2014年04月06日(日)

豊かさの指標

テーマ:論理と心理/頭と身体

本音が言えることは、豊かさの指標になる。
ここで問題にしているのは、
「実際に本音を言うかどうか」ではなく、
「本音が言えるかどうか」ということである。
つまり、その自由度の高さが問題なのだ。


おそらく、これは「本音」に限った話ではない。
「食べたいものを食べられるかどうか」
「嫌なことを拒否できるかどうか」
といったことも、同じように豊かさの指標になると思う。
総じて、
自由度の高さが、豊かさの指標になる
といえるのではないかと思う。




・・・いや、たぶん、本当に豊かな人たちは、
「自由度の高さが、豊かさの指標になる」なんてことも考えない。
きっと、彼らは
「何をもって豊かと呼ぶか」ということも自由に選ぶことができる。
あるいは、
「一つのことに縛られる不自由」を自ら選んでいるかもしれないし、
「何も選ばない」自由もあるのかもしれない。


そもそも、豊かさの指標について云々していること自体が、
まだ、それほど豊かでないことの証左かもしれない。
本音が言えることは、豊かさの指標になる かもしれないが、
豊かさの指標を知っている人が必ずしも豊かであるわけではないし、
豊かさの指標を知ることで豊かになれる、とも限らない。
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同じテーマ 「論理と心理/頭と身体」 の記事
2013年08月18日(日)

信じる基準

テーマ:論理と心理/頭と身体

何を信じるか。
何を現実だと思うか。
その基準は、いったいどこにあるのだろう。


科学的な説明か。
宗教的な直観か。
いずれにしても、ただそれだけでは基準になりえない。




現実と「身体的連続性」とは決して切り離せない。
人間は、身体的連続性が感じられるものを信じ、そうでないものを信じない。
そうすることによって、人間は、まず最初の基準を持つことができるのだ。


人間が自ら生きるためには、生きる上での基準が必要である。
それも、「その基準が正しいか否か」以前に、まず何らかの基準を持たなければならない。
なぜなら、
「その基準が正しいか否か」を判定する場合でも、その判定基準が要るからである。


人間にとって最初の基準は、身体的連続性の中をおいて他にない。


人間が人間でなくなるのも、身体的連続性を信じられなくなった時ではないかと思う。

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2011年12月12日(月)

思い通り

テーマ:論理と心理/頭と身体

先日、『予定調和じゃない』 という記事を書いた。


そう、予定調和じゃない。
だから思うように行かないのが当たり前。
思い通りにならないのが普通。
思った通りに事が運んだら、むしろ変なんだ。


・・・だけど、これは事実の話。
いま言ったことは、
この世界がどうなっているか、ということの解説でしかなく、
「思い通りになんかならない」と思え、という話では断じてない。
この違いは、極めて重要。




思い通りに行かない世界で、
なんとか思い通りに進めようとする。駄目でも、またやってみる。
それが人生。それが哀しくて、それが素晴らしい。


「どうせ思い通りになんかならない」
なんて、決して思っちゃいけない。
思い通りにならないことばかりじゃないし、
努力も決して無駄にはならない。
(たとえ、当初の期待通りの結果には繋がらなくても。)


だけど、
この世界が、思い通りにならない世界だ、
という事実は知っておいたほうが良い。




この世界から「挑戦」が尽きない理由を知ってるか。


思い通りになる世界なら、
いつか「挑戦」はすべて達成され尽くしてしまう。
しかし、思い通りに事を運ぼうとする意欲がなければ、
そもそも「挑戦」は生まれなかっただろう。


思い通りにならない世界で、思い通りに事を運ぼうとするからこそ、
「挑戦」に満ちた、この生きた世界がある。
万能ではない、しかし不毛でもない、
この世界はもがきながら、今も進み続けている。

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2011年04月22日(金)

「期待」と「期待値」

テーマ:論理と心理/頭と身体

「期待」は、人生を計る基準である。




身の丈に合わない「期待」は、残酷だ。
周囲からの期待が大きすぎれば、操り人形になってしまうし、
小さすぎれば、世界から切り離されてしまう。


「期待されたい」
と思うのは、周囲から要求される基準の低さに不満があるからだし、
「期待されたくない」
と思うのは、周囲から要求される基準の高さに疲れきっているからだ。


また、周囲に対する的外れな「期待」も、不幸の素となりやすい。
周囲への期待が大きすぎても、小さすぎても、
人間関係をうまく築くことができなくなってしまう。




「期待」することや、「期待」されることは、
ひょっとすると、
あからさまに強制したり結論を出したりすることよりも、
人生を芯まで破壊する、恐ろしい怪力を秘めているのではないか、
という気がしている。


ちなみに、数学では、
(サイコロを振るなどの)ある事柄を、無限に繰り返したと想定した場合の“結果の平均”を
「期待値」という。
(1~6までの一般的なサイコロの場合、期待値は 3.5 となる。)


気持ちの上での「期待」が、実際の「期待値」とほぼ同じなら、
過剰な期待も、過小な期待も起こらない。
でも、現実に飛び交っている「期待」の多くは、実際の「期待値」とかけはなれているものだから、
多くの人が、それによって間接的に苦しめられている。

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2011年03月28日(月)

安全と危険

テーマ:論理と心理/頭と身体

何事も、
「これは安全」
「これは危険」
と、二極分化しているわけではない。


完全の度合いと、危険の度合いを比較して、
どちらの度合いがより強いか、
また、より可能性が高いかを判断する。
それが、
「安全か危険か」
の基本的な判断方法だ。




そもそも、
「絶対に安全なもの」
なんて存在し得ない、と思っておいたほうがいい。


原発の事故は、確かに危険度が大きい。
しかし、この事故が起きるまで、
日常生活において、放射線に曝される危険が皆無だったわけではない。
普段、放射線は宇宙から降り注いでいるし、
レントゲン検査を受ければ、微量ながらも被曝する。


本当に健康を気にするなら、
「原発事故」の影響だけを考えるのは、おかしい。
もちろん、まだ状況がわからない中では最重要事項ではあるかもしれないけれども、
“この問題だけ”を「100」か「0」かで判断しようとするのは、
明らかに過剰反応だ。




とは言え、
僕自身、少なからず過剰反応している。


過剰反応してしまうのは、
経験や知識の乏しさ、生きる上での自信の無さの表れだろう。
よく反省したい。




何事も、「100」か「0」かで判断できるほど単純ではない。


しかしながら、そのように単純化することによって、
ようやく多くの物事を捉えることができるようになる、
・・・という一面も、確かにあるのだけれども。

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2010年08月21日(土)

「悪気はなかった」は言い訳にならない

テーマ:論理と心理/頭と身体

『「悪気がないこと」、「悪いこと」』 という記事を前に書いた。
そこでも書いたことだが、
悪気がないことと、悪くないことは違う。
みんな、もっとこの現実を直視したほうがいい。


悪気がなくたって、結果的に悪い場合は山ほどある。
そういう時、自分は悪くないのかと言えば、そうではない。
自分が悪いのだ。
少なくとも外部から見れば。




「悪気はなかった」
という甘っちょろい言い訳で、
自分は悪くなかったことにしようとする人が多いことに吐き気がする。
生きる、って、そんなに生易しいものではないでしょう?


身近な例で言えば、
電車が遅れたからって、それは相手の知ったことじゃない。
遅れたのは自分だ。
もし、余裕を持って向かっていれば、
たとえ電車が遅れても自分は遅れずに済んだかもしれない。
そうしなかった自分に多少なりとも非があるんじゃないかと思う。


もちろん、
電車が想定外の大幅な遅れ方をする時だってある。
しかし、そういう時でさえ、単純に「自分は悪くない」わけではないと思う。
基本的には自分が悪い。
ただ、想定外の事態であることに免じて相手に許してもらえるだけだ。
そこを履き違えちゃいけない。
遅れたのは自分なんだから。




つまり、自分が悪いことなんて、山ほどあるんだよ。
全然自分は悪くない生き方なんて、できっこない。
だからこそ、みんなで許し合って生きてるんだ。
感謝の気持ちもそこから自然に湧いてくる。


許し合いながら生きてるのであって、
初めから悪くないわけじゃないんだよ。
そこを履き違えている無責任な人が多い気がする。


「自分は悪くない」と思っていると、
かえって感謝の気持ちもなくなって心が現実離れしていく。
自分が悪い、ということを認めるのはつらいけど、
それが現実なんだから直視しようよ。
人生は永遠じゃない。
限られた時間を、許し合いながら力を合わせて生きていく。
・・・それが、自然なあり方なんだと思う。




自戒の気持ちを込めて。

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2010年07月27日(火)

地球-人間-癌

テーマ:論理と心理/頭と身体

人間は、地球にとっての癌のようなものだと思う。
増え方といい、全体のバランスを崩すほどの個体の主張の強さといい、
両者はよく似ている。


しかし、かく言う僕自身も人間だ。
自分は死にたくない。
癌は、「癌は滅びればいい」とは思わないだろうが、
僕も、「人類は滅びればいい」とは思わない。


ロジックと感情は、そもそも別物だ。

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2010年06月19日(土)

価値の数値化

テーマ:論理と心理/頭と身体

価値は心理に宿る。


すなわち価値の表出は、
論理の中からではなく、心理の中から起こっている。




価値は、数値化されることが多い。
数値化された価値として代表的なのが、「金額」や「価格」だ。
高価な宝石のほうが、安価な宝石よりも価値も大きい、・・・といった具合。


ところで、そもそも論理的な事柄を表すのによく使われるのが、数値による表現である。
長さや大きさ、時間など、客観的に計測できる対象を数値で表現し、
各々の数値を比較することによって、
私達は、もとの対象の大小関係や前後関係などを理解している。
そのこともあり、価値(観)もいったん数値化されてしまうと、
“論理的に捉えられるもの”であるかのような錯覚を抱きやすい。


しかし明らかに、
価値の数値化は、論理の数値化ではなく、心理の数値化である。
つまり、すべては“心理をどのような基準で測り取るか”にかかってくる。


「金額」や「価格」についても例外ではない。
その数値を設定する人や集団の心理状態によって当然に変わるのが、「金額」や「価格」である。
つまり、「金額」や「価格」は、
決して論理的・客観的に決まるものではなく、心理的・主観的に決められているものなのだ。

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2010年02月02日(火)

言いたくても言えない

テーマ:論理と心理/頭と身体

「言わない」ということを自ら選んだわけじゃなく、
例えば骨折した人が歩きたくても歩けないように、言いたくても言えない時がある。


「言わないのだから自己責任だ」と責められても、
例えば骨折した人が歩けずにじっとしているように、何も言えずに黙っている時がある。
また別の時には、
例えば骨折した人がそのまま無理に歩こうとするように、本心とかけ離れた言葉を吐いてしまう。




骨折と違うのは、その状態が“目に見えない”こと。
小さな骨のヒビでさえ、レントゲン写真を見ればひと目でわかるのに、
“言えない”心理状態とその苦しみは、相当大きくならない限り、当人ですら自覚できないことが多い。


さらに厄介なことに、骨折と違って、心理状態については簡単に嘘がつける。
骨折なら調べれば一目瞭然だから、嘘で「骨折した」とはなかなか言いにくい。
でも心理状態については、
殺人犯の精神鑑定でさえ結果が分かれることもあるくらいだから、
嘘かどうかを見分けることは非常に難しいのが現実。



・・・だからといって、もちろん、すべてが嘘だというわけじゃない。
でも、嘘かもしれない。
本人だって、けっこう自分を疑っている。
「自分は自分をごまかしているんじゃないか」って。


「言わないのだから自己責任だ」
というのは、ある一定の社会的ルールの上では、すごく“正しい”し、公平な判断だと思う。
でも、それは、
“すべての人が思ったことを言える”ことを前提として成り立つ判断なんだ。
その前提が崩れた途端、
「言わないのだから自己責任だ」という判断は、極めて不公平なものになる。




見分けることはもとより、自覚することすら難しい。
けれども、
言いたくても言えない時だって、確かにあるんだ。
僕は、そう思っている。

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2009年11月09日(月)

『問いと答え』を読んで

テーマ:論理と心理/頭と身体

『問いと答え』 という記事を、自分なりに書き直してみる。
(勝手に引用してごめんなさい。)




違和感を抱えてモヤモヤしていると、
思いもよらない方向から、その違和感に対する解答が与えられる(ことが多い)。


自分の抱えている違和感を知るはずもない人から、その解答にあたる話をたまたま聞かされたり、
偶然、関連する内容のTV番組を見かけたり、
空いた時間に立ち寄った書店で、ぴったりなタイトルの新書が目に飛び込んできたり。


逆に、
「自力で解決しよう」と悶々としている時に限って、その方向からの解決はまず与えられない。
なぜかわからないが、思いもよらない所で、問いと答えが自然に繋がる。
その繋がりの連鎖が、自分の世界観を形作っていく。
そういうものだと思う。
・・・というか、僕の場合は、そうだった。




今の僕の世界観は、決して自力で獲得したものじゃない。
僕の世界観のほとんどは刷り込まれたものだ。


「刷り込み」といっても、学習のそれとは違う。
学習は、言わば「慣れ」の産物だ。
周囲の環境の中に、徐々に自分を溶け込ませていき、
そこに自分を当てはめ、そこで自分を慣らすことによって、その環境における学習が進んでいく。


・・・こうした学習も、ある種の「刷り込み」ではある。
けれども、
僕が言いたい「刷り込み」は、そういうことじゃない。


徐々に自分に刷り込むのではなくて、一気に刷り込まれる。一気に刻み込まれる。
世界観が組みあがっていく過程は、連続ではない。断続だ。




もっとも世の中は、ありとあらゆる情報で溢れかえっている。
その中で、どうして特定の新書のタイトルだけが目に飛び込んでくるのか、僕にはよくわからない。


「宇宙や世界が僕に働きかけてくれるのだ」
と言ってみることもできるが、
宇宙や世界が人間と同じような意志を持っているとは、僕には考えにくい。
たぶん、その時の自分に必要な答えを無意識のうちにピックアップしていくようなセンサーが、
僕のからだ全体で働いているのだと思う。
そのセンサーが、特定のものだけを浮かび上がらせながら、僕に見せている。


見せられたものを信じて受け取るかどうかは、僕の気持ち次第。
「ただの気まぐれだ」と思って意に介さず、見送ることもできるし、
ピンと来た直観を信じて、未知の領域に踏み込んでみることもできる。




ところで僕は、
どちらかというと、未知の領域に踏み込むことはあまりしないほうだ。
「若いうちは、もっと冒険しなさい」
ともよく言われてきた。
言われながらも、あえて冒険しようという気持ちにはなれなかった。


かといって、意に介さず見送ってきたわけでもない。
むしろ、どちらかと言えば、何でも気にするほうだった。


僕が選んだ道は、
例えば、「僕の気持ち次第でどちらの選択もできるのだ」といったことを見つめ抜いて、
それをこうして言葉にして伝えることだった。
僕に、こういうことを言葉で直接的に教えてくれた人は、ほとんどいなかった。
皆、どれかの道を既に選択してしまった上で、その道の延長にある話しかしてくれなかった。


違う道を選んだ人同士の、噛み合わない口論もたくさん見てきた。
そのたびに、
「この話がどうして噛み合わないか」
を考えずには、いられなかった。




もちろん、僕自身も、何の道も選んでないわけじゃない。
僕も、自分が選んだ道の延長にある話しか出来ていないはずだし、
現にそういう方向で(今もこうして)言葉を発しているのだと思う。
ただ、「きっと僕も既に道を選択してしまっているのだろう」ということを言わずにいられない。
そこに触れないわけにはいかない。


だから、『問いと答え』 という記事に共感しつつも、
僕なりに書き直してみると、こんな感じになります。


・・・他人の記事を「書き直す」って、普通に考えればかなり失礼なことですよね。
ごめんなさい。
ただ、僕としては、とても大事なことを書かれていると感じたので、
自分の視点からも述べてみたいと考えた次第です。

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