元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さん(41)が2016年9月24日、J-CASTニュースのインタビューに応じ、ネット上で「炎上」している人工透析患者にまつわる一連のブログ記事について、あらためて「真意」を語った。
長谷川さんの19日付のブログ記事をめぐっては、全国腎臓病協議会(全腎協)が9月23日に抗議文を公開し、謝罪を要求しているが、長谷川さんは「謝罪については断固拒否する」と語った。

■「自堕落な患者」10人以上の医師に取材

ブログでは、現状の健康保険制度および年金制度を問題視する中で、日本における人工透析患者に言及。その多くは、医師からの注意を無視して自堕落な生活を送り続けた結果、透析を受けざるを得なくなった「自業自得」な患者だと主張した。
19日付記事のタイトルには「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」という過激な表現があったこともあり、ネット上では批判が殺到。その後に更新されたブログも含めて物議を醸した。
長谷川さんは24日、J-CASTニュースとのインタビューの中で「ブログの主旨は一貫して、『社会保障給付費の使い方を考えましょう』ということ」と話し、ブログを書くにあたっては透析病棟の現場で働く医師10人以上を取材し、そこで「自堕落な生活が原因の患者が相当な割合で存在する」といった話を聞かされたことを改めて強調した。
「この1年で医療費が1.5兆円増えたという記事を見たのが全ての入り口だった。適正に使っていかなければそう遠くない未来に破たんする。人工透析の予算はあらゆる病理に対する社会保障の中でも伸び率が断トツで高い。このままいくと本当に苦しんでいる透析患者まで3割負担、という話になってくる」
その上で、長谷川さんのブログが「透析患者に対する誤った認識を社会に印象づけるものであり、強い憤りを覚えます」として、全腎協が「発言の撤回と謝罪の掲載」を求める抗議文を公表したことに対しては
「公開されている抗議文は『全員が(透析を)タダで受けられるように頑張ってきた、誤解を与えるな』という内容。こんなこと言っていたら社会保障給付費なんて際限がなくなる。全員守るなんて論外です」
と批判。「抗議文が手元に届き次第、謝罪については断固拒否し、会長への公開インタビューを要求する」と、あくまで自身の主張を貫く姿勢を示した。
「殺せ」タイトルは「多くの人に拡散してほしくて付けた」
長谷川さんの言う「本当に苦しんでいる透析患者」は、主に先天的・遺伝的理由から患者になった人々を指している。だが、後天的にせよ、病気とはさまざまな要因が重なってなるものだ。逆に言えば「生活習慣だけが原因」だと断定するのは非常に難しい。
そのため「大多数が自業自得」と断定的に書いていたことには多くの反論が寄せられていたが、長谷川さんは「揚げ足を取るところがそこしかないということでしょう」と話した。
「本当に苦しんでいる方たちは負担ゼロ円でいいんですよ。そういう人達まで自己負担が増やされてしまうのは止めるべき。グレーゾーンは全部救ってもいいと思います。免許と同じような点数制や民間会社による調査を導入すれば、完全な黒は切り捨てられるはず。『完全な黒』だけで1割、11.7兆円出てくる。これを子供たちに使えれば話は全然変わってくる」
とも続ける。
タイトルに使用された「殺せ」という過激な言葉も炎上の大きな原因となった。
長谷川さんは「保育園落ちた、日本死ね」の例を出しながら「ネット上では強い文言によって広める手法があり、僕は表現の1つとして全て否定されるわけではないと思っている」と述べ、今回のタイトルについても「殺していいとは当然誰も思っていない。でも、それくらい怒りと強い思いを持って臨もうという考えで付けた」と説明した。
ただ、「日本」という漠然とした相手に向ける「死ね」という言葉と、全額自己負担となれば「リアルな死」の可能性が出てくる人工透析患者に向ける「無理なら殺せ」という言葉は、同じニュアンスとは言い難い。それでも敢えて「殺せ」と書いた理由を尋ねると、
「一人でも多くの人に拡散してほしくて付けたのですが、やはりこれは非難が来て当然。タイトルだけ見て誤読されることも、悪用されることも予測しきれなかったのは完全に僕のミスです。いつもどおり『長谷川またふざけたこと言ってるよ』って拡散してもらおうと思ったら、多くの人に迷惑をかけてしまった」
と反省した。「悪用」というのは「自業自得の」の部分が抜け落ち、「長谷川が透析患者は死ねと言った」というニュアンスに「歪曲報道」されたことだという。もともと「炎上」自体は「拡散行為」と捉えており、「アンチ長谷川」も「応援団にしか見えない」とまで言うが、今回は想定外の部分があったようだ。

他者ブログ「パクリ」指摘は「申し訳ない」
ネット上では、他者ブログからの「パクリ」についても問題が指摘されている。長谷川さんは、「部分引用ということで書かせていただいた」としたが、なぜ引用元を明記しなかったのかについては、
「このブログは炎上することが分かっているので、僕に協力していると捉えられたら、当然相手にも攻撃が絶対行く。そのため使わせていただくことを断りたく連絡したのですが、連絡がつかなかった。連絡がつかないのに名前を勝手に引用して迷惑をかけてもしょうがないし、本記の中でそれほど大事なところでもなかったので、いわゆる部分引用に。単なるコピー&ペーストではなく、改行をしたりして『自分の著作物』という形にした」
と説明した。
だが、協力者と捉えられないよう工夫して書くことも「やるべきだった」とし、ブログ主には「申し訳ない思いでいっぱいです」と話した。

BLOGOSとの関係は「考え直さなければならない」
長谷川さんのブログをめぐっては、転載したニュースサイト「BLOGOS(ブロゴス)」にも多くの批判が寄せられ、同編集部が記事を削除する事態に発展した。同サイトは22日、長谷川さんの記事に上書きする形でお詫び文を掲載。「チェック体制の不備があった」などとした。
これについて、長谷川さんは、ブログ記事が転載されることになった19日夜の段階で編集部に連絡を入れ、記事にはきつい表現があることからタイトルや文中の変更をするよう「忠告」をしていたという。その後、編集部から「誤解されたらもったいないから、追加のブログで真意を書いてみては」との連絡が入ったが、その数時間後に「やっぱり全て消す」と言われたそうだ。
「あれほど注意したにもかかわらず、炎上。それで炎上と思ったら、僕のアカウント使って(上書きして)『今後、公序良俗に反する記事は書きません』って書いてある。いい関係を築いていたつもりだけど、これは限度を超えている。BLOGOSさんとの付き合い方っていうのは、最低レベル考え直さなければならない」
と語った。
長谷川豊氏「人工透析」ブログの真意を語るも全腎協の謝罪要求は断固拒否(Yahoo!ニュース)

長谷川豊氏は「ブログを書くにあたっては、10人以上の透析病棟で働く医師に取材して、自堕落な生活習慣が原因の患者が相当数いるという話を聞いた」と書いているが、自堕落な生活習慣が原因とされる透析患者の透析治療が長引いている理由が例えば栄養バランスの悪い食事や運動不足が原因だとして、何故栄養バランスの良い食事や適度な運動が出来ないかの掘り下げがなく、患者が自堕落だからというのは思考停止している。透析に至るには様々な要因が絡んでおり、単純ではない。透析治療の中で合併症を起こし安静にしなければならないケースや収入が少なく炭水化物中心の食事しかとれないなど様々なケースがあるので、単純に自堕落だから自業自得とは言えない。糖尿病から透析に至る患者は、全体の4割で、8から9割という長谷川が書いたこととは事実と異なる。
また長谷川は「免許と同じ点数制にして民間会社による調査を導入すれば、自堕落な患者を切り捨てられるはず」と言うが、点数による線引きの基準、血液検査や食事の総カロリーなどどの数値をどのように線引きの選別に使うのか、長谷川は具体的に考えていない。数値だけでなく生活環境など様々な要因があって人工透析に至る以上、数値だけで患者を切り捨てるのは、不可能に近いし、患者を切り捨てる責任を誰が負うのかも難しく、医療法などの改正にまで考えが及んでいない単なる思いつき以外の何物でもない。
長谷川は「殺せという文言は炎上させてブログを拡大するため」と書いているが、読む人の気持ちを考えていない時点で物書き失格。
他人のブログを無断引用したことを認めた上で、長谷川は「相手に引用することわりを入れるため連絡しようとしたが、連絡が付かないので、部分引用して自分の著作にした」と書いているが、ブログ主によると長谷川のオフィシャルサイトから無断引用について説明を求めるメールを送ったが、返信はないとのことです。本当に長谷川が引用する許可を得るために連絡したか、甚だ疑問です。だいたい勝手に引用してネット上で指摘されるまで知らん顔していたモラルハザードも問題ですが、知的財産権の問題に繋がる行為です。
結論
長谷川豊は、裏もろくに取らず思いつき半分の暴論を、ブログの拡大のために炎上させる外道です。



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T4作戦
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので[1]、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]。
前史
社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は、ドイツでは第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた[5]。1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている[6]。
ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。1933年7月14日には「遺伝病根絶法(ドイツ語版)[# 2]」が制定され、断種が法制化された[7]。
1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[8]。この訴えは後に「私は告発する(ドイツ語版)」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった。
「T4」による安楽死政策
1939年9月1日、ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 3]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 4]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[9][# 5][8]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[10]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[11]、いずれもヒトラーによって拒否された[12]。
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 6]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた[13]。法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった[13]。ギュルトナーは総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[13]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった[14]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[14]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[14]。結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[7]。
T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[1]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[15]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]。
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[16]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[17][1]。「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。
専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[7]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[15]。
移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 7]、飢餓による殺害も含まれている[16]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。
安楽死政策への反発
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[18]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラフ・フォン・ガーレン(ドイツ語版)は1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[19]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている[20]。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮したヨーゼフ・ゲッベルスは慎重論を主張し、ヒトラーもそれに応じた[21]。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[22]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。
野生化した安楽死──「中止」後の安楽死政策
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日[23]にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[22]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[23]、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では医師・看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[24]。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[25]。
1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[26][27]。
また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[28]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種(ドイツ語版)とされた人々(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[29]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[29]。
これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[30]。1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[31]。
乳幼児の安楽死
詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」を参照
障害のある子どもたちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子どもを対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[32]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[2]。
14f13作戦
詳細は「14f13作戦(ドイツ語版)」を参照
強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 8]」を排除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[33]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった[33]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[34]。
犠牲者数
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、乳幼児が5000人から8000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[35]。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた[36]。
裁判
終戦後、関係者はニュルンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。



^ 独: Tiergartenstraße 4
^ 独: Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses
^ 独: Gnadentod
^ 独: Führerbevollmächtigter
^ ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している (宮野 1968, pp. 128-129)。
^ この政府高官「N」は精神分裂病患者の息子がおり、息子が死ぬような事態があれば事実を公表すると記している (佐野 1998, p. 21)。
^ この方式はニッチェ方式と呼ばれた (澤田 2005, p. 161)。
^ 独: Ballastexistenz
出典

参考文献

宮野彬「ナチスドイツの安楽死思想 : ヒトラーの安楽死計画」、『法学論集』第4巻、鹿児島大学、1968年、 119-151頁、 NAID 40003476739。
澤田愛子「ナチT4作戦における看護師 : その役割分析と共犯のメンタリティーに焦点を当てて」、『人間学紀要』第35巻、上智大学、2005年、 155-178頁、 NAID 40003476739。
佐野誠「ナチス「安楽死」計画への道程:法史的・思想史的一考察」、『浜松医科大学紀要. 一般教育』第12巻、浜松医科大学、1998年、 1-34頁、 NAID 110000494920。
佐野誠「ナチス「安楽死計画」への一法律家の抵抗:ロタール・クライシヒの場合」、『浜松医科大学紀要. 一般教育』第13巻、浜松医科大学、1999年、 13-42頁、 NAID 110000494925。
木畑和子 「第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題」『1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』 井上茂子、木畑和子、芝健介、矢野久、永岑三千輝著、同文舘出版、1989年。ISBN 978-4495853914。
泉彪之助「精神疾患患者・遺伝性疾患患者に対するナチスの「安楽死」作戦とミュンスター司教フォン・ガーレン」、『日本医史学雑誌』49(2)、日本医史学会、2003年6月20日、 277-319頁、 NAID 110000494925。
関連文献

フランツ・ルツィウス 『灰色のバスがやってきた - ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』 山下公子訳、草思社、1991年。ISBN 4-7942-0445-0。
小俣和一郎 『ナチスもう一つの大罪 - 「安楽死」とドイツ精神医学』 人文書院、1995年。ISBN 4-409-51037-1。
ヒュー・グレゴリー・ギャラファー 『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』 長瀬修訳、現代書館、1996年。ISBN 4-7684-6687-7。
小俣和一郎 『精神医学とナチズム - 裁かれるユング、ハイデガー』 講談社、1997年。ISBN 4-06-149363-9。
カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ著、森下直貴/佐野誠訳著 『「生きるに値しない命」とは誰のことか - ナチス安楽死思想の原典を読む』 窓社、2001年。ISBN 978-4896250367。
ジョルジュ・ベンスサン 『ショアーの歴史 - ユダヤ民族排斥の計画と実行』 吉田恒雄訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2013年。ISBN 4-560-50982-1。
T4作戦(Wikipedia)
相模原市障害者施設殺傷事件(Wikipedia)

T4作戦をドイツ市民に受け入れ易くするために、ナチスドイツはどうしたか?
ナチスドイツが作ったT4作戦宣伝ポスターは、脳性マヒの男性患者と健康的でハンサムな男性が並ぶ写真に「この立派な人間がこんな我々の社会を脅かす病んだ人間の世に専念している。我々はこの図を恥すべきだ」という文言があるもの。つまり障害者の社会保障費が、国家予算を圧迫していると強調しているものだった。
それは、相模原市障害者施設殺傷事件の犯人が、「重度障害者のための社会保障費は国家予算の負担になっているから、重度障害者を殺す」と言った主張、元フジテレビアナウンサー長谷川豊が「自業自得な人工透析患者は全員自己負担させろ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」と言った主張と共通性がある。
それは、生きるべき命と死すべき命を選別せよという優生思想そのものです。
障害者が遺伝的に劣っているというのは根拠がないし、生きる価値がないというのは生存権を侵害する危険な考えだ。
健常者であっても、病や事故による障害はいつやってくるか分からない。障害者になっても生きられる社会のための社会保障制度で国民保健で、ある。
例え炎上目的の差別的言論であっても、許さず糾弾し、社会は差別的言論を許さないという姿勢を示すことは、お互いに助け合い命に優しい社会を作るために必要なことである。


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