2014年05月07日(水)

自分の初心に別れを告げる

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

「座右の銘は、虚心坦懐にしよう。」 だとか、
「僕と、僕の身の回りの人たちが、」 なんて言って、
きれい言ばかり並べているのは、他でもない僕自身なんじゃないの?


僕は、昔から、きれい言が嫌いだった。
偽善とか嘘じゃなく、
腹を割って話したい、本音の話を聞きたい、と思ってきた。
もちろん、それが自分を苦しくさせる時もあった。
それでも、一生に限りがあることを思えば、
やっぱり知りたいと思った。
やっぱりわかって欲しくなった。


その一方で、
相手には本音を吐き出させようとしておきながら、
自分だけ逃げてしまった時もあった。たくさんあった。
そんな時は、自己嫌悪した。
でも、そういう時も必要だ、と後から思うようになったりもした。




・・・そろそろ、きれい言を好きになってもいい頃かもしれない。
無自覚にきれい言ばかり言うのと、
自覚しながら言うのとでは、そもそも意味が違うでしょう?


そうやって嘯きながら、
僕は、自分の初心に別れを告げる。
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2014年03月08日(土)

腹立たしくも愛すべき姿

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

みんな、消化できない矛盾を背負わされて生きている。
人間のそんな腹立たしくも愛すべき姿が、僕は大好きだ
・・・なんて書いたけど、
そう思うなら、自分自身のことも大好きにならなきゃ変だよね。


だって、僕、人間だし。


「僕は、消化できない矛盾を背負わされてるんじゃない。」
「ただ単に僕が無能だから、消化できずにいるだけだ。」


そんなことは、他のみんなだって同じじゃない?
じゃあ、「みんなも無能だ」って言ってさ、他のみんなも嫌えばいいよ。


「それは違う。」


なんで?
そこまで言うなら、
ちゃんと、「僕だけが無能で、みんなが無能じゃない」って言い切れる根拠を教えてよ。
僕には僕のことしかわからないのに、
どうしてみんなのことがわかるの?
他人の心を読める超能力者にでもなったつもり?


「そういうわけじゃない。」
「みんなのことはわからないし、無能かもしれないけど、それも含めて好きなんだ。」


じゃあ、同じように無能かもしれない僕自身のことも、好きでなきゃおかしいよね。
そもそも、既に、僕自身が矛盾しちゃってるよ。
自分に対する評価と、他人に対する評価が全然違ってたり、
明確な根拠もないのに自分だけが無能だと思い込んでたり。
でもさ、もともと、
そういう姿が腹立たしくも愛らしい、って思ってたんじゃないの?




・・・もう、いいからさ、
他人のこととか、人間一般のこととかの話をする前に、
まず、自分自身を好きでいなよ。


さっきの記事 の中で、「人間の、生きる姿はいじらしい。」なんて書いてたでしょ。
そんなの、人間じゃないモノが言うセリフだよ。
例えば神が言ったんならわかるけど、僕がそれを言うのは変でしょ。
言い方を変えれば、何様のつもりなの?って話だよ、これ。


人間の、腹立たしくも愛すべき姿が、大好きなんでしょ?
今まさに、僕自身もそんな姿でいるじゃないの。


よかったね。

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2014年02月15日(土)

1.7倍速

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

なんだこれ?


いや、おもしろいねぇ。


・・・本当に、これでいいのだろうか?
頭のどこかで警報が鳴り響く。


今は、いったん預けてみるか。


よくわからなくても、良ければそれでいい?・・・う~ん・・・。


とりあえず、自分を泳がせてみてもいい。


意図しない生き方。
不図した世界。


やっぱり、「観察」癖は抜けないけどね。




・・・いつもの1.7倍速くらいの、脳内会議の記録。
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2013年10月21日(月)

覚悟と迷い

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

「独り善がり」と「正義」は、紙一重。
紙一重どころか、同一かもしれない。


それでも、
己の正しいと信ずるところを貫こうとする、
その時は、それが「独り善がり」である可能性をも
引き受ける時なのだ。




しかし、全責任を負う覚悟があれば、
人は何をしても良いのだろうか。
きっと、その覚悟があれば何でも出来てしまうだろう。


それが出来る、ということと、
それが良いことだ、ということは違うはず。




・・・その迷いが、最初の一歩をためらわせる。


人類は、多くの犠牲と共に歩んできた。
意図的に生んだ犠牲は悪かもしれないが、
結果的に生じた犠牲は、やむを得ない。
・・・そう、考えるしかない。
そう考えなければ、この世界を生き抜くことはできない。

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2013年01月27日(日)

もっと単純に捉えられたら良いのに。

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

すべてのことを、原点に返るつもりで、
もっと単純に捉えられたら良いのに。


しかし、単純なことを複雑に捉えてしまう所から、
多様で豊かな世界が広がっていくことも事実。
すべての人がすべてのことを単純にしか捉えられなかったら、
今の人間社会は、そもそも存在しなかっただろう。
哲学も、文学も、芸術も無かったに違いない。


いや、逆かもしれない。
とかく複雑になってしまった人間社会で、
物事の原点を見つめようとした人たちが始めたのが
哲学や文学、芸術なのかもしれない。


そもそも、僕は、
いまだに「単純」と「複雑」の違いをきちんと理解できていないようだ。
何が「単純」で、何が「複雑」かなんて、
それまで自分が何を当たり前と思ってきたかによって
変わってくるんじゃないだろうか。


・・・まあ、でも素朴な実感として、
いろいろな面で許容量の小さい僕としては、
物事を単純に捉えられるようになりたいのはやまやまだ。

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2012年05月01日(火)

爆発と内省

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

爆発。
いや、これは爆発じゃない。
内部爆発なら、既にたくさん起こっている。
それを外に出さないよう、なんとかせき止めていたが、
持ちこたえられなくなって噴出してしまったのだ。
だから、これは爆発じゃない。
元の爆発に比べれば、威力は相当落ちている。


でも、外部からは、これがオリジナルの爆発に見えるらしい。
これでも、けっこう控えめに抑えているんだけどな。
・・・なんて、そんなこと、「わかれ」と言うほうが傲慢だ。
内部でくすぶり続け、時々爆発していたことなど、外部からは知る由もない。
外部から見れば、今回のこの噴出そのものが青天の霹靂なのだ。


それにしても、よくもまあ重なるよ。
いったい何なんだ、ってくらい。
前向きに何かを始めようとしている時に限って、これだもの。まったく嫌になる。
日頃の心がけがいけないのかな。
まだ、僕は本気で頑張れていない、ということなのかな。
「中途半端に頑張ったふりをするな」と、お灸をすえられているのだろうか。


・・・あー、やだやだ。
またこうやって、「自分は大変な思いをしている」アピールをしてるわけだ。
たいして大変なことをしているわけでもないくせに。
本当に頑張っている人は、そんな素振りは少しも見せずにちゃんと頑張っているのに。


充分、恵まれているじゃないか。
あれこれ考えるのもいいけど、
感謝しながら本業に専念し、まっとうした方がいいんじゃない?
今からでも、やれるだけやってみるしかない。


さあ、気を取り直して行こう。
こうして今回、書き始めたことは正解だったと思う。
少なからず気持ちの整理ができてきたからね。

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2012年01月03日(火)

自問

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

本当にこれでいいのだろうか。
・・・結局、また自問してしまう。


僕は、これでいいのか。
何か大事なことを見逃してるんじゃないか。
僕だけが気付いてないんじゃないか。




・・・でも、
恐れている可能性が仮に現実のものだったとしても、
僕は、僕で進むしかない。


仮にそれが現実だったとしても、
そのようにして生かされている"それなりの理由"があるはずだ。
ただ僕をこのように生かすためだけのためには、
誰も好き好んでこんなふうに時間を割いたりしないだろうから。




・・・そう。結局、僕も他人の目を気にし過ぎなんだろう。
僕は僕で自分なりに生きるしかない。
本当に、もうそれしかないんだ。
理解されようと、されまいと。


自問してしまうことも、きっと僕の個性の一部なんだろう。
それがどういうことなのか、
言っている本人にもよくわからないけれども。

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2011年09月11日(日)

理不尽(または、甘ったれ(または、自意識過剰))

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

A.

さっき、『先進国からの人道的批難』 という記事で、
「自分のことを棚に上げて、相手の非だけを批難するのは虫が良すぎる」
という趣旨の文章を書いた。
でも、僕自身はどうなのだろう。
僕がいる日本も、きっと先進国のうちに入る。
西洋の先進国諸国のように、大航海時代に植民地を増やしたわけではないかもしれない。
でも、太平洋戦争の直前には、日本も東南アジアの国々を実質的に植民地にしていたらしい。
理由はどうであれ、
地元の高齢者の人の多くが今も日本語を話せていることが、その証左だろう。


僕もまた、
暗に、西洋の先進国だけを批難し、自分(の国)のことを棚に上げていたんじゃないか・・・?
そう思い始めると、こうしてキーボードを叩く手の動きも鈍くなってくる。


B.

だからね、基本的には、
「自分のことを棚に上げずに何かを言う」なんて、不可能なんだよ。
そんなことをしようとするのは、神になろうとするようなものだよ。
・・・さすがに「神」は大袈裟かもしれないけど。


それに、悪いのは自分だけとは限らないよね?
なんで自分だけが一方的に“悪く”なって、肩身を狭くしなくちゃいけないのさ。
相手のことを知り尽くしている、とでも思っているのかい?
思い上がりも甚だしいね。
相手は、むしろそういう態度に偽善を感じて、はらわたが煮えくりかえっているかもしれないよね。


C.

そもそも、自分や自分の身内を守りたい、と思うのが自然なんじゃないかな?
よその国の人たちのことは、文化も違うし、よくわからない。
大切な人間関係も少ないし、よその国に対する思い入れは少なくて当然でしょ。
自分も相手も平等に扱え、って言うほうが無茶なんじゃないかな。


それに、皆、立場も違うし、
背負っている責任も、その責任の大きさも違う。
そもそも背景が違っている者同士を、同じ土俵の上で向き合わせよう、
ってこと自体に無理があると思うよ。


D.

でも、第三者は、同じ土俵の上で判断しようとするんじゃないかな。
スポーツだってそうでしょ。
身体的特徴も、経済力や技術力などの環境も、文化もまるで違う者同士が集まって、
同じ基準の下で、第三者が結果だけを見て勝敗を決めていく。
当然、人によって有利な基準もあれば不利な基準もあるわけだけど、
そんなことは全然考慮しないよね。


ある意味、考慮しないからこそ平等なのかもしれないけど、
これって相当、理不尽だよ。
だって、自分に合った基準のスポーツなら、初めから自分が有利なんだから。
極端に言えば、自分が勝ちやすい基準のスポーツを作っちゃえば、だいたい勝てるわけ。


どういう環境にいるか、ということも大きいよね。
第三者が結果を判定するのは一瞬のことだから、
その一瞬に自分の能力の最大値をいかに引き出しておけるか、ということが非常に重要になる。
つまり、いかに自己管理できるか、ということが難しいわけ。
でも、自己管理する上での課題は、全員違うでしょ。
さっきも言ったけど、
自分の身体的特徴、
親や家庭の経済状況、
周囲のインフラの整備状況、
思想や宗教上の制約、といったものが皆それぞれ違う中で、
同じ土俵の上で判定されてしまうある1点の基準に的を絞って、
それに向けて頑張る。
スタートラインは違うのに、結果の判定基準は一緒なんだよ。
理不尽だと思わない?


E.

その手の理不尽さに関して言えば、
スポーツだけじゃなく、もっといろいろなことに当てはまると思う。


例えば、議論の場では、
語彙数が少ない人は、多い人に比べて基本的に不利だよね。
仮に、
自分の知らない言葉で何かを言われたとするよ。
自分は、まず、その言葉の意味を理解するところから入らなきゃいけない。
言葉の意味もわからずに反論しても、だいたい受け付けてもらえないからね。
もちろん、その言葉の意味をその場で相手に聞く、という方法もあるけど、
その場合、相手にとって都合の良いように説明されてしまう可能性が高いよね。
相手は知っていて、自分は知らない。そのことを教えてもらう。
そうなったら、もう、ほとんど相手の言いなりだ。
英語が話せない日本人が外国人に交渉で負けるのは、この極端な例だよね。


ただし、それとは別に、
時間がたっぷりある人は、時間がない人に比べて有利、
っていうのもある。
語彙数が少ない人でも、時間が有り余っていれば語彙数の多い人より有利だったりする。
何をするにしても、時間の制約は免れられないからね。
仮に本当に正しいことを言っていても、
「その正しさについて相手にちゃんと説明できる」だけの時間を自分が確保できなければ、
相手にとっては、「何を言っているのかわからない人」で終わってしまう可能性がある。
でも、
人生に与えられた時間には限りがあるし、
残されている時間も、人によって違うよね。
忙しい人もいれば、そうでない人もいる。
その部分でも、既にスタートラインが違うんだよ。


あとは、
そもそも自由に表現することが認められている環境かどうか、とか、
貧富の差とか。
・・・もう、薄々気づいていると思うけど、
こんなふうにあれこれ悩んで考えていられること自体が、ある意味「贅沢病」なんだよ。


F.

ほら、また、キーボードを叩く手が止まったね。
自分のことを棚に上げられなくなったからだよね。
「贅沢病」の自分が発言することによって、後ろ指を指されるのが怖いんだろう?


でも、何も言わなければ、それでいいのかな。
他の人が考える時間もない(かもしれない)中で、これだけ一度は考えた、
ということを跡形もなく消して、ブログにも上げず「無かったこと」にすれば許される、
とでも思ってるの?
それこそ「逃げ」じゃないのかな。
消してしまえば、本当の意味で、すべてが無駄になるよ。
最終的に無かったことにされちゃう無駄な文章を書くだけの時間と労力を養うために、
周りの皆はせっせと頑張ってくれてるんだね。
あーあ、もったいない。
皆がかわいそうだね。


もう既に、こういう生き方をしてきたんだから、隠してもしょうがないじゃないか。
覚悟を決めて、せっかく書いたんだから投稿しなよ。
「これが自分だ」って。ほら。

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2011年08月18日(木)

自己言及に関するあれこれ

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

『現実問題として』 という記事もまた、
自分を正当化しようとして書いた記事かもしれない。
誰でも、自分の立ち位置は確保しておきたいものだ。
以前、『アピールと自問』 で述べたようなアピールを、
きっと僕も、無意識のうちにしている。


・・・と、言うことによって、僕は、
『「自己言及性」の維持と体現』 を実現した気でいるのではないか?
でも、それは、「実現した」という思い込みかもしれないし、
それこそ単に正当化しているだけかもしれない。


こんなふうに思考が転々としていると、そのうち何も言えなくなってくる。
『“前提”と“保留”』 でも書いたように、
何か言う時には、やはり、いったん“その発言を成り立たせる前提”に留まる必要がある。
個々の発言においては、
少なくともその発言が終わるまでの間は、その発言における考え方に徹し、維持しなければならない。
どうしても自己言及したければ、
時間を置いてから自己批判(=“過去の自己”批判)するしかない。
そうしなければ「発言する私」の一貫性が保てず、発言すること自体ができなくなってしまう。


ただし、上記Cで述べたことは、本当の意味での自己言及ではない。
あくまでも、対象化された“過去の自己”について言及しているに過ぎない。
広義では、それも自己言及と呼べるのかもしれないが、
僕としては、
現在の自分について「言いながら自己言及」する方法を模索したい。

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2011年01月29日(土)

アピールと自問

テーマ:「まこっちゃ」の脳内会議

結局さ、
「自分は、ちゃんとやってるんだ」
ってことを、アピールしたいだけなんじゃないのか。


そんなアピールをする暇があるなら、
目の前のことを、少しでも前に進めたほうがいい。
世界を動かすのは評論家じゃなくて、プレーヤーなのだから。


でも、いいんだよ。
ただアピールしたいだけだ、ってことを自覚した上で、
それでも「アピールしたいんだ」と思うなら、
逆に胸を張ってアピールすればいい。
世の中には評論家の需要もある。
世界を動かしているのはプレーヤーだけど、プレーヤーだけで世界が成り立っているわけでもない。
第一、全員がプレーヤーだったら、
全員が全員、自己評価するしかなくなる。基準がなくなってしまう。
それでは社会が成り立たない。


一番いけないのは、ただアピールしたいだけなのに、
「ただアピールしたいわけじゃないよ」
と嘯くこと。
自分をごまかすのが一番いけない。




ところで僕は、
自分のことを棚にあげておいて、こうして「ああでもない、こうでもない」と書くことが好きだ。
・・・そう言うことによって、
「『自分のことを棚にあげている』こともちゃんと自覚しているのだ」
ということを、アピールしているのだと思う。


自分をごまかすのが一番いけない、なんて言ったけど、
ごまかさなきゃやっていられない時だって、あるんだから。

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