三重スパイ雑感

2010年03月16日(火) テーマ:映画

<但し書き>

何故だかエリック・ロメールの『三重スパイ』を観てしまった。「何故だか」というのも、僕はそれほどロメールを知らないからだ。他にこの人の映画で観たことがあるのは、こじれた処女映画の極北だった『緑の光線』だけで、それも数年前に女の子に誘われたから行っただけ。なので自発的にではない。もちろん男に誘われていたら絶対行ってなかった。よって僕にロメールを語る資格などはなく、以下の文章は「90%偏見」で出来ていること、ご了承のほどを。



日曜日はユーロスペースでロメールの『三重スパイ』を観た。
政治的背景に関する素養がないためか、ぶっちゃけるとよくわからなかった。
とりあえず、ロメールの映画において「女の嘘」は最も重要なキーワードの一つだろうと仮定して観ていた。
例えば、『緑の光線』でも主人公の女が嘘をついていたのを思い出す。孤独感に苛まれている女は、かつて自分にも恋人がいたようなことを友達に言うのだったが、周りはそれを知らなかったという反応、そしてその後の女の曖昧な態度からも、それは嘘臭く、いやそれは明らかに嘘で、彼女はいまだ処女なのだ。こういう嘘、見栄は、彼女をますます自己嫌悪させるのと同時に、他人と壁を作り、自分は誰からも理解されないと自分の中に引きこもる遠因ともなりうる。これは卑屈にこじれている彼女にとっては重大事だが、客観する我々には取るに足らないつまらない嘘である。
僕がロメールの『三重スパイ』に期待したものは、そのようなちゃちな嘘ではなく、もっと得体の知れない謎のようなそれだった。
つまり、物語ではフランスに亡命した元ロシア将校が三重スパイの嫌疑をかけられたりしてるのだが、僕はそのギリシャ人の奥さんの方が怪しいという目でずっと観ていた。夫に嘘をつき続ける奥さん、いつ尻尾を出すだろうかと。
奥さんは絵を描いている政治にあまり関心がない女性なのだけど、その素朴そうな人柄がますます臭いと。上の階に住む夫の敵(?)と仲良くしようとしたり、突然夫の心配をするていで彼の仕事の秘密を知りたがったりと、その突っ込みつつもはぐらかす感じ、もっと言えば、彼女の夫に対する愛情も怪しいと、ますます(勝手に)疑心暗鬼に陥る。
そしてついに映画が佳境に入り、洋裁店での場面。映画中、唯一アイリスで時間経過を表し、物語を終結させる決起となる誘拐事件が起こる「空白の一時間」、そこに入る直前にアイリスアウトの中心に奥さんを置くという露骨で意味深な演出。ついに彼女の動きが明るみに出てくるか!と思うやいなや、その誘拐事件の首謀者にされて旦那は行方不明に、その共犯関係を疑われて奥さんは投獄されて死亡という、なんだかよくわからないラストに。謎だ。
夫への愛をつらぬき、夫のために投獄され死亡するという一番同情されるべき立場の奥さんだけど、しかし実を言うと、それでもまだ僕は奥さんを疑っていたりする。尻尾はいっかな出さなかったけれど、彼女は嘘を、死してもなお「真実」を隠蔽し続けていて、僕らはまだなお完全に騙されていると。でなければ、僕には「空白の一時間」前のあのアイリスアウトが、得体の知れない何かが発しているのであろうスクリーンに横溢する不穏な空気感がどうにも解せないのだし、実際本当のこと、「真実」というものは表面には決して現れず、往々にして誰の手によってというよりも「真実」それ自身によって隠蔽され続ける類のものではないだろうか。現に、裏からの情報操作で世界を掌握できることに酔いしれた元ロシア将校の全能感などは、隠蔽されている「真実」からすればまことに他愛のないものだったのである。
にしても、アクションが全くなく、全編会話劇で繋げられるこの手の映画のどこに見どころを置いたらいいのかわからず、とりあえず構図に注意して観ようかと思ったが、これがまた面白くなくてどうしようかと思った。
最初の方で好む絵画の傾向からそのフランスおよびロシアの国民性を暗喩し皮肉って見せるシーンがあるけれど、ギリシア人の奥さんが描く絵は風景画でも抽象画でもなく、必ず人物が入った人物画または風俗画の類なのだ。美しい風景が映されるわけでもなく、奇抜な画面が映されるわけでもなかった『三重スパイ』はまるで奥さんの描く絵画のような映画だった。

映画後、渋谷道玄坂のうどん屋さんで肉うどんとササミの天ぷらを食す。美味す。ここはこれから使おう。

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