『(500)日のサマー』で、ズーイー・デシャネルたんがThe Smithsを好きと言ったことで、ジャジャジャーンと彼女に運命を感じてしまった青年の如く、例えば、女の子に
「レイプ25時が大好き
」
と滑舌良くハッキリと大声で言われたならば、僕はその女の子に恋をしてしまうと思います。
そんな『レイプ25時 暴姦』の現プリントの廃棄処分が決まったようで、先日シネロマン池袋で最後の上映があったようです。これ一本のために1800円払うのは微妙なのでパスしてしまいましたが、自分なりに追悼の意を込めて、『大都会PART2 凶器が走る』を家で観ました。
『凶器が走る』をすすめてくれた方によると、『レイプ25時』の姉妹編で、どちらも制作年度は1977年、監督は長谷部安春、レイパーは石山雄大。
『凶器が走る』は、結局は最後に帰着してしまう刑事ドラマの呪縛、整合性、辻褄合わせにどうしても物足りなさを感じてしまうのですが、それでもそこに行くまではジャッロのようでもあり、ロマンポルノ期の長谷部安春の烙印が所狭しと詰まっていてなかなか面白かったです。
『凶器が走る』は、タクシードライバーの石山雄大が、髪の長い女性客を強姦した後、裁ちバサミで次々と刺殺していくという猟奇的なストーリーです。
例えば、石山雄大がレイパーを『レイプ25時』のとき以上に狂気として熱演しているのだが、それは両者のレイプに本質的な違いがあるから当たり前といえば当たり前のことなのです。 『レイプ25時』の石山雄大がひどく性的魅力に溢れ、強姦されるものの女性は皆決まって彼の虜になるわけで、また彼にとって強姦は、彼の腕の薔薇の刺青の色づきでもわかるように、いわば理想の女性を見つける「レイパーの婚活」の意味合いもあるのです。つまり彼のレイプは後述するエタノールなどの薬品に頼らずとも、手際がよく、軽やかなのだ。彼の赤いジャンパーや伊達男っぷりもそれを物語る。
それに対して、『凶器が走る』の石山雄大は、逃げた髪の長い女房への怨みが、他の髪の長い女に転嫁し、彼の強姦殺人は世の中すべての女に対する復讐といったぐあいに、女に対する憎しみが動機になっているのだ(『死ぬにはまだ早い』なら黒沢年男みたいなもんだ)。だから彼は女をエタノールで眠らせ強姦した後、女を裁ちバサミで執拗に刺すのだし、女の髪の毛をそれで切るというマーキングめいたことも欠かさずやってしまう。
さきほど言葉のあやで「レイパーの婚活」などと言ってはみたが、それでも『レイプ25時』における石山雄大の動機や衝動は詳らかではない。一見即物的で軽いけれど、でも実際何を考えてるのかよくわからない正体不明の男しか言いようがないところがひどく面白い。そういう意味で『凶器が走る』の方の狂気は嫌いではないけれど、しかし類型の域、人間の限界を超えてるようにも見えず、もう少し何か…と贅沢なことも思ってしまう。
(脚本…『レイプ25時』桂千穂、『凶器が走る』大原清秀)
『凶器が走る』の、特にファーストシーンの(タクシー運転手なので白いのだけど)手袋だけを大きく写したショットはジャッロ、猟奇スリラーを意識させようというのだろうし(車に吊された「姉様人形」の小道具、もう少し効いてるとスリラーっぽくて良かった)、現に後の長谷部安春の『襲う!!』(1978年)を想起させるかのように、物語が三分の二を過ぎるまでは石山雄大の顔は一回も出てこないし、声も発しない。
次から次と女を滅多刺しにしていくところや、血がビュッ!と飛び散るところなどは、やっぱり長谷部安春の『暴行切り裂きジャック』(1976年)や『エロチックな関係』(1978年)なのだし、余談だが、この年譜を見ると1976年の『暴行切り裂きジャック』から始まって(テレビドラマの『凶器が走る』も含めて)、1978年の『エロチックな関係』まで、長谷部安春のバイオレンスが猟奇に向かっていた期間は案外短いし、作品も少ない。なぜなら『犯す!』は猟奇ではないし、以降は、不条理なコメディだった『暴る!』を経て、皮ジャン、化石、あぶ刑事と続いていくからだ。
しかし話しを少し戻すが、やはりお茶の間で見るテレビドラマ故にか、『凶器が走る』に映画ほど残虐なシーンは実はあまりない。一番最初の殺人のシーンのみで、あとは新聞の記事や、屍体が発見されたというだけで連続猟奇殺人があったことを表している。
また強姦に関しても、そのようなシーンは一度も出ず(おっぱいさえも出ない!)、ただ「犯人の血液型はA型」という台詞のみで、殺された女性が強姦されていることを直接的にならず示している。
昨年グリソムギャングでおこなわれたトークによると、長谷部安春は「音楽はわりとベタに使う」と言っているが、『凶器が走る』で石山雄大がキャバレーに立て籠もって、”(長い髪してる)女は尻軽女なんだよ!”と暴れてるときに流れてたのが一節太郎「浪曲子守唄」のインストゥルメンタル。
逃げた女房に未練はないが~♪
ハセベエ、ベタすぎる!(笑)
音楽の使い方としては、ややベタながらも全編ベートーベンの楽曲でレイプされた女の心象の変化の過程を見事に表現した『襲う!!』や、ブラームスを使った『レイプ25時』の方が神憑っている。
『レイプ25時』の音楽に関しては、知人の某氏の論考「バッハからブラームスへ。長谷部安春の音楽演出」が大いに参考になるので、以下抜粋して引用すると、
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さて、その微に入り細を穿つみぎめ氏の解析にはもはや私ごときが口を挟み得ることは何も無いのだが、それでも敢えてそこに付け加えるとするならば、主題であるブラームスの第3番第3楽章と、バッハのオルガン曲およびブラームスの第4番第3楽章との対比についてであろう。
すなわち、バッハが鳴っているシークエンスでの数々のレイプは、それがあくまでレイプという様式にとどまっているにすぎず、その行為主体の中には未だロマンが入り込んでいないか、または主体がロマンを見出し得るほどには対象が足りていない。
一方、ブラ4第3楽章が鳴っているシークエンス、すなわち和姦へと導かれていく前段のそこでは、もはやブラ3第3楽章的なロマン、つまり憧憬や哀切はすっかり無くなってしまっているのだった。これは実際に曲を聴き比べてみれば瞭然であるが、ブラ3第3楽章があての無い何ものか(例えば崇高な愛)を追い求めているのに対し、ブラ4第3楽章は、それを我が物としたときの満ち足りた(あるいはしかし俗的な)テンションの高さである。
そしてまた一方、それまでバッハ的様式のうちにとどまっていた主体が、果たしてブラ3的ロマンの境地に達しえたとき、それは本作でもっとも美しき映像表現、エンドロールへと昇華していくのだった。
これらの音楽の使い分けは、それぞれのシーンにおける行為者の心象、その点と線とを見事に表現し分けており、一方そこにバッハ(様式)からブラームス(ロマン)へ、という音楽史上の発展過程を考え合わせてみたときに、改めて長谷部安春の音楽センス、その旋律に、戦慄を覚えずにはいられないのであった。
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ちなみに上で言うところのみぎめ氏の『レイプ25時』の解析は、下記URLを参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/migime/20090506
最後に『凶器が走る』には長谷部ロマポのミューズ、八城夏子もコメディリリーフならぬレイプリリーフとして登場。石山雄大の模倣犯、市村博(ロマポではほぼ「五條博」名義)に犯されそうになる役で。
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ついこないだ『(500)日のサマー』のズーイーたんに目覚めてから、「これから俺は恋愛映画しか観ない!」と宣言したはずなのに。
おかしいなぁ…





