ともだち。

扱いに困る、なんて書いちゃった。こないだ。

そしたら、聡いお嬢さんに、そのこと指摘されちゃって、自分のなかの隠しときたい感情に気づいた。

わたしが扱いに困っているのは、ちょっと扱いに困っている時代に「ともだち」として付き合っていたともだち。

つまりわたしが扱いに困っているのは、自分のその時代なのね。

ひとを大切にするということや、
ひとを大事にするということや、
このともだちといることが楽しいということを、
感じることが下手だったり、わかってなかったりした時代。

それはきっと自分のせいだけじゃなく。

わたしはようやく、誰かを損得無しに大事に思うとか、大切に思うとか、このひととコミュニケーション取りたいとか、

わかってきたようなので、きっとこれからでいいのではないか、と思うのね。

ほかのひとが、小学生からのともだちやおさななじみや高校時代、中学時代の友達といまだに仲良くしてる。

だから自分もそうしなきゃ、というのは、まだ自分には無理で、

そもそもその頃のともだちって自分にとってどうだった?と疑問に思いながら今更表面上上手なコミュニケーション取ろう、

なんてきっと徒労。「だから自分もそうしなきゃ」っていうのも、おかしいよね。

冷たいと思われても、ひとでなし、と思われても、
いまここから、人間関係のはじまりをやらないと、きっと死ぬまでに取り戻せないことがあると思うんだ。

逆に言えば、死ぬまでに取り戻してやろうと思うのよ。健康な人間関係を構築したいのよ。

今、大事にしたいひとから、大事にしよう。
それはまだ歴史が浅い関係だけれども。
だからって、時間ばかり経っている関係をゆりおこしたって、自分の中に迷いが積もっていくだけだから。

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全部全部、しゃきりしゃきり、切り刻んで捨てることはない。

思い出す。ちいさなこと、嬉しかったこと。

悲しみや、切なさや、どうしようもないことや、怒りは、
こころのなかのブラックボックスにさしあたってほおりこんで。

ふっと思い出す、大事で嬉しい記憶を書きとめよう。
そうして、大事にしたい記憶を、自分の中の特別室へお通しして、
いい記憶ばかりで、パーティでも開いててもらおう。

大事にしたいものなのか、捨ててしまいたいものなのか、
困惑する感情と対面するのが怖くて、
大事にしたいものが、なにもなかったらどうしよう、と
寂しさの予感におびえて、
まるごと捨ててしまおう、っていうの、
ちょっと、自分を大切にしてないよね。

わたしはわたしを大事にするの。
それを見て、きっとわたしの大事な子どもたちも、自分を大事にすることを覚えるでしょう。

だから、わたしは投げやりになっちゃだめなんだ。

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一昨日が急な練習試合。で、昨日はまったりと昼前からの練習で、上ムスコだけトレセンに行って、学校まで送ってもらってとことこ自分で帰ってくる。わたしはその間まったりおうちで骨休め、のつもりでした。ところが急にトレセンに行く親が増えて、それじゃ、というんでわたしも急遽行くことに。

トレセン、というのは、県のサッカー協会主催で、各サッカースポーツ少年団の中から監督推薦で、学年ごとに何人か出して、合同練習するというもの。趣旨の中には
「将来の代表選手を育成する」
という一文もあって、そりゃー、なんだかすげーや。こういうのが県下に何ブロックもあって、それが各県にあって、全国的に何人ものサッカー少年たちが切磋琢磨しているわけね。

それで、うちのチームから、うちの小僧とあとひとりが初選出なのね。うちの学年のエースくんとファンタジスタくんはとうに選出済み。他のチームからきた子ともなれた感じで話したりしてる。うちの小僧ともうひとり、所在なさげ。まぁ、しかたないよな。

練習は、かなり基礎的なことのおさらいに近いものだった。前に下ムスコを幼稚園時代に教えていただいたコーチが主に教えてくださっていて、活気とアイディアに満ちた教え方は相変わらず。

やはり、確かに、この顔四年生大会で見た、と記憶している選手がたくさん来ていて、基礎的なことでも、ボールのあつかいなどでも、みんな遜色ない。ひたむきさも違う。

うちの子なんかは、チームでは比較的うまい方に属しているから、同じ学年同士での練習だとどうしても慢心する部分もあるんじゃないかな、と思っていたんだけど、こういうところで刺激を与えてもらえるととてもいい。まだまだなんだということ、肝に銘じてほしい。努力が大切。上に行きたいのなら。

幼稚園で同じクラスで、今は別の小学校に通っている子もいて、なつかしく思った。

いや、それよりなにより、寒かった。軽装だったので、凍死しそうだった。・・・んなことで死なないって。

今朝、上ムスコが起きてくるなり「筋肉痛だよ~」。
でも、なんだか嬉しそうな顔でそんなことを言っている。
充実してたんだな。

試合三試合、通常練習、トレセンで2時間。
彼にとってへヴィーな週末でしたとさ。
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気分いいねぇ

ムスコのゴールが決まって、
しかもチームが勝つ。

気分いいねえ。3-2 3-2 。逆転はサッカーの華だね。

でも最終試合でどいつもこいつも慢心しやがって、4-1で負けた。
肩を落とす小僧たち。落とさない小僧たち。

4年生、このモチベーションの違いが大きな問題。

昨日は、急な練習試合で、ブログぜんぜんのぞけませんでした。
記事もかけませんでした。
寒くて、帰ったあと、前に書いた優勝の祝勝会で焼肉でした。
肉。肉うまいよ。人間は穀物とマメと乳とくだものをこそ主に食す
べきなんじゃないかなぁ、と思ったりするわたしだけど、
口にするとうまいんだよ。肉。

満腹。酔眼朦朧。お風呂入って、
きゅ~、とのびてしまいましたとさ。
今いる場所、
確かにいてもいいと信じられる場所に
しっかりと足を下ろし、
確かに前を向いて、
考えながら、考えながら、
生きていくこと。

いやー、

「しっかり足を下ろすこと」も、
「確かに前を向くこと」も、
「考えること」も、

なかなかきちんとやるのは、考えてみりゃ大変なんすけどね。

生きていくのは難くない。

わたしの愛するひとたちよ、ありがとう。

*昨日の記事にコメントどもでした。
お返事はのちほど。
こう、小学生時代の自分が生きていた時間ってやつを、
机に広げて、左手に持って、右手のハサミで

しゃきり しゃきり しゃきり しゃきり

・・・と、切り刻んで、ゴミ箱に入れて、
ゴミ箱がいっぱいになったら、
本物は最近ダイオキシンがでるとかであんまりお目にかからなくなった
架空の焼却炉に入れて、架空のマッチをすって、

ごおおおおおおお

燃やしてしまえないものだろうか。

これは中学生時代も、高校生の時代も、大学に通っていた頃も
みんな同じだ。
今の自分は否定しない。否定しないで生きていけるの、すごいことだ。
これだけでもすごいと自分で思う。

わたしの中での取り扱いに困っているのが、友人たちの存在で。

彼女たちも変容している筈で、あの頃のくったくのなさで
わたしを受け入れてくれるかどうか、わからない。
そういえば、はしゃいでみせて、手痛い拒絶もされたっけ。

そもそも、自分があそこにいてよかったのかどうか。
もがいて取っていた行動の、あまりにも情けなかったこと。
あそこに居た自分の受容ができていないのに、
他者にそれを望もうとする自分はさもしくないか。

さもしい。

だから、そういう記憶もすべて、消してしまいたい。
消えてしまえ・・・。

そう思うのが、今現在のわたし。
今いるのは、こういう状態であるってことだ。ただそれだけ。

ちょっとネガティブ。

テレビテレビ。

テレビ。いっぱい見た。

昨日なんか、「ごくせん」半分も見た。
男子高校生が異様にかわいいんですが。
いいんですか、世の中あれで。
何故強い?仲間由紀恵、じゃないヤンクミ。

さきおとといは「富豪刑事」見た。
深田恭子かわいい。浮世離れしてる感じがいい。
エンディングの及川光博の「愛のメモリー」もいい。
楽しそうに演じている筒井康隆もいい。
どうでもいいけど、うちの子どもの通う小学校の校長先生は
筒井康隆に似ていると思う。

おとといはBSで全米No.1ヒット特集みた。
「アイ・ショット・ザ・シェリフ」のほんもの
(でもエリック・クラプトンがカバーしたやつ)を
はじめてみた、いや聞いた。わたしはグッチ裕三さんのカバーで
しかも童謡「アイアイ」と混ざってるやつしかしらない。

ほかにも、でゅらんでゅらん、とか、くいーん、とか。
CGがない頃にはいろいろ工夫しとったんやね。
8ビートマガジン、だったっけ、あったよね。

今日は、録画しておいた昨日放送のがんだむ、
それから今朝のまじれん。
がんだむは、これからシン君が
「ぼくが一番がんだむをうまく操縦できるんだ~」
になっていくようなきがする。
女性キャラはみんな乳が豊富でうらやましい。

マジレン。意外と面白く感じてきたのは、わたしだけか?
もう洗脳されてしまったか?おいら。
ナイとメア。いい。やられた。ずっとその姿でいてくれ。
マジレンジャーと魔法の部屋?みんな思っただろうな。
ああうジュウレンジャーとチェンジマンとギンガマンとゴレンジャーの
残り香がぷんぷんするよ。
マジレンの君たち、兄弟の変身したボールをそんなにごんごん蹴って
大丈夫なのか?
それよりママンは本当にもう天国にいってしまったのか?
天国でママさんバレーか?それじゃかいけつゾロリだ。

あ、今とてもタイムリーに外で子どもが
マジマジマジーロ
と叫んでいる。おこさまのハートはキャッチしているようである。

あ、昨日は、A3、横浜マリノスVS水原サムスンも見ようと
思っていたが、横になったとたんにうたたねしてしまって、
気がついたら試合終わっていた。
怪我人だらけなんですって?横浜。
罰ゲームおつかれさんです。

怪我人といえば・・・シルビーニョ・・・。
疲労骨折、全治2~3ヶ月・・・・・・。

なんか今季、始まってもないのに終了?まさかね。
気のせい気のせい。
あははははははははははははは。はは

わたしが思う平和は、持てる力をより小さきものに注げる生き方がメインストリームになるような世界なのかもしれない、とも思います。
攻め込まれる事態は絵空事とはいえない世界情勢ですが、わたしの心と行動は、「家族を守るために武器を取る」ということよりも「無駄にひとを傷つけずに済むような人間に自分も含めて育ちあいましょう、と子どもや周りの者たちと模索する」方向に向きます。

残念ながら無理だ、と考えていないのですね。全てが大人として話すことのできる社会を。

それをあきらめないことが、この世に望んでいのちを生み出したものの務めではないかと、わたくしは思うのです。


・・・ということを、下の記事にTBいただいた彩庵さんの記事のコメントに書きました。

彩庵さんは、

>私の考える平和は、宗教、地域、人種など何も関係のない、全てが大人として話すことのできる社会なのですが、残念ながら無理だと考えています。
(特に根強いのは宗教)
(一部抜粋)


とおっしゃっておいでで、それを受けてのコメントになります。

わたしがくまくまさん のお考えに違和感を持ったのは(もともと気になる論調でしたが、まさにいまここに、くまくまさんのおことばとして現れたので、ちょっとお話させてもらおうと思って、コメントしたのです。そうしたら、とても丁寧な記事 にフィードバックしていただきました)、「攻め込まれる」という発想があまりにも身近である、ということでした。

平和ボケ、ということばでくくられそうですが、まさに日常を生きているときに、攻め込まれるかもしれない、この街が、学校が、この町内が、戦場になるかもしれない、ということは幸い日々思わずに済んでいます。どちらかといえば、やれ、子ども同士で無視しあっただの、悪口をいいあっただの、殴り合いになっただの、という小規模闘争を身近に感じています。そこでの理想は、「話せばわかる」「相手のことを考えてものを言え」等々。攻め込まれるから武装しよう、という発想は、これらの理想がまやかしにすぎないことを露呈します。

わたしはまだ信じているのです。グローバル化は、多様な考え方を表舞台にたたせ、競争を激化させ、勝つものと負けるものを作り出しているように見えますが、いまはまだ過渡期であると、わたしは思っているのです。いつか、非暴力がメインストリームになる日がくるのではないか、と。それは、自分が、子どもが、夫が、家族のために武器を取り、だれかの家族であるはずのひとを傷つける未来よりも明るい未来です。

過渡期のまま、自分が一生を終わるかも知れず、過渡期のまま、またひとびとは武力や暴力を交渉の手段にすることもあるかもしれませんし、わたしの望まない未来もくるかもしれません。過去記事 でも申しましたが、わたしとて、幼い子どものために防衛の暴力を振るうこともあるかもしれません。ただ、ただ、そこをゴールにしたくないのです。その先のことに知恵と理性と知性を使いたい。せっかくかくも大脳が発達した人間と言うものに生まれてきたのだから、と思うのですね。

そのために具体的に何をするべきか、は、また後ほど。
かなり後ほどになったらごめんあそばせ。
くまくまさん に、宿題をいただいて、平和について本気出して考えている(ポルノグラフィティ好きです)。

ところが、ものがものだけに、そうそう簡単にまとまらない。
なので途中経過として時々つぶやいてみようと思う。

平和について考えることは、愛について考えることに似ている。

それぞれの場所でそれぞれのレベルの愛があるように、
平和もいくつもの形を持つ。


会話はきっと思考の道しるべになると思います。
どうぞ、お感じのことを、遠慮なく話しかけてください。
わたしに。そしてご自分自身に。