金満血統王国信者

馬券購入のヒントになるデータと日々の出来事などを好き勝手に書いてみたいと思っています


テーマ:

中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

最終回。

タフィ・ローズ(外野手)

 

リーグ優勝した年まではお伝えしましたのでそこからのお話です。

 

打ち勝つ野球21世紀初のパ・リーグ王者となったバファローズ

連覇を目指した2002年も当然打の中心にいたローズですが、シーズン当初のトピックスは何といっても

ウィルソンの加入

 

以前ウィルソン の回で書いたとおり

97年ウィルソン(日ハム)

98年ウィルソン(日ハム)

99年ローズ(近鉄)

00年中村紀洋(近鉄)

01年ローズ(近鉄)

過去5年のパ・リーグホームランキングが同じチームのクリーンアップを組む

という夢のような打線ができあがり

打に関しては昨年期待ハズレとなってしまった

ガルシア

と比較すれば実績上位は明らか

仮に昨年の主力が昨シーズン同等の(もしくはそれに近い)成績を収めれば

自慢の打線強化は確実

だったのですが、いてまえ打線は昨年ほどの破壊力がなく

特に打率を落とす選手が多く規定打席到達選手で3割打った選手がゼロ

(期待されたウィルソンは・・・まぁウィルソンの回を参照してください)

 

そんな中ローズ中村紀2人気を吐き奮闘

奮闘したんですけど

昨年の成績が良すぎた為これでも成績を落としたという評価

 

2002年ローズ打撃成績

打率.272

本塁打46

打点117

 

たしかに昨シーズンに比べるとボール球に手を出したり簡単にアウトになってしまうシーンが増えたように思えましたが、ローズ自身

配球を読んで打つタイプなので読みと違う球が来たら

簡単に空振り三振

引っかけて内野ゴロ

などなど

見た目の印象が悪いアウトが増えた

というだけで決して打撃不振ではなかったと思います。

敢えて擁護&難癖をつけるならば

首脳陣からホームランバッターとしての期待をされるようになったそうで

(入団当初は広角打法も売りのひとつだった)

昔なら追い込まれてから、もしくはケースによっては軽打に切り替え

していたのを

三振を恐れず強振

(もちろんチャンスで軽打もしていたがそういう打ち方が増えた)

するスタイルに変化。

悪く書けば

ホームランの魅力に取り憑かれた

擁護すれば

チームの要求に応えた

ことで成績にバラつきが出たものと思います。

まぁ

打点117でこの年の打点王になっているわけですし

タイトルホルダー且つホームラン46本も打った選手

不振と表現した一部誌面の書き方がおかしいんじゃないか??

と思うんですけどね。それだけローズへの評価が高くなっていたという裏返しとするのが妥当でしょう。

 

そうはいってもこの年は

西武カブレラが昨年のローズと同じシーズン55本の本塁打を記録

さらに

肝心のリーグ優勝争いとなると完全に西武の独走

昨年は

「今年は違う」

と言い続け選手を牽引した中村紀洋でさえ

「なんと言うかグッと来るものがない」

と早々にギブアップ宣言とも取れる発言

 

モチベーションや集中力が2001年に比べやや無かったのかなぁという気も

 

カブレラには及ばなかったものの他球団から見れば脅威であることに変わりはありません

2003年も近鉄の助っ人として契約続行。

 

この年は

2001年シーズン55本ローズ

vs

2002年シーズン55本カブレラ

本塁打王争いが注目

されたわけですが

シーズン途中中村紀洋が本塁クロスプレーでヒザを負傷

主砲が本来の打撃をできないチーム事情により急遽本塁打への比重が高くなる状況になりながらも奮闘。

 

2002・2003シーズンはパウエル岩隈など先発投手陣の安定がリーグ優勝争いに加われた要因ではありますが

強力打撃陣なくしてはあり得なかった躍進

 

その中心を担っていた一角が崩れたことでどうなるかと思われましたがローズはそれに負けないくらい奮起。

苦しいチーム事情の中リーグ3位に踏みとどまりました。

そして、カブレラ一進一退の熾烈なホームラン王争い

51対50の1本差でローズに軍配

特に49号50号はあろうことか

西武・伊東勤選手の引退試合

で放った2発。

その後に控える引退セレモニーなんてお構いなし

ちゃっかり近鉄が勝利してしまったわけですが

いい書き方をすれば

全力プレーで相手に応えた

カブレラとのホームラン王争いもかかっていたので)

悪く言えば(西武ファンの本音?)

空気読んでくれ

(西武ファンの本音は引退の花道とカブレラにタイトルを獲らせたいという両面があったことでしょう)

中でも

50本目はファンの間では伝説といってもいいホームラン

相手投手はサウスポー帆足

外角へ逃げる真っすぐ

ややタイミングを外され気味に右手一本で当てただけ

に見えたバッティングでしたが

そのまま左中間の深いところまでライナーで突き刺すホームラン

8年の歳月で恐るべき長打力を身につけたローズ

(入団1年目~ビデオチェックすれば体格の変化は明らかです)

まぁこの試合はビデオ録画で残っているのでここまで克明に書けるわけですが

近鉄ファンとすればこの試合はTV中継されていて本当によかった

この素晴らしいホームランを見たい方がおりましたら

是非私の部屋へ(苦笑)。うるさい(私の)解説つきで観賞できます。

 

そんなインパクトの強いホームランはもちろんですが、この年はローズ自身大きな記録を達成しました。

それは

通算本塁打284本

助っ人外人としては歴代最高の数字を更新

 

こうして名実共に

プロ野球史上最高の助っ人外人

の座に

数字の上では辿り着いたローズ

(他球団のファンの方からすれば反対意見もあるでしょうから一応このような表記にいたします)

 

2003年ローズ打撃成績

打率.276

本塁打51

打点117

 

こうして3度目のホームランキングを獲得。

獲得ついでに1本差で下したカブレラ

50本以上本塁打を打って本塁打王になれなかった

唯一の選手という珍記録のオマケつき。

(プロ野球史上初)


最終的に2003年シーズン終了時点

通算本塁打288本

まで積み重ねたローズ

 

ココまで来れば

前人未到の助っ人300号

はスグそこだったのですが

年棒調整で大きな確執が・・・

 

長く近鉄で活躍したことと積み上げてきた実績を引っさげ

複数年契約

を要求するローズ

(主軸の中村紀洋が複数年契約を結んだことも一因)

に対し

長い歴史の中でも助っ人外人は単年契約以外では契約をしない。たとえローズだとしても例外は認めない

(複数年にすると手を抜くという判断だと思われるが「ブライアントにも複数年は認めなかった」という言い分は間違っていると思います)

と一歩も引かない球団サイド。

 

いくら結果を残しても結局俺は「外人」扱いか

 

といった旨のコメントを残し球団と決裂

明るいキャラと、もちろんプレーでチームの中心として長年引っ張り続けたローズはついに近鉄のユニフォームを脱ぐことに

 

2001年55本のホームランを打った時には

背番号20を近鉄の永久欠番にする

という案も出たほどローズの功績を讃えた球団だったというのに

『なぜ??』

という気もしましたが、

球団の言い分もわからないこともないですし。

 

今となっては

(2004年で球団が消滅したが)

この時点である程度そういう方向で動いていて、ローズが妥協しなければ大きな批判を受けずに契約を切るいい口実になるとして利用しただけ

なんじゃないか?とも考えられます。

 

いくら金銭に関わるやりとりとはいえここまで貢献した選手をむげにするとはあまり考えたくないですし。

 

 

 

私自身も退団までのやりとりはショックでした晩年の近鉄を盛り上げてくれた中心人物

近鉄ファンでなくてもおそらくその名を知らぬ者ナシ

自信を持って近鉄最強の助っ人として紹介させていただきます

 

 

ここで語るまでもありませんが

2004年以降も近鉄以外の球団で活躍。

現在も数々の歴代助っ人最高記録を塗り変え続けています 

※長年日本プロ野球に在籍しているため2005年シーズンからは日本人選手扱いで出場

 

○以下歴代助っ人最高記録更新中○

・通算本塁打

・通算出場試合数

・通算安打数

・通算打点

(本塁打400本以上、1600安打越え、1000打点以上はローズ以外誰も到達していない数字)

 

◎以下歴代日本記録更新中◎

・入団以来毎年100三振以上

(日本球団に在籍しなかった2006年を除く)

・通算退場記録

※コチラは不名誉な数字を残してます

 

これらの記録は積み重ねる度に歴代最高記録として更新されております。

ぜひ注目してみてください。

 

 

 

 

以上をもちまして助っ人外人列伝は終了です。

本当はもっと早く全部紹介して終了したかったのですが

仕事の合間を縫っての掲載とウンチク好きな私の性格が災いしまして連載開始からここまで時間がかかってしまいました。

ファンの方もそうでない方もたまにはこの列伝に目を通していただき

「あぁ~、そういえばこんな面白いチームがあったっけ」

と思い出していただければ本当に嬉しい限りです。

 

改めまして私は生涯恥じることなく近鉄バファローズファンを宣言いたします。

 


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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

最終回。の中編です。

タフィ・ローズ(外野手)

 

前編では

入団から3年目の浮気

までをお伝えしましたので今回はその続きです。

 

 

来日3年目(1998年)にしてヒザの故障もあり初めて不本意なシーズンを送ったローズ

 

4年目にかける意気込みは強かったと思いますが、

オフにしっかりとケアはできた

ようで

昨シーズン終盤のブヨブヨ下半身がウソのような体型

で帰ってきました。

しっかりとシェイプアップできたようですし、いい意味で来日当初よりも体つきが一回り大きくなったのもちょうどこの頃。

そして、あの特徴的な打撃フォームも変化。実際にはヒザを悪くしてから変わっているのですが

第2期打撃フォームとして確立されたのは4年目以降

といっていいでしょう。

 

入団当初のフォームは

(便宜的に第1期とさせてもらいます)

スタンスが肩幅同等もしくはそれ以上に広く、ヒザを曲げバットは地面とほぼ水平に

独特のリズムの取り方はゆったりと「チョンチョンチョン」と取るかんじ

テイクバックになるとバットが地面に対し垂直に戻る

(文字で表現するのは難しいです・・・)

  

ヒザを悪くした98年途中からは

スタンスを肩幅同等かそれよりも狭くしヒザを立たせた直立型

バットのタイミングの取り方は第1期とほぼ変わらず

ただしバットの位置が高くなった分ボールに対して上から叩く感覚にかわり

以前はスイングが大きく回ってくるイメージ

だったのですが

チェンジ後はミートまで最短距離でバットが出てくるイメージ

に変わりました。

 

 

こうして入団当初の

攻走守3拍子揃った助っ人

から

本塁打が魅力のスラッガー

へと変身。

 

1999年ローズ打撃成績

打率.301

本塁打40

打点101

 

3割40本100打点の大台を突破

本塁打王・打点王の二冠に輝きました。

 

そしてこの年は再三書いておりますように

3番中村紀31HR95打点

4番ローズ40HR101打点

5番クラーク29HR84打点

(上記打順が多かったのでこのように表記)

3人あわせて

100HR280打点

投高打低だった当時のパ・リーグでは群を抜いた破壊力をもったクリーンアップを形成。

その中心として打線を引っ張ったのがローズでした。

 

しかしこれまた再三書いておりますように

1999年は泣けてくるほど投手陣の壊滅っぷりが際立った年

(チーム内最多勝が9勝、2位が6勝、3位が5勝)

この3人の得点なんぞすべて吐き出してしまう失点を積み重ね

 

調べてみましたら

本塁打数リーグトップ

得点はリーグ3位

盗塁数だってリーグ3位

という攻撃力を見せながら

チーム防御率リーグ最下位

チームはダントツの最下位

に沈みました。

 

フォアザチーム

に徹するローズだけにこの結果には

「ボク、ホームランキングと打点キング。だけど近鉄イチバン最後。ソレチョット気持ち悪い」

(こんなかんじの言葉を日本語で言ってました)

と、二冠獲得は嬉しかったとは思いますが表には出さず

自分の活躍がチームの勝ちに貢献できていない

ことに歯痒さをみせておりました。

余談ではございますがこの年から応援歌が変わり

今まで誰にも使われたことがないローズだけのオリジナル曲が使用されるようになりました。

(♪今進め男タフィ この時にすべてかけて 豪快なアーチを 勝利を待つスタンドへ)

それが成績に直結したとは思えませんが・・・・・

 

それともう一点。この年のオールスターゲームに出場したローズでしたが

横浜ローズ(ROSE)が

打率・打点の二冠ペース

近鉄ローズ(RHODES)が

本塁打・打点の二冠ペース

で揃って出場

セ・パで二冠のローズ対決

今年は話題があって面白いぞ~。これは。

と、1人で勝手に盛り上がっていた私でしたが、

中継にあたりましてはそんなピックアップは一切なし

『なんだよ~。ローズ(近)の扱いなんてそんなもんかよ・・・』

ガッカリした記憶があります。

(まぁ当時は主要獲得タイトルなどもなく、打ち方が特徴的なくらいでしたので当然の扱いといえば当然ですがファンとしては「二冠ペースで来ている打者でも扱いはそんな程度か」とものすごく悔しかったのはよく覚えています)

 

 

しかしながら来日4年目にして念願のタイトルを獲得したローズ

5年目のシーズンに突入しますが、ひとつの転機が。

監督に梨田昌孝氏就任

まぁご存知とは思いますが

(2軍監督時代から馴染みがあったとは思いますが)

梨田監督はお茶目というかジョークが好きでローズともすっかり意気投合

梨田さん自身が

「養子にしたいくらい」

息子のように可愛がったこともあり、ローズをとりまく環境も変わったかと思います。

そしてついに待ちに待った中村紀洋の本格化

待望の和製大砲誕生。

以前より

「ホームランの打ち損ないがヒット」

と明言していたノリが意識改革。

つなぐバッティングも身につけ安定感が増し、この年から

3番ローズ

4番中村紀

でほぼ定着。

なぜか「いてまえ」が確立される時は

3番強力助っ人

(マニエル・ブライアント・ローズ)

4番日本人

(栗橋・石井・中村)

という組み合わせができあがる巡り合わせというのもあったのかもしれませんが

メジャーでは主流となっている

3番打者最強説

も手伝い

「ボクはコッチのほうが打ちやすい。4番はノリに任せた」

と、ローズ自身4番へのこだわりもまったくなかったようです。

 

この年はオリンピック開催に伴い

中村紀洋離脱(五輪代表)

前回の列伝で紹介した

クラークの骨折

で、最強クリーンアップが2人欠ける時期もありローズにかかる負担もやや増えたこと、当然ながら

昨シーズンの二冠王

ですから研究もされたでしょう。

99年ほどの活躍はできなかったものの、中軸としてこの年も奮闘

近鉄の野手でこの年唯一全試合出場

打率.272

本塁打25

打点89

の成績。ローズとしてはやや物足りないかな?と思わせる数字ですが

他球団の助っ人と比べれば上級の部類。

2000年は4番中村紀本塁打・打点の二冠を獲得

ローズと2人で主軸としての任務をまっとうしたわけですが

 

やっぱりこの年も止まらぬ投壊

(苦笑)

チーム勝ち頭が8勝という悲惨な状況で

2年連続リーグ最下位

 

フォアザチームをうたうローズとしてもさすがに耐えかねたようで

「いったい俺たち(攻撃陣)が何点取ればチームは勝てるんだ」

という旨の不満をチームにぶつけたらしいです。

(こういったビジネスに関することは英語で通訳を介して発言)

 

そんなこんなで迎えた2001年。

オフをアメリカで過ごしキャンプに参加するため来日すると

アフロヘア

になっていました。「パッと見」が変わってしまったローズでしたが、そこはお茶目な梨田監督

キャンプに途中合流だったため選手に向かって

「新外人が来たから」

と呼び出しローズ

「ハジメマシテ」

と登場。梨田さんとの親密さがうかがえるワンシーンでした。

 

そんな2001年ペナント

最初に話題を独占したのは、なんといっても

西武の新外人カブレラ

開幕から2ヶ月で24本ものホームランを量産。

この時点で今年のキングはほぼ決定的と思われました。

 

当のローズは開幕からまぁボチボチのスタートだったのですがカブレラのインパクトとチーム内では4番中村紀のほうが結果が出ており、大きく目立つ活躍はありませんでした。

そして調子が上がらないまましばらく経過したのですが

アメリカから奥さんと息子が一時来日

してから打撃が急上昇

18試合で14本

という驚異的なペースでホームランを打ち7月ついにカブレラを追い抜きました。

それでもローズ

「今ボク三振キングマン(苦笑)。もうダメ」

(最終的になんとか三振王は免れた)

と、成績上昇にも戒めの心は忘れずにしっかりと持っておりました。

 

なんといってもこの年は

リーグ優勝争いにチームが加わっている

というのがフォアザチームに徹していたローズのモチベーションを高めた要因であることは間違いないのですが

近鉄入団以来最高のペース

で成績を残していきました。

 

夏場を迎えて今年のトレードマークだった

アフロヘアもコーンロウへ一新

それに伴い(?)打撃フォームもチョコっと変化

基本的な構えは変わらないのですが

(きもちヒザが曲がっている程度の変化はあり)

バットでのリズムのとりかたが

「チョンチョンチョン」

から

「ピコピコピコ」

へ。(表現が難しいです・・・)

バットを動かずタイミングがより細かく早くなり、

テイクバックの瞬間まで動いていたバットが一度ピタっと静止するようになった

のもこの時期からとなります。

 

こうして、今更説明する必要もないかとは思いますが

本塁打シーズン55本の日本タイ記録

をうち立てリーグ優勝に貢献。

55本目を打った時点で

残り試合が5試合

あったので

記録更新間違いなし

と思われたのですが、ローズ自身

「初めて日本の野球に失望した」

とコメントした例の騒動に気落ちしたのか、プレッシャーに負けたのか

新記録を打ち立てることはできず

(ダイエーファンに非はなく、ごく一部ダイエー首脳陣の問題+徳○さんの差別発言ですので騒動の詳細は触れません)

 

2001年ローズ打撃成績

打率.327

本塁打55

打点131

三冠王が狙えるポジションにあった時期もありましたがタイトルは

本塁打王

のみ。

(打率は4位、打点は中村紀と1点差で2位)

 

個人記録では新記録を打ち立てられなかったローズでしたが

念願のリーグ優勝

55号を打った試合での劇的なサヨナラ勝ち

など、充実のシーズンを終えました。

 

そして、打撃の勢いそのままに臨みたかった日本シリーズでしたが

自慢の打線がシリーズ通じて完全に分断

(5番礒部ヒットゼロ、6番吉岡ヒット1本)

ローズは一人奮闘し

打率.333本塁打2本

敢闘賞を受賞したもののチームは

1勝4敗

でいいところなくヤクルトに完敗

球団の悲願であった日本一

には手が届きませんでした。

過去近鉄が日本シリーズに出場したときは

江夏の21球

加藤氏「ロッテより弱い」発言

(↑実際はそんなこと言ってないのですが過剰な報道が招いた悲劇)

など、歴史に残る戦いの末

すべて3勝4敗

で負けていたそうなのですが、初めて第7戦を迎えることなく終了したシーズンでもありました。

 

この日本シリーズに関して記憶に鮮明に残っているのは

当時野球解説者だった

落合博満さん

が、シリーズ開幕前に勝負の分かれ目として

「近鉄打線が初戦に何点取れるか」

というポイントを上げたところ。

(打線を売りとしているチームだけに)

「負けてもいいから点が取れるかどうか。初戦に抑えこまれて苦手意識を持ってしまったら近鉄の負け。負けたとしても相手を崩すことができていれば本来の野球ができているのでたぶんシリーズは近鉄が勝つでしょう」

といった分析をしてました。

(たしかこんな意味合いの分析だったと記憶してます)

で、結果は

石井一古田のバッテリーに完璧に抑えこまれ1安打しか打てず

結果的にはあれよあれよでシリーズ終了となり、落合さんの言ったとおりに。

近鉄がいいところなく負けたのは悔しかったのですが

(もちろんこれがすべてとは言いませんが)

落合さんの着眼点には感心させられました

監督として成功する布石はこういうところにちゃんと出ていたのかもしれません。

 

 

話はそれましたが、こうして6年目のシーズンを終えたローズ

個人記録の更新

(=日本新記録)

球団の悲願

日本シリーズ制覇

に向け、

新たに再出発すべく7年目のシーズンへと向かうのでした。

 

~中編終了~

(後編へつづく)

 

 

なお、優勝を決めた日、フジTVのスポーツ番組に出演した際

「どうして、シーズン途中に髪型を変えたんですか?」

と質問されたローズ

「キブンテンカン」

通訳も介さず日本語でサっと答え、キャスターが笑いと驚きを見せたシーンはけっこう有名ですので一応ここでもアピールしておきます。ぜひ記憶の片隅にでも

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

最終回。最後はやっぱりこの人。

タフィ・ローズ(外野手)

 

1996年入団。96年といえば以前「C.D 」の回で紹介しましたとおり

95年まで第2期いてまえ打線を支えたラルフ・ブライアントリー・スチーブンスが揃って退団

当然ながらクリーンアップの一角を任せたいとの期待で入団してきた選手ではあったと思うのですが、

入団当初のローズの売りは

(もちろん長打力もありますが)

長いリーチを生かした広角打法と低めの変化球に対応できる(バットが届く)逆らわないバッティング

それと

メジャーで1番を打っていた経験もあるほど助っ人としては「走れる」タイプ。守備範囲の広さと強肩を併せ持つ

スラッガーというよりは攻走守3拍子揃った選手

でした。

 

ローズというと

シーズン55本の本塁打

ヒートアップして退場

と、どちらかというとパワフルなイメージを持たれがちですが、

 

非常に研究熱心

 

な選手で、

チームメイトと打ち解けるために日本語を積極的に使うようにする

(プライベートでは日本語、ビジネスでは英語と使い分けていたそうですが当時はそこまでは知りませんでした)

オープン戦の頃から対戦した投手のクセや球種、配球パターンなど事細かにノートにつけ続けていた

というのは、ファンの間では有名なお話。

そして年々打撃フォームも変化していくのですがまぁこれはまた改めて。

 

こうして、オープン戦からキッチリと結果を残したローズ

開幕戦でもタイムリーを放ち

96年近鉄の初打点

を挙げました。

開幕戦こそ4番は石井浩郎がおりましたので打順は5番でしたが

石井が故障で離脱してからは4番に居座りチームを牽引

野球に取り組む姿勢だけでなくしっかりと結果も残すことで首脳陣から高い評価を得るローズ

 

そして、伝説(?)の藤井寺デーゲーム

同点の9回ウラ

2アウト満塁で打席にはローズ

相手は西武のストッパー潮崎

フルカウントからの1球を見事に弾き返し満塁ホームランでサヨナラ勝ち

(打った瞬間打席内でローズがヘルメットを両手で高々と上げた不思議なパフォーマンスを見せたアレ)

ヒーローインタビューで

「ファンのみなさまにひと言」

の問いに笑顔で放ったこの言葉

ヨッシャ~

これでファンの心をガッチリと掴みました

 

(判定をめぐって怒りをあらわにするシーンもありましたが)

日本の野球を研究し、チームメイトとも打ち解け、ファンにも愛されたローズ

 

残念ながらチームはBクラス(4位)に終わりましたが

1年間主軸としてチームを牽引

打率.293

本塁打27

打点97

盗塁11

でチーム内四冠の成績。

(盗塁11がチーム1位というのもどうかとは思いますが)

それでも当のローズ

チームの勝利が一番

フォアザチームの精神を徹底していました。

 

翌年から本拠地が大阪ドームに移ることが決定していましたが

強肩として知られるイチローよりも捕殺数が多い

隠れ強肩選手だったローズ

守備力の面でもまったく問題なく当然ながら契約続行。

 

96年に在籍した助っ人外人で97年も契約続行となったのはローズだけ。

というわけで、

ホームが藤井寺だった頃のユニフォーム

(個人的にはコッチのデザインのほうが好き)

大阪ドームに移ってからのユニフォーム

(社会人野球みたいであまり好きではなかったやつ)

2種類のユニフォームを着た助っ人外人

ローズただ1人。ぜひ覚えておいてください。

 

そしてついに完成した大阪ドーム

こけら落としの一戦となった巨人とのオープン戦で

挨拶代わりの大阪ドーム第1号ホームラン

打ったのはローズ

でした。

(ちなみに公式戦第1号は鈴木貴久です)

当時の佐々木監督

桑田君が気をつかってくれたんでしょう」

(相手投手が巨人の桑田だった)

リップサービスしてましたが

記念の一発を打つべき人が打ったってところでしょうか。

  

こうしてオープン戦でも順調な仕上がりを見せ2年目のシーズンを迎えたローズ

前回紹介いたしましたクラークと最強コンビを結成!

中村紀が覚醒するのはもう少し先です)

助っ人コンビがいなかったらこのチームはどうなるんだ?

と思わせる活躍で打線を引っ張りました。

 

特にクラークが最初イマイチでしたが

打ち出の小槌

が出始めてからチームの成績もグングン上昇

ローズは1年通して安定した活躍

 

シーズン前半は借金生活に苦しんだチームですが

(調べましたら最大14)

最終的には貯金6まで巻き返し

リーグ3位

久しぶりにAクラス返り咲きを果たしたわけですが

ローズ(とクラークの活躍

抜きにしてこの年の近鉄は成り立っていなかったことは間違いありません。

たしかにこの年は

小池秀郎投手最多勝

岡本晃投手防御率リーグ2位

大塚赤堀必勝リレーの確立

投手陣にいい話題が多かったことも事実ですが・・・。

 

ローズ2年目打撃成績

打率.307

本塁打22

打点102

盗塁22

 

打率本塁打クラークに及びませんでしたがチーム打点王

盗塁昨年比2倍の活躍(外人でこれだけ走るのは近鉄としては異例中の異例)!

ただしこの年は

パ・リーグの規定打席に到達した選手で唯一年間併殺打ゼロ

という快挙を達成した俊足武藤がいたためチーム盗塁王獲得には至らず

 

 

ヒーローインタビューでも常に

「チームの勝利が第一」

フォアザチームをアピールし、チームメイトともすっかり溶け込み、ファンサービスも忘れずにしてくれるローズは既に近鉄にはなくてはならない存在にこの時点でなっていました。そして3年目へ。

 

しかし、落とし穴が。

 

シーズン当初はいつも通りの活躍を見せていたのですが

夏場を前にヒザを痛め思うような活躍ができず

たしかにこの年は前の2年に比べると開幕時から

ちょっと太ったかな?

と感じる体をしておりましたがそれが原因なのか全力プレーの連続が起こした悲劇か

ヒザの負傷で下半身のトレーニングがじゅうぶんにできなかったのでしょう

夏場を過ぎると明らかなブヨブヨ下半身に

(笑)

 

それでもローズの代役が務まる外野手なんているわけもなく、

休んで治療に専念する

なんて言って帰国する助っ人がいても不思議はないのですが

チームが休ませてくれなかったのか

本人が志願して出場し続けたのか

(真相は知りません)

ヒザの痛みと戦い、不本意ながらもチームに貢献。

これまでは3番か4番を打つケースがほとんどだったのですが

さすがにこの年は事実上の5番降格

本来のローズとは言えない苦しいシーズンを終了

 

打率.257

本塁打22

打点70

 

打率と打点は急降下。こうなると翌年の契約が問題に。

近鉄と契約更改

は、過去に多くの前科があるだけに

野茂石井etc.ケガを公傷と認めないケース)

(金銭面だけならトレーバーなど)

 

『できればローズに残って欲しいけど外人だと金銭でモメたり、ヘタすれば球団が解雇するかもしれないし・・・』

 

と、かなり厳しい見方をしていた私。

しかし、詳しい交渉の状況は知りません(難航したのかスンナリ決着したのか)が

推定で1億円以上あった年棒はダウンながら契約更改完了

(推定年棒で1億円を下回りました)

そして、ローズのコメント

あの成績で解雇せずに契約更改してくれた球団に感謝している

というもの。

なんとスバラシイ助っ人外人なのでしょうか!

球団側も研究熱心だったり親しみやすいキャラクターだったり

プレー以外での評価

が加味されてのものだったのでしょうが

まだまだ近鉄にはローズが必要

(年棒はダウンしてますが・・・)

と判断したのでしょう。

 

こうして、その感謝をプレーで恩返しすべく4年目のシーズンに向かうローズでした

 

~前編終了~

(中編へつづく)

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

ついにあと2人。となれば22回目はこの人

フィル・クラーク(内野手)

 

1997年入団。97年といえば本拠地が藤井寺球場から大阪ドームに移りユニフォームも一新。

助っ人野手も既に紹介済みのC.D が昨年それなりの結果を残したにもかかわらず解雇となり新たに獲得した選手がこのクラーク

 

クラークというと、かつてヤクルトスワローズ(当時の球団名)に

ジェラルド・クラーク

という選手がいましたが、この2人は実の兄弟。おそらく来日が決まった時点である程度は兄ジェラルドから

日本の野球

についてアドバイスを受けていたとは思います。

 

こうして近鉄の一員として活躍が期待された弟、フィル・クラーク

大阪ドームコケラ落としとなったオープン戦はTV中継されていたのですが、解説の掛布さんに

「インコースをうまく捌けそうなバッティングで成績を残しそう」

というような評価を受けていたように思いますが、オープン戦を通じての成績はイマひとつ。全然打てないというわけではありませんでしたが「安打量産」するわけでもなく、なにしろ「ホームラン」があまりなかったので

近鉄というチームカラー

にどこまで合うのか?と半信半疑。

オープン戦では4番にローズがいたから別としましても、打順は5番6番というあたりを打つ機会が多くスラッガーとしての使われ方をされてない場合がほとんど。

さらに、以前ミラッキ の回で書きました評価。

 

~一部抜粋~

ベースボールマガジン』の新外人採点のコーナーで、

日本の野球に対応できる。活躍するでしょう』というような評価がされたこともあり

 

ホントか~?

ローズもいるし過度の期待はしないほうがいいかなぁ

 

というのが率直な印象。

実際にペナントが開幕してからも正直なところ成績はイマイチ

打率は.250~.265くらいを行ったり来たり。ホームランもボチボチ。

 

数字だけなら去年のC.Dのほうが良かったんじゃないか?

 

と私自身勝手に見切りをつけたくなったところから変化が。

 

打ち出の小槌

 

とも評されたバットから出るわ出るわ安打の山

ちょうどアンダーシャツが半袖でも寒くなく過ごせるくらいの時期でしょうか。

たしかにミートが上手かったのは間違いないのですが、不思議なくらい野手のいないところに打球が飛んでいき安打を量産

それに伴い本塁打も出始め成績は全体的に急上昇

終わってみれば

打率.331

本塁打23

打点93

※打率はイチローに次ぐリーグ2位

というナイスな成績で97年を終了(一塁手としてベストナインにも選出)。

そして特筆すべきは

四球と三振の少なさ

と、

併殺打の多さ

 

同年活躍した最強助っ人ローズと比較しても

四球数はローズの約1/3

三振数はローズの約半分

併殺数はローズの約3倍

 

それでいて年間打率が.331ですからねぇ。

ストライク3つかボールが4つ来る前に決着をつける

よもすれば「早打ち」と言われそうですが、これだけの打率を残していれば文句はつけられないでしょう。

 

まぁ早い話

ミートが物凄く上手い

選手なのですが

足が他の人よりちょっと遅い

(苦笑)

 

これは近鉄ファンの方が作っていたHPの言葉をそのまんま拝借するのですが

日本一美しいショートゴロゲッツーを打てる選手

でした。

このフレーズは皮肉と敬意の両方を込めて私自身も大好きなキャッチコピーです。

ホントにキレイなんです。芯でとらえた鋭いショートゴロ

絵に描いたような6-4-3

もちろんそれを補って余りあるキレイなヒットがあるからこそこんなことが書けるわけでありまして。

 

併殺打はさておきこれだけの結果を残した優良助っ人。当然契約続行で2年目に突入するわけですが、

2年目のクラーク。オフを過ごして再来日すると

体がひとまわり大きくなって帰ってきました。

贅肉ではなくもう一段階筋肉をつけて!

というわけで、2年目はさらにパワーアップ。

 

今度は開幕から安定した活躍を見せ更に長打力もプラス。

スプレーヒッター

というのはクラークにピッタリの言葉。

ストレート・変化球

内角・外角

高め・低め

さまざまな球種にしっかりと対応。

球に逆らわないしなやかなバッティングと状況に応じた仕事

をキッチリとこなし

一二塁間・三遊間・ニ遊間・左中間・右中間

どこにでもキレイなヒットを量産

さらにこの年はヒザを悪くし調子が上がらないローズに代わり

4番の重責

を果たしました。

 

打率.320(リーグ3位)

本塁打31(リーグ3位)

打点114(リーグ2位)

※首位打者イチロー、本塁打・打点はウィルソン

 

惜しくもタイトルには恵まれませんでしたが、

主要3部門すべて3位以内

さらに

放った2塁打48

当時のプロ野球記録

と、この年12球団で一番活躍した助っ人と言っても過言ではないでしょう。

ちなみにこの年も一塁手でベストナインに選出されています。

なお、併殺打は1年目に比べれば少し減ったもののチーム内ではトップ。

ミートの上手さと足の遅さ

は相変わらずでしたが、長打力まで兼ね備え打撃に関してはほぼ完全無欠

 

右打ちのクラーク

左打ちのローズ

バランスもとれた誰もが認める最強助っ人コンビとして君臨します。

 

もちろん続く99年も近鉄の主軸として契約続行。

しかしクラーク自身3年目のシーズン。

年々腕っぷしも太くなり凄みを増して来たことは間違いないですし、

他球団の助っ人に比べれば巧打と長打力の魅力

一枚抜けていたのですが

少し雑なバッティングが顔を出す

ようになりました。

打ちたい気持ちが先行

し始めたのか、

アウトコースの球を強引に引っかけて三ゴロ、遊ゴロ

高めストレートに無理に手を出し詰まったフライ

など、簡単にアウトになるシーンが目立ちはじめ

それにイライラしてきたのか

死球に対しピッチャーを睨みつけたりピッチャーに詰め寄る場面も

 

それでも助っ人外人としての成績は上級クラスなのはさすが。

打率.287

本塁打29

打点84

で、3年目のシーズンを終了。

なんだかんだでこの年も「指名打者」としてベストナインに選出。

3年連続でベストナインの快挙達成

 

それでも当時の佐々木監督

3年目の浮気

と表現され、

この成績でもクラークとしては物足りない

それだけクラークへの期待というか

3割30本は打てて当たり前

という評価の高さをうかがわせました。

 

佐々木監督が就任してから主軸として活躍した

ローズクラーク

2人とも来日3年目のシーズンに成績を落としたことを受け

(98年ローズの3年目)

(99年クラークの3年目)

『3年目の浮気』じゃないけどウチの助っ人は3年目で楽をしちゃうのかなぁ」

と、99年に発言したが、これは期待の大きさの裏返しと見るのが妥当でしょう。

 

そしてこの年は

3年目の浮気

から復活した4年目ローズ

本塁打・打点の二冠王

に。

投高打低傾向だった当時のパ・リーグ

ローズ40本

中村紀洋31本

クラーク29本

3人合わせて本塁打数ピッタリ100本

の快挙達成。最強クリーンアップを完全に定着させた年でもありました。

チームは残念ながらリーグ最下位

に沈んだのですが

上記3名がベストナインに選出。

三塁手中村紀、外野手ローズ、DHクラーク

最下位のチームから3人ベストナインが出るというのは史上初

という珍事というか不名誉な記録もくっついてきました。

(この3人の得点をすべて吐きだすほどの投壊っぷりが目立った年でした)

 

3年連続ベストナインの選手ですのでもちろん翌年も近鉄の選手として活躍

といいたいところでしたが

雑な部分が引っ込むことはなく

スラッガーとしての存在感

はサスガで、警戒されていたということもあったのでしょうけど期待されたほどの結果が出ず。

そして

死球が原因で骨折

出場66試合

打率.258

本塁打10

打点33

の成績を残しシーズン途中で戦線離脱となり帰国

 

それでも最強クリーンアップの一角。

復帰を願い選手は帽子やヘルメットにクラークの背番号

25

を貼り復活を待っていたのですが

(この時期はどの球団も離脱した主軸選手の背番号を貼る作業が流行っていた気がします)

クラークが日本に戻ってくることはなくこのまま退団

20世紀終盤のバファローズを支えた主砲はあっけない形で幕引きとなってしまいました。

 

 

それでもこれだけの結果を残してくれた選手。近鉄の歴代を通算しても

上位十傑には入るであろう助っ人強打者

当然列伝で外すことはできません。今回の紹介に至りました。

 

主要タイトル獲得はならなかったものの安定した成績でベストナインに選ばれること実働3年半で3回

すばらしいバッターであることは疑いようのないところですが

オールスター出場が1回もない

という運のなさ。これは

同僚のローズがファン投票で選出

され

外国人枠の兼ね合いもあり監督推薦で近鉄から2人外人を出すことが困難だった

ことに他なりません。

真剣勝負を離れたお祭り行事

クラーク自身好きだったかどうかは知りませんが

これだけ成績を残してもオールスターに出たことがない選手

というのは珍しいのではないでしょうか。ちなみに

ローズクラークは試合前のキャッチボールなどでも必ず2人でやっていたり

たいていの場合は一緒に談笑していたので、

こういった事象があったからといって2人の仲が険悪になる

ということはなかったと思います。

 

そしてクラークの功績というか成績以上に忘れてはいけないのが

中村紀洋が主砲として成長してきたこの時期に

4番としての存在

を手本として見せてくれたこと。

ローズに対しても同様のことが言えます)

これは2000年以降現在の中村紀洋を語る上

絶対に無視することができない事実

だと確信しております。

荒削りで振り回すだけのバッター

から

安定した主砲

へと進化していく段階で

ローズクラークの存在

がどれだけ中村紀洋にとって心強かったことか。

4番としての手本

「最警戒」が自分以外のところに向くので主砲としての仕事を求められながらも比較的自由に打撃に専念できた

この話を出す時によく例え話で

3番松井秀喜

4番落合博満

を使わせてもらうのですが、これと同じだと思います。

中村紀洋成功の陰にはローズ・クラークの存在が大きく関与していた

私が力説せずとも当たり前といえば当たり前ですが、ここでも力強く訴えていきたいと思います。

 

あと、もう1点訴えておきたいといいますか。ちょっと変わった一面を。

足が他の人よりちょっと遅い

そのため

併殺打が他の人より多め

という話は先に述べたのですが、実はこの選手

スライディング技術だけは一級品

なんです。

実働3年半で盗塁が5

それに付随して

守備もちょっとだけお粗末

といった欠点(というほどでもない)を持っていたのですが

ベースに向かって滑り込む姿

はとてもキレイで、見た目に似合わず

タッチを掻い潜るために左右に逃げながらスライディング

とかも器用にこなしたり。器用な反面

「楽々セーフ」

と思われるシーンでも冷や汗もののタイミングになることもありましたが、そこはサスガのクラーク

一流のスライディング

良くも悪くもファンを魅了してくれました。

(^-^;

 

 

最後に私自身の思い出として忘れられないというのでしょうか。

私が観戦に行った試合でとにかく打ちに打ちまくった助っ人

として心に残っております。

もともと打率が高いのですが、相性というか巡り合わせがいいというか。まさに

打ち出の小槌

が炸裂してました。勝ち試合はもちろん以前ミラッキ の回で紹介したようなボロ負け試合の日も

クラークだけ2本ホームランを打って奮闘

してくれたり

わざわざ○庭君と大阪ドームまで試合を観に行った時は

4打数4安打(うち2塁打が3本)

で、試合がワンサイドゲーム(近鉄ペース)になったのでお役御免で途中交代になったり。

要所で登場すればしっかりとタイムリーや犠牲フライを打ったり

本当に面白いくらい打ってくれまして、観戦を楽しいものにしてくれました。

※ちなみに私が観に行って不思議とよく打ってくれる3大選手は

クラーク・北川・中村紀

でした。懐かしいです。近鉄戦。楽しかったなぁ~~。
 
 

骨折がきっかけで

帰国→退団

となったクラーク。あれだけの成績を残した選手だったのですが

その後どこかで活躍したという話

全然聞きません。もしかしたら

選手生命を断つくらいの重傷

だったのかもしれませんが真実はわかりません。

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

21回目はこの選手を

ジェレミー・パウエル(投手)

 

日本語表記の問題で「ジェレミー」と「ジェルミー」2種類の表記がされますがここでは「ジェレミー」で統一いたします。

2001年入団。以前紹介いたしましたバーグマンギルバートと同様シーズン途中からの入団選手。

 

特徴的なフォームから繰り出されるストレートと落差のある大きなカーブ

フォームは既に紹介済みのアキーノ投手のオクトパスのように球離れが遅く腕が後から出てくる感じで

フォーム+球速の変化

を駆使してタイミングをズラし三振を取っていくタイプだと記憶しております。

 

こうしてシーズン途中入団ながら先発投手陣が手薄なチーム状況を救い2001年のリーグ優勝に貢献

継投

を勝ちパターンにしたこのシーズン。いかに

先発→中継ぎ(多数)→抑え(大塚

とつないでいくかが課題だったわけですが

登板数14

4勝

防御率4.95

で2001年シーズンを終了。

何といっても先発ローテーションに入りながら

完投0

中継ぎに交代するまでに最低限試合を作ることはできたのかもしれませんが、同年活躍した助っ人投手バーグマン

登板数18

10勝4敗

防御率4.18

だったのに比べるとちょっと霞んでしまう数字。

それでも安定感があったのか野球に取り組む姿勢が認められたのか首脳陣の評価はパウエルのほうが上だったようで

同年の日本シリーズでは堂々の開幕投手

をつとめました。

1戦目パウエル

2戦目岩隈

3戦目バーグマン

4戦目前川

5戦目パウエル

1勝4敗日本シリーズが終了したため先発を2回任されたのもパウエルただ1人

結局パウエル2敗を喫したわけですがこのシリーズは自慢の打線が沈黙。たしかに失点も多かったとは思いますがパウエルだけでなく勝ちに結びつかなかったのは決して投手だけの責任ではなかったと思います。

 

こうしてバーグマンと共に2002年も契約続行に。

しかし、2002年も中継ぎ・抑えのスタッフに比べて相変わらず手薄な先発投手事情

この年からいよいよ

エース岩隈

が覚醒してくるのですが、シーズン当初はまだまだ「先発ローテーションに入るかどうか」というくらいの評価。助っ人2人には先発投手陣として当然かかる期待が大きかったのですが

開幕投手こそ前年10勝を挙げたバーグマンに譲ったものの2002年シーズンは「先発の軸」として大活躍

2度の月間MVP獲得を含め1年間通して安定した成績を残し

 

登板数32

17勝10敗

防御率3.78

 

で、パ・リーグの最多勝に。更に

奪三振182

もこの年のパ・リーグでトップの成績。

チーム内での成績比較をしても

17勝と奪三振182

は当然1位。

防御率こそ岩隈にチョコっと負けてますが

投球回数はダントツ

216回2/3

(岩隈は141回1/3)

完投5(うち完封が4回!)

もダントツ1位。加えて

無四球試合が3

と、三振を取るだけでなくコントロールも兼備。

継投

で凌いできたチーム事情の中で

久しぶりに1人で試合を任せられる本格投手

として文句ナシの成績をおさめました。

 

当然のことながら翌年も契約続行。

2002年の成績を踏まえても

文句ナシ2003年シーズンの開幕投手

を任されるなど、この年も先発投手としてフル回転。

 

以前バーンの回で書きましたとおり

2003年は守護神大塚の退団があり

先発投手にできるだけ投げてもらいたい

というチーム事情が加わった中、

22歳にしてついに頼れる先発投手になった

岩隈久志

との2枚看板で投手陣を牽引。

 

パウエル

登板数28

14勝12敗

防御率4.13

投球回数196回

奪三振165

 

岩隈久志

登板数27

15勝10敗

防御率3.45

投球回数195回2/3

奪三振149

 

2人仲良く(?)似たような成績でチームを引っ張りました。

この年のチーム成績が

74勝64敗2分

ですので数字だけなら2人で作った

貯金7

がそのまま成績に直結。

先発にかかる負担が多くなったこの年、

1年間ローテーションを守り通した

点は、成績以上にチームへの貢献度大

今更言うまでもありませんが

晩年のバファローズはこの投手ナシには成立しなかった

と言えるでしょう。

 

2004年も岩隈との2枚看板で

と言いたいところでしたが、

慢心したのか投球が雑になったのか

打撃での援護がもらえなくなったからか

恐怖の守護神カラスコに勝ちを消されたのか

登板数24

8勝8敗

防御率3.90

投球回数170回2/3

奪三振112

と成績を落としました。

バーンの回で書いたとおり

ローズ退団などで攻撃力が弱くなった

カラスコに勝ちを消される

といった諸事情はあったものの

防御率3.90

が示すように

8勝8敗

という成績よりは活躍を見せていたとは思いますが、

奪三振112

と例年に比べ半減とはいいませんがかなり数字が落ち始めていたことも事実。

 

2004年は岩隈最多勝を獲得したのでなおさらパウエルの活躍したシーンが目立つことなくシーズン終了。そして

2004年シーズン終了をもって大阪近鉄バファローズはチームとして消滅

オリックスと合併し新たなスタートを切ることに

 

パウエルはといいますと

投手としての評価は落ちていなかったようで

登録名「JP」として新オリックス・バファローズの一員

として新たなスタートを切ることになるのでした。

 

晩年のバファローズ投手陣を支えた本格派助っ人。

先にも書きましたが

2001年以降近鉄投手陣はパウエルなしには成立しなかった

といって間違いないと思います。

そして私が近鉄ファンだった間、助っ人投手といえば不作続きリーグを代表するような投手とは無縁な状況が続いたのですが、

(間に何人かチーム内で戦力になった投手はいるものの)

近鉄を応援してきた時代の中で

最多勝というタイトルを獲得した助っ人投手はパウエルただ1人

観戦した試合で特別な思い入れができたとかそういうことはないのですがこれだけの実績を残してくれた選手を紹介しないわけにはいきません。今回の紹介に至りました。

 

思い出ではありませんが、印象に残っている出来事としては

2001年リーグ優勝を決めた試合

北川選手

代打逆転サヨナラ満塁ホームラン

をかっとばしたわけですが、

・ベースを回っている北川に駆け寄る選手

・ベンチ前で抱き合って喜び合う選手

・スタンドに向かって喜びを爆発させる選手

北川選手がベースを回っている間、いろいろな選手がいたわけですが

一番遠く(2塁キャンバス)まで北川を追いかけて北川に向かって興奮気味に何か吠えていた

のがパウエルでした。

(軽く審判に制止されてましたがまぁこんな時くらい無礼講で・・・)

けっこう熱い男だったのかもしれません。

 

 

 

※ちょうどタイムリーな話題になりましたが

オリックス→巨人と渡り歩いた後、現在「二重契約」問題で野球界をお騒がせしている同投手。

猛牛の血をもつ選手もだんだんと少なくなっていく中、タダは終わらないようで・・・

「今後同様の事件を起こさないためのいい見本となった」

と解釈すればいいのかもしれませんが、世間一般の目からすればやっぱり

『お騒がせ野郎』

となってしまうのでしょうね(苦笑)

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

節目の20回目はこの選手

ラルフ・ブライアント(外野手)

 

1988年入団。とはいうもののシーズンの最初からいたわけではありません。

以前デービス の回で紹介しました通り、シーズン当初は

デービス・オグリビー

の助っ人コンビだったのですがデービス

大麻栽培&所持の容疑で逮捕

新たな助っ人外人を獲得できる期限がすぐそこまで来ていたこともあり、海外に探しに行くのではなく

中日ドラゴンズの2軍にいた外人助っ人を獲得

こうしてシーズン途中の入団となったのが

ラルフ・ブライアント

 

ここでよく言われるのが

中日の2軍でくすぶっていた外人選手を獲得

という書かれ方。

しかし、実際はちょっと勝手が違うようでして、

当時のルールで助っ人外人は投手・野手合わせて2人までしか1軍登録できない

中日には郭源治・ゲーリーという実績ある選手が1軍にいたためブライアントが入る隙間がなかった

結果的に2軍暮らし

になっていただけであって

中日首脳陣からも打者としての評価は高かった

ようです。実際に近鉄に金銭トレード話があった時に

2軍監督はじめ、コーチ陣からは反対の声があがった

そうで、中日サイドとしても

決してダメ外人と判断しての放出ではなかった

ということは前置きさせていただきます。

 

こうして近鉄に入団することとなったブライアントですが、今までの鬱憤を晴らすかのように移籍してから打ちに打ちまくりました

(変化球でかわすピッチングが主流だったセ・リーグと違い速球でグイグイ押してくる豪腕派が多かった当時のパ・リーグが合っていたということも手伝ったと思われる)

88年といえば

伝説の川崎球場ダブルヘッダー

2試合目時間切れ引き分けにより惜しくも優勝を逃す

劇的なシーズンでしたが

出場74試合ながら

打率.307

本塁打34

打点73

という成績で大暴れ。仮に130試合換算すると

本塁打60本ペース

という驚異的な成績で存在感を示し、優勝はできませんでしたがドラマチックな88年シーズンはこの選手抜きには語ることができない存在となりました。

 

1年間フルに出場したらどうなるんだ?

と、期待と不安が混じった2年目も大活躍

打率.283

本塁打49

打点121

見事にホームラン王を獲得。特にこの年ファンでなくても衝撃を与えたのは

西武とのダブルヘッダーで2試合にまたがり4連続ホームランを決めリーグ優勝を決定づけたあの試合

中でも1試合目は

ソロ→満塁→ソロ

3打席連続。この試合の近鉄の全打点をブライアントのホームランで取るという離れ業を演じました。

この試合の3本目のホームラン(ソロ)

速球派として全盛だった西武渡辺久投手

「絶対に打てない」

と自身を持って投げた速球を

ライトスタンド上段に突き刺し、ガックリとマウンドで膝をついたシーン

後に日本球界を引退する時に打たれた渡辺久

「現役生活で一番印象に残った出来事」

として語ったことで有名なおはなし。

 

そして残念ながらその年の日本シリーズでは

伝説の3連勝4連敗

で日本一になれませんでしたがこの年の

パ・リーグMVP

に選出され、完全に近鉄に無くてはならない存在になりました。

更に忘れてはいけないのが三振

ホームランキングを獲得したこの年、

年間三振187

という当時の新記録を打ちたて

ダントツの三振王

にも輝き?

ホームランか三振か

というイメージを確立させ始めた年でもあります。

 

3年目以降はちょっと打撃が雑になり?打率は急降下。ますます

ホームランか三振か

のキャラ色が強くなり、

90年29本塁打198三振

(三振日本記録更新)

91年22本塁打100三振

(ヒザの故障で出場63試合だったのでシーズン換算だと45本塁打206三振ペース!!)

92年38本塁打176三振

ケガでシーズンの半分を棒に振った91年を除けば

89年~三振キングの座に君臨

しかしながらホームランはそれを補って更に余るほどの魅力。派手な花火を多く打ち上げてくれたのですが

この3年間は西武のデストラーデがホームランキングに君臨

バット折りのパフォーマンスも手伝い三振のほうが際立つ選手になりました。

 

そして1993年。

この年は42本塁打で2度目のホームランキングに輝きます。

更に107打点でブライアント自身初の打点王にも。

が、

それと同時に

年間204三振

で、三振王にもなりついに200の大台を突破

歴代のシーズン三振記録を振り返っても200以上の三振はブライアントだけ

それだけ積極的に打ちに行っている証拠でもあるわけですが

ファンとしては三振ばかりで歯痒いシーンも多かったが当たればピンポン球のように弾け飛ぶホームランは特筆モノで、スリリングなスラッガー、見ている者を魅了し続けたすばらしいホームランバッターでした

 

翌94年も

35本塁打で3度目のホームランキングを獲得

そして久々の巧打も復活(苦笑)

打率.293

と高い打率を誇り、年間三振も

153

ブライアントにしては少なめな数字。

それでもダントツの三振王でした(笑)

ちなみに1994年といえば、

イチロー初のシーズン200安打以上を記録しフィーバーした年。

この活躍の陰に隠れていますが

ブライアント(本塁打王)が

打率.293

本塁打35

打点106

石井浩郎(打点王)が

打率.316

本塁打33

打点111

と恐怖の3番4番を形成し、第2期いてまえ打線を確立。他球団の驚異となったのはいうまでもありません。

 

実働7年のシーズンを終え、ただ振り回すだけではなく巧打の復活で

ベテランの味

も追加。まだまだ近鉄にブライアント健在を感じさせてくれたのですが

 

1995年

豪打も巧打も完全にナリを潜め

打率1割台

と大不振。さらに故障を発症。シーズン途中でしたが帰国。そのまま退団となってしまいました。

 

長きにわたり近鉄打線を引っ張り続けた助っ人はついに近鉄のユニフォームを脱ぐことになりました

 

・打ち勝つ野球が信条のチームカラーを象徴するような打撃

・ホームランか三振か。派手なパフォーマンス

(本塁打王通算3回、三振王通算5回)

 

ファンでなくてもその存在を知らぬ者ナシ

のバツグンの存在感。近鉄助っ人外人の歴史を語る上でこの人を抜きに語ることはできないでしょう。

20番目と遅い順番になってしまいましたがようやくの紹介に至りました。

個人的にも一番近鉄に魅了されていた頃に活躍した選手。思い出深いです。 

 

余談になってしまいますが

無冠の帝王

というあまり嬉しくない称号を持つ

清原和博選手

通算本塁打数は2006年シーズン終了時点で

王貞治

野村克也

門田博光

山本浩二

に続く歴代単独5位。これだけのスラッガーなのですが、

獲得した主要タイトルが一つもない

という清原選手。その原因のひとつは

デストラーデ

ブライアント

といった更に上を行く強力スラッガーがいたことでしょう。

 

特に

清原選手西武ライオンズ時代充実期だった(と思われる)時期は

デストラーデ3回(90~92年)

ブライアント3回(89年、93年、94年)

6年間にわたってこの2人でキングを独占

デービス 落合・ブーマー3冠王の前に無冠で終わったように

時代のイタズラ

としか言いようがありません。

 

 

そんなパ・リーグの顔でもあったブライアントですがこの選手を語る上で忘れてはいけないのが

三振後にヒザでバットをヘシ折る

パフォーマンス。珍プレー好プレーでもたびたび登場したシーンではありますが、それ以上に

いくつもの野球ゲームでこの演出を採用

(三振した選手がバットをヘシ折る)

していることのほうが、与えた影響は大きいでしょう。

オグリビー バットクルクル回し

と同様、ゲーム業界にも影響を与えた選手。こういうインパクトの強い選手がパ・リーグには多かったです。

※その他の演出※

阪急アニマル(試合終了後の暴走)

西武秋山(ホームベース上でバック転)

西武デストラーデ(ホームラン後のパフォーマンス)

日ハムウィンタース(変装・コスプレ)

ロッテ諸積(雨の日はベースランニングでホームベースヘッドスライディング)

などなど同時期だけでも多数。

 

 

これ以外にも

説明不要なブライアントの残した足跡

・東京ドーム天井のスピーカーに直撃。東京ドーム唯一の認定ホームランを打った

(設計上は170mくらいの弾道でなければ当たらない計算らしいです)

・年間三振記録1位~4位はすべてブライアントが独占

(通算5回の三振王はシーズン記録1位、2位、3位、4位、9位)

更に年間200以上の三振記録は日本だけではなくアメリカメジャーリーグを入れてもブライアントだた1人

(ともに2006年シーズン終了現在の記録)

・89年ダブルヘッダー4連発を決めた際のヒーローインタビューでの一言

「アンビリーバブル」

(発音的にはアンビリーバボー

がこの年の流行語に選出された

・福岡ドーム公式戦第1号ホームランを打つ

(福岡ドーム建立当時、両翼も広くフェンスも高いことから「ホームラン数が減るのでは?」と危惧されていた中でリーグ屈指の打者が打った)

・節目の本塁打記録(100号・150号・200号・250号)の史上最速ペースを塗り変え続けた

(100号だけは1試合差で死守したが150号・200号の記録は西武カブレラ更新された。250号はカブレラとタイ記録で保持中)


 

と、多種多彩。

更に

・「オレのことを『エディ』と呼んでくれ(外見がエディ・マーフィに似ていると自分で思っていたので)」

とチームメイトに言っていた

・解雇された95年オフのファン感謝デーに呼ばれていないのに飛び入りで参加。ファンを喜ばせた

 

とオチャメというかプライベートでもチームメイトやファンを大切にしていたブライアント

 

記録ももちろんながらインパクトの強い選手として日本球界に残した功績は大きいと思います。ファンを自負する私としても本当に偉大な選手であったと思います。

 

▲補足▲

この記事を書くに当たってデータを調べた際に初めて知った事

(それまでは以下の事実は知りませんでした)

・1試合3本塁打通算8回の世界記録保持者

・移籍した当初からホームランを打ちまくったブライアントですが、なぜか2ランホームランが多く「ミスター2ラン」と呼ばれていたらしい

 

ブライアント8年間の通算記録

出場試合数773試合

打数2980

安打778

本塁打259

三振1186

通算打率.261

単純換算すると・・・

1試合平均1本はヒットを打っていた

(意外にも打っている??)

確率的にはヒット3本打てば1回はホームラン

(さすが!)

5回打席に立てば2回は三振

(さすが!!)

1年や2年での結果ではなく8年もの積み重ねで作った成績でもこの確率

 


数字が示す通りやっぱりインパクトのある素晴らしいバッターでした。

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います

 

前回より間隔が空いてしまいましたが19回はこちらの選手

ヘクター・カラスコ(投手)

 

2004年入団。前回の列伝 で少し書きました通り守護神大塚晶文が2003年シーズン開幕直前に中日に移籍。守護神欠落で苦しんだシーズンを補強すべく獲得した助っ人。

 

MAX150kmを超えるストレート

 

を持ち味に力で抑える本格クローザーとしてかかる期待も大きかったわけですがシーズンが始まると違う意味で

恐怖の守護神

としてチームに君臨します。それは・・・

 

度重なる救援失敗

 

に他なりません。

球威はたしかにある。球速も150km前後しっかりと出ますしまったく話にならないピッチャーではないのですが投球パターンが単調なのか狙い球を絞られていたのか(フォームで球種がバレていた?)メンタル面に問題があったのか

とにかくよく打たれました(笑)

で、「ダメ助っ人」と烙印を押され解雇となればそこで終わりだったのですが

これだけ打たれても梨田監督

 

ストッパーはカラスコでいく

 

と断言。しかしながらその後も相変わらずよく打たれ(苦笑)

<調査の結果>

クローザーにも関わらず4月の段階で

5敗

防御率20.00

 

さすがにこの成績では梨田監督も断念せざるを得なかったようで

クローザーを降格

 

それでもここで終わらないのがカラスコのスバラシイところ

セットアッパーに転身してからは不思議と成績が安定

主にクローザーにつなぐセットアッパー(場合によってはロングリリーフも)として存在感を発揮。

 

カラスコが抜けたクローザーの安定した後釜が出現しなかったので

時にはクローザー

時にはセットアッパー

時にはロングリリーフ

として最終的には(活躍と言い切れる成績ではありませんでしたが)フルシーズン投手陣を支えました

 

で、2004年最終成績は

登板数53

8勝8敗5セーブ(SP13)

防御率5.57

にて終了。

 

4月で早くも5敗した割には最終成績が8敗で終わっているのでその後の安定感(というほどのものではありませんが)は窺い知れます。

 

それでもクローザーのくせに

たったの5セーブ

特筆すべきは

8勝

これはリードして登板した時に

同点もしくは逆転を喰らい前を投げていた投手の勝ちを消す

その後チームが再逆転

カラスコに勝ちがつく

というカラクリで挙げたもの。

2004年は最終的にリーグ5位に終わったのですが

悲しいかな8勝はチーム2番目の勝ち数

(1位は最多勝の岩隈

13SPは何とチーム1位のポイント

(2位は最終的にクローザーとして10セーブを挙げ投手陣をまとめた福盛12SP

 

数字だけはチーム上位に顔を覗かせたものの

防御率5.57が証明するように数字以上に役に立てなかった助っ人カラスコ

登板数チーム内2位

勝ち星チーム内2位

負け数チーム内2位

SPチーム内1位

 

チームに迷惑をかけたり要所を締めたりといろいろな意味でお騒がせだった投手。

 

実際に9回に

ピッチャーカラスコ

がアナウンスで告げられると

 

近鉄側からはブーイング

相手チーム側から拍手喝采

 

となっていた始末。ファンからも半ば見捨てられたような存在ではありましたが

2004年シーズン終了後チームの消滅に合わせてカラスコは解雇。

 

 

私自身もそれほど印象に残る登板や実際に観戦に行った時に思い出となる出来事があったわけではありません。

ではなぜこの選手を列伝に取り上げたのか?それは、

 

近鉄合併問題の際に率先して署名活動に参加した優良外人だから

 

署名活動は選手会が行っていたので(選手会に属さない)助っ人外人は通常こういった活動に参加することはないそうなのですが、カラスコは近鉄のチームメイトと共に署名活動に参加。更に自らがメジャーリーグ在籍時代に起きたストライキの経験を選手にアドバイス。球団の存続がかかった大事な事象とはいえ親身になって真剣に考え行動したスバラシイ助っ人であったということはしっかりとお伝えしたいと思い列伝での紹介に至りました。

 

これで成績まで一流なら文句ナシだったのですが。

なかなかそんなうまいお話はないようで・・・。

 

ちなみに余談ではありますが以前マリオ の回で

近鉄最後の年の途中入団助っ人ということで・・・

近鉄の歴史の中でも一番最後に入団した助っ人外人

マリオだということはお伝えしましたが

 

近鉄の助っ人投手で一番最後に入団

 

したのはカラスコです。一応お見知りおきください。

  

 

さらにさらに、これは恥ずかしながらこの列伝を書くまで知らなかったことですが

カラスコが度重なる救援失敗したことから転じて

救援に失敗することを

スコる

と呼び、一部プロ野球ファンの間では実際に使われていたようです。

(今は使われているのでしょうか??)

 

近鉄選手の名前が後世に伝えられるのであれば不名誉なことであろうと

球団が存在したことの確かな証明

まだこの用語を使ったことがない方はコレを機にぜひ

スコる

を使ってみてください。

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います

 

久々掲載の18回はこの選手

ケビン・バーン(投手)

 

2003年入団。相変わらず苦しい先発投手事情を埋めるべく獲得した投手。2003年当初は信頼をおける先発がパウエル2002年最多勝)しかおらず(後のエース岩隈も伸び盛りながら軸にはなってません)当然先発ローテーションを担ってほしい存在として期待されました。

さて、そんなバーンですが、プロフィールによれば

身長193cm

という長身選手。しかもあまり幅のない体型で数字以上にスラっと大きく見える選手でした。投球スタイルも長身を生かしたストレートとキレのいいスライダー、落差の大きいカーブという正統派投手。140km後半ストレートMAX150kmを超えることもあった)とカーブのコンビネーションは絶妙で

・高目のストレートで空振り

・インコースへのストレートで差し込む

・低めのカーブ、外へ逃げるスライダーで空振り

・タイミングを外したカーブで泳がせる

と、打ち取るパターンもさまざま。

 

そして優勝した2001年はもちろん、2002年まではこの列伝で何度も書いているとおり

継投

が近鉄の勝ちパターンだったわけですが

絶対的な守護神大塚晶文(当時の登録名)

ポスティング云々の問題から中日へ移籍。クローザーを失ったことにより

できることなら先発投手にできるだけ長く投げてもらいたい

という投手事情に変更を余儀なくされた2003シーズンでした。もちろんセットアッパーは昨年までの流れを汲んで右も左もたくさんいたのですがいざクローザーを任せるとなると信頼できる投手がなかなかいないというのが現実でした。

 

そんな中バーン

2002年最多勝・2003年開幕投手パウエル

ついに頭角を現し安定したエースへ成長岩隈久志

シーズン当初は中継ぎとして起用されたりもしましたが途中から上の2人に次ぐ第3の先発投手として活躍。

登板30試合

8勝7敗

防御率4.37

という成績で2003年シーズンは終了。

 

成績だけ見れば大活躍とはいえませんが

・一応パウエル岩隈に続くチーム3番目の勝ち数

・先発起用後は安定した成績

・まだまだ20代後半で伸びる可能性がある

そしてなんといっても

西武キラー

などなどの評価があったと思われますが来シーズンも契約続行。

 

いろいろと調べましたらバーン自身真面目な性格で研究熱心だったそうで日本の野球に対応すべく

クイック投球

を取り入れるなど投球も変化。慢心して成績が悪くなる外人投手は過去の歴史でも数多くいるとは思いますがバーンは2004シーズンになっても安定感は衰えませんでした。

 

しかし、2004年はチーム自体が大きく退化(笑)

マリオの回で書いた内容と重複しますが

主砲ローズ退団

中村はケガで本来の活躍ができず

吉岡がオープン戦でアキレス腱断裂

自慢の打線が完全に沈黙。チームも5位に低迷。

登板27試合

6勝8敗

防御率3.89

という成績でバーンの2004年は終了。数字の上では2003年よりも悪くなっていますが

バーンだけに留まらず

1~3失点でも打線の援護がなく勝ち星がつかない(下手をすれば負け投手になることも)

恐怖のストッパー(笑)カラスコに勝ちを消される

カラスコにつきましては紹介の予定はなかったのですが簡単に後日紹介しようと思います)

 

岩隈は見事に最多勝を獲得しましたがそれ以外の投手は軒並み成績を悪くしました。

そしてバーンも成績を落とした1人でしたが首脳陣の評価は落ちていなかったようで

・(岩隈の五輪参加もあり)先発登板数はチーム最多の27

チーム内では最長の投球回数173回2/3

これだけ投げて被本塁打数がたったの10

これまたチーム内最多の奪三振154

数字に残った成績以上の安定感で先発ローテーションを1年間守りきりました

 

そしてこの2004年シーズンいっぱいをもって大阪近鉄バファローズオリックスと合併

6勝8敗という成績ながら首脳陣には評価されたようでそのままオリックス・バファローズの一員として2005年以降も日本に残ることになりました

 

近鉄での実働2年間で14勝15敗。獲得タイトルも特になし。なぜこの選手を列伝で紹介するに至ったのか。それは少しだけ先述しました

西武キラーとしての活躍が私の心に深く残っていること

に他なりません。

 

ロッテとのダブルヘッダーで時間切れ引き分け。優勝が逃げる

ブライアントダブルヘッダーで4発ブチ込み優勝をほぼ決定づける

印象深い勝負が多かった80年代後半

野茂英雄vs清原和博

で沸いた90年代前半

黄金カードと言われた「近鉄vs西武」の時代。

下位に低迷し、冬の時代でもあった90年代後半

いつの時代でも(あまり認めたくはありませんが)常勝軍団としてパ・リーグの盟主たる存在を示した西武ライオンズ

相性がいいのか意地をみせているのか、なぜか近鉄西武戦には無類の強さを見せ

チームはリーグ最下位でも西武戦だけは勝ち越し

な~んて年もあったくらい。特に90年代後半はチームとしては下位に甘んじながら西武だけには互角の戦いを演じました。その要因のひとつとして

西武キラーの存在

を無視するわけにはいきません。この時代を象徴するキラーの代表格は

前川克彦

山本和範

この2名。

大友高木(大)鈴木(健)大塚小関

主力選手に左打者が多かった時代サウスポーの前川が当時の西武打線のつながりをうまく断ち切り勝ちを拾っていきました

ちなみに右打者ではマルティネス伊東スイッチヒッター松井(稼)などがいましたがこれらの打者の前にランナーを溜めることなくうまく要所を締めていたと思います。

そして山本。西武投手陣も苦手意識があったのかどうかはわかりませんがとにかく西武線にはめっぽう強く

(私の記憶が正しければ)シーズン途中に13本目のホームランを放った時にそのうち8本が西武戦

という半分以上のホームランを対西武で固め打ち。他チームとのカードでは6番を打ったりスタメンを外れたりしていたわけですが西武戦に限っては3番or5番を任されるなど、自他共に認められた西武キラーでした。もともとここ一番で勝負強いバッターではありましたが、西武相手には全打席要注意だったといえるでしょう。

 

そして時代は移りかわり、主軸が

カブレラマクレーン和田フェルナンデス

スイッチヒッター松井(稼)

主力に右打者が揃い、左投手前川ではさすがに通用しなくなってきた(単に実力的に研究され尽くしただけ?)頃に現れたネオ・西武キラーこそ

バーン

というわけですが、
じゃあ何が凄くて西武打線はバーンを打てないのか?

と言われると、ハッキリいってわかりません。これが相性というやつでしょうか。不思議と打てないんです。そして三振も多いんです。

 

こうして長年続いた

近鉄西武

西武>ダイエー

ダイエー>近鉄

の「3すくみ」の構図を支える一端を担ったバーンなのでした。

 

ところで、なぜ私が西武キラーの存在にこだわるのかと言えば、

話のネタとして西武にだけは負けるわけにはいかなかった

ということ以外にはありません。

 

相手はもちろん西武バカで知られる○庭君

 

某サークルで

西武バカ○庭vs近鉄キチガイ小僧

といえば誰も相手にしないくらい放っておかれた事実。

こいつにだけはなんとしても負けられない

との気持ちで西武を抑えてくれる選手は私の中では印象に残りやすい選手になっているのでした。

 

で、実際に○庭君と一緒に西武ドームへ「西武-近鉄」戦を観戦に行った時のお話。

生後半年ほどの○庭Jr.も同席し、試合以外にも印象に残った日だったので記憶に残っているのですが

西武松坂大輔

近鉄バーン

の予告先発で、

さすがに松坂相手では分が悪そうだな

というのが第一印象。フタを開けてみればやっぱり松坂の前に近鉄打線は抑え込まれ

9イニングでわずかに1得点のみ

ところが・・・バーンのほうが凄かった!

内容的には松坂のほうがよく、バーンが凌いでなんとかつないだというかんじではありましたが

8イニングを無失点

というわけでこの試合は息詰まる投手戦となったわけですが、9回アタマにピッチャーがバーンから交代して1点取られ同点に

こうして8回を無失点に切り抜けたにもかかわらずバーンには勝ち星はつかず

歯痒い試合内容だったがとりあえず追いついた○庭君は大喜び

これがバーンの勝ち数が伸びなかった要因のひとつではある気がしますが、とにもかくにも試合は延長戦へ

回は進んで11回へ。

西武の投手はこのイニングから森慎二が登板。このアナウンスを聞いて○庭君

ものすごく嫌な予感がする。こんな緊迫した試合でを使っちゃダメ

といったかんじのコメントをしていた記憶がありますが、予感は見事に的中は打ち込まれ失点。ついに均衡が破れました。

 

結局そのウラ西武の攻撃は0点に終わりあえなくゲームセット。

は使えね~な!あんなヤツいらねぇ!!

という捨てゼリフを残し球場を去った○庭君

松坂相手に勝てるとは。バーン恐るべし

このロースコアをモノにし、嬉しさ半分驚き半分の私。でも・・・

 

試合の終盤チャンスでカブレラに打席がまわってきたとき、2度にわたって敬遠をした近鉄バッテリー。しかも1塁に走者がいる状況での2連続敬遠。カブレラも呆れたのか2度目の敬遠時には

バットを逆さに持って打席に棒立ち

という半分抗議のような振る舞いで、当然ライトスタンドからはブーイングの嵐。

さすがの私も

いくらなんでもそりゃないでしょ。勝負しなきゃ!

と、不満を抱きました。

ゲームには勝ちましたがチョットだけ消化不良といいますか勝負を見たかったというか。

 

でもって、レフトスタンドサイドはといいますと、

ブーイングはほとんどナシ。むしろ「ざまぁみろ」とでもいいたげな振る舞いでした・・・

近鉄ファンってこういう人が多いんですよね (T.T)

近鉄さえ勝てばいいっていうような人が。本当のプロ野球好きなら

敵味方関係なく好プレーには素直に拍手を送る

贔屓のチームが勝つに越したことはないけれどやっぱり「これぞプロ!」というようないい勝負が見たい

こういう気持ちで観戦するのは当たり前だと思うんですけどねぇ~。だから私は近鉄は好きだったけど外野席で一緒に大騒ぎできなくなったんです。

昔はワイワイ大声上げて騒いでましたが

(^-^;

 

愚痴が増えてしまいましたが、バーン。いい投手でした。

○庭君のネタにできる勝ちをたくさんもたらしてくれたので。

 

 

 

さらにさらに。ピッチングとはまったく関係ありませんがこの投手。プロフィールによれば

右投げ左打ち

だったそうです。しかし、パ・リーグDH制バーンが近鉄に在籍している年度はリーグ優勝もしていないし、交流戦もまだなかった時代。打席に立つ姿を一度も見ることはありませんでした。

(たぶん公式記録上でも一度も打席に立っていないと思います)


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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います

 

第17回はこの人でいきましょう

ショーン・バーグマン(投手)

 

2001年入団。この年も相変わらず苦しい投手陣。そこにテコ入れするべく2001年より業務提携したドジャースラソーダ氏を通じてシーズン途中から入団しました。

140km後半まで行く時もあるストレートに切れ味鋭いスライダー(高速カーブ?)、外人特有のチェンジアップと球種だけみるとかなり正統派の投手なのですが、フォームは外人投手にしては珍しく二段モーション気味。というか1回モーションが静止してしまっていた気がします現行ルールで言えばボークと判定されていたかもしれません。モーションで惑わす割には

インサイドをエグった後に外のスライダーのコンビネーション

高目のストレートで空振り

左バッターの膝元をズバっとストレート

不振に喘いだこの時期の助っ人外人投手で活躍したのは「オクトパス(アキーノ)」とか「ナックルボーラー(マットソン)」とか意表をつく投球術が多かったのですが久々に真っ向勝負の本格派。それがバーグマンでした。

それからバーグマンと聞いて私の記憶にあるのが体格。全体のバランスに対して上半身が大きい。極端に表現するなら

 

プロテクターを装着したアメフト選手のような逆三角形

 

詳しいメカニズムは専門家ではないのでわかりませんが体全体を使って投げるというよりは上半身の力だけで投げるタイプだったのではないでしょうか。

 

こうしてシーズン途中の入団だったのですが2001年シーズン

登板数18(うち先発16)

10勝4敗

防御率4.18

という内容でリーグ優勝に貢献。

そして外人投手としては既に紹介済みのアキーノ以来5年ぶりに2ケタ勝利を挙げた投手となりました。

ここに辿り着くまで97年~01年まで延べ11人もの外人投手を雇ったわけですがようやく実を結びました。

更に97年小池秀郎投手が15勝で最多勝に輝いて以来(この年は2ケタ勝利がトータル3人いました)、98~00年まで近鉄投手陣自体2ケタ勝利が誰もいなかったのですが前川克彦投手(12勝)と並んで2ケタ投手の仲間入りをしました。

 

数字だけで判断するなら

前川12勝9敗(+3)

に対し

バーグマン10勝4敗(+6)

作り出した貯金の数はバーグマンの方が上。防御率を比較しても

前川5.89(ちょっとヒドすぎるか?)

バーグマン4.18

貢献度でいうならバーグマンの勝ちといいたいところですが・・・・・

 

2001年はご存知第3期いてまえ打線が爆発し打ち勝ってリーグ優勝を手にしました。

打撃陣に関しては12球団トップクラス

投手陣に関しては12球団最低クラス

というわけで、梨田監督が開幕戦から一貫してとった作戦が

継投

 

クローザー大塚は別として、中継ぎとして登板数が30を超えた投手が

自分には(先発より)コッチの方があっていると言い切った

岡本晃

左のワンポイントとしては絶対的な信頼

柴田佳主也

左のワンポイント+ロングリリーフと幅広い活躍

関口伊織

ロングリリーフはお任せのベテランコンビ

香田勲

湯舟敏郎

重病より奇跡のカムバック

盛田幸妃

どんな状況で登板してもこの人が投げると不思議と負けがつかない強運の持ち主

愛敬尚史

さらに登板数は25ながら

シーズン途中から移籍し大活躍のエースセットアッパー

三澤興一

 

とにかく継投で大塚までというスタイルの中

スタミナのお化け

とも形容された前川は、先発・中継ぎ何でもござれ、1年間様々な形でフルに貢献。

この年規定投球回数に達した近鉄唯一の投手

なのです。

まぁ決して完投能力が皆無だったわけではないのでしょうが先発として

勝率はよかったが先発投手の役割を果たしきったとはいえず

勝ち星の割には防御率も4点台。打線に救われ、救援を仰いで拾った勝ち星がチラホラと。一抹の不安は残ったままシーズン終了。

 

日本シリーズでも第3戦の先発を任せられ、期待の大きさはうかがわせましたが

ビジターゲームでDHが使えないルールでの先発

だったのが災いし、チャンスで打順が廻って来てしまい代打を送られて交代

結局それが日本シリーズ最初で最後の登板となってしまいました。

(調査の結果ヤクルト打線をわずか2安打に抑えていたにもかかわらず交代となっていました)

 

 

それでも先発要員として貴重な戦力。当然ながら来期も契約続行

2002シーズンもローテーションを担ったわけですが、投球パターンを研究されたか昨年ほどの結果が残せず

防御率5.15

とやや成績を落としました。そして防御率以上に勝ち星は落ち込み

わずか4勝止まり

当然、この年も

継投

が近鉄の勝ちパターンだったわけですが、2001年ほど打撃陣が爆発せず


2001年チーム成績

打率.280

本塁打211本

に対し 

2002年チーム成績

打率.258

本塁打177本

 

打撃の援護で勝ちを拾えなくなったこと

長いイニングを投げられない投手は

僅差リードでリリーフを仰ぐも追いつかれ(もしくは逆転され)勝ちを消される

というパターンが目立つ年でもありました。

(最終的にチームが勝っても先発投手に勝敗がつかない)

 

この年はもう1人の助っ人パウエル(いずれ紹介予定)が17勝で最多勝を獲得するのですが

完投5回・投球回数216回2/3(平均6.7イニングくらい)

バーグマン

完投0・投球回数87回1/3(平均5.4イニングくらい)

登板数の違いがあるにしても、やはり長いイニングを投げられない投手は全般的に勝ちを消されて星が伸びない傾向にあったと思います。

(この年から先発ローテに喰い込むようになった後のエース岩隈も平均すると1試合あたり6.1イニングくらいで8勝

 

先にも書きましたが相手チームに研究され通用しなくなったという部分も、もちろんありますが

登板数16(うち先発16)

4勝6敗

防御率5.15

で2002年シーズンは終了。

 

個人的にはバーグマン自身の問題というよりもまわりの環境(打線援護、救援失敗etc.)に成績を左右された気がするものの、

防御率も落ち、勝ち数より負けの方が多い

パウエルが最多勝に輝く活躍を見せたので余計に悪いイメージが目立った

完投能力が足りないところが評価ダウンにつながった

 

いろいろな要因は考えられますが2002年シーズンをもって近鉄を退団しました

 

それでも、過去の回で何回も申し上げているとおり

助っ人外人投手の不作地獄

だったこの時代に一応のピリオドを打った選手として私の中では刻まれている存在。今回の紹介に至りました。

 

2001年の「いてまえ」があれば2002年の成績も変わっていたと思いますが、成績以上に気がかりだったのは

この時期はリーグ優勝も手伝い地上波で近鉄戦が中継される機会が結構多く、実際に球場まで行かなくても試合を見られるチャンスがたくさんあったのですが、バーグマンローズのように日本人のチームメイトと試合中にコミュニケーションをとっている姿をほとんど見たことがありません。というかベンチにいる時に彼が笑っているところを見たことがないと言っていいかもしれません。ある意味プロとして試合に集中していただけかもしれませんし、さすがにプライベートまでは知らないので憶測の域を出ませんが

ベンチの中で孤立した存在だったのかも

という気はします。まぁそれと退団とはあまり関係ないとは思いますが(苦笑)

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中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います

 

第16回はこの人

マリオ・バルデス(外野手)

 

2004年入団。というわけで大阪近鉄バファローズ最後の年に入団した選手。

2003年いっぱいをもって長年近鉄打線を支え続けたタフィ・ローズ契約面での問題が解決せずジャイアンツに移籍

偉大なクリーンアップの一角を失ったのも束の間、2004年オープン戦で貴重な中長距離砲吉岡雄二アキレス腱断裂。主砲中村紀洋前年負傷したヒザが完治せず

この時点でチーム本塁打は前年比-100は覚悟しなくては。自慢の打線はどうなるんだ??

と不安一杯の中、獲得した新外人がラリー・バーンズ(列伝で紹介の予定はナシ)。

しかし、日本の野球を一生懸命研究し、あそこまで登りつめたローズ級の活躍を期待するのは酷な話

そんなプレッシャーがあったのか無かったのかはわかりませんが故障も手伝い今ひとつ活躍できず。何より

私の中で全然印象に残っていない

というのがバーンズが活躍できていない証明ではないでしょうか(笑)

 

爆発力に欠ける打線に喝を入れるべくシーズン途中に獲得した助っ人。その人こそ

マリオ・バルデス(登録名マリオ

 

膝を痛めながらも奮闘。夏には五輪にも参加した闘将

中村紀洋

年々長打力もアップ。頼れる選手会長

礒部公一

この年からついに内野手で登録。エース岩隈登板時には何と打率が.700を超える恐怖のサヨナラ男

北川博敏

大石守備走塁コーチ就任後長打力を捨て頼もしい1番打者に変身

大村直之

貴重なつなぎ役として衰えなしのベテラン

水口栄二

ここまではほぼ固定されたレギュラー組。

 

これに続く存在として

内野手としてレギュラー獲得。すべてに安定しているが抜けた特徴がない

星野おさむ

梨田監督に「しもやました」と命名された期待のコンビ

下山真二

山下勝己

2001年優勝の打撃はどこへやら。中村紀の一番弟子

川口憲史

スラッガーとして徐々に覚醒。安定感さえつけば

大西宏明

左キラーとして能力全開もレギュラー獲得には至らず

鷹野史寿

貴重な左の代打も2004年は手薄な野手陣に乗じスタメン出場機会激増

益田大介

 

などなど数が挙がるが一長一短。内野・外野・DHこのメンバーにマリオを加え日替わりオーダーの状況。

 

そんなマリオの売りはプロフィールによれば「長打力」だったそうで、入団当初はそこそこ打っていたようですが研究されてからはほとんど打てず。

まぁそもそも何十年に1人といってもいい助っ人だったローズ穴を埋めろというのが無理な話ではあったのですが

(途中入団だったため)

出場36試合

打率.213

本塁打9

打点29

という成績を残しシーズン終了。

2004年をもってオリックスと合併することもありそのまま退団。

 

成績(打率・本塁打・打点)だけ見ると全然活躍していないように見えますが、

出場36試合で放ったヒットが実は

27本

そして本塁打が9ですから・・・

 

ヒットの3本に1本がホームラン

ヒットの数以上に打点がある

 

実はスゴイバッターだったかも?という可能性は感じさせます。

実際に1年フル出場したと仮定(おおまかに130試合と計算)すると、単純に掛け算だけではもちろん計れませんがそれぞれの数字を3.6倍くらいにした数になり

打率(は変わらずせいぜい).220程度

本塁打32

打点104

という数字が。

そして36試合で41もの三振を喫していますので、コチラは130試合換算

147

打率も低く、三振も多いが本塁打打点は期待できたかも??

 

こんなバッターどこかで聞いた覚えがありませんか?

第2期いてまえ打線の象徴、恐怖の3番バッター

ラルフ・ブライアント

もしかしたら大化けしていたかもしれませんが、ブライアントと決定的に違うところは

入団当初はけっこう打率もよかった

こと。まぁこの件につきましてはブライアントの回で・・・。

 

 

そしてこの事と関係していたとは思えませんが、私にとって忘れられない出来事が。

2004年夏

既にオリックスとの合併話が進行し、各地で署名運動など行われていましたが、合併はほぼ避けられない状況に

というわけで

 

最後の記念に大阪ドームに観に行くか~

 

と、大阪への1人旅。

とはいえ、この年はオリンピックが開催され、近鉄からは中村紀洋岩隈久志という看板選手が選抜。冒頭に書いた通りローズも退団。休みの都合などもあり、その真っ最中に行かざるを得なかったので、

 

行ったはいいがチームとしての見応えはあまりないかも・・・

 

と、正直なところ近鉄の野球を楽しむというよりは最後の思い出作りに行っただけというかんじに。

で、大阪ドームのあちらこちらにハンドブック(無料)が置いてあり、そこに選手名鑑やら応援歌やらが載っているわけですが、マリオは途中入団のためハンドブックに何も載っていません。観戦に行った時はどんな選手かほとんど理解しておらず、スタメンに名前があったわけですが全然印象に残ることもありませんでした

 

しかし、

 

試合前、1~9番まで一通り応援歌を流す時に私の心を突き動かす出来事が。

上に書いた通りマリオの応援歌はハンドブックに載ってないので知りません。

 

さて、どの曲を採用しているのかな?また歴代助っ人に流用しているヤツかな?

 

と思っていると・・・・・

 

♪と~~ば~せ~場外~

(言葉で音楽を表現するのは非常に難しい)

 

これはっ!!ブライアント!!!

 

なんと、ブライアント退団以降誰にも使われていなかったあの応援歌マリオに!!

この日大阪ドームに訪れて一番武者震いした瞬間でした。

 

他の人にはどう思われようと、このインパクトは私にとっては絶大。今回の紹介に至りました。

今思えば、

・(合併の件もあり)応援団が新しい曲を作るのが面倒だった

・(合併の件もあり)最後かもしれないので、かつての名曲を使おう

ということも考えられますが、私個人としては

 

それだけの活躍を期待してこの曲がチョイスされた

 

と信じたいところです。まぁ出場した試合だけで判断するならばハッキリ言ってチームに貢献したとはとてもいえませんが、近鉄最後の年を飾った助っ人。しつこく書きますが私の心にはしっかりと残りました。

ちなみにわざわざ大阪まで観戦に行ったこのゲームは・・・

1-7で惨敗

(初回に北川がタイムリー2塁打を放った後はまったく見所ナシ)

 

最後に忘れてはいけない点がもうひとつ。

近鉄最後の年の途中入団助っ人ということで・・・

 

近鉄の歴史の中でも一番最後に入団した助っ人外人

 

が、マリオ・バルデスなのです。

もし、近鉄の助っ人外人系譜なる書物なんぞが存在するならば、一番最後に載る名前です。

ぜひ覚えておいてください。

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