ミュンヘンに、ビアホール以外にどうしても行きたかった場所がある。
「Sedan Strase」というミュンヘン市内東部、Ostbanhof駅近くの小さななんでもない道だ。
20歳の頃、ミュンヘンに一ヶ月滞在していたことがある家が、そのセダン通りにあったのだ。
もちろん、その頃はビールが目的ではなく(結果的にそうなったけど)ドイツ語の研修だった。
生まれて初めての海外だ。
ドイツ人の家に滞在し、昼は語学学校でドイツ語を、夜はドイツ人の家でドイツ語を学ぶという研修で、
僕は30歳くらいの独身ドイツ人男性のところに三週間ほど滞在することになった。
初めての海外・・・それだけでもくらくらくるのに、これから日本語をほとんど理解できない外国人と生ま
れて初めて暮らすのだ。会う前、ネオナチみたいな怖い人だったらどうしようとか、ホモだったら逃げよう
とか、ソーセージしか食べさせてくれなかったらやばいからマックは近くにあるんだろうかとか、いろいろ
ドキドキしてたんだけど、同居人となるステファンに会ったとき、あまりに僕のイメージしていたドイツ人
とは違うことに驚いた。
細く、大人しく、吹奏楽部でオーボエとか吹いてそうな優しそうな人だった。ステファンは、「こんにちわ
。よろしく」と片言の日本語で挨拶して、握手してくれた。そして、一通り家を見せてくれたあと、ステフ
ァンが働いている美術館に連れてってくれることになった。「アルテ・ピナテコーク」というミュンヘンで
一、二番くらいに大きくて古い美術館のカフェでウェイターとして働いていて、「ここが僕の職場だよ」と
にこやかに紹介してくれた、、のもつかの間、店長らしき人がつかつかと歩みよってきて、ものすごい剣幕
で何かステファンに向かって言い始めた。ドイツ語がわからない僕は、得意のジャパニーズスマイルを浮か
べてステファンの横にただ立っているだけしかできなかったけど、どうにもまずい状況であることだけは確
実にわかった。何回か穏やかでないやりとりがあり、怒りのゲルマン台風が過ぎ去って、しばらく呆然とし
ていたあと、ステファンは気を取り直して僕に説明してくれた。
「仕事をクビになってしまったよ。」え?どういうこと?
「僕は、日本にいく。君にはすまないが、日本の友達のとこへしばらく行くことにする」は? え?
今度は僕が状況を理解するのにしばらく時間がかかった。ドイツ語研修的には、いちおホームステイという
形をとっているから、そりゃないぜー、ステファンさんよぉとなるんだけど、ま、昼はドイツ語の学校にい
くし、一人の方が気楽といっちゃあ気楽だし、まあそうおっしゃるならお行きなさい、と思い直し短いステ
ファンとの付き合いを楽しむことにした。
ステファンが日本に行くまで、三日間くらいしか一緒に過ごせなかったけど、とても穏やかで気持ちのいい
人だった。美術館にいった日は、たまたま僕の誕生日でパウル・クレーの時計を誕生日プレゼントにくれた
り(その数分後、ステファンはクビになった)、なるべくドイツ語を教えようとしてくれたし、ミュンヘン
の観光案内もしてくれたし、失業してこれから日本にいくというのに街にいる物乞いしてるジプシーを見つ
けるたびにお金をあげてたり。短いけど、いやたぶん短かったがゆえに、印象的に覚えてるんだろう。
そんなステファンとの超短い夏も終わりの日、僕が学校から帰ってきてぼーっとしてるとステファンがリビ
ングのテーブルに分厚い本を三冊どんと置いた。
「何これ?」
「君、歴史が好きだって話してただろ?プレゼントだよ」
すごい古い本らしく、タイトルは背表紙に書いてあった。
「え?ペリー?」
表紙をめくると、
NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AN AMERICAN SQUADRON to THE CHAINA SEAS AND JAPAN
ってこれ、ペリー来航の本ってこと?しかも1856年にプリントされたって150年近く前の本じゃん!
「こんなのどこで手に入れたの?」
「本屋だよ」
そりゃそうだよステファン、こんなのスーパーに売ってるわけないだろ。
日本来航の報告書と調査書を兼ねたこの本は、1巻が報告書、2巻が日本の生物や植物の図鑑、3巻が航海
日誌というものだった。その後日本に帰って何かの展覧会に行ったら、その本がケースにいれられて飾っ
てあったりしたから歴史的な価値もあるんだろう。よりによってそれを僕はステファンからもらったのだ。
ペリーを置き土産に「途中でいなくなっちゃってごめんね」とステファンは言って日本に去っていった。
それからの残りの日々、僕はステファンの自転車を借りて、学校に通い、ビアガーデンに通った。一杯一リ
ットルその頃10マルクしないくらい(ユーロじゃないのが時代を感じる、、)700円くらいだったので
学生の僕でも毎日通えたのだ。ぼろかったけどステファンの自転車は快適で、緑の多いミュンヘンの街中を
ビアガーデンに向かって走ってるとほんとに幸せだった。
それから十五年くらいたって、再び、セダン通りを訪れる。相変わらずこざっぱりとしたいかにもドイツの
住宅街という雰囲気の中、僕はステファンの家を探して歩いた。セダン通りはそんなに大きい通りじゃない
ので一軒一軒見ていってもそんなに時間はかからない。これかなー、これな気が、、という玄関のドアをい
くか通り過ぎ、ついに確信を持ってこれだ!と言える見覚えのあるドアが見つかった。
ステファンの部屋の表札はやっぱりステファンじゃなかった。今、ステファンはどこで何をしてるんだろう
。あのあと、ステファンは四国のお寺にしばらくいたらしい。ドイツ語の同じクラスの友人が実家に帰った
とき、近くの寺に変なドイツ人が住み着いて近所の話題になっていたそうだ。ドイツ語をちょっとは話せる
その友人がステファンと話してると僕とつながったそうだ。
ステファン、寺に滞在するなんてやっぱり変な人である。
そしてできれば、もう一度会いたい人である。