家事とか、暑いなかがんがんやって、

ふぅ、とくたびれても、

死にたくなったりしなーい♪


うれしー!


普通に生きてるって、こういうことなのね!


(いや、この感じ、共感してもらおうとは思ってませんからw)

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いままで、長電話してました。

実家の母と。

話半分に聞くこともあるし、聞き流さなきゃつらい話題もあるけど、

結構関係が改善してきたと感じます。


自分が親になってから、「親もパーフェクトではない」

「親も試行錯誤」「親もよかれと思ってやるのだ」「親も人間」等々、

いろんなことに気がつきました。


なにかがこんがらがってしまうこともあります

こじれることもありました。


そして、親が大人である以上、弱い立場の子どもに対しては、

大人の理性で接する義務があるんだ、ということを知って、

自分は努力しようと誓って、

それは、できなかったひとを責める事とは違うということもわかって。


自分を守ることも覚えて、

自分はもう小さい子どもではないことを実感して、自信を持って、


そうして。


わたしは、まだ距離をおいてではありますが、

母と普通の誠実であたたかみのある関係を

取り戻しつつあるようです。


この場所でいろいろ言語化したことも、自分の中の整理に役立ったと思います。


あ~、子機を首にはさんで話をしていたから、首が疲れたよん♪


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茶色の指

草花を健やかに育て、きれいに咲かせる腕の持ち主を、みどりのゆび、という。

イギリスで園芸愛好家のことをGreen Fingersと呼ぶことにちなむそうなのだけれど、

その逆、なんでもかんでも枯らしてしまうヤツのことは「茶色の指」なぞという。

 

そう。わたしは茶色の指の持ち主。

 

鉢植えを植わったまんまでドライフラワーにしちまうひどさだ。

(植物を愛するひとはこれを読んで落涙するであろう)

愛が、足りないのよね。

他者に向ける愛が。

 

庭?

 

そう。こんなわたしに不必要としか言いようのない庭。うちは庭付き一軒家。

おうちにまつわる様々なことを書き綴ってあるこのブログ、なぜに今までガーデニング、

庭仕事、お花育ての類の話がでてこなかったのか。

 

避けてたからよ。

 

ってーか、気持ちも向いてないもののこと、書くわけないじゃん。

 

お花?

 

そりゃ、嫌いじゃないわよ。

・・・って女性は言うものらしいわね。

え、ホントのことを言え、ですって?

・・・いや、実のところ正直言ったら苦手。

花粉?いいえわたしにはアレルギーはないわ。

 

でも、いつまでも避けてるわけにはいかないわけで。

かつて避けまくった年は、そりゃーもう、ものすごい雑草の巣窟になっちまって。

冬に雪が降って雑草が全滅したときには、思わず「東北万歳!」と叫びそうになったわ。

 

お庭っていうのは、わたしにとって母を象徴する事物のひとつなわけね。

母というひとは、夕刻に草むしりに庭に出ては、夕食の時間を大幅に遅らせる名人だった。

でもそれをわたしは指摘できなかった。なぜって?怖いからよ。

 

そんなこんなが、わたしを庭から遠ざけて。

 

ああ、そうそう、お花を「きれい」と喜ぶ母の様子が、理不尽に思えたのよね。

いいひとみたいじゃない?

昨夜あんな悪鬼の形相でわたしをひっぱたいていた母がよ?

 

だから花は嫌いだった。

 

そんなこと、口に出すこともなくいままできたけれど。

 

回復に向かうわたしの道のりの途中に、「アサーティブ・トレーニング」の受講体験が

あるのだけれど、その帰り道、花屋の花が、はじめて綺麗にわたしの目に飛び込んできた、

っていう、一瞬にして世界に色が戻ったような、不思議で鮮烈な体験をした。

 

それから、花はわたしの敵ではなくなって。

でも、愛でて可愛がって咲かせてあげる、ほどのエネルギーはわたしにはまだなかった。

やりかたも知らない。

 

だから、去年なんかは庭にばらばらとタネをばらまいて、ぼわぼわとピンクのえたいのしれない

花畑をこさえてみたり、一昨年はえーと、庭中にひまわりを蒔いてしまって、あんまり広くもない

庭がなんだか夏中大騒ぎな感じだった。

 

でも、なんか少しわかってきたので、すみっこにネギ植えて、すみっこにチューリップ植えて、

子どものお庭じゃないんだから、一種類をばーんと蒔くのは止めにした。

 

なんにも知らないのよ。ほーんと、笑っちゃう。

 

今日は、雑草をむしった。

前なんか雑草と生えてきた芽の区別もつかなくって、せっかく蒔いたタネの芽をひっこぬいちゃって。

 

はは、今日は、わかってた。

 

いつか、茶色じゃないゆびになれるだろうか?

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著者: ビバリー エンゲル, Beverly Engel, 白根 伊登恵
タイトル: いじめられる女がパワーをとりもどす―心理的虐待から自分を救う

 

いいぞ、この本。

わたしは幼少時の被虐待体験による不安定や鬱などに長いこと悩んできて、

よい病院につながることと、いくつかのワークショップや本、講演などとの出会いによって、

今現在、自分を大切にできるあたりまで回復してきた。

 

子どもを産んで育てることで「愛する・愛される」ということを実習したり、

生き生きとした感覚とはなんだろう、って考え込んでみたり、

人間関係の作り方を、子どもに教わってみたり

(幼児の頃のムスコたちは非常に社交的なひとたちでした)。

 

それだけでは、いまひとつ足りない、と思っていた。

自己肯定が難しい。

評価されたい自分。何が欲しいかわからない自分。ひかえめで愛されるはずの自分。

ち、がーう。

わたしはもっと欲しい。

もっといろんなところに行きたい。

もっと見たことのない景色をみたい。

もっと色とりどりのひとたちと触れ合いたい。

 

そういう欲求をはばむものがある。

 

身の程を知りなさい、という世間様の教え。

見捨てられるかもしれない、というものさびしさ。

失敗するのではないか、という恐れ。

非難されるかもしれない、いいえ、かならず非難される、という思い込み。

 

チャレンジ、というところまですら行き着かない。

 

おかあさんであり、おくさんであるところのわたしが、チャレンジする、というほどの

ことを行おうとすれば、自分の時間と意思と行動を最優先にする状況が多少なりともでてくる。

 

家族思いのやさしいおかあさん、でなくてはならない、という思い込みは、

そうでなくては、自分の価値がなくなる、という思い込みと表裏一体だ。

わたしの場合。

 

冒頭で紹介した本は、そんな思い込みがどこからきているのか、

ということを噛んで含めて教えてくれて、解放・回復のためのエクササイズも

あちこちに紹介されている本だ。

 

ジェンダー、ということばは今バッシングの対象らしいけど(笑)、

ジェンダーバイアスは外側にもあるし、内側にもある。

ジェンダーバイアスに裏打ちされた心理的虐待もあれば、

そうでない心理的虐待もあるけれど、その両方が女性の能力や人生を萎縮させる。

いや、もしかすると男性の能力や人生だって。

 

健やかな自己肯定感をもって、自分を自分の檻からときはなつ。

 

自分もそうなりたいし、わたしの知るひとびともそうあってほしい。

 

「心理的虐待?」って、ちょっとこころがひっかかった方(特におんなのひと)は、

手にとって見て欲しいと思った。

 

ちなみにこれ、図書館で借りたのだけど、ものすごく手ずれがしている。

何人の女性がこれを読んで解き放たれていったのだろうか。

 

わたしも自分の本棚に持とうと思って注文しました♪

 

ちょっと日々思い悩んでいたことをちらっと言ったら、先生は、少し微笑んで、

「そんなふうに悩んでいたら、疲れませんか?」

と、言った。

「自分の人生を楽しみなさい。遊びなさい。」

回復途上のわたしにとって、当たり前だけど、忘れていたことかも。

帰宅して、だーりんに、先生にそんなふうに言われた、って言ったら、

やっぱり微笑んで、

「いつもそう言ってるじゃない。」

って、彼は言った。

晴れると、気分がいい。
カーテンなんか取り外して、洗っちゃう。

雨だと、曇りだとへこみやすくなるのは、
ひとのこころとして当たり前の動きで、
それはわたしが弱いわけではなく。
特別弱いわけではなく。

日々を生き続けることは、そういうこと。

生きている当たり前のことにおいて、自分を責めるな。
自分を責めるな。

パーフェクトなひとはいない。
そして、それでも今いるところをスタートに、
よりよく生きようとする
ひとというけなげな生き物。

ともだち。

扱いに困る、なんて書いちゃった。こないだ。

そしたら、聡いお嬢さんに、そのこと指摘されちゃって、自分のなかの隠しときたい感情に気づいた。

わたしが扱いに困っているのは、ちょっと扱いに困っている時代に「ともだち」として付き合っていたともだち。

つまりわたしが扱いに困っているのは、自分のその時代なのね。

ひとを大切にするということや、
ひとを大事にするということや、
このともだちといることが楽しいということを、
感じることが下手だったり、わかってなかったりした時代。

それはきっと自分のせいだけじゃなく。

わたしはようやく、誰かを損得無しに大事に思うとか、大切に思うとか、このひととコミュニケーション取りたいとか、

わかってきたようなので、きっとこれからでいいのではないか、と思うのね。

ほかのひとが、小学生からのともだちやおさななじみや高校時代、中学時代の友達といまだに仲良くしてる。

だから自分もそうしなきゃ、というのは、まだ自分には無理で、

そもそもその頃のともだちって自分にとってどうだった?と疑問に思いながら今更表面上上手なコミュニケーション取ろう、

なんてきっと徒労。「だから自分もそうしなきゃ」っていうのも、おかしいよね。

冷たいと思われても、ひとでなし、と思われても、
いまここから、人間関係のはじまりをやらないと、きっと死ぬまでに取り戻せないことがあると思うんだ。

逆に言えば、死ぬまでに取り戻してやろうと思うのよ。健康な人間関係を構築したいのよ。

今、大事にしたいひとから、大事にしよう。
それはまだ歴史が浅い関係だけれども。
だからって、時間ばかり経っている関係をゆりおこしたって、自分の中に迷いが積もっていくだけだから。

全部全部、しゃきりしゃきり、切り刻んで捨てることはない。

思い出す。ちいさなこと、嬉しかったこと。

悲しみや、切なさや、どうしようもないことや、怒りは、
こころのなかのブラックボックスにさしあたってほおりこんで。

ふっと思い出す、大事で嬉しい記憶を書きとめよう。
そうして、大事にしたい記憶を、自分の中の特別室へお通しして、
いい記憶ばかりで、パーティでも開いててもらおう。

大事にしたいものなのか、捨ててしまいたいものなのか、
困惑する感情と対面するのが怖くて、
大事にしたいものが、なにもなかったらどうしよう、と
寂しさの予感におびえて、
まるごと捨ててしまおう、っていうの、
ちょっと、自分を大切にしてないよね。

わたしはわたしを大事にするの。
それを見て、きっとわたしの大事な子どもたちも、自分を大事にすることを覚えるでしょう。

だから、わたしは投げやりになっちゃだめなんだ。

今いる場所、
確かにいてもいいと信じられる場所に
しっかりと足を下ろし、
確かに前を向いて、
考えながら、考えながら、
生きていくこと。

いやー、

「しっかり足を下ろすこと」も、
「確かに前を向くこと」も、
「考えること」も、

なかなかきちんとやるのは、考えてみりゃ大変なんすけどね。

生きていくのは難くない。

わたしの愛するひとたちよ、ありがとう。

*昨日の記事にコメントどもでした。
お返事はのちほど。
こう、小学生時代の自分が生きていた時間ってやつを、
机に広げて、左手に持って、右手のハサミで

しゃきり しゃきり しゃきり しゃきり

・・・と、切り刻んで、ゴミ箱に入れて、
ゴミ箱がいっぱいになったら、
本物は最近ダイオキシンがでるとかであんまりお目にかからなくなった
架空の焼却炉に入れて、架空のマッチをすって、

ごおおおおおおお

燃やしてしまえないものだろうか。

これは中学生時代も、高校生の時代も、大学に通っていた頃も
みんな同じだ。
今の自分は否定しない。否定しないで生きていけるの、すごいことだ。
これだけでもすごいと自分で思う。

わたしの中での取り扱いに困っているのが、友人たちの存在で。

彼女たちも変容している筈で、あの頃のくったくのなさで
わたしを受け入れてくれるかどうか、わからない。
そういえば、はしゃいでみせて、手痛い拒絶もされたっけ。

そもそも、自分があそこにいてよかったのかどうか。
もがいて取っていた行動の、あまりにも情けなかったこと。
あそこに居た自分の受容ができていないのに、
他者にそれを望もうとする自分はさもしくないか。

さもしい。

だから、そういう記憶もすべて、消してしまいたい。
消えてしまえ・・・。

そう思うのが、今現在のわたし。
今いるのは、こういう状態であるってことだ。ただそれだけ。

ちょっとネガティブ。