
皆様に穏やかな日曜日でありますように(^人^)
より抜粋
原子力資料情報室──脱原発を唱えて1975年に設立されたこの団体に福島の原発事故後、多くのメディアが情報を求めた。
“推進派も認める反原発科学者”として、今も語られる設立者・高木仁三郎の遺志を継ぎ情報室は反原発運動のための民間シンクタンクとして動き続ける。
その共同代表として運動の舵をきる、西尾 漠に話をきいた。
西尾 漠 インタヴュー「新しい人たちが運動を始めている。その力が集まれば変わる。そう信じたいし、信じるしかない」
原子力資料情報室──脱原発を唱えて1975年に設立されたこの団体に福島の原発事故後、多くのメディアが情報を求めた。
“推進派も認める反原発科学者”として、今も語られる設立者・高木仁三郎の遺志を継ぎ情報室は反原発運動のための民間シンクタンクとして動き続ける。
その共同代表として運動の舵をきる、西尾 漠に話をきいた。
——西尾さんは広告制作会社を経て、この原子力資料情報室に入られました。そのきっかけは?
「大学では文系で、理科はまったく苦手でした。だから原子力には何の関心もなかった。関わるようになったのは、どちらかというと社会的な問題からです。小さな広告プロダクションで働いていたのですが、1973年頃から、電力会社が電力危機のキャンペーンを張り始めた。公害問題を理由に火力発電に反対する人たちがいる状況で、『火力発電で電気をつくらないと電力危機になりますよ』とアピールするわけです。その消費者を脅かすような広告に、おかしいと思ったところから関心を持ち始めました」
——当時は火力発電で、その後に原子力発電が出てくるわけですね。
「やがて広告で宣伝するもの自体も火力発電から原子力発電に変わっていき、同じように原発反対運動に対して、電力会社は『原発は安全、ないと困る』というキャンペーンを張っていくわけです。それに応じて、原発について調べるようになりました。そして、原子力発電所を造るためにまず地元の人たちについて調べ上げ、その弱みに付け込んで反対させないよう工作をするというようなことが、広告の仕事として実行されているという構造がわかってきた。そのうえ原発は原爆にもつながっているわけで、そうすると必然的に情報を秘密にし管理しなければならない、というおかしさがつきまとう。そういうわけで原発は危険なものだと頭では理解していたのですが、実感として危険性を意識したのはスリーマイル島の事故からですね」
——情報室では、70年代から脱原発を訴えてきました。今回の福島の原発事故を、どう捉えておられますか?
「気持ちとしては、ともかく大事故になってほしくないと、初めはそれれだけでした。事故直後は、何かを考えるよりもすべきことがたくさんあって実感がなくて、だいぶ後になってから『危険性を訴え続けていながら結局防げなかった』という思いが非常に強く出てきましたね。反原発運動としても、『事故が起きたら反原発の世論が増えていい』という、ついつい事故待望論みたいな話が出てきちゃったりもするわけです。私はそれは絶対だめだと思っていて。そうでない形で、どうやってきちんと世論をつくっていくかが重要です。
事故が、というより放射能の被害が反原発のきっかけになることはあるでしょう。チェルノブイリの後、日本国内で反原発の世論が高まったのも、事故直後ではなかった。後になって、自分たちの生活に直接影響のある輸入食品への心配が高まったことで、反原発の世論が出てきたわけですから。でも、それだけで世論が盛り上がっても、一過性のものになりかねないと思います。今回は事故が大きすぎるので、さすがに一過性というわけにはいかないと思いますが」
——署名やデモなど、世論の力で本当に状況は動くのでしょうか?
「何がしかの力にはなってくる。今のところは力になっていないとしても、力にできればと思います。それまでデモに来たことがなかったような人たちが、今は反原発デモにひとりで参加しているんですよ。うちでも昔から署名運動をやっていますが、最近は自分ひとり分だけ名前を書いたものを送ってくる人が結構いるんです。便せん何枚か分の手紙をつけて。昔だったら欄を全部埋めて、それこそ家族の名前まで書いて送ってきていたのに。いずれにせよ、今まで署名したことなかった、運動もしたことなかった人たちが動いている。それらが集まって本当の大きな力になってくれれば、状況が変わってくると思っています。そこは信じるしかないし、信じたいですね」
——正直なところ、原発はなくなるものでしょうか?
「なくせるし、なくさないといけないと思ってはいますけれども、そんなに簡単な話ではないとも思います。それでも、今このタイミングで実現できなかったら、将来なくなる可能性は非常に低いわけで。何としてもなくしたいと思っています。政府なり電力会社なりが決断してやめるという方法があるかもしれないし、国会で法律をつくるというやり方もありえる。ただ、政府や電力会社が『原発をやめる』という時は、自分たちがやってきたことが間違いだったと認めるわけなので、そう簡単ではありません」
——推進派の政治家が、選挙で当選し続けているという現実もあります。
「世論の影響や政府の方針もあり、いずれにせよもう原発は建たないとわかってきて、そこが争点ではなくなっているからです。それに実をいうと、推進派とされていても、本気で推進している人ってたぶんそんなにはいないんですよ。電力会社も本音ではやめたいと思っているでしょうし。そもそも電力会社にしてみれば、事故前から『少なくとも新しい原子力発電所は造りたくない』という気持ちがかなりあったはずです。初期の投資が非常に大きいわけで、それを回収するのは大変だから本当はやりたくない。おまけに今となっては、原発を停めたあとの後始末のコストがどうなるかわからない。いわば国策だからやってきたというのが、電力会社の意識だと思うんです。ところが今回の事故で、電力会社のほうもある程度、国に対してこのまま進めていいのか、逆に問いかけができるようになってきている」
——明るい未来が見えているわけでもないが、状況はよくなってきている?
「よくなっているからこそ、難しいところも見えてきているという状況でしょうか。震災後、原発がかなり停まっていて、六ヶ所村の核燃料再処理工場の計画もスムーズに動いていない。それは世論のおかげもあるけれど、現実として、原子力も核燃サイクルも技術的にまったくうまくいっていないんです。停まっている間にどれだけのことができるか、この機会をどう生かすかだと思っています。国を直に動かすのは難しいけれど、現に地方議会レベルでは意見書を出したり決議を出したりということが行われています。個人的には、電力会社とメーカーと国とみんな思惑が違うので、そこに何かうまく付け込む隙がないかなと。そもそも技術開発がうまくいっていれば分断も何もないわけで、うまくいかないからお互いに利害が食い違っているんですね。そういうところをうまくつなげて、広げていって、いかに世論をつくるかということですね」
——原発をやめることが難しいなら、原子力をせめて人間性を守るために使う方法はないのでしょうか?
「ありません。原子力発電にしても核兵器にしても、何か人の役に立つというふうにはとても考えられない。核分裂というものを発見してしまって、それを封印するというのはそう簡単なことではありませんが、きちんとした形でやめていくべきだと思います」
BAKU NISHIO
西尾 漠 ● 1947年、東京都生まれ。NPO法人・原子力資料情報室共同代表。70年、東京外国語大学ドイツ語学科中退。35年にわたり原発問題に関わる。主な著書に『原発を考える50話』(岩波ジュニア新書)、『エネルギーと環境の話をしよう』(七つ森書館)など。同情報室は75年に設立。産業界とは独立した立場から、原子力に関する資料収集や調査研究などを行う。また機関誌やパンフレットの発行、講演やトークイベントの開催とそのUstream中継、国際会議などの形で、市民活動のために情報を提供している。
以上抜粋
知れば知るほど…CHAKURAは懺悔する。
もう原発から卒業しないと、子どもたちの未来は残酷な地獄絵図とかすだろう……。
そして、私は後悔と哀しみの深い海の底で息絶えることでしょう。
CHAKURA・髙原眞由美







