そればかり・・・で・・いいのだろうか・・ | 夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

人にはもともと自然からいただいた素晴らし能力が潜在しています。それは、すでに日常の生活に根付いている生活レベルの文化の中にあるのです。武道文化を活かし、さらなる可能性を・・眠っている潜在能力を開発する。「気」という世界観は、武道文化の中に眠っています。

胎・腹・肚・胆・・・・と・・・・・いうことばかりを、追い求めている私は・・本当によいのでしょうか??www
が・・・「旬」という言葉があるなら・・心のままに・・・いつしか、季節が変わるように・・その時々に・・与えられた使命や・・役割や・・いろいろと・・活かされている中で・・感じることは・・あるものの・・

その宿命を変えることは無駄な努力であり・・私のような生き方をして来たものは・・感性に任せるということで・・現状に満足しつつ宿命に従うのみ・・w

と・・いうことで・・いまは・・胆を練る時期なのです。

これは、技を練る時期もあれば・・体力を練る時期もある・・・自ずと、訪れるもので・・必要性を感じる中で・・そういう方向性になっていくわけです。

器用のようで・・実は非常に不器用・・わかる時(瞬間)に、深く掘り下げれるだけ掘り下げてみる・・・・・・。
と・・あれもこれも・・できないのです・・が・・・結局、悪くは無いという事です。
しかし・・・あれもこれも・・できる・・・・やってやろうと・・思う人はうらやましい・・
実質的に・・過去10年の私の技術面の進化は・・剣道の方が深い・・・。

しかし、その気づきは・・・空手に活かされていると・・強く思っています。

なぜなら・・剣道は、胆の能力の気づきをかなり与えてくれています。
胆は・・単独では成り立たず・・やはり、体と連動している・・いかに、眠っているものを感じ・・起こしていくか・・そのスイッチが胆であるということです・・。

例えば、眠っている筋肉を・・眠りから覚めるように働きかける・・。

今までは・・胆を動かすスイッチを探してきていたような気がしますが・・。
結局・・胆を断片的にしか観れなかったりすると・・胆がすべてになってしまう・・わけで・・。

斬る為の・・能力・・的な・・意識が強くなっていまします。

実は、胆が動かしてくれる身体の気づき的能力は・・どうだろう・1つや2つではないことは、確かなことで・・「気づき」事態も胆発信的な・・胆の影響するところであるのだという確信があります。

ですから・・物事に対する観方・・私的に言えば「感性」に差が出てくるわけで・・・観てわかる・・焼き付ける事が出来れば、技は写されていく。
ここも・・胆の世界になるのだと思います。

本物を見極める・・ということは・・そういうことではないか・・・。
なんだかわからないけど…そうやれっていわれたから・・を、どう変えていくかは・・やはり、自分・・・・自分次第のはずであるのです。

さらに言うなら・・重さが変わる・・・重さを変える・・・・、距離感をコントロールする=拍子をコントロールする、と・・間をコントロールする(言うなればこの2つが分かれば・・ある意味究極で)この間と拍子を自分の物にできる?ことを・・意識できる稽古・・それが・・空間を大きく使う稽古・・・剣術の稽古の醍醐味といえるのでしょうか。

ですから・・体術が活きてくると思っています。

動きが小さくなったもの・・コンパクトにしたものが・・体術という認識が…私の中にはあるのです。

体術は・・結局は・・対刀という構図の中で昇華されてきているのですから・・・
刀の動きが分からなければ・・刀に対峙できないという事は、当然の理合であり・・結局、体術は剣術から生まれ・・剣術によって昇華されてきたのだと思っています。

しかし・・斬るという事に、ここ数年真剣に取り組んできましたが(最近は、その意識が変わりました)・・良い経験になった・・と・・同時に、逆を観る事も・・ここ数日で・・強く感じているのです。・・・・本当に、そこに繋がっています。

毎日、稽古をしていると・・すべてが繋がりの中にある??wwのでしょうか・・小さな事も気づきの要因になり・・それが、広がっていく・・という・・パズルを毎日繰り返しているのです。

昨日は・・・刀禅練行を1時間半弱・・独り稽古・(^^♪
夕方からは・・新陰流の稽古・・この新陰流の稽古で・・いかに、相手を活かすか・・ということを意識したとき・・・人斬りではいけないな~と・・思う様に?なった?本当に????まだ・・・まだ・・疑問符ばかりですがww。

この5年程は・・当てる事を稽古させてもらってきました・・
半開半行で・・当たるようになってから・・私は、人斬りになった・・ようですww
ありとあらゆる人・・対峙するすべての人を切ってきました・・
それも・・当初は、思いっきり切り抜いていた・・わけです<m(__)m>

そうでなければ、当たらないと思っていたからですが・・
軽くやって当たるなどとは・・これぽっちもおもってもいなかった・・それほどの腕だったわけです。

その以前には・・相雷刀八勢法の中でも・・足や手や・・当たるところはすべてを切って・・・人からいやがられwwwました・・

ただ闇雲に竹刀を振るのではなく・・根拠・理合いを求め・・
そのお陰で、どうすれば当たるかという事に・・答えをすべて出すことができています・・。

人は、そんな私を見ても・・何が何だかわからない・・・私がインチキをやっていると・・思っている人のほうが多かった・・答えの出せない人は、私を非難の対象にしたわけで・・

それは、それで受け入れなければならない事実です・・・
斬られたいなどと思っている人・・痛い思いをしたいと思っている人は・・いないのですから。

しかし・・私は・・そうやって切られて教えられたのですから・・
そこで、その厳しさのお陰で、気づくことができたことに感謝していますし・・

私の武道感からすれば・・厳しい中に答えがあるという
現代的ではない・・思考が優先されているのです・・。

型の中で・・決められた処に来る竹刀を、受けることのできない自分に・・反省できたからこそ・・・そこに、胆があるのかないのか・・・覚悟があるのかないのか・・そのことだけでも・・違ってくるのです・・・。

私は・・受けれなければ・・何度でも・・挑戦する意識を失いませんでした。
それは・・自分の受け方のみならず・相手の斬りを研究することにもつながるわけです。

と・・最近になって・・やっと・・そういうところの段階・・から・・抜け出せ・・そう・・・なのかな・・と・・少し思えています・・。

これは、この1年の大きな変化でもあるわけです・・。

刀禅を練ることで・・間や拍子への感性(相手への働きかけ)が、さらに昇華された???結果??・・余裕が生まれてきている???ということ・・・???。

今までは・・・目いっぱいの勝負を楽しんでいましたが・・最近では、あてちゃダメ!!!
という気持ちから・・軽く振ることを意識しだし・・
ですが・・結局・・当たる・・
軽く振ってもあたる・・
が・・たまに・・やっぱり、強く振ったり速く振ったりする事を楽しんでいる自分もいる・・。

それでは・・よくない・・・・・。

しかし・・そうやって・・また、自分の位を上げていく・・徐々に変化する
そのためには・・胆の昇華が必要不可欠・・・であるということ。

斬るは・・刃があるから・・胆の力がわかりにくいのです。(当然、あるのだが・・)
竹刀は・・刃がないから・・弱くも行ける・・。どんどん弱く行くことを試すことができる。

弱くいっても・・間や拍子がコントロールできていれば・・あとは、胆に力が充実していれば・・・相手が崩れている・・。
こういうことは・・体術でも同じなんです。

そうそう・・斬りだけが・・胆じゃないんですよ。
空間だと思います・・まだまだ、意識してコントロールできるレベルではない・・・・ですが・・。

ずーっと・・この過程を楽しんでいたい・・探求心を持って・・面白いってそういう事だと、私は思っています。