個の時代に生きる個らよ | 考えすぎ

個の時代に生きる個らよ

僕の生き方は、とても個人主義的だと思う。
少なくとも、心のうえでは。

自分で考えなければ納得しない。
もちろん、自分の考えなど及びもつかないことが山ほどあるけど、
そう思うようになったのも、一度、自分で考えてみて見事に挫折したからだ。
だから結局、自分で考えてみなければ納得しなかった、という点では同じだった。

自分で何もかもわかろうとすること自体がおかしい、とも思う。
でも、やっぱりそう思うのは自分であって、いつも偉そうに物事を判断しているのは、どこまで行っても自分なのだ。

だから、死が怖くなる。
自分が存在しなくなることと、すべてが存在しなくなることが、同じことになってしまう。
現代のように個が肥大化した時代に生まれていなければ、
いくら僕のように頭でっかちな人間でも、こんな風に「死が怖い」と思うことはなかったかもしれない。

かつて、これほど個が肥大化する以前、つまり、人間が自然の大きな流れのごく一部だった頃、
主人公は自然であり、海の神、山の神だった。
自分は主人公ではないから、
自分の人生が自己完結する必要はなかった。
ある時、突然の事故で自分が死ぬことになっても、そのことは何ら理不尽なことではなかった。
悲しいことや、つらいことではあったとしても。

だから、自分が生きている間に謎の答えを見つける必要もなかったし、
自分が生きている意味を自覚しなければならないということもなかった。

そう考えてみると、個が肥大化した現代の都市社会のほうが異常のように思えてくる。

そもそも現代には、「一代ですべてを築き上げた達人」が多すぎる。
しかし、一代ですべてを築き上げたものは、大抵、その一代で滅びるはずだ。
そうでなければ、今後のあらゆることの原点が20世紀前後に集まってしまう。
こんな不自然なことはない。

みんな、自分のルーツを見失っているのだ。
一旦、自分のルーツから切り離されると、戻るのはきっと難しい。
ひょっとすると、不可能かもしれない。
たかだか自分の短い一生のうちに、自力で自分のルーツに戻ろうとするわけだから。
しかも、他人は協力してくれない。その人にもその人の「個」があるから。

それならいっそ、ついさっき不自然だと言ったことを行動に移すしかないのだろうか。
つまり、20世紀を新たな創世記として、
再び気の遠くなるような道のりを歩き始めるのだ。
今度は二度と、ルーツから子孫が切り離されてしまわないよう、細心の注意を払いつつ。

・・・って、書きながら何を言ってるのかわからなくなってきた。