羽生結弦のエッジ研磨技術者、
吉田年伸さんに会ってきた

 

 2016-2017シーズンに『フィギュアスケート・マガジン』は5冊を発行したが、読者の皆さんからいただいたご意見・感想でもっとも反響が大きかったのが、9月下旬発売の「プレシーズン号」に掲載した吉田年伸さんの記事だった。吉田さんは羽生結弦のスケート靴のエッジ部分(金属の刃)を研磨している技術者で、ジャンプ、スピンなど羽生の高度な技術を、表に見えないところで支えている人だ。

 

 

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 私はフィギュアスケートの他にも『アイスホッケー・マガジン』(8月下旬発売)を担当していて、7月中旬、青森・八戸で活動しているトップチーム「東北フリーブレイズ」の取材に行った際、同チームのエキップメント・マネジャーを務める吉田さんに「もし時間があるようでしたら情報交換をする時間はありませんか」、単刀直入にいうと「1杯やりませんか」と連絡をし、吉田さんも「ぜひ!」ということで情報交換会という名の飲み会が実現した。

 

 吉田さんとは主にアイスホッケーの現場で顔を合わせるが、こうしてじっくりと話をするのは1年ぶり。1年前には八戸で有名なお蕎麦屋さんで2時間ほど話を聞き、それがやがてプレシーズン号の『尽きせぬ思い』という記事につながっていった。

 

「あれからもう1年経ったんですね」と吉田さん。「ブログにちょこっと書くかもしれませんが、今日はレコーダーもカメラもノートも持ってきていません。取材抜きで楽しみましょう」と私。まずはビールで乾杯、そこからは吉田さんも私も元アイスホッケー選手ということで、チームのこと、リーグのこと、防具のことと話が尽きなかった。

 

 ただ不思議なことに、アイスホッケーの話をしていても、なぜか話題は羽生結弦のことになっていた。2時間半の酒席のうち、おそらく1時間42分くらいは羽生の話をしていた気がする。吉田さんは単にエッジ研磨を担当しているだけでなく、羽生の相談相手でもある。しかも奥さんは仙台時代の羽生を指導していた阿部奈々美先生。話がとてもリアルで、かつ興味深いものばかりだった。

 

「羽生が僕に研磨のリクエストをしてくるメールが可愛いんですよね」と吉田さん。文面からは、彼が本当に信頼を寄せていることが伝わってくる。もちろん、話は奈々美先生のことにも及んだ。羽生が奈々美先生に会うと「僕、今、こんなことやってるんですよ」と子供のように話しかけてくること。それを聞いて、国別対抗のエキシビション前に4回転ルッツを跳んでいたのは、奈々美先生に見せるためだったのかな――という気もした。

 

 吉田さんはスケートの技術者になる前はバンドマンだっただけに音楽への造詣も深いが、奈々美先生とともに『ヴァーティゴ』の振り付けを考えた時の話も面白かった。「あの腰の振りは僕がアイデアを出したんですが、最初はものすごく評判悪くてですね!」。思わず大根サラダを口から吹き出しそうになった。

 

 それ以外にも、笑える話、「羽生にもそんな一面があるのか」という話、ちょっと重い話と、あっという間に時間が過ぎた。取材抜きという席だったので、そこでの話を紹介するのははばかられるが、羽生結弦は、男である私たちの目から見ても、知れば知るほどより興味をかき立てられるスケーターだということをあらためて感じた。さらにいえば、奈々美先生にも同様のことがいえる。「そうだ、次は奈々美と3人で飲みましょう」と吉田さん。吉田年伸という技術者、阿部奈々美という指導者、そして羽生結弦というアスリート。3人に対する尊敬が深まった、忘れられない夜になった。

 

 

画像: 4月、国別対抗のエキシビション練習での1コマ。会話を聞くことはできなくても、2人の姿を見れば「通じ合っている」ことは十分伝わってくる

4月、国別対抗のエキシビション練習での1コマ。会話を聞くことはできなくても、2人の姿を見れば「通じ合っている」ことは十分伝わってくる

 

 

羽生涙の真実「本当は仙台にいたかった」

2014年2月16日

http://www.nikkansports.com/sochi2014/figureskate/news/p-sochi-tp0-20140216-1258302.html

 

 

 ミスが続いたフリーの演技。悔しさで充満していた心を、その眺めがほぐしていく。心地よかった。「やったんだ」。ほほ笑みを絶やさない。それは、あの小さな部屋での涙の先にあったほほ笑みだった。

 「本当は仙台にいたかった」。12年5月、さらなる成長のため、カナダ・トロントに練習拠点を移した。関係者によって、レールは敷かれていた。金妍児を育てたオーサー・コーチの元で学ぶ-。非凡だからこそ、名伯楽に託したい。その親心を理解しながらも、決して自分が望んだ道ではなかった。もう流れは止められなかった。

 出発の2カ月前、世界選手権が開催されたフランスから帰国すると、仙台では誰にも会わなかった。「自分は裏切り者なんじゃないか」。お世話になった人への、震災から立ち直ろうとする故郷へのうしろめたさ-。

 自らも被災者だった。震災の時、スケート靴が脱げずにリンクにひざをついて逃げた。4日間は家族4人が避難所暮らし。畳1畳に毛布1枚の生活も味わい、「生活で精いっぱいなのに、なんでスケート…。やめようかな」とまで思った。60以上ものショーが練習代わり。その最中、500通のファンレターに返事を書いた。「僕が、本当は支えられていたんだな」と心に染みた。だからこそ、離れることは裏切りのように感じられた。

 4歳から通ったアイスリンク仙台。出発直前、あいさつに行った。「いってきます」の短い言葉。それが限界だった。終えるとそのまま、靴の刃を研磨してくれる隣の店へ。その奥の小さな部屋で泣き崩れた。長く、悲しい時間。「僕は行きたくないんだ…」。

 それでも旅立ちの時はくる。母と2人、カナダへ。アパートでの2人暮らしで、地下鉄を乗り継ぎ練習場へ通う日々。ぜんそく対策のマスクをつけると「変な人に見られる」。レストランでは、隣席の団体客の高額レシートを支払わされそうになった。差別的視線に、友人もいない異国は冷たい。「英語もできない。いちいちストレス。こんなんでよかったのか」。ただ、進むしか道はなかった。

 迎えた五輪シーズン。「今の自分にしかできないことを表現したかった」とフリーの選曲は、震災があった2季前と同じ「ロミオとジュリエット」だった。ささげたのは復興する故郷。最高の舞台で、2季前から成長した自分を見せられたら、それが「恩返し」だと思ったから。

 その五輪の舞台は、甘くはなかった。前日のSPでは飼いならした独特の雰囲気が、フリーでは暴れ出した。緊張に体は硬直した。冒頭の4回転サルコーは、スピードに欠いて転倒。続く4回転トーループは完璧に決めたが、容易な3回転フリップで両手をつく。「金は遠ざかったな」。失望感に、何とか踏ん張っての後半は「足が重い」「体力もきつい」。転倒で体力を削られ、演技後10秒以上も立ち上がれなかった。

 「金はダメだな…」。その後、次の滑走だったチャンが立て続けのミス。前日SPで史上初の100点超えを果たした貯金が生きる。チャンの得点が下回り、残りは2人。取材エリアのテレビで、その時を待った。最終滑走者が演技を終えて優勝が決まると、「オーマイガッ!」。驚きと悔しさが混在し、忘れていた歓喜は表彰台で実感した。「感謝」が去来した。

 そして、まだ恩返しは十分ではない。「メダリストになれたからこそ、震災復興のためにできることを。ここからがスタート」と思いは先に。支えてくれたすべての人へ、歩む王者の道すべてをささげていく。

 「19歳でまだまだ若い。次の五輪も頑張ろうと思います」。また次の夢舞台でも、少し高い表彰台のてっぺんから、同じ光景を眺めてみせる。今度は心の底からの歓喜と、変わらぬ感謝を胸に。【阿部健吾】<羽生結弦(はにゅう・ゆづる)アラカルト>

 

MAD羽生結弦・ななみ先生、ありがとう
【特別編】
ニコ動

 

ベル2011年の四大陸・EXのヴァーティゴ。

 

 

ベル2011 Nebelhorn Trophy Yuzuru Hanyu EX & Finale

 

 

ベルYuzuru HANYU 羽生結弦 SOI 名場面

 


Yuzuru HANYU 羽生結弦 SOI 名場面 投稿者 yusu01207

 

 

 

 

 

 

 

 

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