PTSDや恐怖にあふれた家庭に育ち
いつも怯えて幼少期を過ごしてしまった人々は
過剰な自制心をもち、身体の痛みに鈍く(我慢強く)
できるだけ目立たないように生きている人が多いような気がした。
自分がそれに当てはまるかはわからないけれど
確かに適切な「自己主張」や自分の感情等の「言葉での説明」に弱く
自分を閉じてひきこもる傾向が強いのかもしれない。
戦ったり争ったりする事はとにかく嫌いで
実際のところそういうターゲットにロックオンされると憂鬱にしかならない。
けれど抗鬱剤を使用し始めたときから
自分の意見を結構はっきりぶつけることができるようになった。
それが適切な方法だったのかは今でもよくわからない。
理由は当時問題が多重同時多発で発生し
明らかに人間の処理能力の限界を超えて
結果消耗してしまったから。
それでも「怒りは必要な感情だ」という事を最近とても感じる。
抗鬱剤で色んな事をあまり感じなくするような薬があるけれど
それはそれで心や身体が多動的なヒトには一時的に
休ませるという意味で効果があるのだと思う。
けれど人間は動物なので
怒りと言うのは割と古い感情で
そして生きるために必要な強い感情なのだろうと思いはじめた。
怒る事に無力感ばかりを感じていた長い月日が
適切に怒る事を封印してしまったのかも知れないと思うようになった。
私は心理学を学校で学んだこともあるが
どうもその理論は私にはなじまないのでそこからの引用はしない。
ただ私が長い時間闘病して
感じた今の結果としてそう思う。
PTSDの治療に使われる抗鬱剤は時として怒りの感情を増大させるけれど
それを社会で暮らせる程度にコントロールする方法を
小さな子に教えるかのように自分自身に沁み込ませていく事が
ひととして生きるための知恵を回復(新たに獲得)するの旅の
ひとつの方法なのだとおもう。
幼いころに失ったものや
幼いころに与えられなかったものを嘆く事も大切だとおもう。
そして私が次に見つけてチャレンジしたいものは
今の現実の人生の波を乗りこなす「自律」というテクニックなのかもしれない。
自律神経失調症の私が言うのもギャグ見たいだけれど(o^-')b