言いたくても言えない
テーマ:論理と心理/頭と身体「言わない」ということを自ら選んだわけじゃなく、
例えば骨折した人が歩きたくても歩けないように、言いたくても言えない時がある。
「言わないのだから自己責任だ」と責められても、
例えば骨折した人が歩けずにじっとしているように、何も言えずに黙っている時がある。
また別の時には、
例えば骨折した人がそのまま無理に歩こうとするように、本心とかけ離れた言葉を吐いてしまう。
骨折と違うのは、その状態が“目に見えない”こと。
小さな骨のヒビでさえ、レントゲン写真を見ればひと目でわかるのに、
“言えない”心理状態とその苦しみは、相当大きくならない限り、当人ですら自覚できないことが多い。
さらに厄介なことに、骨折と違って、心理状態については簡単に嘘がつける。
骨折なら調べれば一目瞭然だから、嘘で「骨折した」とはなかなか言いにくい。
でも心理状態については、
殺人犯の精神鑑定でさえ結果が分かれることもあるくらいだから、
嘘かどうかを見分けることは非常に難しいのが現実。
・・・だからといって、もちろん、すべてが嘘だというわけじゃない。
でも、嘘かもしれない。
本人だって、けっこう自分を疑っている。
「自分は自分をごまかしているんじゃないか」って。
「言わないのだから自己責任だ」
というのは、ある一定の社会的ルールの上では、すごく“正しい”し、公平な判断だと思う。
でも、それは、
“すべての人が思ったことを言える”ことを前提として成り立つ判断なんだ。
その前提が崩れた途端、
「言わないのだから自己責任だ」という判断は、極めて不公平なものになる。
見分けることはもとより、自覚することすら難しい。
けれども、
言いたくても言えない時だって、確かにあるんだ。
僕は、そう思っている。







1 ■無題
人が言いたくても言えない事を、まこっちゃが代わりに言ってあげることは出来るでしょう。
でもしないんではないでしょうか
答えは、本人の為にならないから。
以上の言葉は理屈で
相手の事を、自分以上に、心配し、仮に思い込みであれ、一生懸命になってくれた時には、その相手は、必ず変わるのです。
それは科学的な法則で、こころにも当てはまります
相手を変えようと思うなら、自分以上に、相手の事を思った時は、科学的に考えるのと同じ事で、その相手は始めて変わるのです
ですから実践としては、しゃべれないであろう人を見つけたなら、自分の事を放っておいても、協力してあげる
道を訪ねたい様子の方がおられたら、自分の事は放っておいて、何処へ行きたいかを聞き、自分が分からなければ、人に聞いてあげる、全く自分が困った時と同じように、そのような気持ちになって聞いてあげる、その事が出来れば、こころは科学的ですから、必ず、あなたを手本をして、次回からは、聞けるようになるのです
そうでないなら、してあげる行為に、微塵の、人の為といった感情があるから、相手は変わらない、
本当に自分の事のように、思ってしたなら,相手の方には、あなたが、他ではなくなり、自分で次回からは聞くようにしなければならないように、こころが働こうとするのです
こころを勉強すると、完全に科学的で、感情で行動を行うことはなくなります
だってこころは、科学的なのですから
尚、一例として書きましたが、いろいろ、具体的に
実践してみることで、こころは科学なのだと、確認できます
ですが、時間差はありますので、あまり結果にとらわれすぎないことも必要です
生きとし生けるものが幸せでありますように