①から③まで加筆修正が入っているのでもし最近読み返してないって方はこちらからどうぞ。

第七話

 

 

 

 

 

 

再現される、悪夢。

瞼を閉じると、ほんの一瞬で意識が遠ざかる。
遠ざかった先にあるのは、堅牢な壁に四方を囲まれた部屋だ。窓はある。巨大な窓。しかしそれは填め殺しの、決して開かない窓。
見慣れた、しかし肌に馴染まない、密閉された空間の、押し潰されそうな圧迫感。

 

息が、詰まる。
 

このまま十年も、百年も、ここに閉じ込められるのだ。
誰も来ない、誰もいない、何もない、この場所に。

 

そのことを思い知らされると、気が狂いそうだ。
身体中の毛が逆立って、胃液が逆流する。
氷の柱を抱かされたようだ。
寒くもないのに、震えがくる。
そんなおれを見て、すぐそばで誰かが嗤っている。

 

そうだ。お前はもうここから出られない。
死ぬまで、
死んでも、
永久に、

 

――出られない。

 

頭の中で恐怖が溢れる。
決壊した濁流に自我も肉体も押し流される。
無意味な喚き声を上げて、部屋の中を逃げ惑う。
埃臭い壁が迫ってきて、おれを押し潰そうとする。
窓の外に向かって声を限りに叫び、分厚いガラスを力いっぱい殴りつける。

 

ここから出してくれ
助けてくれ
解放しろ
おれを、
この邸から――

 

自分の悲鳴で目が覚める。
傍らの目覚まし時計を見ると、まえに見てから五分ほどしか経っていなかった。永遠にも等しい五分間だ。
座り込んだ尻の下には、じっとりと湿った布団。
薄暗い部屋の端には本棚と、ごみ箱。
散乱したごみ。
凝った空気は冬だというのに饐えた厭な臭いがする。
寒いし、暗い。窓の向こうも、闇だ。

 

今は、夜か?
 

眠くて眠くて、気が狂いそうだ。しかし目を閉じるとあの部屋に戻ってしまう。眠ると、また閉じ込められてしまうのだ。
瞼が鉛のように重い。投げ出した脚を動かすのも、壁に預けた背中をずらすのも、ひどく億劫だった。
しかし頭は冴え冴えとしており、今しがた見た息苦しい悪夢が、ただの夢でないということをはっきりと知覚している。

 

再現される悪夢。
 

冷たい汗がこめかみから顎を伝い、胸元に落ちた。
 

あれは夢じゃない。おれは閉じ込められている。
行ってはいけなかったんだ。あんな場所に。
あそこは、――あの邸は、呪われていたんだ。
だからおれも呪われてしまった。
あいつと同じように。
呪われて、出られなくなってしまった。

 

誰かが、すぐそばで嗤っている。
 

「出たいか?」
 

出たい。出してくれ。おれを、解放してくれ。
 

「では連れてこい」
 

誰を?
 

「葵」
 

あおい。
 

「そうだ。葵を連れてこい」
 

あおい――
 

おれがその名を反芻すると、声の主が嬉しそうにしたのが分かった。嬉しそうに、厭らしく、嗤うのが。
 

おれは震える手で、暗い床をまさぐる。
そこに、いつものカナヅチがあるはずだ。

 

 

 

 


空が真っ赤だ。
 

「すっげぇ夕焼け」
 

家並みの向こうに沈む太陽を見送りながら、帰り道を辿る。
スーパーの袋が、からっ風に吹かれてガサガサ鳴った。袋の中身は牛乳だ。それだけの買い物だったのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
マフラーを鼻の下あたりまで引っ張り上げて、気持ち足を速める。生々しい赤色に染まった空を見ていると、どうしてか不安に駆られた。

 

『舟戸』
 

買い物してスーパーを出たら、三浦が待っていた。
心底びっくりした。普段このあたりで三浦と会ったことなんてないし、まるで店にいるのを知って待ち伏せされたみたいだったから。
そんなおれの驚いた様子を少しも気にすることなく、三浦は深刻そうな顔で切り出した。

 

『相談に乗ってほしいんだ』
 

相談と聞いて、おれは即座に身構える。三浦には以前、まったく面識のないオカルトオタクの先輩の相手をしてくれという、大変面倒な依頼をされたことがあったのだ。
けれど今回はあの時のちゃらんぽらんな態度とは違って、だいぶ思い詰めているように見えた。
それで、ともかく話を聞くことにしたのだ。

 

『どうしたんだよ?』
 

しかし三浦は何やら考え込んでいるようで、なかなか話を切り出そうとはしなかった。
スーパーの駐車場の自販機横に佇んで、おれはしばらく待ってみた。風が冷たくて、じっとしているのは結構辛かった。
それでも三浦は言い出さない。何を悩んでいるのか知らないが、いや、とか、気のせいかも、とか、ぶつぶつ言っていつまでも俯いている。
時々、落ち着きのない視線がさっと走って、こっちを窺う。早くしてくれと急かすには、その目つきはあまりに真剣だった。

 

『兄貴がさ……』
 

『兄貴?』
 

学生時代にやんちゃだった三浦の兄のことだろうか。直接関わったことはないけど、武勇伝は聞いたことがある。
オウム返しに訊くと、三浦は慌てて取り消した。

 

『いや、その、兄貴は多分、違うんだ』
 

そう言ったきり、またしばらく黙り込んでしまう。
 

『舟戸、夢って見る?』
 

待っている途中、寒さに耐えられず自販機で買ったミルクコーヒーの缶で手の平を温めるおれに、三浦はそう切り出した。
思いもしない質問だった。

 

『夢?』
 

問い返した時、ちょうどおれの声に被さるように、五時の時報が流れた。防災無線で街中に流れるやつだ。
 

『五時かぁ。さすがに寒いし、どっか入る?』
 

このままここにいたら、本当にふたりとも風邪を引いてしまう。話も始まったばかりで長引きそうだったので、思い切って提案してみた。
しかし、三浦は激しく首を横に振った。

 

『く、暗くなるから、か、帰る』
 

子供のような言い分に、一瞬耳を疑う。
 

『暗くなるから……?』
 

冗談だろうかと思ったが、三浦の額から流れる異様な量の汗を見て、それが本気なのだと知る。
おれが知っている三浦は、どちらかといえば明るい性格をしている。口が軽く、怖いもの知らずで、いつも友達と賑やかにふざけあっているようなやつだ。少なくとも、夜の暗さに怖気づいて、家に帰ると言いだすような性格ではない。

 

本当に、どうかしてしまったんじゃないだろうか。
 

そんな不安がチラリと過ぎり、マフラーの隙間から入り込む北風が、余計冷たく感じられた。
三浦は額の汗を拭い、ベンチに放り出していたリュックを落ち着きない仕草で背負う。
その横顔を、おれは何も言えずに眺めていた。

 

『明日、もっかい話聞いてくれるか?』
 

『……いいけど……』
 

なんとなく、自分にどうにかできる気はしなかったが、放っておけない気もした。
おれの返事を聞くと、三浦は軽く頭を下げるようにして、振り返らずに行ってしまった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、すっかり冷えたミルクコーヒーの缶をスーパーの袋に入れ、改めて帰路についた。

 

店を出てから二十分ほどの間の出来事だった。
 

何かに怯えているみたいだった。まるで、口を利いたところを見られたら襲われてしまう、とでもいうような。
 

何に?
 

そこまで考えて、ゾッとした寒気に襲われる。
頭を強く振り、飛躍する想像を追いやった。わざわざ怖い想像をする必要なんてない。

 

「夢を見るかって言ってたな」
 

そういえば長らく夢なんて見ていない。元々寝つきがいいところに黒鉄と一緒の布団が温かいので、目を閉じていくらもしないうちに寝入り、そのまま朝までぐっすりなのだ。
夢がどうしたっていうんだろう。それを、どうしておれに相談しようとしたんだろう。
おれに、何か関係があることなのか?

 

――キミの夢の中で
 

不意に強い北風が吹いて、道端の落ち葉が舞う。ガサリいう大きな音に驚き、肩が震えた拍子にマフラーがずり落ちた。
 

「……びびりすぎ」
 

自分の過敏な反応につい笑ってしまう。三浦の雰囲気に中てられたか?
 

「寒いし、早く帰ってコタツ入ろっと」
 

ひとりごちて、マフラーを直そうとした時、自分の手が震えていることに気がついた。
 

「なんだよ、これ」
 

動悸がしていることにも、今さら気づく。派手な鼓動に合わせて、頭から足の爪先までドクドクと不快に波打っていた。
 

――ボクは、いつもキミを見ているよ
 

厭なことを思い出す。
たしかにそんなこともあった。
でもそれはもう半年も前の、とっくに終わったことだ。

 

思い出したくない。
 

すっかり忘れていた恐ろしい体験が脳裏に甦る。
脚が丸太にでもなったようだ。竦んでしまって動けない。

 

――キミの夢の中で
 

たしかにあのひとは言った。おぞましい顔に醜い笑みを浮かべて、おれを見ている、と。
ガラスの破片で黒板を引っ掻くような声だった。黒鉄に追い立てられ、怒りに燃える目で、おれを見ていた。
今思い出しても、鳥肌が立つ。
思い出したくないのに。

 

すごく怖い目に遭ったのだ。軽々しく出かけた山の廃屋で。
鎖できつく閉じられていた門。
埃だらけの建物の中に差し込む月明かり。
むき出しの憎悪と欲望。
濁った血の黒さ。

 

あの時黒鉄が助けに来てくれなかったら、見知らぬ人間の勝手な恨みのために、おれはこの世から消えてしまっていたかもしれない。
そして、とても恐ろしい思いをしたにもかかわらず、ことの終わりはひどく寂しかった。

 

多分、あのひともかつては幸せの中にいたのだ。
 

その過去がどんな経緯であの夜に帰結したのかは分からないけれど、その幸せの残像を見て感じたのは、やり場のない虚しさと、寂しさだけだった。
毎日の楽しさや、嬉しい出来事や、今のすべては、いつか朽ちて消えてしまう。山の中にうち捨てられ忘れられた、あの洋館のように。

 

ひとが必ず死ぬように――
 

木枯らしの中に棒立ちになって、手の平で顔を覆った。
わざわざ自分をいたぶる方向へ暴走する思考にうんざりする。
ネガティブになるのは趣味じゃない。そういう考え方は、もうしないと誓ったのだ。
洋館での肝試しはただ怖かったという以上に、こうして頭が混乱していらないことを考え出してしまうから、できるだけ忘れるようにしていたのに。

 

本当に中てられていたのかもしれない。
もう一度、強く頭を振る。すっかり凍えてしまったが、おかげで頭も冷えた。動悸も震えも収まっている。

 

「早く帰ろう」
 

自分に言い聞かせるようにはっきりと声に出した。
混乱するにしても、三浦のことを考えるにしても、家に帰り着いてからだ。
気がつけば夕焼けの色は空の裾の方に遠ざかり、暗くなった通りに街灯が明かりを投げかけている。

 

真っ暗になる前には帰りたい。
 

そう思い、カバンを肩に掛け直して歩き出したところで、道の先に人影が立っていることに気づいた。
両側を民家のブロック塀に挟まれた、乗用車がぎりぎり二台すれ違えるくらいの、どこにでもある通りだ。まばらな街灯の明かりが届かない絶妙な位置に、人影は立っている。

 

こっちを、見てる?
 

影法師になっているのではっきりとは分からないが、なぜか見られている気がした。
こんなところでボーっとしてたから、不審者とでも思われたのかな?
こんな時間に住宅街の真ん中で突っ立っていれば、たしかに怪しく見えもするだろう。しかも物騒な事件が立て続いているっていう時に――
そこまで考えて、ギクリとする。

 

あのひと、あそこに立って何してるんだ?
こんな時間に、こんなところで。

 

――夕方から深夜の間、人通りの少ない住宅地に出没、カナヅチを持っていて、学生が、怪我を――
 

ニュースや新聞で散々見聞きした連続通り魔の情報が、一気に甦ってきた。さっきとは違う嫌な汗が背中を伝う。
相変わらず影は人相すら見えず、身動きもせずにそこに立っている。
一旦、買い物をしたスーパーまで戻ろうかと考え、そうすると次にここを通るのが真っ暗になってからだと気づいて、やめた。警察に通報しようかとも考えたけど、ただひとが立っているだけでは通報しようがない。
気にしすぎだ。慣れない土地に来て、地図で道でも調べているのかもしれない。とにかくさっさと歩いて通り過ぎよう。ここを行かないと家に帰れないのだ。
カバンからスマホを取り出し、もしもの時はすぐ通報できるよう手に持ったまま、まっすぐ前を向いて歩く。視界の端に捉えた人影は、やっぱり身じろぎひとつしない。
ズンズン近づいてくるその手元に、チラリと視線を走らせた。

 

なんにも持ってない。
 

そう確認したのとほとんど同時に、おれは人影の横に到達し、その横を通過した。
もちろん、何事もないまま。
人影は男で、フードつきのコートを着ていた。結局そこで何をしていたのかは分からなかったが、俯いて、ぼんやり立っているだけだった。
おれは振り返らないで足を速め、さらにいくつか角を曲がって、自分の家が見えるところまで来てから大きく息を吐いた。

 

気のせいでよかった。
 

生け垣の前を歩ききり、家の門を開けて敷地に踏み込むと、安心して身体中の力が抜けるようだった。
 

というか、おれってもしかして、自意識過剰なんじゃないか?
ただの通行人を不審者扱い……それどころか、通り魔だと思いこんでしまった。
さぞあの男のひとは、おれを変に思っただろうな。

 

そう思うと申し訳なさと羞恥心で顔から火が出そうだ。
 

「……でも、街中挙げて不審者に警戒してるって時に、あんなところにポツンと立ってたら誰だっておかしいと思うよなぁ」
 

玄関の内側に灯りが点いてないので、黒鉄はまだ出かけているらしい。カバンから鍵を取り出して、引き違い戸の鍵穴に差し込む。
 

「おれだって別に自分が直接狙われるって思ったんじゃなくて……そうだよ、うっかり遭遇しちゃったのかもって思ってだけだし。それくらいのは自意識過剰っていうか、危機管理意識の問題だよな。うん」
 

「ずいぶんひとり言が多いのう」
 

なんとか自分の勘違いを正当化しようと無駄な思考を巡らせていたところに、しみじみした声で話しかけられ、思わず飛び上がりそうにびっくりした。
 

「黒鉄ッ! い、いたの?」
 

振り返ると、いつもの着物の上に専用のコート(二重回しというそうだ)を着た黒鉄が立っていた。
 

「たった今戻ったところだ」
 

「あ、そう……」
 

「寒かったであろう。早く家に入れ」
 

うろたえるおれとは対照的に、黒鉄はいつもどおり落ち着き払っている。さっさと戸を開けて、家の中に入っていく。
どうやら、さっきのひとり言はほとんど聞こえてなかったみたいだ。
なんの変哲もない通行人を通り魔と勘違いしてひとりで青くなったり赤くなったりしていた、というのは、黙っておくことにする。心配かけたくなかったし、呆れられるのも嫌だから。

 

いつもどおりにふたりで食事をし、ようやく人心地つく。
奇妙な相談事も、自意識過剰の勘違いも、この家の中までは入って来られない。その安心感だけで、一日の疲れが癒されるみたいだ。

 

「黒鉄、昔の話してよ」
 

食後のお茶を飲みながらそうねだった。この安心感を、目一杯味わいたかったのだ。
 

「いいとも。お前が小さな頃の話なら……」
 

「そうじゃなくて、もっと昔の。その、おれが生まれる前のこととか」
 

だからそうつけ足したことに、深い意味はなかったと思う。
おれの記憶にあることなら、一緒になって、そうだったと言いあえる。おれが憶えていないことなら、そんなことがあったのかと驚いたり笑ったりできる。おれがまだいない頃の、父さんと母さんと黒鉄が、ふたりと一匹だった頃のことも、きっと同じように楽しく共有できると思ったのだ。

 

「お前が生まれる前?」
 

黒鉄は意外そうな顔をした。
 

「うん。母さんの若い頃のこととか、知ってるんだろ? おれ、そういうの全然聞いたことないから、知りたいんだ」
 

すぐに話してくれると思ったのに、訝るように見つめられ、なんだか焦る。
 

「と、父さんと母さんの馴れ初めとかさ。あと、……そう、母さんと黒鉄ってどこで知り合ったの? 黒鉄って母さんに拾われたの? それとも――」
 

――母さんは、黒鉄のことをどこまで知ってたの?
 

忽然と行き当たった疑問に、思わず息が止まった。
黒鉄が妖怪だということは、他人に知られてはいけない秘密だ。ずっと一緒に暮らしていた父さんと母さんは、黒鉄の正体を知っていたんだろうか?
おれが疑問を言い出しかけた時、黒鉄が口を開いた。

 

「……忘れてしまったな」
 

「忘れた……?」
 

「ああ、紗夜子と会った頃のことは、もう憶えていない。もうずいぶん昔のことだからのう」
 

目尻の上がった形の良い目が、スッとおれから視線を外す。
それきり、黒鉄は口を閉ざしてしまった。それ以上訊ねても応えてくれないということが分かる沈黙だった。

 

「お茶のおかわりを淹れよう」
 

そう言うと音もなく立ち上がり、黒鉄は台所へと姿を消した。
おれはコタツ布団の中で膝を立て、顎を載せる。

 

忘れるなんてことが、あるんだろうか。あんなに父さんと母さんのことを大切に想っているのに? あんなになんでも憶えていて、なんでも話してくれたのに?
 

せっかく温まったはずなのに、薄ら寒いものを感じるのはなぜだろう。
奇妙なことが立て続く。

 

せっかく帰り着いたのに。
ここはもう、おれのうちなのに。
暖かくて、明るい、おれと黒鉄と、両親の――

 

「やっぱり死んだら、それまでなのかな?」
 

自分にだけ聞こえるように呟くと、忘れようと追い払ったはずの寂しさが、背中に覆いかぶさってくる。
 

おれもいつか、母さんたちのことを忘れるんだろうか。
年を取って大人になるにつれて、失ってしまうんだろうか。

 

そんなことは考えたくなかった。
すでに記憶の中にしかいない両親を忘れたら、その時ふたりは本当に消えてしまうのだ。

 

そんなの、嫌だ。
 

コタツに半ば潜り込むようにして、落ち込みそうになる気持ちを宥める。
 

ガシャン
 

出し抜けに、台所で何かが割れる音がした。
食器を落としたのだと分かる音だった。

 

「大丈夫? なんか割っちゃった?」
 

すぐに様子を見に行かなかったのは、話をしてもらえなかったことでいじけた気分だったからだ。
しかし返事はなかった。

 

もしかして、怪我でもしたんだろうか。
 

慌てて立ち上がり、台所へと駆け込む。
 

「黒鉄?」
 

駆け込んだ台所の床には、ガラスの破片が散らばっていた。
 

――風だ。
 

冷たい風が吹き込んでくる先に目をやると、庭に出る勝手口のドアが開いていた。
黒鉄は立ったまま、じっとドアの方を見ている。ピクリともしない横顔からは表情が剥がれ落ち、話しかけられることを拒んでいるように見えた。

 

キィ、と、ドアが軋んだ。
 

「ああ、すまない。手が滑ってな」
 

ふと息を吐き、黒鉄は動きを再開する。すぐ横にいたおれのことは、まるでたった今気づいたようだった。
 

「大丈夫? 怪我してない?」
 

「ああ」
 

柔和な目が弧を描いて笑みを作った。いつもの黒鉄だ。
おれにはそれが、本当に〝作られた笑み〟に思えた。

 

奇妙なことも、嫌なことも、この家の中には入って来ない。
本当に?

 

母さんとの出会いを憶えていない。
本当に?

 

それが疑問なのか予感なのか、おれにはまだ分からない。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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