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2016年09月01日(木)

”常識的、一般的ってなんだろう?ってお話”

テーマ:言葉/コミュニケーション

「常識的」とか「一般的」は、

「みんな」とか「ふつう」とも似ている気がします。

よく使われる言葉ですが、実態がどこにあるのかよくわかりません。

よくわからないのに、その言葉で収められる場面が多いですね。


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2014年11月16日(日)

言葉の意味の決まりかた

テーマ:言葉/コミュニケーション

言葉は、
発する側の視点で捉えるか、受け取る側の視点で捉えるか、
によって意味合いが違ってくることがある(→『今この瞬間を大事にしよう。』 を参照)。
言葉の意味合いを、どの視点から捉えるか。
・・・そこには暗黙の了解がある。


言葉の意味は、定義によって先に決まるのではない。
定義というのは 基本的に、後付けで決まるものだ。
言葉の意味合いは、前後関係の流れから、後付けで決まってくるのだ。
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2014年06月07日(土)

「自分が変わりなさい」の理不尽

テーマ:言葉/コミュニケーション

「相手を変えたければ、まず自分が変わりなさい」


この言葉が、ずっと嫌いだった。
まるで、自分の子にだけ厳しく注意する親の叱り方みたいで、
胸くそ悪かった。


だって、不公平でしょう。
相手を変えたいと思っているのに、
どうして、まず先に自分が変わらなければいけないのか。
理不尽な言い方だと思った。
正直、言いたいことはわからないでもないが、
その言い方や伝え方が気に入らなかった。




「世界を変えたければ、まず自分が変わりなさい」


これなら、わかる。
世界と自分は、そもそも別次元の存在だから。
広大な世界と、世界の中のごく一部である自分。
主人公である自分と、自分の感覚を通して知覚される世界。
・・・このように、世界と自分とは、そもそもの在り方が違う。


自分が変わることによって、その自分を含む世界も少しずつ変わっていく。
自分が変われば、見方が変わり、世界もその姿を変えていく。


そして、ここからが重要。
実は、「相手」も世界の一部である。
(世界の一部であるところの)相手を変えたければ、やはり、まず自分が変わるべきなのだ。
自分が変われば、見方も変わる。世界が変わる。
そして、相手も変わる。




以上を要約すると、確かに
「相手を変えたければ、まず自分が変わりなさい」となるのだが・・・。
個人的には、いくらなんでも要約しすぎだと思う。


僕は、いつ頃からこの言い方が嫌いだったのだろう、
・・・と思ってブログ内を検索してみたら、
6年前に、『理想と現実』 という記事の中で触れていた。
今とはちょっと違う視点で書かれていて、これはこれでおもしろいと思った。
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2014年03月23日(日)

便の大小と存在感

テーマ:言葉/コミュニケーション

先日、大便、小便、っていう区別は おかしい、と述べた。
両者の違いは大きさの違いではない、と感じたからだった。


しかし、ある人に指摘されて気づいた。
その人曰く、
この場合の大小の意味は
「容積の問題ではなくて、存在感の大きさ」
なのだそうだ。


言われてみれば、まったくその通り。
いろいろな面で、小便よりも大便のほうが圧倒的な存在感を誇って(?)いる。
あまりに感動したので、以下、無断引用させて頂く。
(さらに、失礼を顧みずに若干の加筆・修正すら加えさせて頂く。)




【以下、無断引用、および若干の無断加筆・無断修正】


歴史的に第一次産業が発達する前は、みんな貧しくて、
水ばっか飲んでても小便は出るけど「ウン」は出ない。
飯にありつけて初めて「ウン」が出る。この存在感。
それで中国人は、「ウン」に大をつけた。


赤ん坊が「ウン」をする。
小なら手洗いでも十分だが、「ウン」なら洗剤石鹸を使って念入りに洗わなければ落ちない。
なんという苦労。なんという存在感。


じゃあ、その電車の中で誰かが小をもらした。
半径2mくらいの人は「あーあ」と思うだろう。
方や、隣の車両で誰かが運を漏らした・・・


これくらい書いたら共感してもらえる?笑


【無断引用ここまで】




おっしゃる通り。
共感を通り越して、圧倒された。
自分の言語理解の中途半端さに気づかせて頂いた。


つくづく言葉はおもしろい、と思った次第。

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2014年01月19日(日)

言葉の意味を見つめなおす

テーマ:言葉/コミュニケーション

言葉は人間がつくったもの。


言葉の世界は恣意的に構築された世界かもしれないのに、
それを、まるで自然世界を見る時のような目で見つめなおし、理解しようとする。
記事『「現在」と「過去」と「未来」の空間』 も、そんな試みの一つだ。


しかし、言葉がつくられるまでには歴史がある。いきさつがある。
言葉の使われ方にも、そこに至る背景がある。
それらを無視して、単に字面だけを見て判断し、理解しようとするのは
やや強引すぎるのではないか、とも思う。




・・・その一方で、
長い目で見ればピラミッドと摩天楼 は似たようなものだし、
広い目で見れば「社会」と「自然界」 も同じようなものだ、
という見方がある。
この文脈で考えれば、
言葉それ自体を自然世界を見るようにして見つめなおすのも、別に不自然なことではないと思う。


現に、今も多くの宗教学者(あるいは神学者)が、
聖書の研究をしている。
それも、聖書の成立を歴史的に解釈するのではなく、
聖書それ自体の言葉の一字一句から、キリスト教の世界全体を読み解こうとしている。
しかも、大真面目に、学問の一分野として。


もっとも、聖書に書かれた言葉と、
「現在」「過去」「未来」のような平易な日常語とでは、
そもそも格が違うかもしれない。
・・・その辺のことは僕も(クリスチャンでもないし)よくわからないが、
人は誰しも、新たに自分なりに物事に意味づけをしながら生きている。
それは、言葉についても同様のはずだ。
日本語を学ぶのに、「古語から入らなければいけない」わけではないのだから。




一つだけ確かなのは、
「言葉は生き物だ」ということ。
つまり、言葉は動的であり、生命的である。
端的に言えば、「伝わらなければ意味がない」のが言葉だ。


伝わるためには、相手が要る。
もちろん、伝える主体である自分も要る。
その言葉を使うのは、他でもない自分である。
すなわち、
自分がその言葉をどのように理解するかによっても、
その言葉の意味合いは変わってくる、ということだ。


・・・いや、こんな能書きすら要らない。
とりもなおさず、言葉の意味を見つめなおすこと自体が愉しい。
もう、それだけで充分のはずだ。
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2014年01月16日(木)

現在や過去や未来の意味

テーマ:言葉/コミュニケーション

現在や過去や未来の意味を考える時には、
「今が現在だ」
「昨日は過去だ」
「明日は未来だ」
といった、具体的な想定から入っていくことが多い。
でも、よく考えてみると、
これらの意味は、すでに言葉自体に表れている。


現に在るのが、現在。
過ぎ去ったのが、過去。
未だ来ないのが、未来。


余計な予備知識を捨てれば、
文字通りの意味でそのまま理解できる。
非常に単純で、わかりやすい字面だと思う。
実際、これが本来の意味なのだろう。




現に在るのが、現在。
過ぎ去ったのが、過去。
未だ来ないのが、未来。


きっと、それ以上でも、それ以下でもない。

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2013年12月22日(日)

失敗の意味

テーマ:言葉/コミュニケーション

失敗とは、意に沿わない結果を招くこと。




ここで、あるゲームを想定してみる。
Aが正解、Bが不正解であり、
Aを選べば成功、Bを選べば失敗となる。
・・・そのようなルールの、二者択一のゲーム。
「正解を選べば成功」という考え方は一般的にとてもわかりやすい。
このゲームのルールも、ごく自然に理解できるものだ。


では、このゲームのプレイヤーが意図的にBに行き着いた場合、
それは成功なのだろうか?失敗なのだろうか?


ルールの上では、Bを選んだのだから明らかに失敗だ。
しかし、不正解とわかっていてそれを選択したのであれば、
冒頭で述べたような意味で、失敗とは呼べない場合もあるかもしれない。
たとえば、
正解すると景品のカニをその場で食べられるようなゲームで、
カニのアレルギーを持つ人が、なぜかそのゲームに挑戦することになった場合、
もしかすると、
その人はカニを食べたくないし、「正解したのに食べない」ということもしたくなくて、
あえて不正解を選ぼうとするかもしれない。
そして見事、不正解を選んでカニを食べずに済むことになれば、
きっと、それはその人にとっては紛れもなく成功だろう。


今度は、ゲームのルールのほうを変えてみる。
Aが正解、Bが不正解であり、
Aを選べば失敗、Bを選べば成功となる、という二者択一。
「正解を選ぶと失敗」というのは一般的にはわかりにくいが、
上述のカニアレルギーの人にとっては、まさにこれが当てはまる。




つまり、失敗には、
(少なくとも)二種類の本質的に異なる「失敗」があるのだと思う。


一つは、ルール上の「失敗」。
客観的な失敗、社会的な失敗、などと言い換えてもいい。
もう一つは、本人にとっての「失敗」。
主観的な失敗、個人的な失敗、などと言い換えてもいい。


両者はぴったり一致する時もあれば、ずれる時もある。
上述のカニアレルギーの人の例のように、まったく相反する時もある。
また、初めは前者だと思っていたが後に後者だったとわかる(または思い直す)場合もあるし、
その逆の場合もある。


同じ「失敗」という言葉の中に、互いに独立した二義性(※)がある。




・・・が、冒頭で述べたような意味では、
より根本的には、後者が本来の「失敗」だったはず。
主観の存在しない客観は存在し得ないし、
個人の存在しない社会は存在し得ない。


ルールが示す失敗よりも先に、まず最初に本人にとっての失敗がある。
その認識の集まりが、世の中にたくさんの「失敗」の共通ルールを生んでいる。
しかし、それは、必ずしも本来の意味での失敗だとは限らないのだと思う。




※ ちなみに、こうした二義性は「失敗」以外の多くの語にも共通している、と僕は思う。

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2013年08月25日(日)

月並み

テーマ:言葉/コミュニケーション

「月並み」。
平凡な、とか、ごくありふれた、という意味で使われる言葉。


でも、月並みな大きさ、って言ったら
・・・ばかデカいよ?
決して平凡な大きさじゃない。


そもそも「月」は、我々人間にとって非常に特別な存在。
地球上の生命エネルギーの源である太陽と対比されるくらい、
極めて特殊で、象徴的な無二の存在であって、
決してありふれたものではない。




それなのに、「月並み」という言葉がある。
これは一体どういうことだ?


・・・と思ってググってみたら、
どうやら語源としては、「月ごとの」「月例の」といった意味で使われていた言葉らしい。


なるほど。
夜空に見えるあの月と比較しての「月並み」ではなく、
暦上の月の概念を使って、毎月おなじみの、という意味での「月並み」だったのか。


これで納得。




危うく、美しい宝石をほめるのに
「月並みですね」
と言ってしまうところだった。

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2013年08月04日(日)

日本語の「母音」と「子音」

テーマ:言葉/コミュニケーション

日本語の子音には、一貫性がない。
そもそも、西洋式の「母音」「子音」で日本語の音を理解しようとすること自体に
無理があるのかもしれない。




50音順で理解される日本語は、
日本古来のものではなく、西洋式に再構築したものだ。
「あ」「い」「う」「え」「お」を母音とし、
以下、「か行」「さ行」「た行」「な行」「は行」「ま行」「や行」「ら行」「わ行」と続く。


しかし、この分類は強引すぎると思う。
具体例をいくつか挙げてみる。


まず「た行」。
「た」を母音と子音に分解し、
T+A
と捉えることとすると、「た行」のその他の語は、
T+I
T+U
T+E
T+O
となる。
この時、「た(T+A)」を基準に発音していくと、その他の語は、
「てぃ(T+I)」
「とぅ(T+U)」
「て(T+E)」
「と(T+O)」
となる。
しかし、実際の日本語における「た行」は、
「た」
「ち」
「つ」
「て」
「と」
であり、上記の発音とは異なる5音から成っている。
ちなみに、「ち」の発音を基準にすると、「た行」の語は、
「ちゃ(CH+A)」
「ち(CH+I)」
「ちゅ(CH+U)」
「ちぇ(CH+E)」
「ちょ(CH+O)」
となるし、「つ」の発音に基準にすると、
「つぁ(TS+A)」
「つぃ(TS+I)」
「つ(TS+U)」
「つぇ(TS+E)」
「つぉ(TS+O)」
となる。
つまり、日本語で言うところの「た行」には、
そのたった5語の中に、異なる子音が3種類も存在していることになる。
同様の状況は、「さ行」の「し」、「な行」の「に」等にもみられる。


また、「や行」、「わ行」には、そもそも5つの母音すべてに対応する語が存在しないが、
Y+A
Y+I
Y+U
Y+E
Y+O
という発音も、
W+A
W+I
W+U
W+E
W+O
という発音も、存在しないわけではない。
単に、その発音に対応する日本語が存在していないだけである。


つまり、日本語を「母音」「子音」で理解しようとすると、
日本語の子音には、一貫性がないことがわかる。
しかしこれは、日本語に不備がある、ということではなく、
むしろ、
そもそも日本語は「母音」「子音」で捉える言語ではない、ということを意味しているように思う。

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2013年05月10日(金)

レッテル

テーマ:言葉/コミュニケーション

レッテルとは何だろう。


偏見の入り口?

悪いこと?

・・・しかし、まったくレッテルを貼らずに物事を捉えることなど
本当に可能だろうか。




そもそも「名詞化」は、レッテルを貼ることに他ならない。
例えば、
「日本人」、
「大人」、「子供」、
「文系」、「理系」、
「常識」、等々。


あらゆるレッテルをなくそうとすれば、きっと、ほとんどの名詞が使えなくなる。
それではコミュニケーションが成り立たない。
時間がいくらあってもたりなくなる。




ある程度のレッテルを貼り、省略しながら物事を理解し、
それを共有しながら生きていくしかない。
レッテルをなくすことはできないし、
レッテルをなくそうとするべきではない。


ただし、「そこにレッテルがある」ということを理解しておきたい。
そして時々、日頃使っている名詞の意味をよく見直してみたい。

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