正確には「最後」でなくなりました(^-^)


仙台の小学生サッカーで、冬一番大きい大会といったら、Hスポーツ杯ではないかと思います。

その予選が土曜日、代表決定戦が日曜日にありましたよ。


予選は余裕の?グループ一位通過。

県大会を決めるには、翌日曜日の決定戦で隣のグループの二位と戦って勝つ必要があります。

しかし、我々は一位通過。しかも大量得点の試合なんかもあったし、とりあえず無敵。



・・・・・・・・と、きっと小僧たちも思っちまったのでありましょう。



日曜朝の代表決定戦・・・・・負けました。

余裕ぶっこいてくれたもんで、延長までもつれこみ、そこで多くのチャンスを決められないでいたらば、

延長後半PK一発で沈められてしまいました。


どはー。


他のグループは順当に一位が勝ち抜いています。


しかし、ここでおしまいではなく、ありがたいことにというか面倒なことにというか、

敗者復活の、第5代表決定戦を勝ち上がれば、県大会にいける・・・ッ!


ただし、うちって、そういうの弱いんだよね。

耐えて耐えて勝ち上がる、とかいままでないし。

大体、前半一点先制して、それで勢いに乗って大量得点ウマーてのがいつものパターン。

相手に気おされた時点で、敗者のメンタリティになってしまう弱点があるのですよ。


そして、たとえ一個勝っても、最後にあたるのは、いままで勝ったことのないH小。

某ベガルタカップ決勝戦でも苦杯を舐めさせられた宿命の?相手。

そこは普通なら順当勝ちで県大会余裕だと思ってたのですが、

意外や決定戦で最強クラブチームと当たってしまい、敗者復活戦に全てをかける模様。


あーあーあー。

終わったかもw


で、試合こなしてホントに終わるのは、4時すぎですか?やめてくださいよ、翌日仕事ですよあたし風邪引いてるんですよ。


かといってなぁ、ここで帰れるか?

ここで見届けずに帰れるか?

なぁ?


ってんで、最後まで付き合いましたよ。馬鹿だねあたしも。


敗者復活戦一戦目。

相手はグループリーグで退けたはずのS小。

グループリーグでは結構余裕で勝ったはずが、

向うも気合がちがいます。

延長突入・・・・(ダメやんあんたたち・・・)。

ところが延長開始一分あたりで、エースの個人技で先制。

おまいら、それ、5分早くやったら延長前後半5分ずつ走らなくってよかったのに・・・(^^;)

そいつを守り抜いて、辛くも勝利。


続いてが(時間ないので、インターバル20分くらいでしたよ)、その宿命の?ライバルとの

代表、ホントにホントに決定戦。


そこで、あたしたち親は、見たことのない彼らの姿を見たのでした。


散々走って、くたくたなはず。

相手は普通に自分たちより強い。

あたりは強く、一対一も厳しい。


そこで、あたしらのムスコたちが、本当にがんばる姿を、

まさかここで見せてもらえるなんて。


体を張って守り、

とにかくボールを前に送り、

前線は前線で競り合い、


単純に見ていても、ほんとにおもしろい試合だったろうと思います。

いい試合。

攻守の切り替えがどっちも早く、リスタートの早さに象徴されるようにたるみのない試合運び。


前半守り抜いて、だけどあたしは(子どもも内心ではそうだったそうなw)勝てないかもな、と思っていました。


ところが。

それは後半も終わりごろ。

チャンス一発。縦パスをつないでうちのエースに。

DFをかわしたところで飛び出してきたGKをやはりかわして、戻ってくる相手選手のわきを

冷静に抜いて無人のゴールへ。


えええええ。

うちが先制?


もう守るしかありません。

うちのDF、小柄なんですよ。そんなDFラインってどうかと思うんだけど、人材に限りがあるもんでw

相手はもう捨て身で攻めてくる。

それを渾身の(てか、渾身くらいでないと遠くまでボールが飛ばんのよw)クリア。

え?うちの息子?その小柄なDFですわwww


もう薄闇が広がろうとする頃、試合終了のホイッスル。


勝った・・・!


えーん、行けるよ県大会・・・!


それよりなにより、いろんな「無理むり無理!」が重なりながら、

彼らには苦手な条件をクリアしながら、

粘って勝利を手にした子どもたちを見ることができて、

あたしたち親は、とても嬉しかった。


いいもの見せてもらった。

もう親馬鹿でいーです。感動しましたから。


終わったら、延長がはさまったせいで5時になってました。

子どももくたくただけど、親もね。


そんで、あたしは風邪が悪化して、昨日は仕事にふらふらと出かけたけど、

今日はもう無理で、今うちにいて、こんな風にブログを更新してるってわけよ。


寝てろよ!自分!



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ま、あれですわ。免疫力低下?


てか、もろもろの周囲の諸事情のせいにしたいしてやりたいストレスなかったらあたし風邪なんか引いてないってば

みんなみんな回りが悪いのよあたしのせいじゃないあたしはもっといい環境におかれるべきなのよそれではじめて

自分らしいっていうか能力が発揮できるというか同居とかそういうの信じられない現代の話なわけ?長男とか

そんなのほんと信じられないそういうことよ。


なんて方向に、ともすれば気持ちが進みそうでしょうがない。

全部ひとのせいにしちゃいたい。


ってのはつまり少なくともあたしにはそういう発想がどこかしらあるわけで、

そーゆー場合、長男と一緒に住めばなんとかなる、と思ってる義母を責められないと言うか笑えないというか。


今日、トイレのリフォームしてるのよ。緊急に工事。

ええ、お迎えする準備ですわ。

来週木曜日にお迎えですわ。

このトイレだって、もともと洋式でしつらえようとしたら、

義母が絶対に和式でないと嫌だと言い張って、和式になったのよ。

そんで、やっぱり今度は洋式でないとダメなんだって。

仕方ないけど、正直おもしろくない。

誰がお金出すのよ。


へっこんでいたってどうしょうもないので、ブログもリフォームしましたw


わたしの場所をさがしたい~未経験、40歳?からのお仕事探し

http://plaza.rakuten.co.jp/rosalia2006/


さて、どうなりますかな?





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ねばぎば。

出勤途中でわんこに吠えられた。

バス停で今まさに発車せんとするバスが停まってくれた。

いろいろだ。
いろんなことがあるんだ。

きっと無駄じゃないさ。

切り替えて次だぜ。
まだ終わってない。
同居だってそうさ。
なんにも希望は持てないけど、なにかしら収穫してやる。
それがホンモノの欲張りってもんだろ?

負けるもんか!
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ダメでした。

がっかりして引きこもってニートになってやるう、なんて思ったんだけどねw



ダメでしたよ。


一発逆転はなりませんでした。


何が届かなかったのかわかんないけど。

何か足りなかったのでしょう。

或いは何か過剰だったのか。



がっくりしてます。

あたしは無能力で、未経験で、スキルもありません。


なので、淡々と単純労働に就くしかないのです。


今は?・・・・これからもずっと?


ああ!


自信がすっかり失せております。




いや、あったのか?もともと信じるだけの自己なぞ。

二次面接、行って来ましたよ。

手ごたえ?ワカンナイ。

たくさん話してきた。

ちょっと言葉に詰まっちゃったりもした。


差別化を計ろうと思って用意していたセリフ言い忘れた_| ̄|○

でも、前回みたいに
「あー、ダメだろな」
って感じはしないのが、救い?救いなのホントに?

あたしが気に入ったら、使ってくれればいい。
あたしが役に立ちそうなら、使ってくれればいい。

てんぱって、
「ここでお仕事させてくださいっ」
なんて、面接中に言ってるあたし。
感情はみだしてますねw


う~ん、採って欲しいっ!!!!!!!!


だけど、

まあ、

なんにせよ。


なるようにしかならない。

なるように、なるのさ。


そう、思って、

ただ、風に吹かれてゐる。

永遠のテーマだの、「混ぜるな危険」だのと言われる嫁と姑。


わたしのところでもご多分に漏れず仲は悪い。


どうしてこうも仲が悪くなったのか、

分析的に記述してみようと思う。

なにか、明日につながる手がかりがあるかもしれぬし、

あるいは、自己正当化に役立つであろうw



もちろん、もともと悪かったわけではない。

いや、正確に言えば、仲が良いための要素は、

まるっきりなかったのだけれども。

しかし、はじめからけんか腰だったわけもなく、

わたしだってはじめから反抗的ではなかった。

いや、今ですら表立って反抗はしていないよ。


それが悪かったのかもしれないが。


そう。

本当にこころを開いて、本当に関わりあって生きていこうと思ったら、

あたしは、不審な部分は、尋ねる。

わかるまで尋ねる。

納得できなかったら、怒ったりもする。

訴えもする。


逆に言えば、そうやって話し合えないひととは

関わりあって生きてはいけないよね。


でも、あたしはそれを義母に対してしない。

できない。

する気にもならない。


というのは、彼女には自分の意見がないからだ。

いや、意見はある。

しかし、責任を取らずにすむ場所に自分を置くやりかたが

身についているため「自分の」意見は表明しない。

「そういうものだ」

「だって、誰だってそうではないか」

そういう「みんなそういってる」風の逃げとともにしか発言しない。


結果として、彼女は愚痴にまみれている。

文句と不平の嵐である。

自分の意見を表明すれば、反対されるリスクもあるだろう。

しかし受け入れられて、自己評価を高めることにもなるだろう。

けれども彼女は、まわりを優先させる振りをして、

自分は顧みられていないというパフォーマンスを繰り返す。


例えばだ。

家族で食事に行く。

料理の選択において、彼女は「なんでもいいよ」と言うので、

普通にファミリーレストランに行けば、アレは食べられない、これはまずい、

うまそうではない等々こぼしあげて、同席のものを散々うんざりさせて、

しかたなくなにかを「選んでもらって」、

そして「まずいまずい」と文句をいいながら食事をする。


別のところに食べたいものがあるなら言ってくれよ!



そういうことがなんどもなんどもあって、

あたしはまともに関わろうとすることをあきらめた。



こういう行動のパターンは、いろんな年代の女性にぼつぼつと現れて、

たまたまあたしのまわりでそうなのかもしれないけれども

(そしてここまですごいのはまだお目にかかったことがないけれども、

いや、それはカゾクだから甘えてるのかもしれないけれども)、

小学校の子どもの保護者で、わけもなく役員を逃げまくる人に散見されるなー、と思う。

それも、「PTA興味ないし関わりたくない」と出てきやがりもしないタイプではなく、

参観日にも来る、PTA行事にも来る、子どもが大事子どもが大事と体中から

滲み出してきそうな雰囲気で、しかし役員を振ると、

「えー、あたしには絶対できませーん」

って言うヤツ。


あれだ、

それは明確に責任から逃げているのだ。

「誰かがやればいいこと」

と、思っているのだ。

なにかいいことやなにかいいものは、他者が運んでくると信じている。

責任を放棄したものは、口を開けて幸運を待っているだけ。

それはひとさまの勝手な人生ですから、ご勝手になさればよろしい。

しかし、責任放棄には、他者への期待が表裏一体に張り付いてくる。

故に、文句と批判が張り付いてくるのだ。


あたしも夫に文句を言う。

主に、ここのところ主に、同居と義家族についてだ。

それは、あたしではどうしようもない部分が多いからである。

あたしは夫に期待しているから(するしかないから)、文句も批判も出てくるのだ。

これが、自分の意見も反映されることなら、自分でなんとかするわい。


しかし、自主的にすべての?事項に、期待して文句を言う、

という姿勢で生きているというのは

それはどうなんだろう。


いわゆる「女性的なありかた」を学習した結果なのだろうか。

程度の差こそあれ、あたしの実家の母もそういった傾向にある。

しかし、それには「働くな家に居れ。誰が稼いできてると思っているんだ。

嫌ならウチから出て行け」(←ええ、はっきりDVだと思うんですけど、母自身が

「わたしが至らないからよ」なんて言うの。勝手にしてて、この似非SM夫婦)と

夫(つまりわたしの父ね)に言われ続けて、力をむしりとられた結果だと思うんだけど。

ま、そこで「わたしが至らないから」と言えちゃうというのも、相当な男尊女卑思想の

教育の賜物だよね。時代だよね。雇用機会均等法なんて夢のまた夢だったころの話だ。



ま、それはさておき。


あたしはいままで、意思疎通が無理っぽいってことで、

そういったかかわりはさけて来たのだけれども、

夫は、もっとぶつかって、ケンカしないと、わかりあえないという。

むしろ、ケンカしろ、という。

それはよくわかるしその通りだと思うんだけど、

問題は彼女の方言なんだよな。

途中からわけわかんなくなるし、どこまでお互い通じてるかさえも

たまにわからないことがある。

誤解があった場合に、彼女はあたしが意図的に誤解した、と曲解して

怒り出したりしたので、やってられなかったし。



そう。

「嫁に悪意がある」

という思い込みが、7年前の同居ではすごくって、

なんでもないときにいきなり怒り出されて

(しかももうその時には感情的モードだから、方言ばかり。

何言ってるかわからなくって、

しかも怒りと罵倒の気持ちだけがびんびん伝わってくる)、

まさに毎日が地雷原だった。


次回「ヨメ・シュウトメ・2」は『被害妄想』でお届けしまーす、って、続くのかよ!



ひとを“嫌う”ということ/中島 義道
¥500
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昨日から、これを読んでいる。

たいそうおもしろい。


人が人を好きになるのは自然、ならば、ひとを嫌うという感情も自然なものではないだろうか。


そういった指摘から、ひとがひとを嫌うことの諸相について、

わかりやすい哲学的アプローチで解説してくれている。


まだ読了してないのだけど、とにかく、この本に出会った僥倖をここに書き記したかった。


ひとを嫌う。


それは当たり前のことで、様々な要因でひとがひとを好きになるように、

ひとは、様々な、そして大抵は理由すらはっきりとはしない(させない)ままひとを嫌う。


ひとを好きになることは賞賛しておいて、ひとを嫌いになることは罪悪のように思い込む・・・

そんなことは、食べるだけ食べておいて排泄できないようなものだ、と作者は言う。


(ここに重要な追記:

自然に嫌う、ということは、わたくし自身も自然に他者から「嫌われる」ということである。

これを受け入れないとこの主張発想はただのエゴである。

正直、「嫌われることはしごく当たり前」という指摘は当然のことでありながら、

目を開かされた気がする。

従来の「嫌われたっていいじゃない?」という発想はやはりどこかしら

「嫌われるのはよくないこと、自然でないこと」という立場の発想のように思える)



あ~~~~~~。


あたしはすっきりしたぞ。


そして、ただ「嫌う」といったありかたで、嫌いなひとのことはただ嫌おうと思う。

それでいいのだ。

そしてそれは、なかなか高度な人生のテクニックであるようだ(←読了してないw)。


同居する義母のこと、この本を4分の一読んだところで夫に、

「ごめん、ごめんけど、義理のおかあさんのこと、あたし嫌い。

嫌ってもいいのだ、嫌うことそのものは自然だとこの本にも書いてあって、

あたしは本当にそうだと思ったんだ」

と言った。

夫は、

「嫌われる方が悪いよ」(←いろいろあったんです・・・)

と言ってくれたんだけど、その後またこの本を読み進めて、

そういうことを夫に言ったという行為は、

あたしの自己正当化にすぎなかったことがよくわかった!


それにしても、

嫌い、

ってことをはっきりさせて、

「ひとを、しかも義理の母親を嫌うなんて、とんでもないひどいことだ」

なんて思い込みを握りつぶすことが、こんなにすっきりすることだとは思わなかった。


嫌い嫌い嫌い。


それにはいろんな理由がやっぱりあって、

それは自分の中の混沌に直結している。


嫌いにもっともらしい理由をつけることは、

自分を一瞬ごまかして安心する行為だ。


ひとを嫌ってない、なんて思いこもうとするのは、

自分自身への偽善で欺瞞だ!


醜いあたし。

でも、

みんな醜さをひきうけて生きていくしかないのよ。


なんて素晴らしい世界?そうじゃない?


読み終えたら追記するかも。

決定事項。

テーマ:

2月末には、むこう引き払ってこっちにいらっしゃるのですって。

義理両親。


こっちトイレのリフォームまだなんですけど・・・。

そっち手術後の検診まだでしょう・・・?


えらい急ぎよう。


ま、あれだ、向うの実子たちが揃いも揃って面倒見るのを放棄した、という事実が

あるんですけどね。


ま、「アナタ子どももいないのでしょう?実の娘のあなたがみるべき」なんて

あたしゃ言わないけどね。正直ちょっとはそう思ったけどね。

てか、あたしがムスメなら、できるだけ郷里で暮らせるようにしてあげたいけどね。

でも、そうできない事情があるのでしょう。

詳しくは知らんけど。


ま、そのように実子に嫌われる義両親(いや、義母だよ)に大きな問題があることは

異論を挟む余地はない。



その息子の配偶者たるあたしとすれば、大きな災難だ。


どう思われようが、そうとしか思えない。



うまくやれない・・・・。


これは目下懸案の嫁姑・再度の引き取り同居問題のことではありませぬ。


普通に、人間関係ね。




前はあたしは、

「自分は嫌な雰囲気を持った人間で、暗くて奇妙でひとに嫌われるたちなのだろう」と

自分のこと思っていて、

お願いですから、嫌って下さるな・・・、とばかり思っていました。


しかし、

そうでもないんじゃないかな、と思うようになり、

前思っていたことは、我ながら悪質な思い込みだなぁ、と思うようになりました。


そして、普通に、ひとと付き合ってるつもりなんだけど・・・


これが、うまくいってる気がしないのです。


例えばサッカースポーツ少年団の保護者、要は母たちとのかかわり。


例えば、この間みなさん、中学校の体操服の採寸に行くのに、

誘い合ってお行き遊ばしたらしいのだけど、

あたしは誘われてない。


例えば、卒業後、サッカーのちょっとエリート?コースに進む同級生がいるらしいのだけど、

その話があたしには最近まで聞こえてこない。


みんなと話をしているのに、話が見えない。



まあ、その原因は、わかる。


もともと「今度の参観日、何時ごろ行く?」「何着ていく?」なんて話を振る方ではなく、

それに乗るほうでなく、早い話がトイレにみんなで行くタイプではないのだあたしは。


もともと、人の噂話に興味がなく、その場にいない人の話がはじまっても、

たいした相づちは打たないたちなのだあたしは。


そんな人をわざわざ誘おうと思わないだろうし、

そんな人に人の噂話は振るまい。



そういえば、今も苦く思い出すのだが、

小学校での人間関係、あたしは非常に苦痛だった。

なぜかははっきりとはしないけれども、

傲慢な言い方をすれば、話が合わず、

無理して合わせて、「うまく行ってる」と思い込めば、

裏で陰口を叩かれていたことを知ったりした。


大人になっても、育児情報誌製作で出会った・・・友人と思えるつもりだった人が、

「あなたを今売り出してあげてるのよ」なんて口にして感謝を要求されて

(わたしは同時にフェミニズムの活動にもかかわっていて、

当時とても発言の機会をいただいていた、

そのことを言われたのだと思うのだけれども)、

そんなつもりではないと申し上げたら罵倒された・・・ってこともあった。


こころを開かないのがよくないのだ、と思って、

思ってることを感じたままに話すと、

変わった人だと言われ。

でも、まあ、前述したとおり、こころを開くこと自体が、ちょっと怖い。


怖いのだ。深くかかわるのが。

自分だけが満足していることに、後から気づかされる。


ここを読んでくださってるひとは、きっと、この文章に通じるものや感じるものが

あってくださるから読んでくださってると思うし、

感じない人や、反発を覚える人は、きっとスルーしてると思う。

そういうことがわかってるから、あたしはここに言いたいことを書くし、

言いたいことしか書かないし。


ここがなかったときには、誰かにわかってほしい一心で、やたら饒舌だった。

自分が、自分が・・・だった。

それは醜かった。

誰もわたしの言うことは、聞いてなかったんじゃないかな。


今は、ここがあるから、もう、誰も聞いてないことをじょぼじょぼ垂れ流したり、

垂れ流すために飲み会で箍をはずしたり、ってもうしないですんでいるけど。


それでも、

仲良さそうに、

そう、まるで小学校のお友達同士のように

(それはまさに小学校のオトモダチの相似形。

同じ小学校区に住んでる。子どもが同学年。それだけの縁。

同じ小学校区に住んでて同級生、それだけの縁でオトモダチだったあの頃とまったく一緒)

談笑しているみなさんの姿をみると、


それは心からのお友達なのかどうなのか

それは本当にこころから楽しくてそうしているのか

もちろんわからないけれども、


その中に入っていけない、入っていっても、

穏やかな笑顔で、たまにつまんない冗談を言ってるだけで

うまくフィットしてないようで気持ちが苦しいあたしは

なんだかとてもうらやましい気持ちになる。


どうなんだろう。

彼女たちがそこで歓談しているその世界があたしには共有できないことは、

あたしには何か別のものがきっとある、ということなのだろうか。

それを見つけようとしてないから見つかってないだけなんだろうか。


週刊誌では物足りないから、図書館の蔵書から本を借り出して読むような、

ただそれだけのことで、

週刊誌がおもしろいと思ってるひとをうらやましいと思うことがナンセンスであるように、

一緒にトイレにいけるひとがうらやましいと思うのはナンセンスなのかもしれない。


それでも

それでも、


あたしは、うまくやれてない気持ちになるのよ。


小さい、

とても小さいことだと思うわ。


だけど、

大きな世界やなにかとても大きなものと共鳴してられるような

そんな素敵な日々を(時間を?体験を?瞬間を?)、

今のあたしは見失ってるし、そもそもそんなこと幻だったんじゃない?とも思っちゃうし、

そんなものほんとにあるのかしら、って思ったときに、


目の前のことをうまくやれないって、自分の出来の悪さにげんなりしてしまうのよ。


あ、それから、せっかくいただいたコメントにレスできてなくってごめんなさいね。

こんな最後に書いちゃってアレなんだけど_| ̄|○

いつも、励まされて読んでます。


ここんとこちょっと殺伐としてるので、

昨日は、キャンドルを灯して、

バラとレモングラスのハーブティーを入れて、




まなイタと三角コーナーと洗い籠と水切り籠の

除菌漂白をしましたとさ。


やるべきことをやる。

そんで、きもちいいことを、する。


誰がなんと言ってもだ。


当面、それでいい。

それでいいはずだ。