オンギロン

「音声の演技」だから「音技論」です。
「声の演技」と言うと「台本の音読」だと思い込んでいる人が多いので、ちょっと違う呼び方にしてみました。
「声優志望」、「声優になりたい」という方のために。

★ 更新はツイッターでお知らせします → https://twitter.com/Bandowz
出典をご明記いただければ引用は自由です。無断の転用や流用はお断りいたします。
(C)2011- Bandou Naoki

テーマ:
- 自分も「自分」の外にある -

【図4 薄い他人たちの図】

【図1】と【図4】の違いは一目瞭然、「他人が薄い」という点です。「薄い」と言うのは「自分」以外の存在がはっきり見えていないという事です。
 これは「自己中心的」とはちょっと違います。いわゆる「自己チュー」の人たちには周囲の人間が見えています。見えている人間関係の中心に立ちたがるから「自己中心的」と言われるのです。
 対して「MS志望者」は?
 周囲の人々に対する関心は薄く、あえて積極的に関わろうとはしません。なぜなら彼らは「世界」そのものだからです。

「MS志望者」はその精神エネルギーの多くを「自分の考え事」で消費しています。
 一見「無表情」に見えてもその奥では、
「声優」になりさえすれば今までとは変わる、そうしたらああしようこうしよう、そうすればこう思われるに違いない、それならばこうした方が良いだろうか…… と、
「未完の理想図」の編集作業で脳がフル回転している場合が多いのです。
 
 当然、彼らは「自分の外」の物事、特に他人の事にはあまり気が回りません。
 新しい物事や人物に遭遇しても「自分の好み」に合わない限り深入りはせず、足りない情報は「憶測」や「期待」で何となく埋めてしまいます。「MS志望者」が「先入観」や「理想」のような「思い込み」に囚われやすいのはそのためです。
 この「思い込み」は「自分の考え」というカプセルの中で煮詰められて硬くなっていますから、たとえそれが後で間違いだったと判っても中々修正する事ができません。

-「声優」と「俳優」の違い -

「声優」には普通の「俳優」や「タレント」と決定的に違う点があります。
 それは、現場に呼ばれて行った時には必ず「誰かが演じ終わっている」という点です。

 これは「日本語吹き替え」に限った話ではありません。
 例えばアニメの「登場人物」は、主要スタッフが何度も会議を開いてその「存在感」「しゃべり方」を決定し、最終的にはアニメーターが自分でしゃべってみながら映像化しているのです。音声収録の段階ではもう「役」の個性もしゃべり方もほとんど決まっているので、そこから外れた「演技」にOKが出る事はあまりありません。
「声優」は、「実演家」としては例外的に、「自分らしさ」を引っ込めなくてはならないケースが多いジャンルなんです。
 すでに自分の演技ノウハウが確立している俳優さんの中に「声の仕事」を嫌う方がいらっしゃるのはこのためです。また、個性的なしゃべくりが売りのお笑い芸人さんが「声の仕事」だとトーンダウンしてしまうのもこのためです。

「すでに誰かが決めた架空の人物像」を実体化するためには?
 まだ存在していない人物をモノマネできる「特殊なセンス」が必要になります。
 この「センス」に恵まれていない人は何年努力しても結果が出せません。「養成所」では1年目の夏休み前に自ら去ってしまう人が結構いるそうですが、被害を最小限に食い止めたければそれが最も妥当な判断と言えるでしょう。

 ところが、
「これこそ自分を生かして他人に認めてもらえる仕事だ」とガチで勘違いして始めた「MS志望者」は、そう簡単にアクセルをゆるめる事ができません。折角意気揚々と飛び出してきたというのにまたあの「居場所の無い世界」に戻るなんて、想像しただけでも恥ずかしさで気が狂いそうです。だから彼らは必死になって「努力」します。彼らなりに死に物狂いで「努力」はしているのですが……

「声優養成所」の1年生を教えた経験のある人たちに様子を聞いてみると、「いかに彼らが声優をナメているか」という話が必ず出てきます。私も最初はそう感じていました。
 しかし、数年間幾つかの教室で教える内に、決してナメているワケではないんだけれど、どうしてもナメているようにしか見えない人たちが多い事に気がついたのです。
 その違いは彼らがナメている対象の違いにありました。
 彼らがナメているのは「声優」ではありません。「演技」をナメているんです。

「今時まさか」と思われるかもしれませんが、入門者の多くは「役」と「声優本人」を混同しています。「役」と「声優本人」の間に厳然と横たわっている「演技」という超絶技巧を無視して、「声優本人」しか見ていないのです。
「それなら自分にもできる」と勘違いして迷い込んできてしまったんですから、当然彼らは「演技」をしようとしません。努力や一生懸命を口にする割には、「声優」という表面だけをマネしてジタバタするだけだから、百戦錬磨の講師陣からするとナメているようにしか見えないのです。

 以下はちょっと長くなりますが、そうした「ズレた努力」の具体的な例を幾つか上げておきたいと思います。

- トッピング錯誤 -

「でき上がっている映像上の、誰かが演じ終えた人物像を演じ直す」……と、
 誰もが知っている「声優」の特徴を今さらのように上げたのは、誰もが知っている特徴だからと言って、みんながみんな同じ解釈をしているとは限らないからです。

 ちょっと冷静に考えてください。「演じ直す」、ですよ。
 この一番肝心な部分に「自分に甘い能天気な人」変な期待を挿入してしまうと……
「何しろ映像はある。
 感情も表情も演技の大部分は誰かが済ませてくれているんだから、
 声優はその上に乗っかってしゃべるだけ♪」
 ……という、なんとも他力本願な話になってしまうのです。
 こんな、「ソフトクリームにイチゴジャムをかけたらイチゴソフト」みたいな安直な「トッピング」感覚で教室に来られたって何にも教えようがありません。

「演じ直す」、という事は、
 完全に並走して同じレベルで演技できなくてはならないという事です。
 
 基本的には、台詞の「前」から「役」と同じ行動をたどって「感情」をシンクロし始め、あらかじめ組み立てておいた「リアクション」の力で台詞を押し出すのです。
 シーンの頭からいきなり台詞、という場合には、そのシーンの直前の行動を予想してシミュレーションしたりもします。
 ちなみに、「発音」はしゃべろうと考えてからしゃべり始めると必ず遅れますから、その人それぞれの遅れ方に合わせて早出したりしています。そういう細かい操作は沢山あります。

 ハリウッドのトップ俳優を吹き替えるには、ハリウッドのトップ俳優並の「演技センス」が必要です。向こうの演技プランが理解できなければ演じ直す事もできないからです。
 さらに、よりゼロに近い所からサプライズを提供しなくてはならない「アニメ」では柔軟な「発想力」が要求されたりもします。
 これらの技術やセンスを備えて、あらゆる作品を魅力的に輝かせる事ができた時、初めて演じた本人が輝いて見えるのです。
 
「他人が作った物の上にしゃべりだけトッピング」みたいな安直で「B級」な思い込みに囚われている人が輝いて見える事はありません。
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

-「声優」を目指しているからなれない -


「タコ糸」を、最適な角度とタイミングで引いたりゆるめたり……

「ディレクター」はそれだけの操作で「タコ(役)」をコントロールしなくてはなりません。ですから「タコ糸(声優)」にも相応の反応の良さが求められます。

 

「反応の良いタコ糸」とは?
 察しが良くて、制作者が期待した通りの「役」を速やかに出現させてくれる「声優」の事です。


「察しが良い」とは?
 台本を読んだりディレクターの指示を聞いただけですぐに「役」に一番近い「人物像」を「引き出し」から出して提供できる感性を持っているという事です。

 それを実現するためには必要なものは何でしょう?

 

 思い出してください。
 あなたが「作品」に感動したのは、好みの「声優さん」が出演していたからですか?
 そうではないはずです。それではただのファンです。

 あなたが「作品」に感動したのは、その声優さんの演じた「役」「他の誰か」と関わり合って「変化する様子」が描かれていたからではありませんか?

 

 それが「ドラマ」です。

 

 人と人が関わり合って変化していく様子に共感してもらうのが「ドラマ」です。

「アニメ」も「映画」も「ドラマ」の傘下にありますから、人と人の関わり合いを描くという点に変わりはありません。それを「仕事」にしようと言うのなら、当然

「人間関係」にまつわる莫大な予備知識が必要になります。
 

-「役」は「他人」-

 

「友人関係」や「恋愛関係」や「血縁関係」や
 「上下関係」や「利害関係」や「対立関係」などなどなど……
 人と人の関係には様々な種類があります。
 そうした関係を「自分」を中心にしてざっくりと見渡しすとこんな感じになります。

 

【図1 自分と他人の関係】

 

[自分]を中心にした[ピンクのグラデーション]は自分と他人との関わりの強さを表しています。ピンクが濃いほどつながりが強いという事です。

[赤い矢印]は様々な[他人]との関係を示しています。

 

 例えば「兄弟ほど近くないけれど仕事上は大きな利害関係」とか、「恋人関係だけど親どうしは敵」とか、自分1人を中心にするだけでも他人との関係には様々なバリエーションが考えられます。
 こうした「関係」がつながり合い、重なり合って巨大化した状態がいわゆる「社会」です。

 しかし……


 上の【図1】の状態をそのまま「演技」に適用する事はできません。
 なぜなら「役」は「自分」ではなく「他人」だからです。
 現場であなたに要求されるのは、下の【図2】[赤線]の再現です。

 

【図2 演技は他人と他人】

 

 こうして見ると、

 あなたの「他人とのしゃべり方(グレー部分)」が、数ある演じ方のたった1つに過ぎない事がご理解いただけると思います。

 

「あなた」には「あなた」の人生があるように、

「他人」にも他人それぞれの人生があります。
 あなたが「あなたの人生経験の結果」として「あなたらしく」しゃべるようになったように、「他人」も「他人らしく」しゃべっているのです。
 ですから、「他人」である「役」は決して「あなた」のようにしゃべってはいません
 つまり、
「あなたらしく、自分なり」にしゃべっている限り、

「他人」である「役」は決して現れないのです。

 

【図3 全部「自分」で?】

 

 入門者の中には上の【図3】のように誤解している人がうんざりするくらい多くて、片っ端から落ちています。
 彼らは例外無く、
「自分らしく」しゃべれば、それが古今東西あらゆる階層のあらゆる世代のしゃべり方に通用して「役」がしゃべっているように聞こえるのだと、本気で信じ込んでいます。

 

 そりゃあ落ちますよ。
 もし本当に【図3】で良いんだったら「声優養成所」なんていりません。
「自分なりにしゃべる」だけで「演技」になるんだったら、「小学生」だって自分なりに一生懸命しゃべれば「老人」をリアルに演じられるって事になっちゃいます。1億総声優時代。

 

「声優史」60年もあるのにそうならなかったのは、そうじゃないからです。
「役作り」とは「自分がちゃんとしゃべる」という事ではありません。と言うか、そんな事は基礎中の基礎なので、できても誰も誉めてはくれません。
「演技という技術」はそのずっと先にあるんです。

 

-「培養土」としての「自分」-

 

「役作り」とは、自分を土壌にして新たな「他人」を培養する作業です。
 才能ある人はその場で瞬時に「他人」を出現させられますが、才能があんまり無い人は時間が掛かります。だからそれを見越して早めに作業を開始しなくてはなりません。


 そんなときに最も有効な「肥料」として役立つのが「人間関係の知識」です。
 様々な「人間関係」についてのケーススタディさえできていれば、役作りの時間を大幅に短縮する事ができます。

「演技」の仕事で最も重要な勉強が「人間観察」と言われているのはそのためです。

 

 最近、「人間観察」を教えていない養成所が多いんでビックリする時があります。

 だから、以前だったら最初に落とされていたタイプの人たちが、妙に長くい続けられるようになってしまったのかもしれません。

 この仕事は「人間関係」に対する感性が重視されますから、どんなに長く続けても「決定的な気づき」が無い限り永久になれません。「なれるレベル」は以前と少しも変わっていないのですから、「落ちる時期」が後倒しされているだけです。

 そうしたタイプの人たちは、例外無く以下のような感じ方で「他人」を感じています。

 

【図4】

 

 人や関係の配置は【図1】と全く同じなのですが、【図1】とは決定的に違っている点があります。それは一体どこでしょう?

 

AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:

- 注文の通らない料理店 -

 

 店に入ったらいきなり店員が「化粧」をし始めました。
「カレーライス」を注文したら「そうめん」が来て、
 抗議すると店員がニヤニヤして「それが好きで得意なんです」と言いました。
 ……あなたはこの店が好きになれますか?

 

「自由業」の「自由」とは「タイム・カードに縛られない」という程度の意味です。自分が売りたい物だけ売る自由という意味ではありません。もちろん「声優」も例外ではなく、むしろどの仕事よりもクライアント様の要求が直接的で厳しい仕事と言えるでしょう。
 しかし、
「声優養成所」でもまだ1年目くらいだと「自分好みの声優さん」や「素敵な自分像」しか目指さない、上の店みたいな入門者がどっさりいます。

 彼らは興味の無い話は聞き流し、簡単に休み、とにかく一定期間通いさえすれば「声優」の資格がもらえるものと信じきっています。


 一体何がどうなるとこれほど現実から「乖離」してしまうのでしょうか?

 

 

 上の図は「声優になりたいと強く主張する割にはパッとしない入門者」の、声優業に対するイメージです。お察しの通り、肝心の「役」がどこにも見当たりません。


「役」と「声優本人」を混同している彼らは、「自分らしくちゃんと」しゃべれば、その「言葉」が映像を通り抜ける時に自動的に「演技」に変化して視聴者の心をゆさぶるのだと本気で信じています。つまり「役」ではなく「自分の演じ方」を習いに来ているワケです。

 もちろん、

 彼らに対してそう指摘したら即座に「そんな事はありません、私は役を演じています」という反論が返ってくる事でしょう。

 しかし、彼らが「演じている」と言うその様子を観察してみると、後で説明する「トッピング錯誤」「思い浮かべ錯誤」に陥っていて、「演技気分」に浸っているだけである事がすぐに判ります。

 

 何度かお話してきた「外からの情報を受け取る量が少ない人たち」は、「声優」の「台詞」を聞いただけでは、実際の作業の細かさや消費しているパワーを把握する事ができません。

 何回聞いても「ちゃんとしゃべっているなあ」という、漠然とした単純な記憶しか残らないのです。

 だからそれほど大変な事をやっているようには感じられず、「なんか声優への道って意外に短いんじゃないの?」って気になって、100倍という倍率も実感できないまま気軽に何の装備も無く出発してしまうのです。
「丁寧にしゃべるだけでいい」と考えてやってきたんですから、誰もそれ以上の練習をしようなんて思いません。

 

 これから身に着けなくてはならない技術や体力のを、絶対に理解できるように丁寧に説明したら泣きだした男性がいました。自分が「サンダル履きで冬の剣岳に登り始めてしまった愚か者」で、もうすでに遭難していて「死に体」である現実に気がついてしまったからです。

 彼がその後どこでどうしているのかは判りません。

 

 入門者の間違ったイメージを補正して現実に近づけるとこうなります。

 

 

「役」は「他人」です。
 あなたとは全く違う人生を過ごしてきて、まるで違う思考パターンと行動様式を持った、完全に独立した1人分の「人格」です。ただし、今はまだ「設計図(台本)」しかできていません。だからわざわざ「声優」を呼んできて、「脳(思考)」も含めた「肉体」を提供してもらうのです。

 当然、

 上の図で言うと赤の「見られたい自分像」は捨てていただかなくてはなりません。

 水色の「隠したい自分」も含めた「自分の全て」「役」に投入していただきます。

 そうしないと「映像」と重なった時に部品が足りないので「役」が薄く感じられるんです。

 

 初めて「声の仕事」に関わった時、私はそれまで「俳優」として参加した「舞台」や「映画」では感じた事の無い「息苦しさ」を感じました。

 今にして思えば、それは「すでに完成している演技プランや映像に自分が踊らされている」という「操り人形感覚」だったのです。

 

「声優」は、いわゆる「実演家」の仕事の中でもかなり特殊な存在です。
 すでに誰かが完成している「演技」に対して、あらかじめ切り分けておいた自分の「生理」無理やり押し込んでいかなければならないので、そこそこ「演技」ができる人間でもひどい息苦しさを感じる時があります。


 何の経験もない入門者が「声優」としてしゃべっても何の息苦しさも感じません。が、

 その代わりに「役」も現れません。

 それでも「できていない」という現実を認識する事ができないので、彼らが「しまった」と感じる事はありません。

 彼らが何度「違う」と言われても悪びれずに同じ失敗を繰り返すのは、そういう理由があるからです。

 

-「タコ糸」になる? -


 この需要と供給の関係を何かに例えるなら「ヒトと風とタコ)」の関係が一番近いかもしれません。お正月にあげるあの「タコ」です。

 

 

「ディレクター」が、「ストーリー」上で「役」を活かすために「声優」にダメ出しする様子は、

 上の写真のように

「ヒト」が、「風」に乗せて「タコ」を踊らせるために「タコ糸」を操る様子にとても良く似ています。

 

「タコ糸」の役割は?
「ヒト」の手の挙動を「凧」に伝えて、「ヒト」の狙い通りに踊らせる事です。

 もちろん「タコ」も「声優」ででできているのですが、演じている「声優本人」は「演技」で思考ごと「役」に変質してしまっているので、本人固有の思考は「糸一本」分くらいしか残っていません。ほとんど気を失っているようなものです。


 こんなトランス状態で「役」が上手く動くようにコントロールしなくてはならないのですから、同じ「声の仕事」とは言っても「アナウンサー」や「ナレーター」とは随分違います。むしろ「シャーマン」の方がずっと近いと言えるでしょう。

 なぜそんな状態でも「役の反応」を再現できるのでしょう?

 

「行動が身に着いている」からです。

 沢山の「人間関係」や「対応のしかた」が取材済みで、「役」の行動の連続に対してもほぼ自動的に反応できるから、「本人の思考」無しに反射的に行動する事ができるのです。

 それはつまり、他人との「人間関係」や「ドラマの展開」についての知識や経験が豊富な人でないと「声優」は難しいという事です。

 中学を卒業してすぐ「声優養成所」に入った人が使い物にならないのも「社会的無知」のためです。

 

「落ちる志望者」には、この「自分を貸し切る」という感覚が理解できません。
 だって「自分」を世間に認めさせたくて始めたんですから、その「自分」を「役」に捧げ尽くしてしまったら、始めた意味がまるで無くなってしまうじゃないですか?
 彼らが「声優になりたい」と言う割に実際の「声優の作業」を嫌うのはそのせいです。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

- ひとつ屋根の下です -

 

 プロの「声優」が「声優」という単語を口にした時、それは単に「声優」だけを意味しているとは限りません。例えば「声優」の具体的な作業内容の事だったり、時には「声優」の生活の事まで指している場合があります。
 対して、まだ何も知らない入門者が「声優」と言っても、現実的な要素はほとんど含まれていません。彼らが口にする「声優」という単語は、ほとんどの場合、自分の好みに合った「声優さん」数人と、その人たちに混じる事ができた想像上の自分の事だけです。

 

 特に「アニメ声優」を志望している人たちの頭の中は「好みのアニメ作品に対する感想」が大きな割合を占めていて独特の世界観を形成しています。そこは映画「マトリックス」に出てきたような完全にバーチャルな空間で:「現実」の要素はほとんど入ってません。

「独自の世界観」の頂点に君臨しているからでしょうか?

 彼らの言動の多くは微妙に「上から目線」です。

 

 残念ながら「現実世界」の「声優業界」は「世界」と呼べるほどほど大きな領域を占めてはしません。「アニメ」も「吹き替え」も1段上の「映画」という表現ジャンルの一部です。その「映画」は「ドラマ」というジャンルの傘下にあります。

 この ドラマ映画アニメ という「包含関係」が理解できない人は、「声優養成所」に入っても絶対にうまく行きません。

「ドラマ」「登場人物」は全て現実に存在している人間をお手本にして作られていて、「ドラマ」の1ジャンルである「アニメ声優」も全く同じ作り方をしているからです。

 しかも、

 人間1人を丸ごとお手本にするのではありません。

 色々な人間の様々なリアクション切り取って部品化しておいて、それを組み直して新しい人格を作るという、「フランケンシュタイン」のような事をやっているのです。

 それはあまりにも非日常的な作業なので、そんな作業があると予想できている入門者はあまりいません。中は最後まで理解できない人もいます。

 

- 生まれつきパロディ? -

 

「現実」をどうやって「ドラマ」として成立させるか?
 そのために使われる技法は様々で、それらが複雑に絡み合った結果、作品の一つ一つがそれぞれ独自の味わいを持つ事になります。それがいわゆる「作風」です。
「作風」は個々の作品に特化したその作品だけの「テイストを持っています。当然「登場人物」もそのテイストに合わせて組み立てられているので、違うテイストで成立している他の作品に流用する事はできません。

 その「作品」におけるその「キャラクター」の存在感が素晴らしく印象的であればあるほど、その「キャラクター」が他の作品に登場した途端に強烈な「違和感」が生じて「失笑」をかう事になってしまいます。

 それが「パロディ」や「パクリ」の笑いの原理です。

 

 という事は?

 ある「アニメ作品」や、その「登場人物」や、それをを演じた特定の「声優」に対するシンパシーを出発点にして「声優」を目指してしまった人は、最初っから「パロディ」や「パクリ」や「二番煎じ」として笑われる要素をどっさり抱え込んでいるという事です。

 どんな「役」でも自分のあこがれる声優さんのマネしかしない人ってクラスに1人か2人くらいはいますよね? 今は鬱陶しいでしょうけど安心してください。彼らは2年以内に確実に消えてしまいますから。

 

- 努力したら負け? -

 

 全部できる上で表現として「ソレ」を選んでいるのか?
  「ソレ」しかやりたくない(できない)から「ソレ」だけなのか?


「ソレ」と言うのは、例えばある声優さんのマネを止められないとか、「思い込みの強い偏ったしゃべり方」の事です。

 アニメ声優志望者の中にはかなりの確率でそういう人がいます。彼らは共通してある重要な問題を見逃しているのですが、その件は長くなるので後に回します。

 

「個性」とは、

 ストックしてある部品の数量と、それを部品を並べる「並べ方」に現れます。ストックが少なかったり並べ方が下手なほど、でき上がった人格は馬鹿っぽくなります。

 それなのに彼らのほとんどは何とかして「自分」というたった1人分の部品で手っとり早く「表現者」として認められようとします。だから、中にはこんな事を口走る人が出てきてしまうのです。

 

「いえいえ演技だなんてそんな。私はただ声優になりたいだけなんです」

 

 信じられないでしょうが本当にそう宣言してはばからない人がいるんです。

 当然先輩としては「おいおい、それじゃあ声優は演技しないって言うのかい?」と聞き返したくなるのですが、穏やかな気持ちでいたければそんな質問はしない方が無難です。

 なぜなら彼らの多くは本当に「声優は演技しないでいい」と思っているからです。


 なんだかんだ言っても「声優」だけは別だ。
「声優」だけは自分が素直に文章を読み上げただけで「演技」した事になって「アーティスト」扱いしてもらえる……
、と。
 そんな妄想に取り憑かれた人間が、どんなに自分の「一生懸命」や「努力」を訴えたってたかが知れています。

 

 実際問題、彼らの多くは「怠け者」です。
「言われない事はやらない」という常識に浸っていた時間が長すぎるのか、強制したりエサでもぶら下げない限り「予習」「復習」「自主トレ」もしません。
「なぜこの登場人物について何も調べてこなかったのか?」という質問に対して「自分には必要無いと思ったからです」と胸を張って答え返した人がいました。
「ひらがな」の発音の成り立ちを「ローマ字」で説明したら「変態的ですねぇ」と苦笑した人もいます。

 そんな人たちに対して、

「声優」にとって「下調べ」「自主トレ」が「絶対不可避なルーティンワークである現実を、反論の余地が無いくらい徹底的に証明して見せると、教室は一辺に暗くなってしまいます。

 モチベーションはだだ下がり。中には涙ぐんでしまう人までいます。でも、それで正道を歩き始めてくれるんだったら良いんです。みんなが真実に気がついてくれるんだったら私個人が嫌味な講師と嫌われるくらい何でもありません。


 ところが、
 それでも気づかない「強者」がいるわけですよ!

「ルーティンワーク」の必然性を、反論の余地が無いくらい徹底的に証明して見せても絶対に受け入れない。敗戦を信じないで山奥にこもり続けた旧日本軍兵士のような人たち……。
 彼らは現実を知ってもこう考えてかわすのです。


「なるほど、そんなやり方があるのか。さすがプロだ♪
 きっと……
 
自分にも自分なりのやり方があるに違いない。
 焦らず気長に待っていれば、いつかは認めてもらえるに違いない」

 

 ……流石にこれは牽強付会ってモンでしょう。

 いくらなんでも「オンリーワン」を拡大解釈し過ぎです。

 

 このように、自分の心を守るために現実をヌルリとかわしてしまう心理的防衛反応の事を、私は「ウナギ脳」と呼んでいます。
「ウナギ脳」は、「声優のレッスン」のメニューには対策がありません。軽微な「境界性障害」みたいなものですから、改善したければ心の問題の専門家に相談してもらうしかありません。

 

「どうすれば声優になれるでしょうか?」という質問に対してウッカリまともに答えてしまったら、彼らは5分でイラ立ち始めるに違いありません。そしてこう言うでしょう。

「そうじゃないんです、

 お聞きしたいのは手っとり早くスッと上に行ける方法なんです」

 

「声優」という仕事を、

「自分に素直に自然に振る舞って評価される仕事」と解釈している入門者は少なくありません。そういう人たちに取って「声優」とは、せっかく見つけた「最小限の労力で最大の効果を上げられる虫の良いシゴト」のハズだったんです。

「現状のまんまでカッコ良く」が志望動機だから「努力したら負け」なんです。だから「努力しないように努力」して、それを自分で「やる気」と呼んでいるだけなんです。


「自分なりのやり方」だけで「役を演じる」のは不可能です。
 なぜなら「役」は他人だからです。他人は「他人なりのやり方」で活動しているので、どんなに力一杯「自分なり」を叩きつけたって合わないものは合いません。

「声優」の基本スキル「自分」を曲げられる柔らかさです。

 にも関わらず、
 お手軽に「自分らしさ」を叩きつけるだけで済むと思い込んで入門してしまう人が跡を絶たないのはなぜなんでしょ?

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 映像の陰に隠れてしゃべり放題で人々から認められ、求められ……?

 

 他人とのコミュニケーションが苦手で自分を抑え続けていた人がそんな存在を知ったらあこがれるに決まっています。中にはそれがキッカケで「声優になりたい」と考える人が出てくるかもしれません。
 しかし、
 その流れで「声優」を目指した人が実際に「声優」になれる可能性はほとんどありません。なぜならその人が胸に抱いている「声優像」が正確ではないからです。

 

 毎年続々と「声優志望者」が生まれ続ける一方で片っ端から消えてしまうのは、厳しい競争の結果ではありません。ほとんどの「志望者」は「声優」に対して間違ったイメージを抱いていて、現実には存在していない「虚像」を目指してしまうから、みんな自力でコースを飛び出してどこかに消えてしまうんです。

 

 はて……?
 なんで「声優」という仕事にだけ、そんな「痛い思い込み」が発生してしまうのでしょうか?
 それはもちろん「声優」という仕事が外から見えないからです。

 

- もう死んでいる「キャラクター派」-

 

「声優志望者」の中には、「声優」という存在を「キャラクター」と呼ばれる「固定した人物像」でしか理解していない人がかなりいます。
 自分が気に入った「声優さん」の誰かに、「役」も「出演者」も「仕事」も全部ひっくるめてイメージを集約して、自分もそうした「キャラクター」の1タイプとして選ばれるつもりでいるのです。
 これがコースを飛び出してしまう最初のパターンです。

 

 よぉーっく考えてみてください。
 もし「声優」が「キャラクター」だけで成立しているとしたら、あなたはあなたの「キャラクター」が気に入ってもらえなかった時点で「アウト」って事になっちゃうんですよ?
 だってそれしか品物が無いんだから、「いらない」って言われたら引っ込むしかないでしょ?

 

 ちなみに、
 あなたの「キャラクター」を決めるのはあなた自身ではありません。
 あなたが誰かを「こういうキャラクターだ」と判断しているのと同じように、あなたの「キャラクター」はあなたの周囲の人々やマネージャーやディレクターが決定します。「自分はこう言うヒトなんでー」という「自己申請」を受け付ける窓口はありません。そういうシステムなんです。
 だから、
 自分がこう見られたいという「キャラクター」にこだわっている人は、たった数回「査定」や「オーディション」に落ちただけで「見込みが無い」と判断されてしまうんです。

「キャラクター派」の「声優への道」はそこがゴールです。

 

 確かに「声質」や「キャラクター」は重要な前提です。
 しかし、だからと言って「声質」や「キャラクター」だけで所属を決めている「事務所」はどこにもありません。「演技」とは、「声質」と「キャラクター」だけではなく様々な要素が絡み合って成立しているものだからです。

 

「いつか自分のキャラクターを活かせるピッタリの役と出会えるかも……」
 あきらめの悪い「キャラクター信者」の中にはこんな事を口走る人もいます。
 彼らに取って「演技」とは一生懸命文章を読み上げる事であり、
「チャンスを待つ」とは自分にピッタリの「役」との出会いを待つという事です。
 それ以上の事をやるつもりはありません。どこかで勘違いをしてしまって、ただ座して待つのが「声優」というものだと思い込んでしまっているのです。
 そんな勘違いしている人と「声優」の話をしても水掛け論になるばかりなので、ちょっと別の分野を例にして考えてみましょう。

 

- もしも「ピアノ」が作れたら -

 

 例えば「トイ・ピアノ」をどんなに改造したって「スタインウェイ」の音は出せません。
 表現の世界には「持って生まれた資質の有無」という価値基準があって、その差はどんなに努力しても埋められません。冷たいようですがそれは逃れようの無い現実です。

 ただ、音楽の世界というのは楽器の音質だけで決まるものではありません。

 例えば、

 世界最高のピアニストが弾く「トイ・ピアノ」と、
 子供がいたずらして叩く「スタインウェイ」を比べるのならどうでしょうか?

 

「声優業」にも、単に「ボイス・キャラクター」だけでは決まらない要素が沢山あります。視聴者の段階でその点に気づけなかった人は、たとえ教えてもらってもなかなか身に付かないものです。

 

 下の図を見てください。

 繊細な「ピアノ」のメロディが鑑賞者の耳に届くまでには、これだけの人員や技術が投入されています。「楽器」の良し悪しだけが決定的要素というワケではありません,。それなのに……

 


 一般的な評価の対照になるのは「楽曲」「演奏品質」「録音品質」の組み合わせくらいです。なぜでしょう?

 それは、範囲が広すぎるからです。

 

 どんなにピアノの響きに惚れ込んでいる人でも、これほど多岐に渡る要素の組み合わせを一々検証して「ベスト」を追求する事はできません。一般の「鑑賞者」にはそうした「プロセス」の代表として最終段階の「楽曲」と「演奏家」の組み合わせを選ぶくらいがせいぜいです。でも、それで十分なんです。
「音楽を楽しむ側」にいるだけだったら、それでも十分に「マニアック」だとは思いませんか?

 さて、
 それではこの流れを「声優業」に当てはめてみましょう。

 

 

「声優」は「音を出す」という意味では「ピアノ」そのものです。しかしその「楽器」を演奏するという意味では優れた「演奏者」でもあります。
「台詞をしゃべる」というのは渡された「歌詞」から「作曲」するようなものだし、そのためには好き嫌いを捨てた鑑賞努力「調律センス」を磨いておかなくてはなりません。そもそも「楽器」を組み立てる材料は自力でトレーニングして調達して……

 

 ……このように、

「声優」は「ピアノの専門家」が数人がかりで行っている「プロセス(工程)」をたった1人で担わなくてはなりません。「鑑賞する愛好家」ではなく、「全て整えてお届けする側」回るんですから、どれかをやった事で代表して全部やった事にするというワケには行かなくなります。

 

 

 そうなんです。「プロセス」とは全体で機能するものなんです。

 ですからどんなに短い台詞でも、全「プロセス」を一辺に稼働して取り組まないと決して「声優」がしゃべっているようにはならないんです。

 

 入門者の中には初心者向けの「簡単な役」とか「簡単な台詞」があると思い込んでいる人がかなりいます。が、そんなモノはありません。なぜなら、

「ドラマ」の世界は「作り物」だからです。

「作られた世界」には意味のない存在というモノがありません。何しろ「ゼロ」から書き上げられているんですから、劇中の全ての人物には必ず「そこに登場する理由」があります。たった一文字でもその言葉には必ず何らかの役割があるのです。
 という事は?


 たとえあなたの台詞がたった一文字だったとしても、その一文字には間違いなく何らかの「理由」があります。

 あなたは「スタジオに入る前」に、その一文字の「理由」を感じさせられるように、少なくとも数年やっている人たちと同等の表現方法がを持っていなくてはならないのです。

 そうでないと1人だけ見劣りしちゃって、いつまで経っても「OK」がもらえません。

 

 考えてください。
「釘を打つのが好き」と言っているだけの人間を「大工」と呼べますか?
「キャベツを売りたいんです」と言う人間を「魚屋」が雇いますか?

「キャラクター派」の入門者のほとんどは「トイ・ピアノをいたずらするだけの子供」です。確かに「真剣」で「まじめ」なんですがその「真剣さ」が子供サイズなんです。だから一歩も前に進めないんです。

 頭の中で「自分がスタインウェイになった想像図」を描いているだけでは「声優」のような声を出せるようにはなりません。「演奏家」や「調律師」として自分で自分を鍛え上げていく自主性が無い人は何年やっても素人のまんまです。

 

「声優になりたい」と言う人間が最初に問われるのは「キャラクター」ではありません。

 一通りできるかどうかです。

「しゃべりで食っていく」とか「言葉を操る」とか、

 自分が美味しいと感じる所しか食べたくないという「子供のわがまま」が通ると考えている限り、あなたの時計が「声優」としての時を刻み始める事はありません。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 前回からだいぶ時間が空いてしまったので少しまとめておきましょう。

 

「声優」というのは「他人と他人との関わり合い」再構成して他人に聴かせる仕事ですから、「障害」や「心の病」で他人との関わり合いが上手く行かなくなっている人にはできません。たとえ「障害」や「心の病」でなくとも、似たような「心の偏り」を抱えている人には不向きです。

 

- 心の偏り -

 

「心の偏り」とは?
 自分の「考え」や「考え方(好み)」にこだわりすぎて、周囲の人々や一般社会と「価値観」が少しズレている状態の事です。いわゆる「中二病」「高二病」などもここに含まれます。視覚的に最も判りやすい例として上げられるのは「ごみ屋敷の主」でしょう。

 

 ズレている人はズレた状態が当たり前になっているので、相当ズレていても自分で自分のズレを感じる事はありません。日常生活に支障が出たり周囲に迷惑が掛かるようほどズレてしまったらそれはもう「病」なのですが、「偏り」と「病」の境目は専門家ですら診断を迷うほど広くて曖昧です。

「ごみ屋敷の主」にしても、何らかの病の「症状」として研究され始めたのはここ数年の事です。「心の偏り」に囚われた人たちとは「心の病」の入り口の前に立っている人であり、入り口の先に進むか退くかはその人自身や周囲の人々次第、という事です。

 

「心の偏り」に囚われた人たちは「自分の好み」でない考えを受け入れるのが苦手です。

 彼らは外から「新しい情報」が入ってくるたびになじむかなじまないかを検証して、「好み」に合わない場合はスルーしたり拒絶したりしてしまいます。
 そんな検証で時間を食っている分「リアクション」が遅くなったりしているのですが、その辺はあんまり気にしません。「自分のスピード」で思考している時間があまりにも長いので、外界とテンポが合わない事が問題として感じられなくなっているのです。

 

「心の偏り」に囚われた人が誰かと話をしても、自分の好みの範囲の中でしか受け答えできないので話題が広がりません。リアクションも一々遅いので、下手すると変に食い違って「誤解」が生まれたりします。「誤解」って言うくらいですからあんまり良い印象ではありません。

 

 いくら「心の偏り」に囚われているとは言え人間は人間です。

「社会的動物」である事に変わりはありませんから当然「周囲の評価」は気になります。で、あまりにも「誤解」される事が多いようだと流石に「自分に対する自信」が揺らいで、ちょっと「不安」になったりもします。

 

「不安」は「防衛本能」を刺激し、「防衛本能」は「戦闘態勢」のスイッチを入れます。

「不安」が解消されない限りスイッチは切れませんから、微妙に情緒不安定な状態が続く事になります。

 例えば小さな事が気になってでしょうがないとか、些細な事でムカついたりという精神状態が日常になってしまうのです。

 

 でも、そうした感情の浮き沈みが直接誰かにぶつけられる事はありません。
 他人の誤解が原因で「不安」になってしまった彼らは「誤解」される事を嫌います。だから「悪印象」を招きそうな感情は表に出る前に強いブレーキが掛かってしまうのです。

 たとえどんなに激しい怒りの炎が心の中で吹き上げていようとも、ただちにそれを押さえ込んで、何事も無かったかのように振る舞います。

 

 こういう場合のブレーキとして良く使われるのが「侮蔑」です。
 例えば、自分の社会性が未熟で他人との「会話」が上手く行かなかったとしても、
「自分の考えは凡人には理解できない」と上から目線で見下ろしてしまえば、「優越感」というバリアで自分の心を守る事ができるからです。

 だから、「心の偏り」を抱えた人は激しい議論に加わって自らを危険にさらすような事はしません。「一歩離れた所でシニカルに」という態度が彼らの周囲との関わり方の基本になります。

 自分の優位を示せない話に興味が持てず、遠い世界の出来事としか感じられない彼らは、ますます世間とズレていきます。
 

 それでも、心のブレを完全に抑え込めるわけではありません。心の中ではいつも「そうじゃないんだ」という「不満」の熱風が吹き荒れています。いらだってはいらだちを押さえ込み、またいらだっては押さえ込み、押さえ込むたびにストレスが蓄積されて……

 

 ……さて、
 そんな風に自分を抑え込み続けている人が「自由にしゃべっている人」を見たらどう感じるでしょうか? 例えば、映像の陰に隠れて言いたい放題しゃべって、それなのにみんなから称賛してもらえるようなシゴトを見かけてしまったら……?

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

-「線」は無い -

 

「声優」は「他人」の感情の動きを「別の他人」に伝えるのが仕事なので、「自分の思考」で頭が一杯になってしまう「発達障害」の人には向いていません。たとえ「障害者」でなくても「自分の願望」「自分の計画」で頭が一杯になりやすい人には不向きです。
 そういう性格面から考えると「アダルト・チルドレン」もかなり厳しいでしょう。

 

- アダルト・チルドレン -

 

「アダルト・チルドレン」とは、
「アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー(adult children of dysfunctional family)の通称です。
 簡単にまとめると、
「親がちゃんとしていない不完全な家庭で子供時代を過ごした人間は物事の感じ方にクセがあって、対人関係が上手くいかない事が多い」という傾向の事です。

「…チルドレン」という語尾に引っ張られて「未成年の問題」だと思い込んでいる人が多いのですが、これは成人の心の問題です。50代でも70代でも「アダルトチルドレン」はいます。


「不完全な家庭」とは?
 最初は「親」が「アルコール中毒」で「親の義務」を果たせない家庭の事を指していたのですが、その後の研究で「原因」になるのは「アル中」だけではないという事が判ってきました。

 現在では「親が子供の心をむしばんでいる家庭全般」 が対象になっています。ここ数年は「長女を束縛しすぎる母親」が問題視され、様々なメディアで取り上げられていました。

 

 どんな人間でも結婚する事はできますし、肉体的な問題さえなければ子供を作る事もできます。が、だからと言ってどんな人間でも「幸せな家庭」を築けるとは限りません。

 心の奥に「闇」を抱えた人間は「依存」に走りやすく、時には「子供の人生」まで使って自分の不足を補おうとしてしまいます。

「子は親に従うもの」という儒教の影響か、「親の品質を疑う」という行為は長い間タブー視されてきました。しかし社会構造の変化と共に「抑圧された家族の病」として「毒親」が注目を集め始め、今では完全に認知されつつあります。

「アダルトチルドレン」の向こう側にはほぼ間違いなく「毒親」が存在しています。


「毒親」であるかどうかのキーワードは「責任逃れ」です。
「毒親」のほとんどは「世渡りが下手」で、慢性的に息苦しさを感じています。その息苦しさを忘れるために買い物や酒や薬物に依存したり、あらゆる屁理屈を使って思い通りにならない現実を自分以外の何か(誰か)のせいにしてしまうのです。
 ところが、
 自分一人で考えているだけだと屁理屈は屁理屈のままですから、自分自身を納得させる事ができません。誰かの賛同が欲しくなってきます。それで、「自分」を絶対的に認めざるをえない「幼い我が子」を「自由に操れる賛同者」として利用してしまうのです。


 もっとも有名で判りやすいのは「あなたたちがいるから離婚できない」という言葉でしょう。離婚を迷っている母親が子供にこぼしがちな愚痴ですが、この場合本当に問題なのは、もちろん言った本人の生活力の低さです。しかし、心弱い母親はその不満を「子供の存在」に責任転嫁してしまうのです。

 庇護者であり指導者である親から「あなたたちが……」と聞かされ続けた子供は、言った親の意図とは関係なく、自分が家庭内の全ての問題の元凶であるかのように錯覚して、子供には重すぎる「大人サイズ」の「義務感」や「プレッシャー」を背負わされる格好になります。

「理由の無い後ろめたさ」と共に成長した子供は、やがて、自分に自信の持てない「臆病な大人」として育ち、いわゆる「生きていてごめんなさい」と言うタイプになってしまうのです。

 

 そんな過去を持つ「アダルトチルドレン」は、基本的に「臆病」です。

 親に「同調する」事を強いられてきた経験から「ルール」に準じたがる人が多く、違反や変更を嫌います。
 また、小さな変化でも動揺しやすいのでポジティブ状態とネガティブ状態の落差が大きく、「沸点が低い」とか、「どこに地雷があるか判らない」といったタイプになります。
 これを「対人関係」に置き換えると?
 上下関係を気にしやすく、すぐ敵か味方かという見方に偏る性格、という事になります。初対面時の「人当たり」は決して悪くないのですが、相手が自分より下だと見るや、急に「傲慢」に振る舞ったりする傾向があります。

 

 こういうタイプは「声優」を目指すにしても、「どうすれば声優になれるか?」という単純な「コツ(ルール)」ばかり欲しがるので、なかなかレッスンが進みません。

 

- 向かない理由 -

 

 自分の存在に対する不安から芸術的な表現の世界に進む人も多く、中には独自の表現で成功している方もいらっしゃいます。しかし、

「バンド」「劇団」など、複数の人間が関わり合って1つの作品を作り上げていくジャンルには向いていません。

 

「私は間違っていない!
 正論を吐いているだけなのになぜそれが通らない?!」

 

「アダルトチルドレン」がこうした怒りに囚われてしまうと、中々自力で鎮静する事ができません。自分に自信が無いので、「悪者扱い」されたり「ないがしろにされる」事を死ぬほど恐れているからです。この過敏さがあるために共同作業の現場で「もめ事」を起こしやすく、「メンド臭い人」と見られやすいのです。
 そうです。

「声優」が働くスタジオも共同作業の場です。ですからあんまり心の振り幅が大きい人は好かれません。

 

「視聴者」が「声優」の作業現場を見る機会はありませんから、世の中の多くの人々は自分の想像で現実の声優の作業を歪曲して想像しています。

「声優志望者」もほとんどがそうです。


 年若い「アダルトチルドレン」が「声優」という存在を知ると、

「映像の陰に隠れて渡された文章を読み上げるだけで大勢の人々が共感している」

 というイメージを膨らませてしまいがちなのですが、そのイメージは「ドラマ」という大きな流れに我が身をゆだねなくてはならない「声優」の実態とは大きくかけ離れています。

 

 流れの一部になる「声優」ではなく、流れそのものを単独で創る「作家」や「ディレクター」なら何とかなるかもしれません。まれに、「アダルトチルドレン」の頑固さが功を奏して強力な「リーダーシップ」につながる場合があるからです。

 ところが、「アダルトチルドレン」は一方では失敗して責められる事をひどく恐れているので「リーダーの責任」を嫌います。ですから残念ながらそちらの方に進む人はあまり出ないようです。

 

-「壁」が見えていない -

 

「アダルトチルドレン」は、家庭環境から生み出される「後天的な発達障害」みたいなものなのではないかと私は考えています。原因が「先天的な変異」か「成長環境」かという違いだけで、「自分が受け入れてもらえない孤立感」に苦しむという症状は一致しているからです。


「自分が受け入れてもらえる」事を常に渇望し続けている人の目から見ると、「声優」とは映像の陰に隠れて書かれた文章を読み上げるだけで人々から崇拝される、実に効率の良い仕事に感じられるかもしれません。
 でも、思い出してください。

 

 あなたは今までの人生で「文章を読み上げている人」を何人目撃しましたか?
 あなたの目には、そんなに「文章を読み上げているだけの人」が格好良く見えましたか?
「声優」がステキに感じられたのだとしたら、それは彼らが映像の向こう側で「文章を読み上げる」以上の事をやっているからだとは思いませんか?
 そんな「スゴい技」が、
 たった数ヶ月、週に1度や2度の教室に通って誰かの話を聞いただけでスルンと身につくなんて、あなた本当に信じているのですか……?

 

 ……もし信じているのなら、あなたは相当病んでいます。
 残念な現実ですが、あなたには声優を目指す前に、「声優を目指すための準備」が必要です。

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
-「下手」ではなく「障害」?  -

「発達障害」の1つである「アスペルガー症候群」には、人それぞれの「顔の違い」は判るのに、その顔に浮かぶ「表情の変化」が認識できない という症状 があるそうです。
 それを知った時、私は改めて 森山さんの事 を思い出しました。
 もしかすると森山さんは、たまたまあの時だけ人物の表情を見落としたのではなく、元々表情の変化が認識できない「障害」だったのかもしれません。
 もしそうなら「台詞」が演説調だった事も、仲間から罵倒されるほど劇団内で浮いていた事もすんなりと納得できます。全ては「発達障害」が元で起こりやすい出来事ばかりだからです。

 そう言えば、森山さんは「しゃべりだすと止まらない人」でした。
「はい」か「いいえ」だけ答えてくれれれば良い所で必ず早口で長い説明が始まってしまうので、波風立たないようにやんわりと止めるのにいつも苦労していました。

-「声優」のシゴト -

 ここでちょっと「声優の仕事」を再確認しておきましょう。

★「役」を与えられた「声優」は、まず「台本」や「映像」から全体の流れを把握して、自分の「出演シーン」の役割を考えます。
 シーン内での「役の心の動き「文節どうしの関係」「表情の変化」に表れますから、場合によっては「文節単位」で台詞を読み砕いておかなくてはなりません。

★「台詞」を読む時には、基本的に書かれてある「句読点」に忠実に従って読みます。映像の人物の「口」も「句読点」で開いたり閉じたりしていますから、従わなければ永久に合いません。
「アニメ」の収録では、「口部分」の動画が未完成で、ほとんどの場合「ボールド」と呼ばれるマークに合わせてしゃべらなくてはならないのですが、この「ボールド」も「句読点」には忠実です。
 ちなみにこれは「句読点だから切る」というルールではなく、音楽の「休符」と同じように、表現の一部として「句読点」にも命を与えておくという事です。

★「しゃべるスピード」は「役」や「シーン」によってかなり変わります。モノによっては「単語」ごとにスピードを変えなくてはならない場合もあります。その変化に追従するためには「プラスマイナス1.5倍」くらいの範囲でしゃべるスピードを変えられて、どのスピードでも雰囲気を変えないという技術が必要です。

★「本番」では、出番のほんの少し前から読み取った「感情」を盛り上げておきます。
「役の感情の変化」はしゃべる時に吐き出される「息の流量」でコントロールしますから、当然、しゃべりながら吐き出す「息の流量」をコントロールできないと仕事になりません。

-「最後の仕上げ」のせい? -

 ……こうして並べたらご理解いただけるでしょうか?
「声優」は、どんな小さな「役」でもこうした作業を片っ端から片づけて、結構強引に「役」を出現させているのです。
 でも、
 そんな七転八倒ぶりが見えてしまったら「視聴者」の皆さんは純粋に「ドラマ」を楽しむ事ができません。ですから「声優」は、最後の最後に必ずある「仕上げ」をしています。
 ケロッと演っているように振る舞うのです。

 オンエアや販売品で鑑賞されている「演技」は、「選ばれた結果」です。
 年間90%以上の屍の山を這い登って「出演」という場所を勝ち得た「声優」たちが、ある時は「NG」という返品に耐えつつ、試行錯誤の末に生み出した「手工芸品」です。
 しかし、
 そんな裏話は視聴者にもお客さんにも全く関係ありません。重要なのはあくまで商品全体の価値です。
 だから「声優」は、「視聴者」に「声優」という存在を意識させないように、まるで自分が「役」そのもので、たった1人が自然にしゃべっているように見せかけているのです。

- なりたくなりやすい -

「発達障害」やその傾向を持つ人たちが「会話」が下手なのは、頭の中が常に「自分の考え」や「欲求」でフル回転しているからです。
 自分が考えるのに大忙しなので、肝心な部分を聞き逃したり、サラッと流してほしい所で変に引っかかったりしてしまうから、「会話」の流れが切れてしまうのです。
 中にはそれで怒られる事を恐れてしゃべらなくなってしまう人もいるくらいです。

 でもしゃべりたい!
 だって「自分」は正しいと思う事を言っているだけなんだから。
 本当は自分の考えを一方的にガンガン語りたい

 ところで、「発達障害」やその傾向を持つ人たちは、
自分の考えで脳がフル回転しているために、どうしても外部からの情報の取り込みが遅れます。
「演技」と言う超絶技巧の存在も、ほぼ確実に見逃しています。
 そうして、「声優」がさりげなさそうに仕上げた最終的な結果だけをとらえて、
「演技とか偉そうに言ってるけど、要は自分らしくしゃべれば良いんだろう」と、
 自分が「その場所」に立てる可能性を拡大解釈してしまうのです。

「映像」の陰に隠れて文章を読み上げるだけで人々の称賛を得られるシゴト……?
 彼らにとっては「夢」がそのまま形になったような「理想の職業」です。
 だから、
「発達障害」やその傾向を持つ人たちは、
 普通の人の何倍も「声優になりたくなりやすい」のです。

 という事は?
「声優養成所」「声優科」という場所は、
「発達障害」やその傾向を持った人たちが、とても集まりやすいという事です。

 現在「発達障害」の発現率は人口の3%前後と言われています。自覚できずに潜在しているケースを含めたらもう少し多くなるかもしれません。
 しかし、もし「声優養成所」や「声優科」で同じ調査をしたら、
 世間の標準をはるかに上回る数字が出るのではないかと私は予想しています。

 彼らの頭の中に住んでいる「セイユウ」は「ネッシー」や「ユニコーン」と同じ、この世には存在していない 空想上の生物 です。
 だから、
 教室で現実の声優」が本当にやっているコトやってもらうと、ほとんどの「入門者」が「何でこんな事するんだろう?」と不思議がり、嫌がり、戸惑っている内に落ちて消えてしまいます。

 他人の気持ちを想像できない「発達障害」やその傾向を持った人たちにとって、「映像」や「文章」から他人の気持ちを汲み取る「声優」という仕事は鬼門です。「向き不向き」を考えるどころではありません。
 絶対に選んではならない職業なのです
 
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
 いくら私が「心の病」について勉強したと言ってもしょせんは「ちょっと詳しい素人」に過ぎません。ですからこの先しばらくは素人の与太話として読み飛ばしていただいても結構です。そのつもりであんまり肩肘張らずに書き散らしておこうと思います。
 とにかく話を始めておかないと、いざという時に間に合いません。

- 原因の原因の… -

「外から取り込める情報量が少ない」という「MS志望者」の症状は、
 もしかすると「学習障害」かもしれません。
「学習障害」とは「発達障害」の1つで、ある特定の事柄が覚えにくい「障害」です。

「そんな大げさな」と思う方は、
 以前お話した「できない声優志望者」の「できなさ」← を見てから、
 こちらのページの ← 「話す領域」「読む領域」のチェック・リストと比べてみてください。
 ほとんど「そのもの」だとは思いませんか?

「発達障害」とは、
「脳」の「前頭葉」の成長時に何らかの「アンバランス」が生じて、外界(社会)との情報のやり取りが上手く行かなくなってしまう「障害」の事です。
「アンバランス」の発生する原因が判っていないので根本的な治療法は見つかっていません。
 かつては「ADHD」「アスペルガー症候群」「自閉症」などの障害が別個に扱われていたのですが、「前頭葉の発達のアンバランス」という点で共通している事が判って以来、「発達障害」という総称でまとめられるようになったそうです。各障害の名前に一貫性が無いのはそのせいです。

 それぞれの「障害」について、詳しくは こちら← をご覧ください。
 よろしかったら こちら← もどうぞ。

「学習障害」は、基本的兆候とし「発達障害」全般に見られる症状です。
 つまり、上のリンク先の「症例リスト」への適合率があまりにも高い人は、「声優」になるための才能を考える以前に「発達障害の可能性を疑う必要があるという事です。

-「自覚できない」という症状 -

 知能指数が70以下の重度の「発達障害」は「知的障害」と呼ばれます。
「知的障害」の場合は考える事も学ぶ事も難しいのですが、その分「症状」が判りやすいので、たいていは周囲が「障害」の存在に気がついて早めに対処が始まります。
 ところが、
「発達障害者」の多くは知能指数70以上で、「考える力」は普通なのです。
「コミュニケーション能力」に問題はあるものの、勉強や仕事はそれなりできますから、たとえ「障害」があっても周囲は気がつかず、本人も自覚していない場合が多いのです。
「コミュニケーション」が上手くできない事から「いじめ」「鬱病」などが発生して、それで初めて「障害」の存在が知れるというケースも多いそうです。

 まあ、
 普通は誰だって「発達障害」なんていかにも「キチガイ」っぽいラベルを貼られるのは真っ平でしょう。多少の問題がある程度だったら目をつむってしまいたくなる気持ちも判らなくはありません。が、しかし、
 どんなに現実を無視しようとしても、人間どうしのコミュニケーションに関わる
「障害」がある以上、学校や職場など、今いる環境に居心地の悪さを感じてしまう状態は避けられません
 特に、
 みんなが「面白い」と言っている事を面白く感じられなかったり、
 逆に、自分が面白いと思っても誰にも共感してもらえないとか、そういう時に感じる「疎外感」は結構辛いものです。
 もし、その場所にいる事が辛ければ、そこから飛び出したくもなるでしょう。
 そんな時に自分の気持ちを代弁してくれるような作品と出会ったら……?

 ここで、前回の後半の話 を思い出してください。
「他人とのコミュニケーション能力」に「障害」があって、現実の人間関係を辛く感じてしまうような人でも、「アニメ」というメディアを通してだったら理解できてしまう場合があります。
「文章説明」では理解できない事柄でも、イラスト図表などの「画像」や、「動画」だったら理解できるという例があるのです。

 今まで理解できなかった「人間関係の複雑さ」が理解できたら、恐らく推理小説で「謎」が解き明かされた時のような快感を感じる事でしょう。それまで理解できていなかった分、「感動」は普通の人より大きく、深くハマり込んでしまう可能性も高くなります。
 で、
 その「発達障害」に起因して生まれた
快感や感動動機にして「声優」を目指してしまったら?
 ……待っているのはこの上なく悲惨な結果だけです。

-「そのまま」ではない -

「アニメ」は商品です。
 ですからできるだけ沢山売れるよう、多くの人に理解しやすく、退屈しないように作られています。

「理解しやすく」と言うのは、
 複雑な現実を咀嚼して、エッセンスだけを抽出して、再構成し、
 音楽などの補助的な要素を付加して情緒的に同調しやすくする、という事です。

「退屈させない」ためには、
 無駄を省いて編集し、現実よりも短い時間で楽しめるよう加工します。

「現実世界」と同じ時間で進行する「ドラマ」はありません。
 全ての「ドラマ」は「現実の出来事」を徹底的に煮詰めて再構成されています
 つまり
「圧縮」されているんです。

「現実世界」よりもずっと「圧縮」されて濃くなっている「ドラマの世界では、普通にしゃべっても「言葉の内容」「役の気持ち」は伝わりません。
 ちょっと声を大きくしたくらいでは駄目です。
 一生懸命しゃべっても、丁寧にしゃべっても、急いでしゃべっても、現実世界の自分の思考や感覚の延長線上でしゃべっている限り通用しません。
「映像」や「進行」が速くて濃いので、日常感覚のままでは薄く」感じられて、「映像」と馴染まないんで
「圧縮」されたドラマの世界で「役」の主張をしっかりと通したければ、日常会話よりもはるかに密度の高い「強い言語」がを体得しておく必要があります。
 それが「台詞」です。

-「解凍」できるか? -

「台詞」「パソコンの圧縮ファイル」のような物、と考えると良いかもしれません。
「台本」に書かれてあるままだとヒトには理解できない
ので、
「解凍」してやらなくてはならないのです
台詞」を解凍して使える状態に戻す事を、「演技の世界では「解釈する」と言っています。

「台詞を解釈する」ためには、
 人間どうしの関わり合い経験知識、それに、日本人が日本語で実演している様子などの「記憶」が必要です。
 そうした莫大な「コミュニケーション情報」に照らし合わせて、その役独自のしゃべり方」を組み立てていくワケです

個性」とはパッと見の「ルックス」や「キャラクター」だと思われがちですが、うした要素は表面的な「ラベル」や「包み紙」に過ぎません。
「声優」の個性は、
他人とのコミュニケーションの記憶の蓄積」と、その料理の仕方で判断されます

「そんな努力をしなくても、台本を読み上げるだけで演技した事になるのが声優」だと考えている人は、
 声優の基本スキルである「観察力」がすでに足りていません。足りなさの度合いによっては、それだけで「才能が無い」と言い切っても良いくらいです。
 才能の無い人ほど現実から目をそらして必死にその場しのぎの「一生懸命」や「丁寧」で切り抜けようとするのですが、「コミュニケーション情報」の蓄積の無い人が、現場でどんなに七転八倒しても何も出てきません。

 強い「台詞」をしゃべれるようになるための情報量は、1年や2年の養成期間では教え切れないくらい膨大です。ですから「声優養成所」も「声優科」もその点は最初からあきらめています。それでどうしても「すでに蓄積のある人」を優先して選抜するシステムになってしまうのです。

「発達障害」を抱えている人やその傾向がある人は、人間どうしのコミュニケーションに関する情報が決定的に不足しています。
 しかも、
「想像力」が「自分」というカゴの中で完結してしまいやすいため、
「観る」という「自分の中で完結する行動」と、「観せる」という「対外行動」の違いが認識できません。
「自分がやっているトコロ」を想像しながらやれば「できているハズだ」と考えてしまいます。
「声優」というポジションに立ちさえすれば、
ちゃんと観てもらえる自分、ちゃんと話を聞いてもらえる自分になれると妄想し、そのイメージに振り回されているだけなのです。
 だから、実際にやっている通りにやって見せるとうろたえて、オロオロと迷走し始めてしまうのです。

 今の今まで自分の気持ちを上手く伝えられなかった人物が、

 たった2年足らず、1週間に数回の授業を受けただけで、
 会った事もない他人の気持ちを代弁してあげられるほどの情報を習得できるという確率は、一体どれほどのモノでしょう?

 その確率の非現実的な低さを知りながら「目指す事」を勧めるのは、
 かなり犯罪的な行為であるとは思いませんか?
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
-「やる気」の中味 -

 その後の面談で安藤さんは声優の「Aさん」のファンである事が判りました。
 と言うよりも、あるアニメ作品で「Aさん」が演じた「F」というキャラクターが大好きで、「Fのような役」がやりたくて「声優」を目指す事にしたのだそうです。
 それを聞いてようやく彼のヘナヘナしたしゃべり方の正体が判りました。
 声優の「Aさん」の真似をしていたのです。

 本当は「F」のようになりたいのだけれど、方法が判らず、だったら「F」を演じた「Aさん」の真似をしていれば近づけるんじゃないかと思って、ずっと真似し続けていたのだそうです。
 ……数年間、あらゆる「役」でです。

 あらためて安藤さんのレッスンを振り返ってみると……
 いつも時間ギリギリに来て、着替えている間に開始時間を過ぎたりしていました。忘れ物が多く、実習で使う台本を忘れた事もあります。発声練習ではちょっと目を離したスキに声量を落としたりと、とても「やる気」のある状態には見えませんでした。
 ところが、
 そんな状態であるにも関わらず、彼は平然と「やる気はあります!」と豪語する事ができたのです。自分では「自分はやる気がある」と信じ切っていたからです。

 もちろんその「やる気」は本来の意味での「やる気」ではありません。
「Fのように見られたらいいなと願う視聴者の憧れの強さ」を「やる気」と言い換えて、自分の「選り好み」を正当化していただけです。
 だから、
「F」以外の誰かの空白を埋める課題」なんて、安藤さんにはやる理由すら判りませんでした。それで何も思いつかず、しかたなく身の回りで起きた自分の出来事を話してしまったのです。

- 見えない壁 -

 安藤さんはかなりの数の「アニメ」を観ていたようですが、肝心の「声優」が行っている作業は把握できていませんでした。また、自分の発音が人と違う点にも気がついていませんでした。
 野村さんも、自分の日本語の未熟さに気がついていませんでした。
 森山さんに至っては「演技とは他人を演じる事」という基本中の基本が見えていませんでした。
 こうした「MS志望者」の様子から、ある共通した可能性が考えられます。

「MS志望者」は、
「一定時間内に外部から受け取れる情報量が普通の人よりも少ない」のです。
 そう考えると「MS志望者」の問題点の多くがすんなりと説明できます。

 1回で取り込める情報量が少ないとすると、取り込む量を制限しなくてはなりません。当然、取り込まれる情報は無意識の内に「選別」されます。しかし、無意識の「選別」はどうしても「好み」に傾きがちですから、脳内には「好み」の情報ばかりが増えていく事になります。
「好み」に偏って蓄積された情報は、それ自体がフィルターとして働きますから、「好き嫌い」はより一層強化されます。

 好き嫌いがあまりにも強いと視野が狭くなりがちで、「先入観」に囚われやすくもなります。
 一旦1つの考えに囚われると、たとえその考えが間違っていても簡単
には捨てられなくなってしまうです。

 自分の発言や行動に対する評価、つまり「フィードバック」も情報の1つですから受け止めにくくなるでしょう。 対人関係で言うと、いわゆる「空気が読めない」とか「独りよがり」などと言われやすい状態になります。
 さらに、「自分のルールにこだわる割りには他人や全体のルールになじめない」となると、微妙に孤立しやすく何かと居心地の悪い思いをする事が多くなってきます。

 ……こうして「MS」の人たちは慢性的に、どこかこことは違う場所を求め続けるようになります。
 彼らは、
 もし自分が言いたい事を自在に話して、それで認めてもらえる場所があったなら、すぐにでも飛び込んでいきたいという「衝動」に駆られ続けているのです。

- 伝わる方法 -

「ミラージュ・シンドローム」の人間にとって「現実社会」はあまりにも複雑です。
「情報」が多すぎて、短い時間ではとても把握できません。
 特に「他人の気持ち」なんて、表からは見えない上に常に揺れ動いているんですから、とてもじゃないけど「察する」なんて不可能です。
 それでは、
 このような「MS」の人たちに、他人の気持ちを伝えるためにはどうすれば良いのでしょうか?

 まず、1度に取り込める情報量が少ないのですから、伝える内容はできるだけ手短に判りやすく整理しておいた方が良いでしょう。できれば何回かに分けた方が良いかもしれません。
 使う言葉には強弱や山谷を付けて、より伝わりやすくなるよう工夫します。
 そうだ!
 なんなら情報を整理してイラストにすればもっと判りやすくなるかもしれません。しかもそのイラストが現実のように動いてくれたら……
 ……そうです。「アニメ」です。「アニメ」という判りやすい形にして説明すれば良いのです。
 そうすれば、「MS」の人でも複雑な事柄が把握しやすくなって理解する事ができますし、他人の気持ちに「感情移入」する事だってできるようになります。

「アニメ」というメディアと出会って、生まれて初めて外界の出来事や他人の気持ちが理解できた「MS」の心は喜びにふるえます。本来「社会的動物」である人間にとって他人と共鳴し合うのはとても心地よい事だからです。
 特に、それまで居た場所で何となく居心地の悪い思いをしていたら、こんな風に希望を膨らませてしまうかもしれません。
「アニメならこんなに理解できる。
 アニメの世界こそ私の生きる世界に違いない!」
 しかし、
 流石に人間が動画に飛び込む事はできません。だったら……?

「声優」です。

「キャラクター」を演じている「声優」になれば良いんです。

 何もかもお膳立てされた映像の「裏側」にいれば、他人に突っ込まれる心配もありません。
 なんたって「台詞」です。絶対的に一方通行な発言力です。今まで自分の意見を却下してきた人たちも、流石に「オンエア」に口答えする事はできないでしょう。
「演技」とはどうする事かを知らなくても、しゃべるだけなんですから、
 書かれている通りに読み上げれば良いんですから。
 ま、多少のコツはあるかもしれないけれど、そういうコツを教えてくれるのが「声優養成所」という所なんだからとタカをくくり、とにかく「そこ」に行きさえすれば、ありのままの自分を受け止めて評価してもらえるハズだからと喜び勇んで……

 ……こうして、
 巨大な夢で現実を見失った「ミラージュ・シンドローム志望者」たちが次々と素っ裸同然でプロのレッスンに飛び込んで来続けるワケです。
「アニメなら理解できる」と喜び勇んだ彼らには「理解させる側」に回ってゼロから作る覚悟が全くできていません。だから最初から最後まで何もせず、何もできないままなのです。
 
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。