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2017-07-21 22:54:30

彼の声 2017.7.21 「虚像と実像の狭間で」

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voice-121

 たぶんそこには何もないわけではないが、
実際に何もないように思われるなら、それが
偽りのない実感なのだろうから、何もないと
思っておいても構わないが、それでは気が済
まないのなら幻想ぐらいは抱くことはできる
だろうし、それがフィクションであろうと現
実に存在する何であろうと、そこで気晴らし
や気休め程度のものを求めている限りは、そ
の程度の幻想なら世の中に溢れかえっている
だろうか。少なくともそこに目的があれば、
それを追い求めている間は何もないことを忘
れていられるかもしれないが、何を求めても
確かな実感は得られず、どこまでも虚無的な
気分がついて回るような心境なら、別にそれ
が通常の有様だと思っていても構わないので
あり、それ以上でも以下でもなく、こうある
べきという状態がないということだろうし、
それではとりとめがないから幻想を抱くのか
もしれず、心の拠り所が幻想であっても、そ
の幻想の中身が何であるかにもよるだろうが、
疑い深ければ安易なところでは妥協できない
だろうし、何が安易なのかよくわからない現
状もあるのかもしれないが、安易に思いつく
ものは全て安易なのだろうし、それ以外のも
のを探し出すには骨の折れる作業となるかも
しれないが、結局幻想を追い求めるというの
は、困難な作業を伴うほど幻想にはまり込め
るわけで、難しいこと考えたり行ったりする
ことで、何か自分にとっても世間にとっても
重要なことをやっているという実感が湧いて
くるわけで、達成感というのもそういう経験
から生じてくるのだろうし、難儀しながら何
か有意義なことをやっているように思われる
なら、それこそが幻想なのであり、何をやる
にしても何かしら困難に直面していないとそ
うは思わないのだろう。そういう意味ではそ
こに何もないように思われるなら、そこで何
かを探さなければならなくなるわけで、何も
ないところで何かを探す行為が困難をもたら
し、あわよくば誰も気づかないような何かを
探し出せたら、それは希少価値の高いものと
なるだろうし、それを探し出す過程こそが貴
重な経験だと思われるのではないか。そうな
るとそれが困難な作業であるほど、そこから
もたらされる幻想はとどまることを知らず、
そうすることに生きがいを感じさせ、それに
興味のない他人にとっては何でもないことで
あろうと、当人にしてみたらそれを追い求め
ることが最重要課題であったりするかもしれ
ないが、それでも当初に抱いていた何もない
ような印象が偽りのない実感なのであり、何
かのきっかけで途中から幻想を抱いてしまう
ような成り行きになろうと、それは一方的な
思い込みだと思っておいた方が、より妥当な
現状認識になるかもしれないのだが、そうい
う自然な認識に逆らうことによって、その人
に特有な困難に直面しているような気になれ
るのではないか。

 なぜあえて困難な体験をしたがるのかとい
えば、そうしないと幻想を抱けないからとな
るわけだが、たぶんそれは個人的な幻想だけ
ではなくて、集団的な幻想にも言えることな
のかもしれないが、その場合は集団で幻想を
共有することで実利を伴うのであり、実利を
得るとともにそれは幻想ではなくなり、実利
を得たという現実を経験するわけで、それが
実感されるとともに、それを実感できること
が集団内での申し合わせとして機能して、そ
れが社会的な行為として格上げされるのでは
ないか。そしてそんな集団で幻想を共有する
行為が、様々なメディアを通して求められて
いて、そんな行為にはまり込んだ人たちが、
勝手な固定観念や先入観を集団内で撒き散ら
して、そんな中から幻想に対する妥当な解釈
を練り上げようとしていて、それを集団内の
世論として取りまとめようとしているのだろ
うが、やはりそこでは何もないなんてあり得
ないだろうし、何らかの実感を伴ったイメー
ジが共有されているはずなのだろうが、そん
な印象でさえも集団内の各人が感じる程度や
強度はまちまちだろうし、決して同じにはな
らないのだろうが、それでもそこで流布され
ている単純化された論理に食いついてくる人
が必ずいるわけで、固定観念と先入観と単純
化された論理を結びつけて、集団で許容でき
る統一見解を示そうとしてくるわけだが、そ
れを利用することによって得られる実利とい
うのが、人気投票的な実利なのであり、集団
内で人気を博した当人にもたらされるもので
あるだけに、投票した人々には幻想がもたら
されるにしても、それは実利ではなくあくま
でも幻想であり、実体を伴っていないイメー
ジでしかないのかもしれず、それが現実に実
利を得た当人の認識との間で、埋めようのな
い落差が生じることは確かで、それは当人が
一番よくわかっていることかもしれないが、
その人の虚像に幻想を抱く人々にはわからな
いことかもしれず、そんな埋めようのない落
差こそが幻想の全てなのかもしれないし、そ
れがメディアを通してもたらされるその人の
イメージなのだろうから、それ自体がフィク
ションだとみなしてもそれほど間違ってはい
ないのかもしれない。そしてそこにもたらさ
れている困難とは、イメージから連想される
幻想と実際にそこに存在している現実とをど
う結びつけるかということだろうし、実際に
人々は集団内で共有されている固定観念と先
入観と単純化された論理に基づいて、現実と
フィクションとを一致させようとするのだろ
うが、それ自体が現実からかけ離れているわ
けだから、そこには幻想以外は何もないのか
もしれないのだが、それを現実だと思い込ま
ない限りは、気休めも気晴らしも得られない
現状があるのではないか。

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2017-07-20 21:58:00

彼の声 2017.7.20 「インフレの幻想」

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voice-121

 普通に考えると商品の需要が供給を上回っ
て、物不足に陥ると物価が上がってインフレ
になるのだろうが、もしかしたらそんな単純
な理屈だけで構わないのかもしれず、欧米や
日本などの先進諸国でなぜインフレが起こら
ないのかといえば、実際に物不足ではないか
らで、商品が充分に足りている限りはインフ
レにならないのが当然であって、それ以上に
深く難しく考える必要はないのかもしれず、
実際に物不足が深刻なジンバブエやベネズエ
ラなどでは深刻なインフレに直面しているわ
けだから、理屈としてはそれで正しいのだろ
うし、それ以外の理屈は不要なのかもしれず、
もちろん日本では物価上昇率が2パーセント
程度のインフレが期待されていて、それは物
不足が深刻になるほどのハイパーインフレと
は違うわけだが、そうであっても需要が供給
をわずかに上回る程度の持続的な経済成長を
もたらすインフレ目標という微妙な言い回し
がご都合主義的な表現であって、果たしてそ
んなことが政治的に調整可能なのかというと、
元から無理だったのかもしれないし、政治宣
伝としてはそんな目標を掲げざるを得なかっ
たにしても、それと表裏一体の言い回しとし
てのデフレからの脱却にしても、脱却しよう
としている現状がそれほど深刻だとは思われ
ないような状況であることは確かで、マスメ
ディアの商売上は大げさに騒ぎ立てなければ
ならないのだろうが、結果から言えばインフ
レ目標にしてもデフレからの脱却にしても空
騒ぎの感を免れないわけで、しかもそうであ
ってもジンバブエやベネズエラなどの深刻な
状況と比較すれば、何でもないような状況で
しかないわけだから、いくら現政権の経済政
策を失敗だと批判したところで、それは程度
の問題でしかないことは踏まえておくべきで、
また逆にベネズエラの深刻な経済状況をすぐ
に短絡的かつ単純化して、社会主義だから駄
目なんだと宣伝したがる輩がいるとしても、
それも別の意味で程度の問題でしかないだろ
うし、石油関連産業による国内経済の独占支
配から脱却したくて、アメリカを敵に回した
結果がそうなったわけで、それは数十年前の
イランでも同じようなことをやってアメリカ
を敵に回した結果が、核開発の因縁をふっか
けられて経済制裁を受けて深刻な経済悪化を
もたらしたのと似ているわけだが、そういう
のは理屈というよりは歴史的な経緯が絡んで
いるわけで、社会主義だから駄目で資本主義
だからいいという単純な論理では片づかない
ことは確かであり、またそれらの事情とは全
く程度が違う日本の現状も、理屈だけではど
うにもならない問題があるのかもしれない。

 とは言ってもそれについて考えるには、あ
る程度は理屈から推理していくしかないわけ
だが、たぶん商品が必要なだけ行き渡ってい
て、しかも所得に応じた物を買っていれば、
それなりに暮らして行ける社会にあって、ど
うやれば高望みさせて無理な買い物をさせる
かということになってしまうと、かえってそ
う仕向ける方が危ないわけで、返済できない
ほど借金して物を買って破産しても、誰も助
けてはくれないわけだから、分相応な買い物
をするのが無難だし、必要以上に買う必然性
がなければ、いくらプレミアムフライデーと
か言って消費を煽ってみても、そんな軽薄な
ムードに流されるほど愚かな人はそうはいな
いだろうし、そういう無理に消費を促すよう
な仕掛けとは違う方面で、無駄遣いとは違っ
た行為が流行っているのかもしれないし、流
行っているというよりは、あまり金のかから
ない楽しみを各人が趣向をこらしながら求め
ている面があるのかもしれず、例えば定年間
近の中高年が、安くてコンパクトなスポーツ
カーを買って、週末になるとドライブに出か
けるとか、バブル時代のような世の中の流行
に敏感に反応して前のめりに消費を駆り立て
られるようなことではなく、ある程度は余裕
を残した消費であれば、それほど過剰な購買
意欲など湧いてこないだろうし、そういう意
味でよほどの突発的な事件でも起こらない限
りは、商品の供給が不足するような事態とは
ならないだろうし、物資が豊富に出回ってい
る中で質素な生活を心がけられる余裕があり、
そんな心理状態を保っていれば、必要以上に
見栄を張るような成り行きにはならないだろ
うし、富裕層はそれなりに見栄を張れるだけ
の財力があるから、高級ブランドで身を固め
られるだろうが、財力をあまり期待できない
一般市民がそれを羨ましがるかというと、経
済格差がはっきりしている中では、別に羨ま
しがる気も起こらないのかもしれず、中間所
得層がそれなりの割合を占めていた時代には、
その中で競争や見栄の張り合いが起こって、
虚栄心に目覚める人たちもそれなりにいたの
かもしれないが、どうあがいても富裕層には
近づけないように思われるなら、はなから競
争を放棄しているようなところもあるのかも
しれず、そんなわけで笛吹けど民は踊らず的
な時代背景の中で状況が推移していて、少な
くとももはや急激な経済成長は望めないわけ
だから、分相応な消費でそれほど不満がなけ
れば構わないわけで、政治力によって無理に
消費を刺激するには及ばず、商品も必要な分
だけ供給されていれば、それで困ることがな
いようにも思えるのだろうが、それでも政治
的に景気刺激策を施さなければならない事情
もあるだろうし、絶えず消費を煽るような宣
伝活動を行なっていれば、それで何かやって
いることにはなるのだろうし、政治とはそう
いうものだと割り切って見ておいた方が無難
なのかもしれない。

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2017-07-19 23:11:56

彼の声 2017.7.19 「文明の目的」

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voice-121

 文明は人と物との関わりによって生まれ、
そこから物に関する情報が知識として生じ、
知識を活かして物を加工して道具を作り、さ
らに道具を使って機械を製作して、その過程
で道具に関する知識や機械に関する知識が複
合的に組み合わさり、人や物や道具や機械を
総合的に制御するシステムが編み出され、ま
たシステムが動作することによってもたらさ
れる、それらを制御するための情報も文明の
中で知識として蓄積して、そんな知識を人が
社会生活を営む上で役立てていることは確か
だが、傾向としては人の活動を制御しようと
して道具や機械は活用されるわけで、人を道
具や機械が使われる目的に合わせて活動させ、
人はそれを自覚していないかもしれないが、
人が道具や機械を使いながら活動するときに
は、その道具や機械を使うことがまずは目的
となっているのであり、そういう面では人は
道具や機械によって制御されているとも言え
るわけで、それらを使って成し遂げられるこ
とが最終的な目的だとしても、すでにそれは
道具や機械が動作する方向に限定されていて、
それらなしに行為は成し遂げられないわけで、
その過程で道具や機械は人の動作を一定の範
囲内に押し留める役目を果たしていて、道具
や機械がある一定の方向性と範囲内で動作す
る人間を作り出していると言えるだろうか。
もちろんその中でも道具や機械の操作に長け
た人と、操作が苦手な人が生じるだろうし、
それらの取り扱いに長けた人を、それらを使
って目的に導く競争の中で成功に導き、操作
が苦手な人を競争から脱落させるわけで、そ
んな道具や機械を使った競争を成り立たせて
いるのも、その道具や機械が動作する方向に
合わせた目的が生じるからで、それに関して
はまず目的があって、次にその目的に合わせ
た道具や機械が作られると思われがちだが、
いったん道具や機械が作られてそれが広く社
会に普及すると、今度はその道具や機械の動
作に対応し、それに適合しようとするような
人間が生じてくるわけで、そのような人間は
道具や機械を発明した人間や集団とは種類が
異なり、その道具や機械の動作に限定されて
いて、それだけ活動の幅が狭まっていて、そ
れらの操作に関しては専門的に精通している
が、他の面では別に専門家でも何でもないの
は当然なのだろうが、そうやって一つの方向
に特化してしまった人間というのが、社会の
中でどのような影響や作用を及ぼしているの
かはよくわからないところだろうが、たぶん
誰もがそうなってしまったわけでもないだろ
うし、誰もがそうなるべきでもないだろうし、
そこに競争がある限りで、誰もがそうはなれ
ない仕組みとなっていることは確かなのでは
ないか。

 世の中には様々な種類の道具や機械があっ
て、それらの操作に長けた人間もその道具や
機械の種類の数だけ存在していることは確か
で、もちろん人の動作の全てが使っている道
具や機械に依存しているわけではなく、それ
とは別の水準では別の動作があるわけで、ま
た使っている道具や機械も複数あるだろうし、
それらを複合的に組み合わせて他の人とは違
う目的を生じさせることがあるかもしれない
し、そういう意味で専門家と称する人たちも、
自らが専門とする分野だけに動作が特化して
いるわけではないのかもしれず、目的も一つ
だけではなく複数の目的を持ち合わせること
も可能だろうし、そうであるなら専門家が一
つの方向に凝り固まっているような先入観は
捨てるべきかもしれないし、その人が専門と
する職業からその人の特徴や人格を捉えよう
とするのは間違っているのかもしれないが、
社会の中での動作を考えるなら、やはりその
人の専門的な分野での動作に注目しなければ
ならないだろうし、メディア上で話題となる
のももっぱらそういう傾向があり、何らかの
分野で秀でた業績を上げた人が話題となるわ
けで、様々な分野で第一人者として認められ
る人が確かに存在していて、そういう人たち
がメディア上で賞賛を浴びているわけだろう
し、メディアの機能自体がある方面ではそう
いう人たちを話題にして賞賛するシステムに
なっていて、そういう話題に興味を持って注
目する人たちがそういうシステムを支えてい
るわけだが、そのシステム自体の目的が何か
といえば、社会の中でその種の専門分野の存
在を正当化することかもしれず、実際にそう
いう分野があってそれが社会の中である種の
機能を果たしていることを、その種の話題が
情報となって人々に伝わっているわけで、そ
れを伝える意義は何かと言えば、やはりそう
いう分野の存在を正当化することにあるのか
もしれず、別にその情報を得た人たちの全て
がそのことに気づいているわけではないだろ
うが、なぜそんな話題に興味を持つのかとい
えば、そういう分野の存在がメディアによっ
て正当化されているからで、逆にその存在を
否定的に伝えれば、それは世間による否定的
な評価へと繋がるのだろうが、そんな評価の
代表例といえば、ヤクザやギャングや武装テ
ロ集団などが挙げられそうだが、そういう反
社会的な分野であっても、そういう分野を支
える道具や機械や社会的なシステムがあるだ
ろうし、そのような分野に限定された人間の
特徴も自ずから定まってくるだろうし、やは
りそこではそこで使われている道具や機械に
よって、そこで機能する人間の動作も限定さ
れ、道具や機械の操作に長け、そこで作動し
ているシステムに適合して特化した人間が、
その分野で成功することになるだろうか。成
功の次元からいえば、どのような分野であっ
ても組織を束ねる技量というのが物を言い、
その技量に長けた人間が組織の中で指導的な
立場にいる場合が多いわけだが、それもある
意味ではそこで作動しているシステムに適合
していると言えるだろうか。

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2017-07-18 23:30:44

彼の声 2017.7.18 「信用の生成」

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voice-121

 人を騙すにしてもその人が信用されている
限りは騙されたとは思われないだろうし、何
をやるにしてもそれが詐欺にならないために
は信用されていなければならないわけだが、
どうやって信用を得るかは、そこで生じてい
る様々な経緯や成り行きの中で信用を獲得で
きる場合もあるだろうが、信用されないまま
の場合もあるだろうし、そこに人と人との関
係がある限りは、信用されるかされないかの
二者択一が迫られる場合もあるだろうし、ま
たある程度は信用されているが、完全には信
用されていない場合もあるだろうし、あるい
は何らかの条件付きで信用できる面もあれば
できない面もあるような場合までありそうで、
時と場合によっては信用できるが、信用でき
ない時と場合もあるわけで、期待を裏切られ
れば信用を失ったり、その逆に期待に違わぬ
働きをすれば信用を得られて良好な関係を築
けるだろうし、信用できるかできないかだけ
で一概には言えないところもありそうだが、
人と人あるいは集団との関係も、お互いがお
互いをそれなりに信用していないと関係を構
築できず、ちょっとした行き違いからすぐに
猜疑心が芽生えてくることもあるだろうが、
それによって関係が壊れようと決定的な対立
が生じようと、友好関係と敵対関係とにはっ
きりと別れるようなわけにもいかない場合も
あるだろうし、様々な方面で感情や利害が入
り混じっているのが普通の関係であり、いが
み合いながらもお互いの利害が一致している
から関係が持続することもあるわけで、そう
いう面でも相手を信用できるところとできな
いところが入り混じった関係というのが、妥
協の産物として一般的に成り立つ関係なのだ
ろうが、相手を裏切るつもりがなくても結果
的に裏切ってしまったり、当人の意志や思惑
とは違う結果がもたらされるようなら、そこ
で信用を失ったとしても、当人のせいとまで
は言い切れないような成り行きであっても、
信用できないことには変わりなかったり、ど
うにもならない外部的な要因が関係をこじれ
させる場合もあるわけで、そんな人為的には
修正できないような成り行きの中では、方法
的にも戦略的にもそこに絡んでくる思惑がど
うであれ、それとは無関係に必然的な結果が
もたらされて、そんな出来事に巻き込まれて
しまう人たちを途方に暮れさせることにもな
るかもしれないが、そんなどうにもならない
ような結果に直面することで、人は自らの無
力さと限界を悟らざるを得ないし、それでも
諦めるわけにはいかない事情があることを知
ってしまうわけだ。

 人はどんな状況に直面しても、どうにもな
らないような成り行きの中でもどうにかしな
ければならないし、実際にどうにかしようと
して何かをやっているわけだろうが、別にそ
れが報われなくても構わないわけで、とりあ
えず何らかの状況に直面して、それに対処し
ようとして何かやっているわけだから、それ
を否定するわけにはいかないだろうし、たと
え思わしい結果が得られなくても、そんなこ
とをやらせる成り行きに巻き込まれているこ
とは確かで、そんなことをやった結果がうま
くいったりいかなかったりするわけで、そん
なふうに人の行為には成功と失敗があるよう
に、結果的に成功する原因や失敗する原因を
導き出せなくても、何らかの結果がもたらさ
れることは確かであり、その結果をどう受け
止めようと、結果そのものは変えられず、ま
たそんな結果を踏まえて新たな活動が始まる
わけで、そうやって何かをやっている状況が
継続されるわけだ。そしてそのような活動が
続いているうちはどうにかなっているわけで、
たとえそれが思わしい結果でなくても、どう
にもならない状況を切り抜けようとしていて、
実際に切り抜けている最中なのであり、かろ
うじて何かをやっている現状の中に踏みとど
まっていると言えるのではないか。そういう
意味では状況がいかにこじれていようと、何
かをやっている事実が、もはや何もできなく
なってしまったわけではないことを証明して
いて、まだ絶望するような段階ではないこと
を何かをやっている現状が示しているわけだ
が、逆に絶望して何もできなくなってしまう
ような段階を想像できるかといえば、実際に
そんな状況に至っていない限りは、そんなこ
とまで想像する必要はないのだろうし、そう
いう意味でも何かをやることによって、まだ
希望が失われているわけではないことを確か
めようとしているのかもしれないのだが、た
ぶんそこから信用が生まれるのであり、それ
が誰に対する信用であるわけでもないのだろ
うが、ただ漠然と未来への可能性を信じてい
る限りで、まだそこに現れていない未知の人
たちを信じようとしているのかもしれず、こ
れから出現するかもしれない人たちを信用す
るしかないわけで、その中には将来において
出現するかもしれない未知の自分も含まれて
いて、その現状では形を成していない姿が、
今やっていることをやり続けているうちに、
いずれ何らかの姿形を伴って現れることを信
じていないと、虚無主義に陥るしかないだろ
うし、実際に今さら何をやっても無駄な面が
あることは確かであり、何事も手遅れを実感
してからでないとやり出さない性分なのかも
しれないし、やはりそういう意味ではすでに
手遅れな状況であるのかもしれないのだが、
だからと言って手をこまねいている状況では
ないことは、現に何かをやっている事実が示
しているわけだ。

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2017-07-17 23:57:44

彼の声 2017.7.17 「経済の虚構」

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 どのような産業分野でも経済活動が進展し
ていくと、経済競争を勝ち抜いた少数の企業
が大規模集約化してその業種での主導権を握
るようになるわけだが、他の中小企業が全て
なくなるわけではなく、大企業がやらない分
野で隙間産業的に生き残る場合があるだろう
し、何らかの専門分野に特化して、その企業
でしかできないことをやっている場合は、同
業の競争相手が出てこない限りは事業を継続
できるだろうし、そういうところで大企業と
中小企業との間で住み分けが成り立っている
分野がありそうで、そんな中でも多くの企業
が規模の大小を問わず互いに連携していて、
物や情報の生産や流通や消費などの面で取引
があり、人的な面でも機械技術的な面でもサ
ービスのやり取りもあるだろうし、企業は単
体で動いているわけではなく、企業と企業と
の間で取引やサービスのネットワークが築か
れていて、垂直方向での統合関係や水平方向
での分業関係がある限りで業務提携などが行
われていて、それらの関係の中に組み込まれ
ている人数も膨大になるだろうし、企業だけ
でなく関連の業界団体や監督官庁や一般の消
費者などを含めると、さらに膨大な人数がそ
こに関わっていて、そんなことまで考えてゆ
くと、商品に関する単純な需要と供給の関係
や、生産や流通の面での機械技術やシステム
の効率化や技術革新などからでは説明できな
い部分もかなりありそうなのだが、それに加
えて資金繰りなどの金融面や、組織内部での
人事や派閥抗争などからも、特有の傾向や性
質が導き出せるだろうし、そんなことまで含
めて全てが経済の問題かというと、そうでも
ないような気がするし、経済ではない問題は
政治問題と言えなくもないだろうが、それぞ
れの面が連動している部分もあるだろうし、
別々に動いている部分もあるだろうし、それ
らをひっくるめて一つの理屈や理論では説明
できないのはもちろんのこと、それについて
考えたり語ったりできるのは、ある一面に過
ぎない場合がほとんどだろうし、別にそれで
構わないのであり、そこに言説的な限界があ
ることを承知しておかないと、何か現実離れ
した物語でしかなくなってしまうだろうし、
それに関する一面的な思考から何らかのフィ
クションが構成されるとしても、それは仕方
のないことであり、そうなるのが当然の成り
行きなのかもしれない。

 確かにその全てを包括的に把握するのが難
しいとしても、ある一面的な理解から何らか
の特徴的な傾向を導き出すことはできそうで、
その特徴的な傾向としてわかることは、そこ
で人が生活していく上で必要とされる物や情
報が生産されているとしても、実際に物や情
報の生産に直接携わっている人の割合は産業
人口全体から見れば驚くほど少なく、その他
の人たちが何をやっているのかといえば、生
産された物や情報を取り扱っているのであり、
それらを広く世の中に流通させ消費する過程
で何らかの仕事が生じていて、そんな仕事に
就いている人が大半であり、しかも仕事の内
容は千差万別なのであり、一概には同じ水準
では論じられないような多種多様な仕事があ
って、それらの仕事を賃金労働として同じに
扱うことはできないのかもしれず、別種の労
働に携わっている人たちを同じ労働者とみな
すこともできないのかもしれないし、そうな
ると労働者の間で連帯感が生じることもない
だろうし、各人が抱えている問題も仕事内容
が違えば異なってくるだろうし、そんなふう
にして給料も仕事内容も異なる人たちを、同
一の基準や水準で考えるのは無理がありそう
で、また組織内外での役職や立場から対立関
係や敵対関係にある場合までありそうで、し
かもそこで生じている様々な関係から必要に
応じて何らかの仕事が生じているとすると、
関係が変わればそれが必要ではなくなること
もあるわけで、何らかのきかっけで業務的な
連携関係や協力関係が変わって、仕事を生じ
させているネットワークが何らかの変容を被
れば、ある日突然その仕事が不要になってし
まうこともあり得るわけで、そうなるとそも
そも仕事自体がそれほど切実に必要とはされ
ていなかった場合があるわけで、現状ではた
またまそんな仕事があって、それに携わって
いる人もそれなりに必要であるかもしれない
が、その状況が変わればすぐに不要になって
しまうような仕事なら、その程度の仕事に有
能な人材を配置することもないわけで、また
それが技能などの面で熟練を要する仕事でな
ければ、貴重な技術者として手間暇かけて教
育する必要もないだろうし、そういう面から
も労働の内容にも賃金にも格差があって当然
だという認識が、労働者の間でも共有される
ことになるだろうし、ただでさえ労働者の大
半が物や情報の生産に直接携わっているわけ
ではなく、また仕事の内容にも賃金にも格差
があって当然の状況である限りは、労働者と
資本家の対立とか従業員と管理職の対立とか
が、もはやフィクションとしか機能していな
いのではないか。

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2017-07-16 23:22:26

彼の声 2017.7.16 「活動の指針」

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voice-121

 物事の成り行きと結果を道理に当てはめて
考えようとすると、その道理が何から生じて
いるのかを知りたくなってくるが、人が行動
や活動の指針を道理から導き出そうとしてい
るように思える時、その行動や活動を正当化
するために道理を求めていて、それはご都合
主義の最たるものなのかもしれないが、なぜ
道理に適った行為をやろうとするのかといえ
ば、行為の正しさを求めていて、正しいこと
をやっていれば、とりあえず間違ったことを
やるよりはマシだと思えるし、それが他の様
様な事情から気休めに過ぎないとしても、心
の拠り所として道理ぐらいしかなければそれ
に頼るしかないだろうか。たぶん間違った行
為というのが道理に合わない行為なのだが、
それは他人の行為を批判する時に使う物言い
で、自らやっている行為が道理に合わないと
は思わないだろうし、道理に合うか合わない
かを判断するのは、いつも決まって他人の行
為に対してであり、自分の行為が正しいか間
違っているかを判断する時にはそんなことま
では考えず、それが道理に合わないとは思わ
ないだろう。間違った行為を自分がやる時は、
いつも決まって思いがけないことが起こる時
なのではないか。そしてやっている時にはそ
れに気づかないから、他人からそれが道理に
合わないことを指摘されて、それを認めたく
なければむきになって反駁することもあるだ
ろうが、自分から進んで道理を求めようとす
る時は、他人がやっている行為が道理に合わ
ないように思えるから、それを指摘する時に
道理を求めるわけで、その一方で自分の行為
に関しては、それを行なっている時に道理を
求めているわけでもないことが多そうで、た
だ他人に対する批判として常套句のようにそ
れは道理に合わないと指摘したいわけで、そ
ういう意味で道理が何から生じてくるのかと
いえば、それは他人に対する批判から生じて
くると言えるのではないか。そしてその批判
を正当化するために道理を持ち出してくるの
であり、そんなふうに他人との関係の中でし
か道理が活用されなければ、自分の個人的な
行為に関して道理が持ち出されることはあま
りないだろうし、自分がやっていることに関
してそれが他人への働きかけを含まない限り
は、やっていることの正しさを求める成り行
きになることはまずないのかもしれず、自分
の行為を正当化するにしても、それは他人に
向かって正当化したがるわけで、自分が自分
に向かって自分の行為を正当化する理由はな
く、自分がやっていることをこれでいいのだ
と納得するにしても、正しいかどうかを気に
しているわけではなく、やってしまったこと
については取り返しがつかず、もはや後戻り
できないことを確認しているだけなのかもし
れない。

 そんなわけで自分に求めていることと他人
に求めていることが違っているとすれば、や
はりそれはご都合主義的な意味合いが生じて
いるわけで、それは絶えず自己中心的な観点
からなされるのであり、果たしてそれが道理
に適っているかどうかは甚だ疑問に思われる
だろうが、他人の行為には道理を求めておき
ながら、自分の行為に関しては道理を意識で
きないのはよくあることであり、それが道理
に適っていようといまいと、結果的にうまく
いけばそれでいいわけで、うまくいかなけれ
ば反省するだろうが、うまくいったことまで
道理に合わないことをやっていたとして反省
する必要があるだろうか。それよりはうまく
いかなかったらそれが道理に合わないことを
やっていたと思い込みたくなるのではないか。
そういう意味で自分のやっていることと他人
のやっていることが異なる立場から判断され
るのはもちろんのこと、それが道理に合うか
否かも自分と他人とでは判断基準が異なり、
自分に対しては甘く、他人に対しては厳しく、
自分がやっていることに関しては気づかない
ことでも、他人がやっていることなら気づい
てしまうのはよくあることで、そういう意味
でも他人の忠告や指摘には反発しつつも聞く
耳を持っている方がいいのだろうし、謙虚に
なって耳を傾けることが、自分のためになる
ことなのかもしれないが、そうすることが道
理に適った行為なのかといえば、それはケー
スバイケースでしかないことも承知しておく
べきかもしれず、自分のためになることを自
分がやるべきか否かも同様で、また他人のた
めになることを自分がやるべきか否かも、い
くら情けは人の為ならずと言われていても、
その場での状況によってはそうでもないこと
もあるだろうし、そうだとしてもあえて常識
的に考えると間違っているようなことをやっ
てしまう場合もありそうで、その時の勘がそ
う告げているような気がするなら、やはり間
違っているように思われることをやってしま
うわけで、他人に向かって批判する場合は軽
い気持ちで利いた風なことが言えるのかもし
れないが、それと同じ調子で自分を批判でき
るのかといえば、そんなことはないわけで、
それだけに自分への批判は困難を伴うだろう
し、反省的に自分で自分を批判できないわけ
ではないのだろうが、果たしてその批判が正
しいかというと、それは他人が判断すること
であり、自分の判断が正しいか否か以前に、
それがうまくいっているか否かの基準が立ち
はだかっていて、うまくいっていることを否
定したり間違っているとみなしたりすること
はなかなかできないだろうし、実際にうまく
いっていることは正しいことであり、どう考
えてもそれが間違っていることだとは思えな
いのではないか。

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2017-07-15 23:51:30

彼の声 2017.7.15 「分析から派生する情報」

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 人が利用するのは人であり物でもあり、人
の記憶には情報が詰まっているのだろうから、
当然自らの記憶の中の情報を利用して、また
外部の記憶媒体に蓄積された情報も利用でき
るわけで、それらが効果的に組織され編成さ
れた装置の類いも、様々な様式や形となって
人が利用すべき情報を保持していて、その中
で人が物を利用しながら人も利用し、結果的
にそんな情報が人や集団の活動を支えている
実態があるわけだろうが、そうやって人や集
団が活動しながら何か目指しているものがあ
るとすれば、それは現に社会の中で構築され
ている制度に則った目的に合致していること
が多そうで、目指すべきことが制度の中で示
されていればわかりやすいわけだが、一方で
それを何の疑いもなく信じているかというと、
誰もが少しは疑念を抱いているだろうし、実
際にある程度は行為や行動が制度から逸脱し
ている部分も意識していて、それが全面的に
信頼できるような制度ではないことは、薄々
感づいているはずで、ただ表立って制度に反
逆するのは得策でないことぐらいはわかって
いて、自分の都合に合わせて制度の中で利用
できる面は利用して、都合の悪い面に関して
は、その場の状況によっては制度から逸脱す
ることも厭わず、そうすることが利益になる
なら違法行為をやってのけるも選択肢として
はあるのかもしれず、その辺のどこまでが許
されてどこからが許されないかの判断は、そ
の場の状況に応じて変わってくるかもしれず、
大前提としては合法的な範囲内で活動しよう
と心がけておくのが無難なところだろうが、
場合によっては筋を通さず規範も破って行動
してしまうのかもしれず、たぶんそんなこと
が実際に起こるから、人や制度を裏切るよう
な行為にもそれなりの必然性を感じられるわ
けで、それが避けられないような成り行きに
巻き込まれてしまうと、どうやっても清廉潔
白ではいられなくなって、自らの行為を正当
化できないことを思い知るだろうし、別に正
当化しなくても構わないような心境にもなる
のではないか。そんな状況の中で無理に正し
いと思われることをやろうとすると、それで
はうまくいかないことがわかってしまって、
正しいことをやって失敗しても誰が褒めてく
れるわけでもないし、失敗すれば非難される
ことが目に見えていれば、誰も正しいことな
どやりたがらないだろうし、そもそもそれが
正しいと思われること自体が間違っているよ
うにも思われるのではないか。

 それが正しいことだろうと間違っていよう
と、結果的にうまくいっても失敗しても、そ
れらのどれとも異なった判断が下せるだろう
か。ただそういう水準では判断しないという
ことかもしれず、行為や行動の何が良くて何
が悪いかを判断しないとすれば、ではどのよ
うに行為し行動すべきかとなるわけだが、そ
れを決定せずに意識しないことが可能だろう
か。可能な場合もあるかもしれないし可能で
はない場合もあるかもしれないが、それを事
前に決めておくわけにはいかない場合もある
かもしれないし、事前に決めざるを得ない場
合もあるかもしれず、どのような場合もある
かもしれないし、事前であってもその時が来
ても決められない場合もあるかもしれない。
そうであるなら何が言いたいのかといえば、
とりあえず様々な場合があるかもしれず、ど
んな場合もないかもしれないということだろ
うか。実際に様々な場面や局面に遭遇したり
直面したりして、その場その時で対応が異な
っていたり同じだったりするのかもしれず、
一概には適切な対応が何かはわからないかも
しれないし、中にはわかる場合もあるのだろ
うが、だからと言って思い通りに行動できる
とは限らないだろうし、実際にやってしまう
ことが思っているのとは違う場合もあるわけ
で、何も思っていなくてもやってしまう場合
もあるだろうし、意識より行動の方が早く対
応してしまう場合さえありそうで、それが正
しいか否かではなく、正しかろうと間違って
いようと、とりあえずそんなことをやってし
まう場合は、意識による判断など必要として
いないわけだ。しかもそれがその場の状況に
適合していれば、何がそんなことをやらせる
というわけではなく、そんな行為や行動も含
めてその場の状況が形成されていることにな
りそうで、人の行為や行動をその場の状況か
ら分離してその良し悪しを判断すること自体
が、その場の状況にとってはどうでもいいこ
とであり、ただそんな状況になっていること
と、それが良いか悪いかを判断することが、
有機的に結びつくわけではなく、そういう判
断がその場には何の効果も影響も与えず、そ
れを分析しようと評論しようと、それもその
場の状況の一部であり、状況から派生した行
為に過ぎず、状況を変えるにはそれとは違う
行為や行動を必要としているのかもしれない
が、それが何だかわかる日が果たしてやって
くるのだろうか。わからなくても状況は絶え
ず変化し続けているだろうし、それはわかる
必要のないことかもしれないのだが、ではそ
れを分析することから何がわかるのだろうか。
たぶんそれを分析すればするほどそれに関す
る情報量が増えるだけで、その分だけそれに
ついての言説が余分に構成されるわけで、そ
うやって分析が分析している以上の何かを語
ることになりそうで、それ以上語ることから
それに関する余分な情報が生まれるわけだが、
それも状況の一部なら、それによって状況が
変化したことになるのだろうか。

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2017-07-15 00:54:55

彼の声 2017.7.14 「価値の創造と破壊」

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 情報は言葉であっても映像や画像であって
も視聴覚映像として意識され、人は意識に取
り込まれたそれらの情報から知識を得るわけ
で、絶えず得られた知識を活用しようとして
いて、活用には何らかの判断が伴い、判断す
るのに情報の価値が必要とされるわけで、そ
うやって人の活動には情報を得る行為がつき
まとい、絶えず情報を得ながら活動している
実態があるわけだが、逆に言えば人の活動は
得られた情報に左右され、その人にもたらさ
れる情報がその人の活動を規定し限定してい
るわけで、そうだとするとそれを逆用して、
都合のいい情報を与えることによって人の活
動を制御しようとする思惑が生まれるわけだ。
例えば欲望を抱かせるような情報を提供して、
その欲望を満たすような行為へと誘いこむの
は、日々メディア上で行われている広告宣伝
の常套手段だろうし、実際に様々な娯楽産業
が宣伝活動によって欲望を煽り立てているわ
けで、煽り立てられている一般大衆の方でも、
そんなことは重々承知の上で、むしろそれを
楽しんでいて、多くの人たちが楽しめている
限りで、娯楽産業などの経済活動が成り立っ
ている実態があるわけで、そんな実態によっ
て多くの人々に娯楽を楽しめるような経済的
な余裕があることが明らかになるだろうが、
そんなふうにして情報によって人々の活動を
コントロールしようとする思惑がどこまで成
功しているかは、特定の勢力が一括して全て
の情報を統制しているわけでもないから、そ
れなりに成功している面もあるとしか言えな
いだろうが、実際に情報統制をやりたがる側
は自分たちに都合の良い情報だけを提供した
がり、その反対の都合の悪い情報は遮断した
がるわけで、そうする理由としては世の中の
風紀の乱れを抑制しようとする思惑があるだ
ろうし、そうなるといたずらに欲望を煽るよ
うな行為は禁止され、それは取り締まりの対
象にもなって、そういう方面での経済活動が
社会に悪影響を及ぼすとみなされたりするわ
けで、そういう意味で情報をコントロールす
るのは、欲望を刺激して煽るだけではなく、
むしろ人々が節度をわきまえて道徳的に行動
するように仕向ける狙いもあるのだろうが、
実際にはそこで思惑の一貫性を保つことはで
きないのかもしれず、そうやって何らかの統
制をやっているつもりであっても、やってい
るうちに何を煽り立てて何を抑制するかの基
準があやふやになってくるだろうし、その効
果も次第にはっきりしなくなり、なぜそうな
ってしまうのかと言えば、情報そのものの質
や内容が絶えず変化していて、情報をめぐる
人や物や社会との関係も同じように変化して
くるだろうし、そんな形のはっきりしないも
のを統制すること自体に無理が生じてくるの
かもしれない。

 では情報を統制するのは諦めるべきかとい
うと、統制すること自体が権力の行使なのだ
から、権力を行使しようとする側が諦めるわ
けがなく、統制しようとする側は絶えず節度
をわきまえない逸脱行為を取り締まることに
よって、人々の行為や行動の一貫性を目指す
わけで、そうやって統制する基準を明確にし
ようとしていて、基準に適合した情報だけを
人々に与えようとして、それは世の中の基準
となる価値観の変化を拒んで、適切な情報だ
けを社会に流通させようとして社会の統一性
や一貫性を維持しようとする表れなのだろう
が、流通する情報に変化がないと社会が変化
しなくなって世の中の停滞を招き、それが経
済の停滞にも直結するのかもしれず、もちろ
ん統制する側に経済を停滞させようとする意
図はないはずだろうが、そもそも経済活動が
活発化したり活性化する現象は、世の中で絶
えず新たな価値が創造されて、その価値観を
担った商品が世の中で流通するような状況の
ことを言うのだろうし、それはとりもなおさ
ず従来からある価値基準の変更を求めていて、
それに伴って価値を体現する情報も一新され
なければならず、そうやって人々の目先を変
えるような新製品が発売されるわけで、それ
もまた欲望をもたらす情報のコントロールに
繋がるのだろうが、それでは取り締まりを旨
とする情報統制とは矛盾してしまうわけで、
むしろそれは情報統制を打ち破って新たな価
値観を人々に押し付けるようなやり方となる
わけで、しかも同じ価値観にとどまっていて
は活動が停滞してしまい、活動を継続するに
は延々と新製品を売り込まなけばならず、そ
うなると統制するのとは逆の意味で無理が生
じてくるように思われるわけだが、一方は情
報を統制して同じ価値観を頑なに守るように
仕向けてきて、もう一方はそれを打ち破って
延々と新しい価値観を押し付けてくるような
動作が、たぶん同じレベルで作動しているわ
けではなく、要するに逆向きに噛み合わない
ことをやっていて、両者が別々に作動してい
ても一向に構わず、何の不都合も感じさせな
いのかもしれないし、それに気づいていなく
ても構わないわけで、とりたてて問題視する
ようなことでもないとすれば、なぜそうなっ
てしまうのかその理由を探りたくなってくる
のかもしれないが、たぶん理由などないのか
もしれず、たまたまそうなっているわけで、
そういう経緯や事情が歴史的に生じていて、
そこに筋の通った理屈があるわけではなく、
合理的な理論に基づいてそうなっているわけ
でもなく、ただそんな結果が社会にもたらさ
れているわけだ。実際にそんな世の中が形成
されていて、そんな社会が成り立っている現
状があるわけだから、それをどう捉えようと
しても、納得がいくような結論がもたらされ
ることはないのではないか。

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2017-07-13 23:44:17

彼の声 2017.7.13 「世界の実態」

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 物と物に関係する情報は人の意識の中で結
びつき、意識の中や意識が媒介する社会の中
で物と人と情報とが関係することになるのだ
ろうが、また情報は物に関する説明を要する
場合や物を記号として扱うことにも繋がるし、
さらに物も人も情報も記号化することもでき
るわけで、それらの関係を定式化するのは困
難が伴いそうで、定まった関係とはいえない
面までありそうで、その場の都合に合わせて
物と人と情報とを結び合わせて、それぞれを
記号として取り扱うこともできるとなると、
それらの関係を理路整然と説明するのは困難
になるだろうか。その中で物としても情報と
しても扱われる貨幣は、売買の時には記号と
して機能するわけで、物の価格を示す記号と
なるわけだが、それ以前に物も人も情報も文
章上では文字記号であり、それらを記号とし
て機能させる時には、それを介して関係する
人々の間では、それを何らかの意味を持った
記号と認めるという共通の了解事項がないと、
記号としては機能しないわけで、結局は人と
人とが関係し合う社会の中でしか記号は機能
せず、その意味を共通の了解事項として認め
合うことによって、初めて社会の中で何らか
の意味を持った記号が機能して、それが機能
する限りにおいて社会の様々な仕組みが円滑
に動作するわけだ。そういうわけで人々が共
通の了解事項として共有している記号という
のは、人と物と情報を結びつける重要な情報
なのであり、記号自体がある種の情報である
のはいうまでもなく、しかも記号の意味も情
報であり、記号そのものが記号自身と記号の
意味という二種類の情報の結合体を成してい
て、その記号そのものとその意味との結合と
いう二重性が、記号を正確には把握しがたい
概念にしていて、しばしば人を記号に関する
誤った理解や単純化した理解に導き、その機
能も充分には説明し難い概念としているのか
もしれず、例えば貨幣は実際に所有している
硬貨や紙幣としては物であり、銀行の口座残
高としては情報でもあり、どちらもが売買の
際に商品と交換できる記号として機能するし、
その記号自身も商品として売買可能であり、
為替取引などでは売買される商品でもあり、
それ以外の通常の取引では売買を媒介する記
号となり、売買される商品にもなるが他の物
や情報の売買を媒介する貨幣という記号にも
なるわけで、もちろん為替取引においては異
なる通貨同士がその場で決まったレートで交
換されることになり、それは物々交換でもあ
り情報同士の交換でもあり記号同士の交換で
もあるわけで、そこでは物と情報と記号を厳
密に区別できなくなってしまうのかもしれず、
説明するのが困難となってしまうだろうか。

 そうであるにしても共通の了解事項として
機能する記号の意味を恣意的に解釈して、そ
れを妥当な解釈として世の中に広めることに
よって、自分や自分の所属する集団を有利に
導こうとする思惑が常に働いているのであり、
例えば自分たちが生産したり所有している商
品の価値を高めようとする試みもその延長上
にあるわけで、価値が高い理由をあれこれと
考案して、それを他の人や集団に信じ込ませ
ることができれば高く売れるわけで、そうや
ってもっともらしい理由をつけてプレミアム
を獲得しようとするわけだが、それが希少で
あるとかそれを所有して消費する人々を有利
に導くような効用が信じられれば、信じた人
人がそれを買おうとするわけで、そういう心
理につけ込んで、買う理由が何であれより多
くの人が買おうとすれば需要が増えて高く売
れ、反対により多くの量を売ろうとすれば供
給が増えて価格が安くなり、安くなっても売
れなければますます安くなってしまうわけだ
が、安くなりすぎると儲けが出なくなるから
供給できなくなるだろうし、また高くなりす
ぎると買えなくなるから需要が減るだろうし、
その辺で商品の適正価格が自然と形成される
かもしれないが、売る方は儲けを出そうとし
て絶えず適正価格より高く売ろうとするだろ
うし、買う方は絶えず適正価格より安く買お
うとするだろうし、結局売買に携わる人や集
団は、絶えず安く買って高く売ろうとするか
ら、それが一応の売買の理論であり理屈でも
あるのだろうが、そのための手法が絶えず考
案され実際に試されているにしても、結局儲
けが出るような価格で売れる商品というのが
必要であることには変わりなく、そのような
価格で売れている商品が存在している限りで
資本主義経済が成り立っていて、そうなって
いること自体に必然的な理由というのがある
かというと、もしかしたらないのかもしれず、
結果から見ればそうなった歴史的な経緯を導
き出せるかもしれないが、ただ結果的にそう
なっているとしか言えないのかもしれないし、
そのこと自体の必然的な理由を求めようとす
ると、理屈の面でも理論の面でも困難を伴い、
たとえ世界の全てが資本主義経済の網で覆わ
れているとしても、少なくとも均一に覆われ
ているわけではなく、網目の細かい地域では
人為的な活動のほとんど全てが資本主義経済
に関係しているかもしれないが、網目の粗い
地域では網をすり抜けてしまう要素も多いの
かもしれず、実際に貧困が蔓延していたり餓
死者が大勢出ているような地域では、資本主
義経済が成り立たない面が顕著に表れている
のだろうし、世界では資本主義経済が成り立
っている部分と成り立っていない部分とが混
在している実態があって、資本主義経済が成
り立っている地域に住んでいる人には、確か
に世界が資本主義経済に覆われているように
感じられるが、部分的にしか成り立っていな
い地域に住んでいる人には、そうは感じられ
ないのかもしれない。

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2017-07-12 23:57:30

彼の声 2017.7.12 「自己形成と争い」

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 いつもそんなことが起こるわけでもないだ
ろうが、生きていれば稀に遭遇するかもしれ
ない出来事というのが、自分からの離脱現象
かもしれないのだが、そんなわけがわからな
い展開の中では、誰も期待しないような不可
思議なことが起こり、それが感動とも落胆と
も違う違和感をもたらして、何か人が安易に
空想する安手のフィクションにはないリアリ
ティを感じさせるかもしれないが、それほど
頻繁にそんなことが起こるわけでもなく、そ
う滅多にないことだからそれを体験した時に
は唖然とさせられるわけで、その時には日常
の感覚からは得られない体験をして一時的に
興奮するかもしれないが、それはつかの間の
出来事だろうし、いったんそれが過ぎ去って
興奮から覚めてまたいつもの日常へと戻れば、
相変わらず退屈な紋切り型的な思考や慣習と
戯れている自分を意識できるかもしれず、そ
うなってしまえば何事もなかったかのように
振る舞いながらも、機会を捉えてもっともら
しい口調でその時の驚きを語って見せるかも
しれないが、それを語る時にはすでに心の平
静を取り戻していて、その場で直面した一瞬
虚をつかれたような居心地の悪さなど忘れて
いるのかもしれず、どんなにその場での出来
事を詳しく語って見せても、直接体験した時
からだいぶ経っているといくぶんずれた感覚
になってしまうだろうし、その時にはもうす
でに恣意的な印象や作り話の要素が入り込ん
でしまっているかもしれず、そんなふうにし
て過去の体験は常に変形を被っていて、それ
を思い出す度に反芻的に新たな情報が付加さ
れて、絶えず記憶が書き換えられながらも更
新され続けているのかもしれないが、脳内の
神経ネットワークが作り出す意識には、そう
やって外部から入り込んでくる情報を自分が
消化しやすいように馴致する作用があって、
違和感を伴うような部分をなるべく和らげて、
できるだけ自分のペースに巻き込みながら、
外界からもたらされる変動に対応しようとす
る機構が備わっているのかもしれない。もち
ろん全てを自分のペースに巻き込めないから、
何らかの破綻や失敗を伴うわけだろうが、巻
き込もうとして巻き込めないところが、葛藤
や齟齬感を生じさせて消化不良を起こし、う
まく対応できずにそのことが原因で心身の均
衡が崩れて病気になったりして、それなりに
悩みを抱え込む羽目に陥るのではないか。

 だから意識はそれを乗り越えて心身の調和
を実現しようとするのかもしれないが、結果
的にはそうならなくても構わないのかもしれ
ず、実際にそうはならないわけで、意識と周
囲の現実との間に違和感をもたらすような齟

齬や軋轢が生じていないと自己を意識できず、
軋轢を意識することで自分を周りの環境から
区別できるようになり、そのような精神作用
が意識が背景に溶け込んで一体化するのを妨
げているわけだ。要するに自分が自分である
ことは、他人とは違う自分がそこに存在する
ことを意識できるかにかかっていて、そうや
って他人と同じようには振る舞えない自分が
いることを確認する作業が不可欠なのかもし
れないが、それが日々行われている限りで、
自分という存在を確認できるわけで、例えば
他人と意見の一致を見ないようなら、そこに
意見の対立があり、それをきっかけとした争
いや衝突が起こる可能性があるだろうし、実
際に争うことによって他人と対立している自
分を意識するわけだが、別に必要以上に対立
を意識しなくても構わない場合もあるわけで、
争わなくても済んでしまう状況にあれば実際
に争わないだろうし、争うことによって相手
との違いを際立たせる必要がなければ、他人
と違う自分を意識する必要もなくなって、無
理に自己を確認する作業を行わなくてもいい
わけだが、そうだとしてもそれによって心身
の調和が実現されているわけでもなければ、
心の平穏が保たれているわけでもないだろう
し、軋轢が生じていても実際に争わなければ
対立を伴わないわけで、対立しないで意見が
噛み合わなかったり、対峙しないでねじれの
位置から双方が別々の方角を向いていたり、
互いの視線が交わらなければ互いの存在を無
視できる場合もあるだろうし、それで同じ環
境内で住み分けができているわけでもないだ
ろうが、何かしら位置や場所を同じにしない
状況というのがあるわけで、それが立場や在
り方の多様性や多元性を実現しているとすれ
ば、ただそこに隔たりがあるだけなのかもし
れず、実際にはそんな都合よく個々の人間が
隔たっているわけでもなく、時間的にも場所
的にも絶えず交錯があるわけで、そこで言葉
が交わされて何らかの関係が結ばれる可能性
があるわけだが、その関係の強度や程度もお
互いの思惑や距離感に応じて、それが共鳴や
共振を起こすか否かを左右するわけで、中に
は一方的なこだわりや思い込みから、他者と
の関係を必然的かつ絶対視したがる人もいる
かもしれないが、それでも共通の価値観を共
有するという幻想を抱けなければ争う必要は
ないだろうし、争いから自己を形成するよう
な成り行きにもならないのかもしれない。

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