美研2年の谷口です。ぐてぃーです。こんばんは。
絵画会様、写真部様、Flipper様の皆様、顔合わせ会(と言う名の飲み会)お疲れさまでした。普段はあまり関わりのない方と話ができとても楽しかったです。早芸展もよろしくお願いします!
今日のこと。
1次会は高田馬場の「甘太郎」でした。普段は美研のメンバーだけの飲み会ですが、今日は違います。とても新鮮で、テンションもあがりました(あれでもw)。普段はあまりしゃべらないキャラクタですので…(苦笑)。自分のことを書いてなんですが、今日はビールビールビールサワービールビールくらいです。まぁビールは好きなので良いですが…。あっ、別に飲まされたわけでありませんからー(笑)。
19:00~21:00まで自由に交流。そこにサークルの壁はありません。
2次会は「二重丸」で飲み(笑)。自分も参加。楽しかったです。
さて、そこでなぜ展覧会に絵を出すか、という話に。自分の意見を最初に申すと、そこで色々な人に見てもらい「あ、綺麗だな」と思って欲しいから、というのが純粋な意見。自分の中での価値観と言うものはある程度固定されている。そこの中で審査をして「これならまぁ良いだろう」というものを出す。そう思えないのは一切出さない。そういうものは永久保存か、ひどいものでは切り捨てる(勿論、引き裂いて捨てると言う意味)。そこで自分の審査を通り抜けたものを公に出す。そして見てもらう。見てもらい、いいな、と思ってもらう。そう思ってもらいその人に何かしらの「良い感じ」を残したい。それだけが自分の意思なのです。批評されたい、ってのは展覧会に出すまで。自分の高校では本当に絵が上手な、個展を開くような先生がいて、その人に見てもらって「これではいけない、こうすべきだ」などと色々なアドバイスをもらっていました。しかしここサークルでは、言っては悪いけれど(でも書くけれど)、その先生のような、プロの画家のような、広い絵画の世界を知っているような人がいない。だからそういう一般の意見は相手にしない。とういうかできない。だってみんな絵の素人だもん。勿論自分も素人で。だからとりあえず出すけれど、それほどみなの批評を期待していないし、自分の価値観、美的感覚、ってのもとりあえず採用するけれどなんとなく信用できない。それゆえ、展覧会には「みてよ?どうですか?自分なりには綺麗に書いたつもりです。少しでも安らかな思いになりますか」と主張するのみなのです。だから大学の展覧会には挑戦的な絵は出さないのです。
もし批評してもらいたいならば、専門家に見てもらわないなと。美術なんて主観的なものだ、と言うかも知れないけれど、そう思うのならばそうですか、としか言えない。美とはある意味では客観的なものだから。それゆえサークルなんかで見てもらっても何もならない。自分も何もいえないし。繰り返すけれどみんな素人だから。すみません…、でも素人ながら議論することに発展の可能性が残ってると思いますよ!それは40年前の学生が、アホながら自分で勉強した哲学論をふっかけるようなもの。最初はみんな未熟なんですから。そうしてふっかけた連中が、それを忘れられずに専門家になってゆく。最初から分かるはずなんてない。そんなこと分かってますよね。
まぁその「美しさ」「綺麗さ」ってのをなんとか一般化できないか。「そんなの主観的な評価なのだからできない、そうしようとするなんてつまらない」というけれど、じゃあ問うけれど「なにがつまらないの?そもそもつまらないって何」と。矛盾するものが並行して行くことが面白い?なぜ?なぜだから分からないでしょ。じゃあ合理的、理論的な美あっても良いじゃん。確立されてもない。最初から否定してはつまらない、なんでも排他してしまうことがつまらない。何にでもとりあえず可能性を感じ、挑戦してみないと意味がない。それじゃあ何で自分たちはわざわざ大学に通っているのか?人生の夏休み、と言うべき時間を過ごしているのか。考えるためでしょ?ただ大学のカリキュラムを消費するだけじゃないはです。自分だけの考えを構築するためでしょ。ま、そんなの賢明な人に言わせりゃアホですが。でも言いのです。考えずして何をする?固まった頭の教授の話を聞いて何をする?効率よく課題を済ますことに、速やかに良いところに就職することになにがある。その先にあるものは、また大学受験的な「成績業績アゲロアゲロ」じゃないか。スーツに身をまとった社会人を見てみれば分かる。あんなんになりたくないでしょ。夜、学生を見て「邪魔だ」とか言う人間になりたくないでしょ?残念ながら、そんなのつまらん。思考の飛躍がない。だから僕は今あるものが嫌いなんだよ!でも人間の歴史で言ったら、自分ひとりなんていてもいなくても同じだ。それがつらいところ。
哲学者の野矢氏は「無駄こそ必要なものだ」と言っているが「無駄を必要と言ってしまったら、無駄にも意味が見出されるではないか。それは無駄ではないだろう」と思うわけです。世の中には無駄なことなんてないのです。それは将来役に立つ、ということでない。こういう無駄に対しては沈黙せざるを得ないのですよ。ウィトゲンシュタインみたいですが。
何かに期待してはいけない。期待してはいけないけれど、あくまでも我々は「理想のある現実主義者」でなくてはいけないのです。これは宮崎駿の言葉ですが。理想がなくて何がある?理想とは、常に変わるもの。それを意識しなくてはいけない。数式だって、いつか終わる日が来るかもしれない。
編集、という世界に魅力を感じるのはそのためで。方法論、の習得、しいてはそれらの組み合わせによる無限の世界、まだまだ自分たちに残された思考の世界はある。そう思わなくとも、真理を目指して考えてきた人、その極一部に「天才」という称号が与えられ、世界が変えられた。しかしそれが本当に正しいの?運動方程式なんて近似式でしょ?足し算って結局は法則でしょ。目に見えるものなんて我々の情報処理(こういうのも怪しいがとりあえず言っておく)の結果でしょ。真理なんて本当はないんだ。その絶望を絶望として感じて、そうして絶望という言葉の枠の中で行動を施す人こそ、本当の天才ではないか。
我々はあまりに言葉に縛られてない?結局全然分かっていないんだよね。
そうして現在の脱却を求めて、芸術と言う「形式上は言葉に縛られない自由な世界」に逃れるのだ。それが正しいかどうか知らないけれど。少なくとも貧困、戦争、そういう時代に評価される小説、芸術が生まれるのだけど。ただ「良い」と評価するのも人間でしかないんです。
結局、何が正しいのかなんて、自分の狭い価値観の中での話。僕たちはもがいているようで、実は何ももがけていない。あまりにも楽観的だけど、全世界的、宇宙的、西田幾多郎的世界観に照らし合わせるそういえないか?それでももがけ、今からの脱却。型からの脱却。新しいもの、今までにないもの、そういうものに魅力を感じろ。何が芸術だ、何が数学だ、何が哲学だ。逃げるな、考えよ。今あるものに満足するな。疑え。疑ってそして分かれ。トイレの形がなぜそうなのか、宇宙がなぜトポロジー的世界なのか。机がなぜテカルのか、ほこりがなぜ舞い散るのか。
分子の成分なんて決まっている。そしてその分子が数日、数ヶ月で入れ替わるなんて分かりきっている。しかし数量は増えない。組み合わせも限界がある。そこに思考の限界はある。自分のことは自分は分からない。その弱さから逃げるのが人間ゆえの特権か。どうせ宇宙のゴミでしかないのか。ゴミでも「考える」と我々が「思う」行為はできる。どうせ規定された世界。自分だけの世界。
自然科学者は、分からないことには目をつぶる。分かることだけ取り上げてあたかも「すべて分かった」を演出する。そう思ってしまうのも科学者でない自分たちだけではないか。
結局は、他者とのかかわりに於ける社会の形成に目が向けられる。マクロな思考、レオロジー的思考、ミクロな思考、そういうものすべてをあわせた、統一的理論が考え出されるのを心待ちにしている。でも、もう出されているかもしれない。天才とはどこにでもいるもんだ。でも天才とは、はじめから天才ではない。一時の集中的な思考こそを天才と呼ぶだけのこと。ならば自分たちも天才になれる。見える世界に、どう考えても見えない色を混ぜ込む行動も天才なんですよ。すべて思考する時間、そしてその苦労の成果。「才能」なんて言葉、まやかしだと思いたい。得意不得意はあるだろうけれど。
二次元の世界に集約されるな。教授が黒板に書く「図」に惑わされるな。そんなもの、思考なんてアナロジーで表現されるほど落ちぶれていない。分かる努力こそ、思考の論理的な飛躍を生み出す。今はそれしか言えない。
一番ダメなのは、誰かの取ったデータ、誰かの考えた思考でしか今の自分たちを記述できないことだ。大学生よ(自分を含め)、懸命にあれ。