2010年02月06日(土)

「幸せな人生」が目標じゃない

テーマ:「まこっちゃ」の目標

人生の枠内で考えてもしょうがない。
その人生は、いつか終わりを迎えてしまうのだから。




人生が豊かでも、貧しくても、不幸でも幸せでも、
「最期に無に帰す」という点では、誰もが平等だ。
人生を苦しみぬいた人にとって唯一の救いは、死が必ず訪れるということ。
だから、人生の枠があるからこそ(何かに)耐えられる、
・・・という見方も、確かにあるだろう。


でも、僕が言いたいのは、そういうことじゃない。
仮に自分の人生が幸せだとしても、その幸せが人生の枠内のものならば空しいだけだ、
と僕は言いたいのだ。
いつか終わることがわかっている幸せのためになんて、どうしても本当に真剣にはなれない。


「人生を超えた何か」が無いわけにはいかない。
だからこそ、在りもしないような真理や真実さえも追い求めてしまう。
それが、(ある意味では)人間の悲しい性なんじゃないか、とも思う。




僕は、死ぬことが怖い。


でも、だからこそ、
「じゃあ僕が生まれてきたこの世界は何なのか」
ということを納得しないわけにはいかないし、
「僕の人生は何なのか」
ということを、自分の腑に落ちるように理解したいのだ。


それらを納得し理解するために与えられたのが、
この限りある人生なのだと思っている。
だから、人生そのものを豊かにしたり幸せにするだけでは、
何の意味も感じられない。
・・・僕の場合は、ね。

コメント

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1 ■無題

まこっちゃ、僕はね、こう思うんだ。

こころがあるよね。なんとなく、こうして頭を使ったり、体を動かす原動力、そのことを、僕はこころと呼んでいるんだ

例えば、朝、目が覚めて、起きなければと、言って頭は働いているのだけれど、起きれないとき
それは、こころが頭は動かしているのだけれど、体を動かす、エネルギーが上手に作動しない、それはね、やっぱり頭が、ずるくてね、動かない方が楽だぞと体に命令を送らない訳、頭はすごくずるがしこいから、体のせいのように思わせているのだけれど、本当はね、頭が、動かない方が楽だぞっとやってる訳なんです。そこは、こころを強くして、思考を止めた瞬間に、ぱっと動けば動けるのです

少しこころのことを説明しました

まこっちゃ、それでね、そのこころが、この体から抜けだしたらどうなるんだい

もう体に関係なく、こころは自由なんだよ

頭の上の方に、こころが抜け出して、自分の体を見ている

空っぽの自分を見ている。

そうするとね、誰に誹謗中傷されようが、何があろうがもう関係ないよね、その抜け出したこころは自由なんだ

だけどもね、せっかくこころだけになって、自由になったのに、物に執着してたらどうなるんだい

また自分の体に戻りたくなるんじゃないかい

それとも、ちょうど妊婦さんなんかいて、こころが宿ってない人間の種なんかがあったら入りたくなったりするんじゃないかい

せっかく、体は、機能停止しても、こころが同じように機能停止しなかったらどうするんだい、

この人生でやるべきことは一つ、死ぬ時までに、全ての執着を捨てることです

執着がダメなのです、例えばゲームをするだろう

百円入れてするゲームをしてもいいんだよ。

けどその百円が終わったら、あーこれでもうゲームをしなくてもいい自由だ、となればよいのです

もう百円したいなと思えば、それが執着です

死ぬときに、あーこれで自由になれると確実に思えるようにすることが、この人生で行うべきことです

まだ死にたくないと思えば、何かに執着があるのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように

2 ■Re:「幸せな人生」が目標じゃない

>才木広之さん

一つ前に頂いたコメントへの返信でも書きましたが、
僕は、執着を捨てるつもりはありません。

もし、人生でただ一つやるべきことが、本当に、死ぬまでにすべての執着を捨てることなのだとしても、
そうだとすれば僕はきっと、いわば反面教師として、
そのことを体を張って証明するために生まれてきたのではないかと思います。
それくらい、僕は執着を捨てられませんし、捨てる気がありません。

もっとも僕は、たぶん、才木さんが「執着」と呼んでいることを、
自分では「納得」と言っています。
例えば、すべての執着を捨てることがただ一つのやるべきことなのだ、ということも、
ちゃんと納得できなければ「はい」とは言えないんです。

納得しないまま「はい」と言い合っている人たちをたくさん見てきましたし、
その中で争いが起きることも多々目の当たりにしてきました。
そういう光景を含めて、やはりどうしても腑に落ちないんです。

こんなに疑い深い性格の僕でも、
納得しあえる相手は、いるんですよ。
・・・「いるんですよ」と言うと、「いる」ということがもともと決まっていたみたいになるので、
ニュアンス的には「いたんですよ」と言ったほうがぴったりです。

とにかく、僕としても奇跡としか言いようがないんですが、
こんな僕でも納得させてくれる人が現れ、納得させてくれる出来事が起こり、納得できる生き方を(少しずつですが)歩むことができるようになったわけです。
「それもこれも今現在の思い込みで、そのうち崩れるさ」と言う人も(もしかしたら)いるかもしれませんが、
少なくとも今、僕がそう信じられていること自体が僕にとってはすごいことなんですね。

だから、いまさら納得することをやめようとは思わないです。
納得できないのに無理に納得しようとすることも、たぶんありません。
もしかしたら納得できることかもしれないのに、途中で諦めてしまったら、
今までこの頑固な僕を辛抱強く納得させてくれた人や事象に申し訳がたたない、という気持ちです。

でもきっと、たぶん僕は、
「死にたくない」と言いながら死んでいくのだと思います。

3 ■無題

その「死にたくない」というこころが

体が道具としての、機能を果たさなくなった時、その後も残ったなら、どんなに苦しいでしょうか

僕には想像することすら、恐ろしいことなのです

死ぬ時には、こころも、死ねばよいと思うのです

生きとし生けるものが幸せでありますように

4 ■無題

仕事を、している時に、「遊びたい」と思ったりする事

まさしく、今できない事を、したいと思う事

それが執着です

今を生きていれば、それだけでいいのですが

死ぬ瞬間は、「あー死ぬんだなー」。それだけでいいのですが。

生きとし生けるものが幸せでありますように



5 ■Re:「幸せな人生」が目標じゃない

>才木広之さん

こころが、体が道具としての機能を果たさなくなった後も残ったなら、
ということですが、僕は、体と同時にこころも死ぬと思っていますので、
それについてはご心配には及びません。

どちらかと言えば、
むしろ体が無くなってもこころだけでも残ってくれればいいのに、
と思っています。
永遠に心だけが在り続けることのほうが、きっと恐ろしいだろうと頭では思うのですが、
「存在しなくなることの怖さ」に比べたら、それでもまだいいと思えてしまうのです。
これは、同じ感覚を持っていらっしゃるかたとしか分かり合えない話かもしれません。

何かをしている時に、違うことをしたいと思うことは、
僕の場合、あまりないです。
ただ、死についてだけは、確かにおっしゃるようにそれに逆らうような強い意識が働きます。
それが執着であるなら、死について言えば、
僕は確かに生に強く執着しています。

ただこれも、いざ死にそうになったり、
飢えたり戦争が始まったり、
考えるどころじゃなく必死に生きなければならない状況になったら、
そもそも「死」うんぬんと考えることもなくなるでしょうから、
別の見方で言えば、
まだまだ僕が暇すぎて甘えが大きいのかもしれません。

それと、頂いたコメントのうち1つ目と2つ目の内容が同じでしたので、
片方を削除させて頂きました。
慣れるまで大変かと思いますが、
コミュニケーションを円滑にするために大切なことでもありますので、
誤字・脱字の確認を含め、「伝え方」をもう少し繊細に心がけられたほうが、才木さんにとっても余分な誤解を生まなくて済み、幅広くコミュニケーションを充実できるのではないか、
と思いました。

偉そうにすみません。
僕自身は、前にもお伝えした通り、
ご意見を頂けることに感謝しているわけですが、
それを前提にしつつ、やはり才木さんの文章は少し読みにくいと感じておりましたので。

6 ■無題

いつこの体に、今自分の体がありますが、いつこの体にこころが宿ったのでしょうか

どの瞬間に、この体に、こころが宿ったのでしょうか

そのことは、科学では、解明されていないと思います

恐怖を覚えたりすること、それがこころだとするなら、そのこころはいつこの体に宿ったのでしょうか

机や、椅子には、こころは宿っていないと思いますが

犬や、シカや、人間などには、確かに、こころといったものがあります

頭を打てば、痛がりもします、それがこころのように思うのですが、いつこの体に、こころが宿ったのでしょうか

生まれた赤ん坊は、泣きますね、やはりもう既にこころは有ります

生に執着すると、死んだときに、何かに、宿ってしまうのではないでしょうか

例えばこれから生まれようとするもの等に、ぱっと宿ってしまうような気がするのです。

それが虫であったり、犬であったり、シカであったり、こころが、物質に依存しているなら、死んだ瞬間に、これから生まれようとしているものに瞬時に宿ってしまうような気がします。

何者にも依存してないのであれば、ただそこにこころがあるだけの状態で、何にも依存してませんから、ふわふわと、存在自体があるだけになると思うのです

ちょうど、春の日に縁側で、日向ぼっこして、寝ているでもなく、起きているでもなく、そのような状態がずっと続くのではないでしょうか

それが不安だといったことがまこっちゃさんで

私は、日向ぼっこのこころも、なければそれが一番です

生きとし生けるものが幸せでありますように

7 ■無題

最後に書いておきますが

もし体が停止しても、こころのみが、存在し続けるなら、大変なこころの苦が残ってしまいます

あれもしたい、これもしたい、そのようなこころのみが残ることは、まさに地獄です

生きとし生けるものが幸せでありますようにと、こころがずっと思っているならまだしも

執着したこころのみが、残るといったことは、地獄です
この体を、こころが離れれば、本当に自由になってしまい、そのこころが、欲などで汚れていたら、思いたい放題で、欲よくよくの世界になってしまいます

いまはこの体に、こころは束縛され、自由は聞きにくいです、その間に、ありとあらゆる執着を、執着とは、思いこみ、妄想ですが、捨てられるように事実をしっかりと見ることです

 また私の、ブログにもお寄りください、随時過去の書き込みは消していってますので、内容は少ないですが、
 新しいのをかくときには、前の書き込みを消していってますので気楽によってください。

http://62705702.at.webry.info/

生きとし生けるものが幸せでありますように

8 ■>才木広之さん

ご自分のおっしゃりたいことを言い続けるだけでなく、
相手から言われたことにも、少しは耳を傾けませんか。

才木さんが、どうしても伝えたいことをお持ちで、それは人間にとって大切なことだとお思いで、
しかも、そのことを他でもない僕に伝えるために、
わざわざ書き下ろし(?)でコメントをくださっていることは、ひしひしと感じますし、とても有り難いです。
でも、才木さんには、「伝え方」を考えることをもう少し実行して頂きたいです。
あるいは
「『まこっちゃ』がそう思うのは、『まこっちゃ』の受け取り方が狭く、こころが頑なだからだよ」
とおっしゃるかもしれませんが、そうであっても、
いや、そうであればなおさら、
そういう相手に届く言葉を慎重かつ真剣に選ぶべきではありませんか。

せっかつ伝えたいことをお持ちで、それを才木さんの限りある時間を割きながら伝えようとなさっているのに、
今の才木さんには、その辺りの配慮が無さ過ぎる気がします。
このブログを見ているのは才木さんだけではありません。
以前、ここに足を運んでくださっている何人かの方から、
「才木さんのコメントは不愉快だ」というメールを個人的に頂いたことがありますが、
僕としては、基本的な部分では、
そのかたたちも“足を運んでくださった大切な人”であり、
才木さんも“僕に言葉を投げるために貴重な時間を割いてくださる人”だと思っているので、
正直に申し上げて、どうしたものかと悩んでおりました。

でも、僕自身が幼い頃から不器用で、
こちらが真剣に尋ねているだけなのに鬱陶しがられたりして悔しい思いをしてきていたので、
同じようなことを他人にしたくない、という気持ちが非常に強いのです。
だから、才木さんを遠ざけようとか、極端に言えば排除しようとか、
そういうことはしたくありませんし、したくない、
ということを、そのかたたちにも申し上げた次第です。

9 ■>才木広之さん

誤字・脱字が多いことや、話の内容の筋道が立っていなくて趣旨が伝わりにくいことなど、
いろいろありますが、
この記事に頂いたコメントで言えば、
「まこっちゃ、僕はね、こう思うんだ」
で書き始めるのは、少し失礼ではありませんか。

自分に対して「失礼ではありませんか」なんて、僕も言い方が尊大過ぎるかなとも思いますが、
きちんとお伝えしたほうが才木さんのためでもあるだろうと自分なりに考え、
今後も良好な関係を維持したい気持ちがあることを前提に、もう少しお考えくださるようお伝え申し上げます。

ブログ、拝見します。
以前教えて頂いたブログは、先日アクセスしてみたら存在しなくなっていたので辞められたのかと思っていました。
どこか一つのブログに落ち着かれたら、こちらからリンクもさせて頂きますので、
ご一報ください。

10 ■Re:才木さん

>才木広之さん

j上記の指摘、無視ですか?
自分の言いたいことは言うくせに、都合の悪いことは無視ですか?

あなた一方的に言いたいこと言ってますが、少しはまこっちゃさんの言うことに耳を傾けてはいかがですか?
無礼にも程がある。

人の記事には突っ込むくせに、自分が突っ込まれたら、こうやって無視ですか?
それでまた、何食わぬ顔で他の記事にコメントですか?


それと
あなた以前「このブログに関係ないコメントは削除すべき」って書きましたよね?

正直、
あなたが毎回毎回書いてる「生きとし生けるものが幸せでありますように」も、
まこっちゃさんの記事と関係ないですよ。


何カ月も前から不快思っていましたが、
あなたが、このコメント欄でまこっちゃさんから指摘を受けてるのを「無視」して、
何食わぬ顔で他の記事にコメントしてるのを見て、堪忍袋の緒が切れました。

人をバカにするのもいい加減にした方がいいですよ。


まこっちゃさんは、どんなに不快な思いしようが、必ずあなたに返信してますよね?
あなたは、自分に都合の悪いコメントは無視ですか?

11 ■無題

しかも
コメント、まこっちゃさんの記事を踏まえた内容じゃなくて、
完全に「あなたの思想」の宣伝ですよね。

あなた、人の文章読んでるんですか?



12 ■無題

善友まこっちゃさん

大好きです

生きとし生けるものが幸せでありますように

13 ■>aさん、才木広之さん

何と言いますか、
コミュニケーションの取り方は人それぞれですよね。
つくづく、そう思います。

僕の場合、
自分の気持ちを相手にうまく伝えられないと、自分自身が悲しかったりつらい思いをしますので、
なるべく伝わるように努めます。
僕から見れば、
そういう努力をしない人は、それなりに誤解され、それなりの不遇に遭っている気がします。
が、本人がそれで良ければ、それも生き方なのかなとも思います。

僕のように、何でもかんでも「言い当て」ようとすればいい、というものでもない気がします。
と言いつつ僕は「言い当て」たがりなんですが、これも性格です。
僕の欠点としては(よく身近な人に指摘されることですが)、「相手に逃げ場を与えない」ということがあります。
冷静に論理的に、理詰めで相手の非を遠慮なく指摘してしまうので、
人間関係を破壊しかねない時があります。

僕の性格からすれば、
「それはそれ」として、また次の瞬間から新たな人間関係を築けばいいじゃないか、
と思うわけですが、人間の心はそう一筋縄ではいかないらしく、
なかなか立ち直れないほど致命的なダメージを与えてしまうこともあるようで、
気をつけなければいけない、と思ってます。

才木さんからのコメントに困らされることは確かにありますが、
何の働きかけもないよりは、ずっといい、
と正直、思ってます。
「愛」の反意語は「無関心」であるのと同じような意味合いで、本当にそう思ってます。
その意味で、せっかく頂いたコメントになかなか返信できないことには、申し訳ないとも思います。
無関心であるわけではないんですが、ネットの性質上、返信するまではそう見えるでしょうし。

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