http://web.archive.org/web/19970429010113/http://www.ces.kyutech.ac.jp/student/JapanEdge/index.html

ここがそうです。飯塚市の九州工業大学の学生が教授に100Mの容量を分けてもらって作ったそうです。

「教科書に載らないインターネットの歴史」という本に書いてました。飯塚は結構田舎なのに、九工大の生徒はオタクが多いから当時からこういうのが好きな学生がいたんだろうなと。

過去の新着情報を見ると94年8月30日が最初なんで10年以上前が最初なのかと。むしろネットの歴史ってまだ10年ちょっとしかないのかと思ってます。

AD

2大メンズファッション誌のひとつ(一方はメンズノンノ?)
smart1/5&1/19号において
ストリート女の子調査1000人(100人の誤植の可能性も)
でかっこ悪いと思う男の子の趣味
第1位 アニメ
 2位 ギャンブル
 3位 アイドル
 4位 パソコン
 5位 プラモデル
4ヶ月前の号の調査だけど、なるほど。ちなみに自分の場合は1,4が当てはまります。パソコンって、かっこ悪かったんだ・・・でも質問した相手がストリートの女の子って言うのも気になる。

秋葉原しらべなら結果は違いますが。結局質問する相手の層で変わるもんだと思いますた。結局趣味にかっこよさなんて関係ないけど。

AD

ゲーム業界で「最も影響力のある10人」米国の雑誌「Electronic Gaming Monthly」が選んだゲーム業界で「最も影響力のある10人」の
トップに宮本茂氏が選ばれたそうです。ゲームボーイの生みの親である横井軍平氏も4位に並んでいます。
以下はリストです。

1 宮本茂 ドンキーコング、マリオブラザーズ、ゼルダの伝説
2 久多良木健 プレイステーション
3 Nolan Bunshell アタリ創業者、ポン
4 横井軍平 ゲームボーイ、メトロイド
5 岩谷徹 パックマン
6 Alexey Pajitnov テトリス
7 John Carmack Doom、Quake
8 Will Wright シムシティ、シムズ
9 田尻智 ポケットモンスター
10 Sam and Dan Houser グランドセフトオート3

http://www.nintendo-inside.jp/news/163/16399.html

ということですが、僕にとっては鉄拳3、バーチャルプロレスリング、1080°を作った人が最高かもしれない。

任天堂の新型ゲーム機の特徴は過去の資産であるファミコン、スーファミ、N64、GCのソフトが遊べるというところらしい。これは僕にとっては楽しみだ。さくさく遊べるファミコン時代の任天堂のソフトを楽しめるわけだし、粒ぞろいのN64のソフトだって出来る。これくらいありがたいことはない。ファミコンのソフトの人気が根強いことはゲームボーイで発売されたファミコンミニの売れ行きが上々だったことを見れば一目瞭然だ。たぶんもうゲームから遠ざかった40才台の気持ちをつかむかもしれない。40台の人にはそのころ一緒にゲームをした仲間と集まってプレイしてもらいたいものだ。懐かしいからといって、一人でやったって面白いのは最初だけで、一時間もすると「もうあのころとは違うんだ。自分は変わってしまったんだ。」と痛切に感じて滅入ってしまうだろう。仲間と遊んだあの頃が輝かしければ輝かしいほど、楽しければ楽しいほど、「あの頃みんなで騒いでゲームしていたなぁ」と感慨にふけっている間はいいが、ふと現実に戻って周りを見渡すと、一人、みたいになると、それぐらい切ないことはない。思い出を反芻するつもりで買ったはずがむしろ切なくなってしまう。これが一人で昔のゲームをプレイする時の危険な面だと思う。最初の一時間は楽しいはずなので、その楽しさを持続するにはやはり、当時遊んだ仲間がいないと駄目だ。プレイするゲームだけではなくて、環境すらも当時のままにしないと、マジで欝になるよ。


出来れば、当時一番仲のよかった友と、一緒に。「この隠れキャラどうやって出すんだっけ」「ここでBダッシュだよね」とほこりのかぶった古ぼけた記憶を引っ張り出しながら。


一人で回想するのではなく、あの頃の仲間とともに。仲間の声を隣で聞き、仲間と話し、そして酒でも飲みながら、大人の余裕を持ちつつプレイしてほしい。そういうオサーンたちなら尊敬に値する。


ファミコンは小学校時代遊んでいた口であるわれわれ三十代もやはり同じだ。ゲームはコミニケーションツールだった。一人で黙々とやるものでなく(まぁそういうゲームもあったし、友達も呼ばず黙々と一人でする奴もいた。でもそんなゲームばかり買っている奴なんていなかったし、一本や二本みんなで楽しむゲームを誰しも持っていた。)みんなでやるものだった。互いの表情のわかる距離で楽しくやっていた。それは一人でするよりも何倍も楽しかった。時には明日の授業の話をしたり、マンガの話をしたり、次の休みは何しようか話したりもしながら。そしてゲームに飽きたらマンガを読んだり、外に遊びに行ったり。ゲームを通してコミュケーションをしていた。ゲームを楽しみながらも会話を楽しんでいた。ゲームをしたいがために友達の家に行っても、結局は友達と遊ぶということを楽しんでいた。

だからこそ、懐かしのゲームを一人でしても、物足りないのだ。一番大事な部分が欠けているのだ。

ゲームそれ自体も楽しいがそれが楽しさのすべてじゃない。ゲームを通して生まれる場の雰囲気が楽しかったのだ、それが楽しさのすべてだ。

そういうわけで。

音信不通だった昔の仲間や、今もよく遊ぶ昔からの仲間と一緒に僕は楽しむつもりです。

ぼちぼちと見ているんだけど最初のころのストーリーのつかみづらさはだいぶ少なくなったが、いまいちはまれない。登場人物のせりふの一つ一つが漠然としていて、つかみにくかったりするからと思う。。どうもこのアニメの脚本の人は登場人物の会話の作り方が苦手なんじゃないかと思ったりする。「俺は!」とか「しかし!」というような(後半の考えを話さない)せりふが結構多くて、登場人物がいいたいことを全部話したりしないパターンが多く感じたりする。それが効果的に使われているのなら、(つまりそのせりふをしゃべっている人物の心情がより鮮明に浮かび上がってくる、わかりやすくなるのなら)いいんだけど、あまり効果がなかったりする。後もうひとつ登場人物が自分の哲学や理念を語るシーン。これは一人のキャラクターのセリフが結構長めで、なんかいろいろ長広舌を振るうのだけど、いまいちまだるっこしかったりする。いろんなことをたくさん詰め込みすぎようとするためにどうも意味が伝わりにくくなっている。脚本の人の語彙の選び方が適切じゃないのかなぁ。これは僕の個人的感想なわけだけどほかの見ている人はどう感じているのだろうか。


司馬遼太郎か誰かが行っていたけど、小説は符号だといっていた。作者と読者が半分ずつ符号の欠片を持っていて、それをあわせると物語が完成するのだと。もし作者が提示する符号が少なければ、読者は残りの半分を合わせても完成した物語が見えてこないので苦労するだろう。これはマンガでもゲームでも何でも同じだろう。作り手が独りよがりになってしまったら、受け手は困るということだ。少数のわかる人はわかるっていう作品をつくのなら、一人よがりもいいのかもしれない。でもガンダムはそういう作品じゃないと思う。わかる人だけわかってくれたらいいよ、というスタンスで作られた作品ではないはず。


もっとセリフを練り上げて、登場人物の考えがわかりやすく浮かび上がるようにすれば当然キャラクターの個性がしっかりと出てきてわかりやすくなると思う。確かに今でも個性的だとは思うけど、もっとはっきりとするはずだと思う。登場人物の話していることがわかりやすくなれば、登場人物の個性もはっきりする。そうなるとストーリーにもメリハリが出てくるはず。こういう問題点をクリアすればガンダムシードディスティニはもっと面白くなるはずの作品だ。


わかりやすい=底が浅い作品、という等式は成り立たない。わかりやすくても、深い、面白い、そういう作品だってあるはず。わかりにくい(難解)=深い、というわけでもない。わかりにくい作品は深いのではなく、ただ単にしっかりと練り上げられていないだけなのではないか、作っている側も何を作っているのかよくわかっていないのじゃないか、と思ったりする。もっともこれは完全に個人的見解なのですが。


わかりやすい(わかる)、ということは作品で何を言おうとしているか見ている人が理解できるということだ。理解したうえでなら、面白い、面白くない、という判断はできる。面白いと感じようが、面白くないと感じようが、作品を理解したうえでの判断だから、それは趣味の問題だし、感性があっているかの問題だ。


でもわかりにくい、となると面白い、面白くないという判断を下す前の段階だ。だからなんともいえない。



だから僕はこのガンダムに関しては、わかりにくい部分が多いので、なんともいえない。部分部分面白いなと思うところもあるんだけどね。


魁クロマティ高校

テーマ:

クロマティ高校が映画化(しかも実写!)するらしい。アニメ化するときはまぁアニメ版もあってもいいだろうなぁ、とは思っていた。もっともIG(甲殻機動隊の製作会社)が製作しているのはちょっとびっくりしたがそのギャップもまたギャグになっているのでクロマティらしいし、IGももしかして狙ってやっているのか!?などどおもったりもした。アニメ版を見ていてあらためて思ったのはこの漫画は、不条理なギャグで読者や視聴者を笑わせようという魂胆は全くなく、適度に論理的な会話で笑いをとろう、という考えで成り立っているということだった。よく読むと登場人物はちゃんと前のコマのキャラクターとちゃんと会話のキャッチボールをしているし、その次のコマも、前のコマのせりふを引き継いで、会話となっている。だから読んでいて思うのはちゃんとした会話をしているな、ということ。でもその会話をしているのが、不良なのが面白いところだ。それともうひとつ面白いのが、論理的な会話って、経済とか、政治とか、哲学とか、数学とか、そういう話の内容でこそ必要であり、もっともふさわしく、違和感ガないのに、クロマティの場合は、出てくる登場人物の会話は本当にどうでもいいこと(詳しくは原作を読んでください←アニメ版の真似)なのに、それが論理的な会話となっているのが、面白いところだと思うのです。「今日は天気が悪いな」「じゃあ、雨が降るかもしれない」「雨が降りそうだよな。けど、実は今日、歩いて遠くに出かけないといけないんだ。」「雨が降りそうじゃないか。じゃあ傘を持っていかないといけないな。」「そのとおりだ」「でもまて、天気が悪いからといって本当に雨が降るのか?」「雨が降るか振らないか、まずそこのところを考えてみよう」・・・的な論理的な会話で成り立っているような気がする。最もギャグマンガだから、一人くらい突拍子もないことを突然言って論理的な会話を壊す役割の登場人物がいるわけだが、それが「林田くん」だ。


会話のキャッチボールという話になると、コントとか、漫才とか言う話になるけど、クロマティ高校はそういうのとはまた違う。クロマティの場合は、たとえば山口ノボルが後輩に寿司をおごる(ラジオ番組にネタを投稿して採用されたため、お金が入った・・・まぁこういう不良がいるということが奇妙だけど、『見た目が悪なんで不良しているが、俺は本当はお笑いが好きなんだ』ということが論理付けされているのでそれほど違和感はない)すし屋に入ると、なぜかゴリラが寿司を握っている。しかしよく考えろ、こんな店はめったにない。それにねたもうまい。きっと理由があるに違いない。たぶん店主に拾われたゴリラが恩返しのために寿司を握っているのだろう。店主がいないということは病で倒れているに違いない。親切なゴリラじゃないか。・・:

みたいな話を後輩としている。それはそれでありえる話だし、ちょっとファンタジーな感じだ。この辺の会話は論理的だし、薀蓄を語っている感じがする(薀蓄を語るには想像力と何より知識がないといけない。クロマティ高校の登場人物はみな、薀蓄を語り、知識を披露できる。身なりは不良なのに。)

そして店主が戻ってきて、驚く「知らないゴリラが寿司を握っている!」これが落ち。このパターンがよくあると思う。コントは論理的な会話は少ないからやっぱりコントとは違う。漫才よりも論理を掘り下げて話しているから、漫才とも違う。その辺の妙に知的(?)なあたりがこのマンガの魅力だろうな度と思ったりするわけです。


論理的でありえそうな話をみんなでして、「つまり今われわれの目の前で起きているこの出来事はきっとこういう理由で起こっているんだ。」「なるほど、たしかにそうかもしれない」そして読者も納得する。論理的な話で結論が出たのだからなんとなく納得できる。でも落ちでは会話の中で出てきた結論とは全く違う現実が答えとして出る。・・・論理的な会話をする不良なんだけど、その論理は結局現実とずれている。それが面白い。


だから、映画も楽しみ。どうでもいいことに論理的。しかも論理は結局現実とずれている。その会話をしているのが不良。これら3つをフォローしてくれているのなら、僕の中では映画は100点です。それどころか、タイタニックを超える名作になります。l・・・・ってそこまでいうのってずれてますかね?


http://www.kurokou.com/

でキャストが確認できますが、ドラマは見ないんで俳優の名前はもともと知らない。正直このキャストで知っているのって、プロレスラーの高山とお笑いの板尾くらいだ。でもなんとなくメジャーな人は出ていないなという雰囲気はある。

焼きたてじゃパン

テーマ:

最近の漫画で心のそこから笑える漫画がこの漫画です。正直どんなパンを主人公たちが作ろうがそれは僕にはあまり関係のない話です。パンがどうのこう乗って言う話しよりも、早くリアクションを見せてくれという気持ちにさせてくれる漫画です。パンを食った後どんな妄想を見せてくれるのか、どんなリアクションを見せてくれるのか、というのが楽しみな漫画。ミスター味っこのときもそうだったっけ。ナイナイのゴチ、のリアクションもまた現実の世界では面白い部類に入るんだけど、悲しいかな、やはり現実のリアクションっていうものの限界があって、やはり漫画のリアクションっていうのには勝てないんだな。話が漫画から脱線するけど、現実の世界のリアクションでも漫画に匹敵するものだってある。ダチョウ倶楽部の、というか、竜ちゃんのリアクションはかなりレベル高い。あれは漫画でやっても面白くもなんともないリアクションだ。あまりに単純すぎて、さらっと読み流してしまうタイプのリアクションとなってしまうだろう。だけど竜ちゃんが、リアルの人間がやるから面白い、っていうのはあるね。そういうわけで、妄想をどんどん膨らませて、違う世界へと飛んでいくようなタイプのリアクションはやはり、絵で見ることのできる漫画ならではのものだ。逆に単純なリアクション、熱湯に入って熱がったり、涙目で「殺す気か!」っていうような短めのものは現実でも十分おもしろい。もちろん漫画でも面白いんだけどね。


大体がさ、パン食った後の妄想でページのかなりの量を埋めることができるって言うのがすごい。妄想だから、何の制約もない。パンを作ったり、競い合ったり、というバトルでストーリーが進み、途中でパンを食った人間の妄想でもうひとつのストーリーが挿話として入ってくる。こうやって展開を文字にするとものすごく単純かもしれないけど、あそこまで膨らませるのはやはり作者の才能以外のなにものでもない。妄想は何の制約もないということは、その妄想が面白いか、面白くないかは、作者のセンスだけの勝負だもん。

キャラクターだって十分個性的だし。アニメ化もしてくれて(たまにしか視てないけど)あの漫画のリアクションがどれだけ再現されているか、というのが楽しみな作品。アニメの中で実際に動いているリアクションも申し分ないし、よくがんばっていると思う。でも漫画の場合は脳内補完により、自分にとって一番面白いリアクションや動きを選び取っている。脳が最高に心地よく、楽しい(僕にとってね)リアクションを選択している。まぁ妄想の世界に入っているキャラクターの動きを脳内補完により妄想しているという、いうなれば人の見ている夢を見ている、というような状況ですね。


だからこそ、漫画は僕の思ったとおりの面白さなんだな。アニメはリアクションに動きがあるわけだし、その動きは当然動きを担当している人が面白いと思った動き、あるいは、動きを担当している人が、「この動きなら見ている人はわらってくれるだろうな」と考えた動きだ。となると、惜しいことに僕が面白いと考えたリアクションと表現と違う部分もあるわけなんだな。そりゃ当たり前なんだけど。それはそれでかまわない。むしろアニメのリアクションの動きのほうが、漫画で読んだときの僕の妄想よりも面白い場合も相当あるし。


うーむ、これは認識論の世界に入ってきつつあるのかもしれない、話がそういう方向にむかっていっているのかもしれない。じゃあアニメ→漫画→小説・・・という具合に、想像力を使う必要があるメディアのほうが、面白いのか?見ている僕が妄想できる範囲が多いほうが面白いのか?そもそも小説になってしまうと、僕の想像力が追いつかずに、逆に面白くなくなってしまうのでは?いや、作者が練達のものならばそういうこともないのでは・・・・。

RPGのグラフィックがきれいになって想像力が入り込む隙がなくなったから、あまりはまれない、っていう人がいるが、もしかしたら、それに類する話になるのでは?ということは、作者側がすべてを提示するのではなく、見るもの、あるいはゲームならプレイするもの、小説や漫画なら読者にも考えさせるもののほうが、すべてを提示する作品よりもより豊かに味わえるのではないか?


すみません、これも僕の妄想になりつつあります。別にパンをくったわけでもないのにさ。

まぁそんなことは考えずに、単純に面白いからみるし、アニメはアニメのよさがたくさんあるって話でいいか。さすがジャぱん、妄想させる作品だぜ。

■ 記事
<p>深夜のアニメで最近見ているのがこれです。現代の日本を舞台とした、アウトローの物語と僕は見ています。基本的に社会に適応せず(あるいはできず)自分の持っている技量で生きている男っていうのは昔からある物語だ。たとえば、ルパン三世。泥棒という反社会的な男たち(アウトローたち)が盗みを働いたり、警察の目を盗んだりするのが描かれた漫画だ。もっともルパンたちは反社会的行動をとりながらもリッチな生活を送っているが。あるいはカウボーイビパップ。賞金稼ぎとして賞金首を捕まえながら生活する。古くはヨーロッパではロビンフッドの冒険だってそうだし、日本ではねずみ小僧や、石川五右衛門の話もある。マッドサイエンティストを描いたSFだってアウトローの話しだ。ランボーもそうだし。そういうわけで、社会のメインストリームから外れて、適応できず、それでも卑屈にならずに堂々と生きる、なんていう男の物語って言うのはなぜか惹かれるところがあるわけです。それは惰性でなく凝縮された生がそこにあるからだし、巨大な存在に立ち向かっているという緊迫感が常にあるから。もっともそれはある意味救いようのない姿だ。なぜって、巨大な存在は常にリソースフルだからだ。つまり汲めども尽きない井戸のようなもので、莫大な資金、巨大な組織、多くの人材が集まっている。一方でそれに立ち向かう男たち(アウトローたち)はリソースレスだ。金もない、組織もない、人もいない。局地的には優勢に立つかもしれないが、最終的にはやられる。あたかも第二次世界大戦でアメリカに立ち向かった日本のようなものだ。現実には最後には力尽きる運命にあるのだが、物語では違う。一泡拭かせるだけでなく、完全な勝利さえも手中に収める。その姿をみて快哉を叫ぶのだ。そしてスカッとするのだ。でスピードグラファーなんだが、出てくる人物たちがほとんどアウトロー。ただし、主人公以外は巨大な組織に属しているわけで、ある意味メインストリームなのだが、それでもへんなやつらばかり。</p> <p>だから主人公たちを追う敵をアウトローと見るのはちょっと違うかもしれない。だって巨大な資金もあるし、組織に保護もされているし、人材も多い。主人公がまともに見えるくらいのアウトロー風な敵ばかりだが、結局のところ、よく見ると真のアウトローは主人公なのだ。何の組織にも属さず、一人戦うのだから。主人公を追う巨大組織の人間たちがまともなやつらばかりだったらこのアニメはつまらなくなっただろう。変態たちばかりだから面白さもある。でも注意してほしい。あくまで敵のアウトローぶりは味付けにすぎないのだ。本当のアウトローは、まともに見える主人公なのだから。そして物語なので、アウトローは最終的に勝利する。現実と同じようにつぶされていくようであればそこには物語でしかだせない独自性はないのだから。どのようにして勝利していくか。そのプロセスを楽しみたいと思っているわけでございます。

久しぶりに更新するんだけど、雰囲気が代わっていていい感じになっている。


で、これが私のご主人様、を見た。ガイナックスとshaftが製作してるアニメ。まほろさんもこの製作だったわけだが。まほろまてぃっくと似た設定だと最初思った。どんな設定かというと、両親がいない金持ちの男の子の元に、家政婦(メイド)としていくという設定。この設定だと、まず、主人公たちはお金には困らないから貧乏くさい話じゃなくなる。ということは明るくて能天気な話になるわけだ。まほろさんも明るい話だったが、今作も同様に明るい話だ。お金がありあまるほどあり、何不自由ない状況だから人間関係の面白さに話が集中するわけだ。人間関係の面白さは、これが私のご主人様、の場合は女好き(男の子なのだから女好きはまぁしかたがないのだが、それが実にゆがんだ出方をしている)の主人公。女好きな上に、メイドというものに対してものすごい誤解をしている。つまりメイドというものは、ご主人様に使えるものなのだから、ご主人様のいうことをなんでも聞かなければならない。という設定。現実的には非常にアブノーマルな考え方なのだが、オタク的には非常にノーマルな考え方である。

それからそれを拒絶しながらも、結局メイド服を着てしまうヒロイン。

この人間関係の面白さが中心になってる。男の子と女の子の話なのだから、恋愛という要素が必ず出てくるし、根っこはそれが中心なのだけれど、それを前面にだしすぎずに、面白おかしくえがいているところが面白さのポイントです。なんだかんだとじゃれあいながら、お互いが惹かれあっていくというわけだが、このじゃれあいが面白いかどうか、がポイント。

漫画版は呼んだことがないからなんともいえないけれど、アニメ版は絵がいい。特に妹。たぶん現在の萌え妹キャラの中でも最先端を言っていると思う。


萌え妹ではないけれど、萌え、という部分でいうならば、僕の中では苺ましまろのキャラクターたちが

一番ひっとしてるんだけどな。あの漫画はストーリーはいまいちだけど、キャラクターの魅力という点では非常にポイントが高いと思う。


ジェネオン エンタテインメント
これが私の御主人様 Vol.1 (初回限定版)
ジェネオン エンタテインメント
これが私の御主人様 2
ジェネオン エンタテインメント
これが私の御主人様 3
ジェネオン エンタテインメント
これが私の御主人様 4