2011年08月14日(日)

デジタルなのは、機械よりも人間のほう

テーマ:道具(コンピュータ)

知ってる?


自然界よりも人間のほうが、デジタルに生きてるってこと。
・・・あ、それは知ってるか。
そう。人工の物は、天然の物に比べると、どれもデジタルに作られている。


デジタルな社会、デジタルな環境の中で、生きる。
それが人間。
これは、大きな特徴だ。
人間という生き物は、基本的に、デジタルに生きることを好む。
人類の文明も、人間のこの性質が築いたものだ。




じゃあ、これは知ってる?


機械やコンピュータよりも人間のほうが、デジタルな在りかたをしてるってこと。
・・・これは、ちょっと驚いたでしょう。


機械やコンピュータのほうが、融通が利かないし、
デジタルな動きをしているように思えるよね。
そもそも、機械やコンピュータなんて、
デジタルに作られた人工の物の代表みたいなものだ。


でも、そうじゃない。
機械やコンピュータだって、人間が思うほどデジタルに動いてるわけじゃないよ。
ある日、急に壊れたり、動きが悪い時と良い時があったりする。
特に気温には大きく影響される。
そもそも、
機械もコンピュータも、部品はどれも自然界にあるものから作られている。
アナログな自然界で生まれたものは、やっぱりアナログであって、デジタルじゃないんだ。


じゃあ、どうして人間には、それがデジタルに見えるのだろう?
・・・それは、「人間がそれをデジタルに捉えているから」だ。




人間が、世界をデジタルに捉えている例なら、いくらでもある。
というより、むしろ、
デジタルに捉えていない例を探すほうが難しいくらいだ。


まず、時間の捉え方。
日数という概念は、完全にデジタルな捉え方だ。
太陽が昇って沈んで、また昇るまでの期間を「1日」と捉えているけど、
その長さは、季節によって少しずつ違う。
空の明るさも徐々に変わっていくわけだし、
いつ太陽が昇るのかも、山岳地帯か平原地帯かによって違ってくる。
それでも、そういうアナログな違いを無視して、
「太陽が昇る」ことと「太陽が沈む」ことをデジタルに割り切って捉えた結果、
クリアに認識できるようになったのが「1日」という概念だ。




空間の捉え方も、人間の場合、極めてデジタルだ。
簡単なマンガが描ける人なら誰でも、世界を少なからずデジタルに捉えている。


もともと自然界には「境界線」なんてない。
すべてのものが境目なく繋がりあっているのが自然界だ。
繋がりの強いものどうしは、空間的に常に隣り合っているけれども、
繋がりの弱いものどうしは、すぐに離れてしまう。
・・・それだけのことなのに、
人間は、繋がりの強いものや、見え方が似ているものをまとめて「一つのもの」として捉えて、
その周りに「境界線」を思い描いている。
だからこそ、地面や空を描かなくても、人間や樹だけのマンガを描くことができる。




デジタルに捉えたものに対して、人類は名前をつけてきた。
そうして使われるようになったのが、「言葉」だ。
言葉で捉えられ、言葉で表現されたものは、
どれも“デジタルに変換された概念”だ。


アナログな世界をデジタルに変換して捉えているのは、
機械やコンピュータではなく、
機械やコンピュータを利用し、それらを通して世界を認識している人間のほう。


そこを勘違いしている人が、ちょっと多い気がする。

AD
いいね!した人  |  コメント(7)  |  リブログ(0)
2009年12月18日(金)

ITと法律

テーマ:道具(コンピュータ)

ITも、法律も、もともと論理的に構成されているものであって、
相性は良いはずである。
特に、法的な理念や手続きの多くは、
IT化することで、現実社会の個々の場面において具現化できる。


かつては、法律関係者が直接関わらない限り、
法的な理念や手続きが現実社会のなかで明確に具現化されることは、なかなか難しかった。
なぜなら、
法の目の行き届かない場所では、法よりも慣習が現実社会を支配していたからだ。


慣習がいけないのではない。
現実社会においては、法も大切だが、慣習の役割も重要である。
人間同士で決めた、たかだか有限の言葉から成る法律だけでは、
現実社会の隅々まで円滑にまとめあげることはできない。


とはいえ、慣習が支配する社会の中で、法が“有名無実”化して良いわけではない。
法は、現実社会のすべてを網羅できないだけであって、
現実社会の中において法に違反することが許されているわけではない。
そこで、
現実社会の中にいる人々は、生きる上で、
法と慣習の区別をある程度認識し、把握しておく必要がある。


そのためのツールとして有用なのが、
(法律と同じく)もともと論理的に構成されている、IT技術である。
法的な手続きをすべてITシステムに落とし込んでおけば、
現実社会における日常の法的処理をすべてIT処理に置き換えることができ、
法的なルールを、慣習的なルールと明確に区別することができる。


ただし問題は、ITにも法律にも疎い人が、いまだ少なくないことである。
そういう人々が実際に現実社会の中に多くいる以上、
その人たちの日常にそぐわないシステムをその人たちに強要することは、
根本的に、法の理念に反している。


そこで現状では、実際の法的機関は、
法的処理を、IT処理“にも”置き換えられるよう環境整備を進めている、
・・・というスタンスを取っている(ように見受けられる)。
具体的には、IT化を進めつつ、従来の窓口対応も平行して継続している。
取り組み方としては、至極、妥当だと思う。


あと数十年もしないうちに、誰もがITに慣れ親しんでいるような時代になる。
その頃には、法的な手続きをすべてITシステムに落とし込んでおき、
法的処理をすべてIT処理に置き換えれば良いと思う。


もちろん、そうなったとしても、法的処理が全自動化されるわけではない。
ITシステムも、極めて重要な根幹部分については人間が直接監視、運用しているし、
そうされるべきものでもある。
法的処理においても、
裁判についてはすべての手続きを人間が直接監視、運用しているので、
そういう面でも、ITと法律は似通っていると思う。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2009年04月27日(月)

コンピュータは偉くないし、コンピュータを扱える人も偉くない

テーマ:道具(コンピュータ)

僕は、会社でIT関係の運営をまかされている。


ITに慣れ親しんだ世代だし、
大学でITを専攻していた、という“肩書き”もあって、
会社では、ITに関しては「先生」みたいな扱いをされている。


もちろん、僕を「先生」扱いする人の中にも、
「ITに多少詳しくたって、全然すごくない」
と、ちゃんとわかっている人もいると思う。
わかっていながら、・・・しかし時代はIT化の世の中だから、
冗談交じりに、若い僕を「先生」呼ばわりしているのかもしれない。
それならいい。
問題は、そうじゃない人もいる、ってことだ。
僕がパソコンをいろいろ動かしているのを見て、純粋に「すごい」と思ってしまうような、
ITに対してコンプレックスの強い人。


経験に裏打ちされた、仕事のイロハとか、長年の勘とか、
そういうもののほうが生きていく上で遥かに重要なのに、
たまたま、IT技術が急成長して社会の隅々にまで広がった、というだけで、
それに「慣れていない」というだけで感じなければならない劣等感。
・・・って、いったい何なのだろう、と思う。


だから、僕は、口を酸っぱくして、いつも言う。
「優れた道具というのは、ノミやカンナのような、単純に使えるもののことだ」
「単純な代わりに、使う人の技量が求められるような道具こそが、優れた道具なのだ」
「説明書も分厚く、融通の聞かないパソコンは、決して優れた道具ではない」
「ただ、ビジネスと結びついて、社会の隅々にまで広がったから偉そうにしているだけなのだ」
と。
確かに、計算は、ずば抜けて速い。そして正確だ。
しかし、計算では扱いきれない仕事が、世の中にはゴマンとある。
コンピュータが得意な仕事だけをコンピュータにさせるのが正しい。
何でもかんでもIT化が偉い、なんて絶対におかしい。




そう思うし、そう言っている。
けれども、「たかが多少パソコンが使える程度で」境遇が良くなることに、
僕が甘んじているのも確か。


そんな自分を、
「都合の良い奴だ」
「調子の良い奴だ」
と指差す声が、今、僕の頭の中に響いている。


僕は、明日もIT関係の「先生」をやるために、会社に足を運ぶ。
もちろん仕事はそれだけじゃないけど。
言い訳。

AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2006年08月05日(土)

21世紀のルネサンス

テーマ:道具(コンピュータ)

文明が人々の生活を支えるようになり、
古来の文化や伝承が顧みられなくなった頃、
その反動として、ルネサンスは起こった。


「原点に返ろう」

「先人の知恵を学び直そう」


そして、
古来より伝わる精神の高みと、新しい文明の持つ力とが融合され、
レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるような、
「人間らしさ」を追求する大きな流れが生まれた。




今、情報技術の発達により、
世界中の多くの国で、人間の営みがコンピュータで管理されるようになりつつある。
コンピュータは、非常に役に立つ。
けれども、コンピュータ社会と照らし合わせる中で鮮明に浮かび上がってくる、本来の「人間らしさ」があるに違いない。


この有用な道具「コンピュータ」を足掛かりに、「人間とは何か」を改めて問い直す。
その大きな流れが、
21世紀の新たなルネサンスとなっていくような気がする。

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2006年01月09日(月)

道具の役割

テーマ:道具(コンピュータ)

人間は、道具に合わせて、自分の動きを洗練させていく。
人間の動きは、道具を使うことによって培われる。
だから、洗練された動きが身につく道具ほど、すぐれた道具だと言える。


大工が木を削る時に使う、かんな。
刀鍛冶が鉄を打つ時に使う、ハンマー。
これらは、大変すぐれた道具である。
なぜなら、一流の大工や刀鍛冶の身のこなしは、大変美しく、洗練されたものであるから。



道具は、何らかの目的を果たすために使われる。
・・・普通は誰もが、そう思う。
しかし、道具には、
「人間の動きを養う」
という、別の大切な役目がある。


目的を果たすだけで良いのなら、
その目的を果たすことのできる道具であれば、どんな道具を使っても構わないことになる。
手作業である必要もない。
しかし、目的ばかりを追い求め、すぐれた道具を使わなくなれば、
人間の動きが養われる機会そのものが減ってきてしまう。


「近頃の若者は、身のこなしがなってない」
という話をたまに聞くが、
それも、このことと無関係ではないだろう。




目的だけを追い続けるような人生は、むなしい。
どんなに目的を追い続けても、その先に待っているのは絶対的な喪失、すなわち死。
あらゆる目的は、最期に跡形もなく消え去る運命にある。


生きる上で本当に大切なのは、目的よりも過程なのだ。
過程とは、目的に到達するまでの動きのこと。
だから、もっと「動き」を大切に育てていかなければいけない。


行動する時は、目的よりも道筋を。
思考する時は、結論よりも過程を。
そのためにも、すぐれた道具を。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005年11月17日(木)

情報化の弊害

テーマ:道具(コンピュータ)

社会の情報化(コンピュータ化)によって生じた弊害。
・・・いろいろあるだろうけれども、その一つとして、
「未知のことをそのまま未知として感じ取るのが難しくなった」ということが挙げられるように思う。


人間には、もともと、未知のことを未知として感じ取る能力がある。
言い換えれば、わからないことをわからないと思う能力である。
「当たり前だ、そんなものは能力でも何でもない」
と言う人があるかもしれないが、
その当たり前の能力が、いま、社会の情報化によって失われつつあるのだ。


「インターネットで調べれば、大抵のことはわかる」・・・そういう錯覚に陥りやすい社会になった。
当然のことながらインターネットで調べられることは、大切なことのほんの一部に過ぎない。
しかし、情報がこうも氾濫してくると、その当然の感覚すらも麻痺してくる。
人間の心は柔軟にできているし、それほどタフではない。
大量の情報が毎日のように押し寄せ、それに対応しなければ取り残されていくような世の中にあっては、
「インターネットで調べられることは大切なことのほんの一部だ、と常に思え」と言うほうが無茶というものだろう。


情報化されたものは、すべて、はっきりと示される。
情報化されたものは、過不足なく共有できる。
あらゆる公共サービスが、いま、IT化の一途をたどっている。
社会システム全体が、情報という枠組みで処理されるようになりつつある。
こうして情報化された世界に依存した生活が長く続いていると、人間は、物事のすべてが既知であるかのような錯覚に陥りかねない。
なぜなら、
情報化された世界で必要なものは、情報化された世界の中ですべて手に入ってしまうため、
自己完結していて、その結果、未知との遭遇が一切なくなってしまうからだ。


現に、いま、
「明日、何が起こるかわからない」
と言う人はいるかもしれないが、
心の底から本気でそう感じている人は、実際、あまりいないだろう。
それは、世の中の多くのことが、整然と管理されるようになってしまったからではないだろうか。


情報化(コンピュータ化)を進めることは、やがて、
「得体の知れない未知のものごと」を人間の意識の外に追いやることにつながっていく。
このことを軽視したまま社会の情報化をさらに推し進め、従来の人間らしさが極端に失われてしまったあとになってから慌ててみても、
取り返しがつかなくなってからでは、もう遅い。


コンピュータは、確かに便利であり、生活水準を向上させるうえで大変有用な道具ではある。
しかし、だからこそ、急速に普及してきたこの道具が人間にとって重大な弊害をもたらしかねないことについては、よく警戒しておかなければならない。
どんなに警戒しても、しすぎるということはないはずだ。
あいにく現状では、メリットばかりが取り沙汰されていて、情報化(コンピュータ化)に対する警戒心はその陰に覆い隠されてしまっている。


この記事に点数をつける
いいね!した人  |  コメント(3)  |  リブログ(0)
2005年07月04日(月)

調子

テーマ:道具(コンピュータ)

人間には、調子の良い時もあれば、悪い時もある。
なまじ心を持っていて、なまじ自分の意志を持っているばかりに、
調子の良い状態を保ち続けることは、なかなか難しい。
少なくとも、心の弱い人間にとっては。


道具にも、調子の良い時と悪い時はあるものの、
心が塞ぎ込んだり、気が滅入ったりすることはない。
放っておいても、そのままで存在し続けていてくれて、
放っておいても、必要な時が来れば、すぐに役に立ってくれる。
(もっとも、放っておくと性能は落ちてしまうかもしれないが)




人間が、道具に込めるもの。
それは、人間の調子が良い時の、その前向きな意志だ。


調子の良い時にのみ発揮できる、大きな力がある。
人間は、全身全霊を込めて、その力で道具を完成させる。
道具を完成させた後、その人間は疲れ果ててしまうかもしれない。
ひょっとしたら、二度と、そのような力を発揮することができなくなるかもしれない。
でも、全身全霊が込めて作られた道具は、その後もなお、残り続ける。



人間が常に調子の良い状態を保とうとしても、限界がある。
自分を磨くことも大切かもしれないが、
超人になることができるのは、ごく一部の人たちだけだ。
それよりも、調子の悪い状態に備えて、自分だけの、自分のための道具を作っておいたほうがいい。
自分の心が塞ぎ、気が滅入っている時に、自分を助けてくれるような道具。




僕にとって、このブログや自分のサイト『ダムの決壊』は、そういう道具の一つ。かもしれません。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2005年06月17日(金)

人間と道具

テーマ:道具(コンピュータ)

道具を使うことができるのは、ごく稀な例外を除けば、この地球上では人間だけだ。
そして、そのごく稀な例外のものも、人間が使うものほど複雑な道具は使えない。
使えるとしても、せいぜい、二つに割った石ころや、葉っぱを取り除いた木の枝程度のものでしかない。


人間は、数多くの道具を生み出してきたが、
道具の発展は、逆に、人間の身体的感覚の届く範囲を広げてきた。
例えば、
鉛筆という道具は、使い慣れると、手と一体になってくる。つまり、人間の体の一部になってくる。
これをもう少し詳しく説明すると・・・
鉛筆を使う時、意識は(慣れてくると)、鉛筆を持つ手そのものには向かわずに、鉛筆の先に向かうようになる。(鉛筆の持ち方なんて、慣れてしまえば、もう意識する必要がないくらい当然のことだから。)
そもそも、自分の手や足を動かす時、手や足を動かすための筋肉そのものを意識することなんて、滅多にない。それと同じように、鉛筆を使う時も、慣れてくると、鉛筆を持つ手そのものを意識することはなくなってくるのだ。
・・・このように、道具は、使い慣れると、自分の体の一部になってくる。
まるで、自分の体の一部であるかのように感覚的に使えるもの。
それが道具なのだ。


人間は、道具を感覚的に使いこなす。
また、使いこなせる道具を増やすことによって、身体的感覚の届く範囲を広げていく。
(その意味で、「人間は道具を芸術的に使っている」と言えるように思う。)
しかし、現代においては、道具は感覚的にではなく、合理的に生み出される場合が多い。
(その意味で、「(現代の)人間は道具を科学的に作っている」と言えるように思う。)
そして、そのようにして生み出された道具は、感覚的に用いることが困難であることも少なくない。


もちろん、道具を、使用目的に沿うよう合理的に生み出すこと自体は間違いではない。
古くからある優れた道具(紙や刃物など)は、どれも、大変合理的に出来ている。
ただし、合理的に出来ているだけでは優れた道具とは言えない。
優れた道具であるためには、それが「いかに感覚的に自由に使いこなせるものであるか」が大切だ。
大学で理工学部に所属している人間の一人として、このことを、深く肝に銘じておこうと思う。



そういうわけで、最近のコンピュータ化社会には、ひどく反感を覚えています。
コンピュータという道具がそもそも人間の感覚に合わないものなのか、
それとも、単に人間の感覚がまだそれに追いついていないだけなのか、僕にはわかりません。
でも、いずれにしても、現状では人間の身体的感覚とのギャップの大きいこの道具が、

これほど浸透し、優れた道具だと喜ばれている今の現代(都市)社会は、間違っていると思います。


道具を作る過程は科学的でも構いません。
でも、道具を使う過程は科学的ではおかしいのです。
達人の杵つきや、かんながけのように、芸術的であるべきです。(もし、それが、「優れた道具」と呼ばれるものであるのなら。)
・・・コンピュータって、本当に、「優れた道具」ですか?




この記事は、fellowさんのブログの記事『似て非なるモノ』 を参考に書いたものです。

いいね!した人  |  コメント(7)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。