2014年11月16日(日)

前提の違いを乗り越えられるための条件

テーマ:「前提」論

前提の違いを次々と乗り越えながら、人は考え行動する。
しかし、前提の違いを乗り越えていける人たちは、 大抵、その違いに気づいていない。


例えば、
イルカを殺すのは残酷で、ゴキブリを殺すのは残酷でない。
路上で内臓を食われて死んでいる鳩の姿は残酷に見えるが、
砂漠に転がっている乾いた骨を見ても残酷には感じない。
死そのものが残酷なのではない。
残酷性は、主観的かつ文化的だ。
しかし、人は普段そのことに気づかない。
気づかないからこそ、その前提の違いを乗り越えていけるのだ。
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2014年08月10日(日)

「前提」の役割分担が世界を動かす

テーマ:「前提」論

この世界は常に、自分の色メガネを通して認識されている。


先月、そのことを思い知らされる、ちょっとした事件があった。(→『驚いた。同じ話でも、受け取りかたがこんなに違うとは。』
・・・でも、これは僕の心のなかの問題。
僕以外の誰も、そんな事件があったことは知らない。
だから詳しいことは書かないでおく。
「本当のこと」を言うと、誰かの恨みを買いやすい から。




物事は、一般的になるほど抽象化していく。
抽象化していくにつれて、その前提も確立していく。


・・・もちろん、初めからそのような「前提」が存在していたのではない。
個別具体的なものへの理解を通して、抽象的な概念が生まれ、
やがて、その背後に共通の前提が立ち表れてくるのだ。
その時にはもう、初めに観察した個別具体的なものは「特殊なケース」の一つとして理解している。
こうして色メガネは完成する。


人間にとって、色メガネを通して認識することは避けがたい。
だから、せめて、状況に応じて色メガネをかけ替えられるようでありたい。
根本的に違う捉え方ができるのに、単なる「程度の問題」に帰着させることによって その違いを見過ごしてしまう、
という事態だけは避けたい。




まずは、論理を打ち破れ 。そして前提の渡り鳥になろう。
巷で「まず自分が変わりなさい」 と言われているのも、実は、このことらしい。


この世界を動かしているのは、前提の維持と体系、役割分担 なのだ。
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2012年09月18日(火)

「まず自分が変わりなさい」

テーマ:「前提」論

「他人は自分を映す鏡だ」
と言われる。


自分が変われば相手も変わるし、
相手に対する自分の態度が、そのまま相手から自分に対する態度にもなる。
だから、
「まず自分が変わりなさい」
・・・と。




でも、この種の話は、いつも腑に落ちなかった。
小さい奴だと笑われるのを覚悟で言うけれども、
どうして、自分が先に変わらなければいけないのだろう?・・・と、思う。


もし仮に、
「他人は自分を映す鏡だ」
ということが正しいとしても、
それがこの僕にしか当てはまらない、という道理はない。
この種の話は、書店の新刊コーナーでも時々見かける。
しかし、
それらの本が僕だけのために売られているはずがない。
売られている、ということは、大衆向けの言葉であるはずなのだ。


それならば、
「まず自分が変わりなさい」
と言われるべきなのは、必ずしもこの僕だけとは限らない。
僕から見れば他人であるあの人だって、
(この僕よりも先に)まず自分が変わらなければいけないかもしれないではないか。


だから、
「他人は自分を映す鏡だ」
「まず自分が変わりなさい」
という言葉を真に受けて考えると、
どうして、自分が先に変わらなければいけないのだろう?
・・・と、つい、思ってしまうのだ。




そう、この言葉は、そのまま真に受けてはいけない。
・・・というか、説明の言葉が足りないのだと思う。


そもそも、他人が変わったかどうかなんて、
どうすれば知ることができるのだろう?
もし知ることができたとして、それは確かなことだろうか?
思い過ごしだったり、誤解だったりする可能性は?
・・・そう考えていくと、
他人についての理解も、実は、自分次第なのだということに気づく。


自分の見方や捉え方が変われば、
当然、世界の見え方も変わってくる。
このことを端的に自分の実感として表現すれば、
「自分が変われば世界も変わる」
という言い方になる。
だから、この言い方は確かに言葉が足りないけれども、
決して間違った言い方ではない。


同様に、
「他人は自分を映す鏡だ」
「まず自分が変わりなさい」
という言い方も、決して間違った言い方ではない。




むしろ、下手に説明を尽くしてしまうと、
かえって本質を見失わせることにもなりかねない。


「自分の見方が変われば、世界の見え方も変わってくる」
という言い方をされると、
"見え方によって姿が変わる世界"の背後に、"本当の世界"がある
かのような印象を受けやすい。
しかし、実際のところ、
自分の目に映る世界こそが、自分にとっての世界そのものであり、
それを端的に、"世界"と呼んでいる。
いちいち、わざわざ"自分にとっての世界"とは言わないのが普通だ。


わざわざ"自分にとっての世界"などと言うと、
自分の実感とは違う、"本当の世界"のほうに意識が向いてしまう。
しかし、
「他人は自分を映す鏡だ」
「まず自分が変わりなさい」
という話で伝えたいことは、"本当の世界"を理性的に理解することではなく、
実感としての世界を現実的に変えていくことのほうなのだから、
この言い方のほうが、かえって望ましいのだ。

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2012年08月15日(水)

前提の維持と体系、役割分担

テーマ:「前提」論

「(人の)意識は、相容れない前提を、同時に維持することはできない」


「ある一つの体系は、その体系を維持するための一定の前提を持つ」
「一定の前提から成る一つの体系は、その他の前提を持つことができない」
「ある一つの体系が別の前提を獲得した時は、すなわち体系そのものが変化した時である」




最近、2つの記事
『同じ場面でも言うことが違う』
『集団の中での役割』 を書いた。


簡単に言えば、どちらも
「人は、時と場合によって言うことが変わる」
ということについて述べたものだが、
これを≪前提≫という概念で説明すると、冒頭で述べたようになる。


人は、相容れない別々の前提の上に"同時に立つ"ことができない。
これは、
≪時間≫の枠組みのなかに生きる人間が自然に持つ、人間本来の制約である。
・・・そこで、やむを得ず、
さしあたり特定の前提(と、その上に成り立つ体系)を選んでおき、
その前提の上に立ってものを考え、発言しておく。
やがて、それら一連の思考や発言がひと段落したら、
改めて別の前提の上に立って(つまり別の体系に沿って)考えてみる(そして発言してみる)。
・・・そういうことを繰り返しながら、
人は、この"前提の壁"を乗り越えてきたのではないか。と思う。




情報処理がこれだけ進んだ今でもなお、
先進諸国の裁判では、検事と弁護士が分かれている。
さらに、その両方の意見を元に判断を下す裁判官が置かれている。
「追及」「擁護」「審判」を、別々の独立した処理機関に割り当てているのだ。
一見、非効率のように見えなくもない。


この非効率に見えるやり方をいまだ採り続けているのは、
やはり、先に述べたような人間本来の制約のためだろう。
一人の人間が同時に三役をこなすことは、
人間にとって極めて不自然なのだ。
そもそも、口は一つしかない。
≪時間≫の枠組みの制約もあり、
どれかの発言を優先し、どれかの発言を後回しにせざるを得ないのである。
しかし、発言の内容の質や重みは、
単に順序が違うだけでも大きく違ってきてしまう。
(これも一種の人間の(情報の受け取り方の)特性だと言える。)


そこで、
「(人によって)思考や捉え方の質やレベルが違ってしまう」
というリスクを冒してでも、
わざわざ別の人間に役割を割り当てることによって、処理や発言の公平化を図っているのだ。
裁判制度は、人間の制約や特性をよく踏まえたシステムだと言える。

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2011年02月13日(日)

前提を捕捉する

テーマ:「前提」論

前提は、それ単独で存在するものではない。


前提を捉えることができるのは、
“ある概念が拠って立つもの”として想起された時であり、またその時だけである。
つまり、
ある前提の上に立つ概念の捕捉が、常に、その前提自体の捕捉に先立つ。


まず概念が存在し、
その裏付けや根拠のようなものとして、後から前提が現れてくる。
前提は、その前提の上に立つ概念に付随して存在するのである。




とはいえ、
前提を明確に意識する時には、明らかにそれを“単独で”捉えている。
このことについては、どう考えればよいのだろう。
・・・実は、この時、前提は既に前提でなくなっているのである。


例えば、
今、話しているのが日本語だと気づいた時には、もう、日本語以外の言語の存在にも気づいている。
この時点で既に、「日本語」は前提でなくなっている。


前提は、
明確に捉えられた時点で前提でなくなる、という特徴的な性質を持っている。
前提が単独で存在しないのも、実は、前提のこの性質の働きによっているのである。




ちなみに、「日本語」の例で言えば、
「日本語」の存在に気づいた時、人は「英語」やその他の外国語を意識する。
この時、前提は「言語」である。


一般に、異なる二つの前提(であったもの)を並置、比較できるのは、
その二つを並置、比較できるようなまた別の前提に立った時だけである。
上の例で言えば、
「英語」という前提に立っても、“今、話しているのが日本語だ”と気づくことはないし、
そもそも、直前まで日本語を話していながら次の瞬間に「英語」を前提にものを捉えることができるとは、
通常、考えにくい。


やはり、“今、話しているのが日本語だ”と気づくのは、
「英語」等を意識しながら、「日本語」や「英語」を同じ場に並置、比較できるような前提、
すなわち、「言語」という前提の上に立った時なのである。

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2010年06月14日(月)

“前提”と“保留”

テーマ:「前提」論

議論をしている時も、
一人で考えている時も、
何か行動している時も。
“前提”は、刻一刻と変化してゆく。


刻一刻と変化する前提に乗ったままでは、
「ちょうど今」の前提がどのような前提なのかを捉えることは困難だ。


そこで、ある前提をいったん“保留”しておく必要が出てくる。




刻一刻と変化してゆく前提のうち、ある一瞬の前提をいったん“保留”しておく。
それさえできれば、
あとは落ち着いて、保留した時点の前提を軸に「ちょうど今」の前提を追い続けることも可能になる。


もっとも、時には、
「保留した時点の前提」そのものをもう一度吟味し、捉え直してみたい場合もあるだろう。
しかし、そんな時には、「捉え直してみるための前提」をまた別に設定し直せば良いだけである。




本当は、
あらゆる前提を同時にまな板に乗せ、同時に吟味しなければフェアでない、
・・・と思う。
でも、人間の脳では、それがなかなか難しい。


それができないからこそ、
この人生は奥深く、趣のあるものになっているのではないか、
・・・とも思う。

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2009年04月28日(火)

パンデミックが、日頃の前提を覆す・・・かも

テーマ:「前提」論

豚インフルエンザが、
人から人へ感染する「新型」になった。
この新型インフルエンザが日本に上陸するかどうか、まだわからない。


政府を含め、国民全員がきちんと対応していけば、日本への上陸は防げるだろう。
仮に上陸しても、しっかり対策を練ってあれば、大事には至らないかもしれない。




でも、もし新型インフルエンザの流行が爆発的に広がり、
いわゆるパンデミックが日本全土を覆ったら・・・。
昨日まで、あれほど真剣に悩んでいたことも、
塵みたいな小さな問題になってしまうのだろう。


真剣に悩んでいた、ということも嘘ではない。
また、それが塵みたいな小さな問題になってしまった、ということも嘘ではない。


世界が変われば、思いも変わる。
「変わらぬ思い」は、あると言えばある。ないと言えばない。
考え方も、生き方も、すべては前提次第。




人は、前提から前提へ、日々渡る。
前提の大きな変化に翻弄される時もある。
別々の前提を器用に使い分ける時もある。


前提の渡り鳥、それが人間。・・・というか、僕。

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2009年04月08日(水)

とりあえず言ってみる

テーマ:「前提」論

世の中には、さまざまな前提がある。
人それぞれの前提がある。
多くの前提は、
互いに矛盾していたり、相容れなかったり、両立できないものであったりする。


あらゆる前提を気にしていたら、何も言えなくなってしまう。
・・・きっと、そうやって何も言えずにいる人もいるだろう。
何も言えずにいる自分を、心ひそかに「賢い」と思っているかもしれない。


でも、それは違う。
一つ、どうしても曲げられない前提がある。
「いつかは死ぬ」
「いつかは死んで、前提すらわからなくなる瞬間が来る」
このことだけは、他のどの前提よりも強力な、大前提だ。


・・・正確に言うなら、
これが大前提なのは、僕自身にとってのことであって、
この文章を読む人すべてにとってのことではない。
つまり、
「いつかは死ぬ」と思わない人もいるかもしれないし、
死んだ後、「前提すらわからなくなる」とは思わない人もいるかもしれない。
(死後の世界を信じる人は、後者にあたるだろうし。)


ただ、なんと言えば良いか、
この文章を書いている僕としては、大前提とせざるを得ないくらい強力な前提が、
「いつかは死ぬ」
ということなのだ。
このことに同意できない人にとっては、ここから先の文章を読んでも、たぶん無意味だと思う。
・・・無意味だ、と言っても、
決して、同意できない人の人格を否定しているわけではない。
同意できない人の前提と僕の前提が、かけ離れすぎていて、たぶん、話を共有できないだろう、
ということ。




話を先に進めさせてもらうと、
「いつかは死ぬ」
ということは、とにかく大前提。


そうすると、あらゆる前提を気にして何も言えなくなっていたら、
何も言えないまま、終わってしまうことになる。
それだけは、はっきりしている。
じゃあ、どうすれば良いか。
中途半端でも、言える時に言うしかない。


とりあえず、メインとなる前提の上に乗っかって、言いたいことを言うしかない。
どうしても気になるなら、
いったん言っておいてから、
その後で、別の前提に立ち直って、
自分が言ったことに対して反論なり批判なりすればいい。
「一度にすべての前提と可能性に触れつつ、何かを言う」
なんてこと自体が、そもそも不可能なんだ。
「いつかは死ぬ」限り。




もちろん、(ここで僕は、別の前提に立ち直って話そうとしています)
何でもかんでも言うのが良い、というわけではないかもしれない。
「一度には言えないから、とりあえずメインの前提に乗っかって言ってみる」
というのは方法の一つであって、
「一度には言えないから、一度に表現できる別のやり方を探してみる」
というのもアリだと思う。


表現方法も、伝え方も、いろいろあるからね。
僕は、(良くも悪くも)言葉が性に合っているから、基本的に言いたがりなんだけど。
だから、
この文章は、言いたがりでない人にとっても無意味なのかもしれない。

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2008年03月12日(水)

劇的な変化

テーマ:「前提」論

仏教とキリスト教では、そもそも前提が違う。
仏教を仏教としてわかるためには、
まず、「仏教における前提」を自分の前提としなければいけないし、
キリスト教をキリスト教としてわかるためには、
まず、「キリスト教における前提」を自分の前提としなければいけない。


宗教学は、
「仏教における前提」と「キリスト教における前提」
を並置して見比べる。
しかし、見比べているということは、
見比べているものそれ自体を自分の前提としているわけではない、ということでもある。
宗教学は、
「仏教もキリスト教も、ともに宗教の一つである」
という枠組みのもとで(その枠組みをいわば前提として)、
仏教やキリスト教について研究しているのだ。




僕自身、自分が何を指して「前提」と呼んでいるのか、
きちんと把握できていない気がする。
そのことを承知の上であえて強引に話を進めるのだけれども、
僕は、「前提」の変化は不可逆的だ、と思う。


たとえば、あるキリスト教徒が仏教に帰依した場合、
その人自身の前提は、
「キリスト教における前提」から「仏教における前提」に変わってしまったのであって、
この変化は、いつでもまた元の状態に戻ることができる、という類のものではないだろう。
(ただし、この場合の「帰依」は、単に形式上あるいは制度上の「帰依」ではないものとする。)


また、ある宗教学者が仏教に帰依した場合、
その人自身は、もはや、
「仏教における前提」と「キリスト教における前提」を並置して見比べることはないはずだ。
仮に見比べたとしても、
それは、「仏教における前提」を軸としつつ両者を見比べているだけに過ぎないだろう。


「前提」が変化する、ということは、
それほど劇的、かつ、本人ですら気付かないほど根本的なことなのだと思う。

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2007年11月21日(水)

「前提」の押し付け

テーマ:「前提」論

政治家も人間。
医者も人間。
教師も人間。
泥棒も人間。


そういう生き方をするようになるまでには、
本人も意図していなかった数々のいきさつがあっただろう。
生きるために、仕方なくやっている仕事かもしれない。




僕は、政治家になったことがない。
医者になったことも、
教師になったことも、
泥棒になったことも、ない。


それなのに、
「政治家なら当然○○しなければならない」
「医者のくせに○○するとは許せない」
「○○する奴は教師になる資格がない」
「泥棒のくせに○○するとは意外だ」
と思ってしまう自分がいる。


結局のところ、こうした思いは、
自分の「前提」を一方的に相手に押し付けているだけであって、
相手本人を直視したものではないのだ。




しかし、常識からそれほど外れない思いであれば、
大抵の場合、世間に受け入れられる。
そのせいで、
自分が「前提」を押し付けてしまっているとは気付けないことが、実際には多い。

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