梅雨に負けない文脈

雨雲に覆われていく空の過程が嫌いだ。
人の心まで水浸しにするような雨はもっと嫌いだ。
虹を伴う梅雨空を例外として。

bruffordの投稿
テーマ:
下豊富(しもとよとみ)地区体育祭は、

昨日、スケジュール通りに始まり、負傷者、中途退場者を

出すことなく、滞りなく終了した。

昔でいう、小学校の秋の大運動会とは違って、

今では、小学校区内の自治会やその関連団体、

グループ、中学生が

すべて参加するイベントになっている。

小学生たちがメインの運動会なので

出場機会が多いとはいえ、僕たちの時代に比べて

明らかに各学年の出場プログラムが減っている

ように思えた。

徒競走のスタートラインに並ぶのは

男女混合。

小学生クラスまでは男の子と

女の子と体力の差がないという判断に基づくもの

なのだろうか。

確かに、スタートラインで圧倒的に女の子が

リードしたり、コーナーの途中で

女子がトップに立つケースが目立った。

しかもセパレートコース。

これは、男女雇用機会均等法の考え方の流れが

教育界にも普及し、男女競争機会均等が

設けられたのか、とも考えたりした。

体力差が明らかになる

一定の年齢まではそういうシステムを導入し、

男女を同じ価値観のもとで競わす、というもの

なのだろう。

何につけ、学校やプライベートでも

明確な男女別のシステムの上に育てられてきた

僕たちの世代にとって、それはとても異様な

光景に思えた。

その昔、障害物競走と呼ばれたものは演技走に名前が変わり、

コースの間に抵抗として設置された事物は

誰でもこなせるものになっている。

跳び箱は三段にも満たない。

跨いで飛んでも、乗り上げてもいい。

いやいや、僕らのころは1年生のころから

3段以上のものが置かれ、跨いで飛ばないと、

失格になったはずだ。

その順列の中で相対的に足の速い人間が

抵抗を加えられることで、相対的に足の遅い人が

1位を取れる可能性が高まるのが障害物競走の

おもしろさだったが、これではその意図は反映されない。

経験則から観て、足の速い人間は、要領も、

ずるさも長けていると考えられるだけに、

やはり、徒競走で開示された差が

そのまま演技走でも繰り返されていた。

セパレートコースの徒競走で男の子が女の子に

抜かされていくシーンは、少し悲しかった。

我が息子は運動不足が祟っていたせいか、

徒競走も演技走もふるわなかった。

本人からは1位は狙える位置にいると聞かされて

いたので、失望がぬぐえなかった。

昼食時も元気がなく、よほど悔しかったのだろう。

スタート地点で足がすべってこけそうになった。

それがなかったら‥と言って、

いつもは5個は平らげるおにぎりを2個で

終わらせた。

ちきしょう‥とつぶやく顔が、妙にかわいかった。

ま、力みすぎ、力抜いていこうや。

リレーでは抜かされなければそれでよい。

とだけ言って、彼をなだめた。

最終プログラムの地区対抗リレーで彼は

小学3・4年の代表として走った。

バトンパスの失敗は、コース途中でこけるより

みっともない。

それだけは頼む、そして無理して抜かなくてもいい

抜かれないようにだけしろ、とだけ言って

肩をひとつ叩いた。

2位でバトンを受け取り、後方との差を

詰められることなく、第4走者にバトンを渡した。

コーナーを回る際の左側に傾いて疾走するシーンが

ムービーカメラのファインダーの中で

過ぎて行った。

息子の名前を叫ぶ声援が背後から固まりになって

押し寄せていた。

その時は涙腺が緩みかけた。

そして、バトンを握って必死に走る人の姿が

シンクロした。

大人も子どももいい顔をしていると思った。

人が前面を向き、ただひたすら次の目標に向かって

走りぬける姿は、いい。

ただひたむきに、最大限のエネルギーを振り絞ろうと

する原始的な姿は、いい。

胸に熱いものがこみ上げてくる‥

という感覚を忘れていたので、

心が洗われていく気がした。

リレーに出場していたあの頃に戻りたいと思った。

運動会、体育祭のBGMには

定番化したワーグナーの双頭の鷲の旗の下より

ホルストのジュピターがいいと思った。

特に、最終種目のリレー競技には。

すべての走者の激しいランニングパフォーマンスを

スローモーションで流す映像に、

ジュピターはバラードのように

切なく語りかけてくるはずだろうから。

これはギャグでもなんでもなく、ストレートに

シリアスな印象としての僕の思いだ。

ペタしてね

Amebaおすすめキーワード