にとっては)まったく参考にならない。


参考になるものも、参考にならないものも、
世間では、ひとまとめにして「哲学」と呼んでいるのだから、
僕には、その「哲学」が何なのか、よくわからないのだ。


結局のところ、納得したいことが納得できればそれでいいのであって、
それ以上に哲学を学ぼうとする気持ちは、僕にはない。




だから、
教養として哲学を学ぶ、という心理が、僕には遠く感じられる。
なんというか、こう見えてしまうのだ。
・・・哲学者と呼ばれる人たちがそれぞれ本人なりに納得しようとしてきた道のりを、
後から周囲の人が、まるで「哲学」という名の学問が存在するかのごとく祭り上げてしまったように。


かといって、
自分の哲学を確立しようとする心理にも、僕は大きな違和感を覚える。
なんというか、
確立させようとすること自体が、そもそもわざとらしく感じられるのだ。
他人に披露するための確立だとしても、自分の根本的な支えとするための確立だとしても、
本当は確立できないかもしれないはずのことを無理やり確立させようとしているような、
ひどく意図的な感じを受ける。




既に納得できている事柄について、あえて「哲学」風に考え直す必要はあるのだろうか。
また、納得できない事柄について、あえて「哲学」風に焼き上げる必要はあるのだろうか。


ほとんどの人が難なく乗り越える初歩的なハードルでつまずいてしまった者が、
仕方なく、そのハードルと向き合い、全力で格闘した。
その格闘の生々しい爪痕が、まるで高尚なものであるかのように祭り上げられて、
「哲学」という名で現在に伝わってきた。
・・・僕には、そんなふうに思えるんです。




この記事を読んで、Angelaさんはこんな記事 を書かれています。
→ 『Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾』 目次にもどる

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2008年03月02日(日)

「経験の力」

テーマ:コラボレーション

この記事の日付は、
コラボレーション企画の都合上、製作完了日(3月2日)になっておりますが、
実際には2月24日に書いた記事です。ご了承ください。



最近、しばらく体調を崩していなかったのに、
この一週間、月曜の朝から38度以上の熱が出て、寝込んでいました。


病院で薬を処方してもらったのに、三日三晩、熱も下がらず。
インフルエンザではなかったそうですが、じわじわと体力を消耗しました。
数ヶ月ぶりのダウン。
健康であることの大切さを、改めて実感させられました。


・・・と、体調を崩すたびに、似たような記事を書いている気がします。
「いい加減、健康が大事なことくらい、わかれよ」
と突っ込みたくなりますが、
普段は、ちゃんとわかっているつもりなんです。
健康こそ宝だと思っています。
でも、いざ体調を崩してみると、実感させられるんです。
「わかっていなかった・・・」と。


おととい(金曜日)、午後から出勤しました。
机の上には、仕事がどっさり。
でも、自分の目に映るその光景が、いつもと違っていました。
「元気になって、働けることが、ありがたい」
今まで当たり前のように働いていた自分が、
ひどく傲慢だったように思え、働くことに対して以前よりも謙虚な気持ちになりました。


自分の意志の力だけではどうにもならない、「経験の力」です。




どんなに慎重に、あるいは大胆に、意志や思考の力をめぐらせても、
実際に経験して得た実感には、遠く及びません。
むしろ、経験して得た実感を頭の中で整理するために、
意志や思考がコソコソと働いているのかもしれません。


もっとも、たまに、
自分が積んできた数々の経験を振りかざして、
「経験の裏づけがあって言っているのだから正しい」
と断じてそれを誰かに教えようとする人がいますが、これは間違っていると思います。


なぜなら、
経験の力は、自分で実際に経験してみて初めて得られるものであり、
他人が経験して得たものを、その人の言葉(すなわち、その人の意志や思考)で教えられても、
到底得られるものではないからです。
むしろ、誰かが事前に言葉で教えてしまうと、
わかったつもりにさせてしまう分、かえって本人の経験そのものを遅らせてしまいかねません。


どうしても教えたければ、
教えたいことについては何も言わずに、自分がしてきたのと似たような経験をさせたほうが、まだましです。
ただし、それにも限度があります。
似たような経験をさせることはできても、まったく同じ経験をさせることは不可能だからです。
仮に同じような経験でも、その経験から得る実感は人それぞれです。
その、人それぞれの実感が、その人の心の中で働く意志や思考の基準となっていくわけです。


ちょうど、画家や作曲家が、作品を生み出す方法をそのまま弟子に伝えられないように、
自分が、経験から学んだことをそのまま誰かに伝えることは不可能に近いのです。
だから、
経験から学んだことをそのまま誰かに伝えようとするのではなく、
経験から学んだことを現実に活かすことが大事です。
・・・ひょっとしたら、それを見た別の誰かが、そこに何かを感じ、新たな経験を得ていくかもしれません。


「経験の力」の連鎖は、このようにして間接的にじわじわと広がっていきます。




僕も、以前に比べると風邪をひかなくなりました。
今回のことも反省しつつ、
なるべく病気にならないように、よりいっそう気をつけようと思います。
季節柄、空気が乾燥していますので、
みなさまも、くれぐれもお体にお気をつけください。




この記事を読んで、Angelaさんはこんな記事 を書かれています。
→ 『Angelaさんとのコラボレーション企画 第三弾』 目次にもどる

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2006年07月02日(日)

『寓話 占い師と青年 ~ナークトカムの悩み編~』

テーマ:コラボレーション

初めまして。
ナークトカムと申します。


「占いポスト」と書いてありましたが、
このポストは、誰でも利用できるのでしょうか?
それとも、何か登録のようなものが必要なのでしょうか?


実は、大きな悩みがあって、それについて占って欲しいのです。
が、そのために必要な手続きがよくわからなかったので、
この手紙を投函します。


もし無礼でしたら、ごめんなさい。
2、3日中に、また見に来ます。


――――――――――


ナークトカムへ



「占いポスト」は選ばれた者しか気がつかないので
神秘のポストと呼ばれている。


君はこのポストの存在に気がついた。
だからもう既に君は『選ばれし者』なのだ。


君の悩みを手紙に託して
ここへ投函すればいい。


君へのメッセージはどこからか私の元へとやってくる。
私はそれを君に伝える。


気が向いた時にまたここに来るがいい。


『気が向いた時』
それが返信の合図だ。




「占いポスト」占い師 ジョシュア


――――――――――


驚いた・・・。
試しに手紙を書いてみただけなのに。
いきなり、「あなたは選ばれし者だ」なんて返事が来るとは思わなかった。


ジョシュアさん・・・か。
この人は、投函してきた人全員にこんな返事をしているのかもしれないな。
「あなたは選ばれし者だ」
と言われれば、確かに悪い気はしないから。


・・・面と向かって言われたら、少し気持ち悪いけど。
まあ、手紙をやりとりするだけなら怖がることもない。
せっかくだから、占ってもらうことにしよう。


――――――――――


ジョシュアさんへ


ナークトカムです。
ありがとうございます。
選ばれし者だ、と急に言われましても実感が湧きませんが・・・。
でも、占ってくださるということなので、お願いします。


僕が今、一番悩んでいることは、
「自分の役割がわからない」
ということです。
もちろん、
親の子としての役目や、周囲から期待されている事柄は、それなりにわかっているつもりです。
でも、その役目を果たすことができず、期待にも応えることができない、ひどく不甲斐ない自分がいます。
この状況を克服しようとしても、いつも失敗ばかりで・・・。


周りの人に迷惑ばかりかけていて、ただ、「お荷物」として生かされている。
こんな自分は何のために生きているのだろう、と考えてしまうんです。


それに僕には、つまらない自尊心や虚栄心があります。
何もできないくせに、偉そうに「自分の価値」を主張してしまうことがよくあるんです。
だから、つましく懸命に生きている豚や魚のほうが、僕なんかよりもよっぽど価値があるように思えます。
それなのに、僕は豚や魚を食べ、その貴重な命を犠牲にして生きています。


僕は、生きたい。
でも、そこまでして生きる理由がわからない。
・・・僕は、一体どうすればいいのでしょうか?


よろしくお願いします。


――――――――――


ナークトカムへ




人間がこの世に存在してからずっと
誰かしらそのことについて思いを巡らし
さまざまな意見が取り交わされているようだが・・・


君に命が与えられている間は
「君の存在そのもの」が役割であり理由なんだよ。


それ以外に何もない。



ただ・・・人は実感を欲しがるものなんだ。


肉体があるから。
感情があるから。
それらの機能を存分に発揮したいという欲望を備えている。



君が知りたいのは実感を得るための方法じゃないのかな?



君の血となり肉となる豚や魚の方が君より価値があるとかないとか
それは君が決める事ではないだろう。


この世のあらゆる命は存在そのものに価値がある。
そして命は消え、でも次の瞬間にまた別の命が生まれている。


宇宙というのは死と再生という繰り返しの中で
絶妙なバランスを保っているんだ。




ジョシュア


――――――――――


ナークトカムです。
お返事ありがとうございました。



実感、欲しいです。


確かに僕は、今、
自分の存在そのものの価値を実感できておりません。
もし、本当にその価値があって、そのことを深く実感できるのであれば、
ぜひ実感したいです。


ところで、一つ、質問があります。
「僕の存在そのものが生きる役割であり理由である」
ということは、つまり、
たとえ野垂れ死んだとしてもそれが僕の役割だ、
ということですか?


もしそうだとしても、
今の僕には、なかなかそこまでは覚悟できそうにありません。
実は、
「強さが欲しい」
ということも、今の僕にとっては大きな悩みなんです。


――――――――――


ナークトカム



存在そのものの価値を実感するというのは
自分の体験以外にはない。


自分の腕と足を動かして
「これをせずにはいられない」という行為しか
自分への実感にはならないのだ。


君にとっての、その「行為」とは何だろう?




野垂れ死・・・


死に方に優劣はあるのだろうか?


どんな死に方が素晴らしく
どんな死に方が愚かなのだろうか。


どんな死に方をしようとも
生きている間は人は精一杯生きていたはずだ。


それだけで人は生きた価値がある。


そして
残された者に多大な影響を与え死んでいく。
それが人の生きる意味でもあるのだ。




「強さ」について教えて欲しい。
君の欲しい「強さ」とは何を指す?




ジョシュア


――――――――――


うーん・・・。


「宇宙というのは死と再生という繰り返しの中で絶妙なバランスを保っている」

確かにその通りなのだろう。
現に、この宇宙の歴史は、
古いものが滅び、新しいものが生まれ、・・・ずっと、その繰り返しだ。


だから、宇宙全体から見れば、
「人間の死に方に優劣などない」
ということも、その通りなのだろうけれども・・・。


ジョシュアさんは、
今まさに絶望のなかで死に果てようとしている人に対しても、
そんな冷たいことが言えるのだろうか?
それではまるで、患者の心境を顧みずに淡々と病状を説明する医者のようだ。
真実を語っているのかもしれないが、相手の身になって考えていないような気がする。


占い師って、そういうものなのかな。


・・・って、こんな偉そうなこと、
相談に乗ってもらっている立場の僕には、とても言えないな。
まずは、質問されたことに答えなきゃ。


――――――――――


ジョシュアさん


いつもありがとうございます。
ナークトカムです。



考えずにいられないことなら、たくさんあります。
でも、身体を動かしてせずにいられないこととなると、・・・あまりないです。
あくびをした時、伸びをする、とか、
トイレに行きたくなった時に走る、とか、
そういったことならありますが・・・。


自分の存在価値を実感するためには、
何か、身体を動かすような趣味を持ったほうがいい、ということでしょうか?



それから、
僕の欲しい「強さ」とは、自信や生命力のことです。
心の強さが自信であり、身体の強さが生命力だと思うので。


もっと僕に強さがあれば、
どんな生き方であっても、そこに生きる意味を見出せるかもしれません。
でも、それほど強くない僕にとっては、
ジョシュアさんがおっしゃるような、自分の人生をすべて引き受けて肯定する、
ということはなかなか難しいです。


――――――――――


ナークトカム




君にとっての「存在そのものの価値を実感する」ことは
「考えること」なのかもしれない。


だから
「君が考えていること」を「君の身体を使って表現すること」で
君は君の存在価値を実感できるはずなのだ。


その具体的な方法についても
頭で「考え」そして身体で「実行」する。




心の強さと身体の強さは分裂しているわけではない。


心が強ければ身体は強くなる。
身体が強くなれば心も強くなる。


君の欲しい「強さ」は
身体を使った表現ができるようになった時に手に入れられるだろう。




君が生きる意味を見い出したなら
君の人生のすべてを引き受けて肯定することができるはずだ。



なぜなら、生きるとは「日々を肯定」していくこと、だから。





ジョシュア


――――――――――


「考えていること」を身体を使って表現する、か・・・。


確かに、小説家や画家は、
そうやって自分の存在価値を実感しているのかもしれない。
でも、そんな風に表現できるようになるまでが、とても苦しい。
一生なれないかもしれないのに・・・。


あと、なんだっけ。
具体的な方法も自分で考えて実行しなさい、・・・か。
占いって、もっと具体的な答えを出してくれるものだと思っていたけど、
この人は違うらしい。
なんだか、占ってもらっている感じがしないな。
どちらかと言うと、生き方についての説教を聞かされているような気分だ。


このジョシュアさんという人は、
いったい、何のために、こんなことをしてくれているのだろう・・・?


――――――――――


ジョシュアさん


こんばんは。
ナークトカムです。


「僕が考え込んでしまうこと」を、身体を使って表現できるようになったら、
僕は、自分の存在価値を実感できるようになる。
そして、そのための具体的な方法を考えるのも僕なのだ、
ということですね。


少し、考えてみます・・・。



一つ、質問してもいいですか?

ジョシュアさんは、
何のために、この「占いポスト」という活動をされているのですか。
ジョシュアさんも、この活動によってご自身の存在価値を実感していらっしゃる、
ということでしょうか。


どうしても疑問に思ったもので。
見たところ、無料でなさっているようですし・・・。


――――――――――


ナークトカム




存在価値を実感できる具体的な方法の『芽』は
普段の日常の中に潜んでいるものだから


注意深く日々の自分の行動を観察していくことで
その『芽』を見つけ出し大きく育てる事ができるだろう。



君にひとつ大事なことを教えよう。




言葉を過信してはいけない。
言葉で語るよりも「生きる姿」でしか伝わらない事がある。




これは君の私の活動に対する疑問の答え、とも言える。




ジョシュア


――――――――――


やっぱり、具体的な答えは言わないな。この人は。
あくまでも僕自身に考えさせようとしているみたいだ。
・・・どうしてだろう?


もし、これが有料だったら、
「適当に誤魔化して金をむしり取ろうって魂胆だな」
と思うところだけど、
無料だし、単に暇つぶしをしているような感じでもない。


僕が、答えを押し付けられても納得しない性格だ、
ということをジョシュアさんはもう見抜いたのかな?
相手が僕じゃなかったら、具体的な答えを返したのだろうか?


いずれにしても、
やたらと答えを押し付けようとしてくる人よりは信用できそうだ。


言葉を過信してはいけない、か。
・・・よし。考えてやろうじゃないか。
そこまで「自力で考えろ」と言うのなら。


――――――――――


ジョシュアさん


ナークトカムです。
あれから、少し考えてみました。


僕は、今、考えたことをこうして書いています。
ジョシュアさんに、なるべく伝わるように、言葉を選びながら。
・・・そして、ジョシュアさんから返事が来ると、
僕は、その返事の意味をいろいろと考えます。


実は、この時間が、僕にとっては思いのほか充実しているのです。
ジョシュアさんの言葉の意味を考えているうちに、
いろいろな思いが湧いてきて、
気がつけば、初めに相談していた悩みを忘れてしまうこともしばしばでした。


日々の自分の行動を観察してみたら、
他でもない、ジョシュアさんと手紙のやりとりをしている自分に行き着きました。
これは、存在価値を実感できる具体的な方法の『芽』と言えるでしょうか?


それから、
「言葉で語るよりも『生きる姿』でしか伝わらない事がある」
ということ、
そしてそれがジョシュアさんの活動に対する僕の疑問の答えだ、
ということは、つまり、
ジョシュアさんの活動は、無料でやっていることを含めて、その活動そのもののあり方に意味がある、
ということですか?


言葉を過信してはいけない、と言われた傍からこうして言葉で質問してしまうのは無粋かもしれませんが・・・
何でも知りたがる僕の性格は、なかなか直らないもので。


――――――――――


ナークトカム




君の存在価値を実感できる具体的な方法の『芽』は
「この手紙のやりとり」と、言えるだろう。



この手紙のやりとり。
それはつまり・・・


君が興味を持っている事を考え悩み探求し
それを言葉で表現していること。


そしてそれを受け止める読み手が存在していること。



この芽をこれから君の力で発展させていけば
君は自分の存在価値をそこに見い出すことができるだろう。


表現をひとつ終える度に自分に対する自信を獲得し
自信をひとつ獲得する度に生命力も増していくだろう。





「占いポスト」は私が生きている間は存在するが
私がこの世から去れば消滅する。


「占いポスト」は私の生命そのものなのだ。





ジョシュア


――――――――――


そうか・・・。
占い師と言っても、ジョシュアさんも人間だもんな。


「占いポスト」を利用する人は、きっと僕以外にもいて、
ジョシュアさんも、僕以外の人とは、まったく違うやりとりをしているのだろう。
でも、そうした活動のすべてが、
ジョシュアさんにとっての生き甲斐であり、人生そのものだったんだ。


・・・ということは、つまり僕は、
もう既に、ジョシュアさんの生き甲斐の一部に貢献していた、ってことか。
そうか。
僕の存在価値は、こんなところにも転がっていた。



自分の存在価値を疑い、自信を無くし、悩んで、
そのことでジョシュアさんに相談してみた。
これは、確かに紛れもなく僕の行為だ。
そして、それがそのまま、僕の存在価値にもつながっていた。


なるほど。
ジョシュアさんの言った通りになってしまった・・・。
まさか、こんなところで繋がってくるとは思わなかったけど。




もう、僕は、このくらいにしておこう。
僕のようなひねくれ者なんかよりも、
もっと純粋に「占いポスト」を必要としている人がたくさんいるだろうから。


僕は、きっと、これからも悩み続ける。
そして、もし万が一、
「自分が生きる意味」について納得のいく答えが出せたら、
その時は、ジョシュアさんにも報告させてもらおう。
次に「占いポスト」を利用させてもらうのは、たぶんその時だ。


――――――――――


ああ、僕がこうして悩んでいるというそのこと自体が、
僕の存在価値の『芽』だったんですね。


実を言うと、僕は、
「占い師」という仕事を少し疑っていました。
しかも、純粋な疑いではなくて、かなり否定的な疑いでした。
今、初めて白状しますが。すみません。


まさか、
こうして手紙のやりとりをしていること自体に大きな意味がある、
とは思ってもいませんでした。
でも、言われてみると、その通りでした。
最近、僕の日常で何が変わったかといえば、
「占いポスト」に通うようになったことなんですよね・・・。
僕の中でも、大きく何かが変わったような気がします。


僕は、これからも悩みながら生きていきます。
それで、いいんですね。


「占いポスト」を独占してしまっては悪いので、
今回は、これで最後にします。


ありがとうございました。
「占いポスト」、これからも続けてください。




ナークトカム


――――――――――




この記事は、
『ブロガーは思う』 の編集員でもあるAngelaさん と共同制作させていただいた、
『寓話 占い師と青年』
の「青年」編です。


Angelaさんが占い師ジョシュアの役を、
僕が青年ナークトカムの役を、
それぞれ受け持ち、その役になりきりながら手紙のやりとりを行なう、
という方法で書き上げました。
(Angelaさんは、実際に占いを専門になさっています → 『Angela lala's room』


役になりきる、と言っても、本人の性格が色濃く反映されているとは思いますが(笑)。




さて、この「青年」編は、
青年ナークトカムから見た、物語の全貌です。
でも、ひょっとすると、占い師ジョシュアにとっては、全然違う物語だったのかもしれません。


占い師ジョシュアにとって、この物語がどのようなものであったのか。
僕は、まだ知りません。
「やりとりした手紙そのもの」という共通の部分以外は、
Angelaさんも僕も、お互いにまだ何も知らないのです。


それを知るのは、記事を公開した時。
だから、公開された記事を一番わくわくしながら読むのは、
たぶんAngelaさんと僕自身でしょう。




いよいよ、公開する時刻になりました。
それでは、「占い師」編がどのような物語なのか、さっそく読んでみましょう。
→ 『寓話 占い師と青年 ~ジョシュアの導き編~』

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2006年03月17日(金)

創作テーマ「大事なこと」

テーマ:コラボレーション

この記事は、
ほとけ絵師Dairikiさん との共同作品
を掲載したものです。


テーマは、「大事なこと」。


「大事なこと」をテーマに、
Dairikiさん と僕で、メールでやりとりしながら共同執筆しました。




-[まこっちゃ]-


そもそも何が大事なんだろう。

気がつけば、子供の頃からいろいろな「大事なこと」を教えられてきた。
道徳とか、礼儀とか、
マナーとか、ルールとか。

学生の時は、勉強することが「大事なこと」だった。
そして社会人になれば、働くことが「大事なこと」になる。

でも、よく話を聞いてみると、人によって「大事なこと」は違う。
「学校の勉強なんて、そんなに大事じゃない」
と言う人もいる。
「働きすぎは良くない」
という声もたまに聞く。

長生きしたって、いつかは死ぬ。
必ず終わりがある人生。そのなかで、いったい何が本当に大事なんだろう。

「大事なこと」を誰かに教えられ、それが大事だと思い込むのではなくて、
本当に大事なことが、僕は知りたい。



-[Dairiki]-


子宮からこのめくるめく世界に押し出されてきて



そう、ほんとうにまるで背中を押されたみたいに

「ほら、いっておいで」って(笑)



ここで最初にみつけた「大事なこと」は

お母さんに抱かれること・・・かな



そして

カレーライスを食べることだったり

おもちゃで遊ぶことだったりして



やがて物心というやつがついてくると

いろんな大人たちが「大事なこと」を教えてくれる



勉強すること

なるべく人に劣らない

優秀な人間であること

合理的であること

“きちんと”できること

世の中には

“勝ったり負けたり”というものがあること



子供たちは大人たちに

彼らが信じている「大事なこと」をインストールされる



それが長い人生において

どんな機能を果たすプログラムなのか

まったく説明もなく

もちろん理解もできないままに





やがて大人になり

ほとんどの人は同じように

子供たちに彼らの「大事なこと」を

インストールしていく

なんの疑問もなく



だけどごく少数の人たちが

このプログラムの機能は

“生きていく”ことには役立つけれど

“幸せ”であることとはまったく関係ない

ということに気づく





そして彼らは探しはじめる

ほんとうに「大事なこと」ってなんだ?



それを見つける旅こそが



すべての冒険物語に象徴されている

勇者の旅なんだよ



-[まこっちゃ]-


大事なこと
気づいてないのは
あの人なのか 僕なのか

あの人は いろいろ教えてくれる
僕の心には ピンと来ないけど

あの人は いろいろ教えてくれる
僕には 逆らう力もなくて

あの人に学ぶべきなのか
あの人に逆らうべきなのか
それすらもわからないまま

足踏み 足踏み 繰り返し
旅の始まりは まだ来ない



-[Dairiki]-


旅の途中で

勇者は

たくさんの人に出会う



ある人は“とにかく無事に生きること”が

大事なことだと言った



その人はいつもなにかに耐えているような顔で

彼の前に山積みされた仕事を

来る日も来る日も無言で処理し続けていた



ある人は“勝利者になること”が

大事なことだと言った



その人はいつも闘争心をみなぎらせていて

自分がどれだけ価値のある者であるかを

証明するために

来る日も来る日も果てしない戦いを

繰り返していた



ある人は“所有すること”が

大事なことだと言った



その人はいつもなにかを欲しがっていて

誰よりも多くのものを所有するために

来る日も来る日もただひたすら

自分の財産目録を更新し続けていた



ある人は“肉欲を満たす”ことが

大事なことだと言った



その人は「所詮、人は動物なんだよ」と笑いながら

来る日も来る日もおいしいものを食べ

一人でも多くの異性と交わるために

ありとあらゆる努力を尽くしていた



ある人は“お金を稼ぐ”ことこそが

もっとも大事なことだと言った



その人はお金をより効率的に増やすための

システムの構築と

節税対策に来る日も来る日も取り組みながら

預金通帳の中に自らの人生を

数値化することを生きがいにしていた



ある人は“病気をしないこと”こそが

なによりも大事なことだと言った



「人間、死んだらおしまいだろう?」

その言葉が口癖の彼は

来る日も来る日も

千とひとつの健康法を実践することを欠かさず

体によいものだけを食べ

体に悪いものから必死に逃れようとしてた





彼らの誰もが正しいように

勇者には思えた



同時に

彼らの誰もが

どこか間違っているようにも思えた



-[まこっちゃ]-


僕は、大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「何もわからなくて、旅を始めることさえできない」
そう感じていたけれども、
何かをわかっている旅人なんて、本当は一人もいないのかもしれない。

そもそも、わからないからこそ、
人は、さまよい、旅をするんだ。
初めからわかっていたら、旅なんて出来やしなかった。

旅が出来るのは、何もわからないからだ。
何もわからなくて、でも大事なことを掴みたくて、・・・だから人は、人生を旅するんだ。
たとえ足踏みばかりでも、
人生の旅は、もう既に始まっていた。



-[Dairiki]-


そう

勇者の旅は

すでにはじまっている



そして彼の果てしない旅は

どこまでも続く



ある日、<永遠に続く問いの森>で

一人の魔女に勇者は出会った





もう数百年は生きてきたとも思えるような魔女に

勇者はそれぞれに<大事なこと>を生きている

彼らの誰が一番正しいのかをたずねた



魔女はひとつ小さな咳をすると

勇者に答えて言った



「毎日を無事に生きようとどんなに努力しても

やがて“変化”がそれを奪い去ってしまうだろう

毎日を同じように永遠に生きようとするのは

時を止めるのと同じくらいにむずかしい



勝利者になるためにどんなに力を手に入れようと

やがて“敗北”がそれを奪い去ってしまうだろう

そこに戦いがある限り

永遠に勝ち続ける者はいないのだよ

お若いの



たとえどんなに多くのものを所有しようと

やがて“時の終わり”がそれを奪い去ってしまうだろう

五十年、あるいは百年もすれば失ってしまうものを

果たして持っているといえるのかね?



満たそうと満たそうと満たそうと

涸れた大地に水を注ぎ込むように尽きることのないもの

それが肉欲だよ

満たした瞬間に新たな“渇き”が

握り締めた手の中からあっという間に

すべてを奪い去っていく

小さな車輪の中で走り回るリスを

お前は幸福だと思うかね?



どんな銀行も

どんなに強固な金庫も

“時の終わり”の前では無力だよ

人が一生涯をかけて積み上げた金塊も

一瞬にして彼の手から消え去る

そうさ

人はどんなものでも

お金で買えないものはないと思っている

でも、どんなに多くの金を積もうと

時の流れを止めることはできないんだよ

“時の終わり”はそんなことに興味はないからね



不老不死!

ハッハッハッ!

それがお前さんたち人間の永遠の変わらぬ欲望だねぇ

ところで、そんなに命を長らえて

一体なにをしようというのだね?



わたしはね

遠い遠い昔

あんたたちが望む

そのとてつもなく長い命を手に入れた



それ以来

そうさね

五百年もこの<永遠に続く問いの森>で

ずっと同じことを考え続けている



なにを考えているかって?



それはね

ほんとうに<大事なこと>はなにか?ってことさ





そして、五百年

今も答えは見つかっちゃいない



あんたたち、人間は

正気でそんなことを望んでいるのかい?

気が遠くなるほども長い間

来る日も来る日も

ほんとうに<大事なこと>はなにかと問い続けることを?



あんたはいい目をしているねぇ

まるで昔の私を見ているようさ



なんだい

こんな年寄りにそう言われて

迷惑かね?



なに、私も大昔からこんな姿だったわけじゃない

いや、信じられないだろうけどね

本当のことさ



あんただけに特別に

ただひとつだけ

私にわかったことを教えてあげよう



大事なことはね



たぶん

どんな盗賊にも

変化にも敗北にも渇きにも

時の終わりにも奪えないところにある



そこはどこかって?



お若いの

教えてやりたいがね

それがわかったら

私の旅はもう終わっているよ



-[まこっちゃ]-


「人は、いつか必ず死ぬ。でも、今は生きている!」

人生の終わりを意識する時、
その限られた中で生きている今この瞬間が、燦然と輝き出す。

なんと皮肉なことであろうか。
今、こうして生きていることのかけがえのなさを意識すればするほど、
逃れようのない死の到来を、ひしひしと思い知らされるのだから。

しかし、それが人類の原動力でもあった。
人生の終わりを意識するからこそ、いつの時代も、人は懸命に生きてきた。
そして、いつの時代も、人は志半ばに倒れてきた。

それでも人は、志を受け継いできた。
いつも、その時代の若者が、人生の終わりを意識しながら、
「我こそは志を成就ならしめん」
と、燦然と輝いていた。

その答えは、今も、見つかっていない。

僕は、まだ生きているから。
「大事なこと」を掴むために、懸命に生きているから。

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