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2009-11-18 22:30:00 テーマ:富士王朝

神名火(2)

近つ飛鳥博物館館長の白石氏が、纒向遺跡の建物の方向が東向きである事の理由として2つあげていたのだが、一つは太陽信仰があった事と、もう一つが三輪山の方向が東であった事をあげていた。実は加茂喜三氏のその著書 「卑弥呼の故郷」 の中で、卑弥呼は日の神子(みこ)だったとしている。もちろん 「魏志倭人伝」 の中では卑弥呼であるが、音読から推察すれば日神子であり、日御子、日見子なのであって、それらの何れであるにせよ本質は、太陽の子の意味ともとれる。これは私の解釈であるが、火神子とも取れるのだ。


シャーマンである日の神子は鬼道祭祀を行っていたとされるのだが、鬼道の鬼は魂であり霊であり、霊は日の意味を表す。なぜ霊が日だというと、記紀の「高御産巣日(たかみむすひ)神」=「高皇産霊神」の記載を見ればわかるように、日=霊(ひ)であって、鬼なのである。そして三輪山にも関わる話なのだが日は火なのかもしれない。


一富士、二愛鷹、三紙(神)様     ( トイレットペーパーで運がつく )-三輪山


そこで三輪山である。日(太陽)の観測で中心をなすのは冬至・春分と秋分・夏至の三つに大別できる。太陽をその形態から輪とみると三つの輪となる。これが三輪だと加茂氏は記しているのだが、三輪山は御諸山ともいわれたようで、諸とは神が鎮座する山の意で韓国の古語でも神のいる森をモロといったとされる。神が鎮座する、隠れ住まう山や森の神域の事を神名火(神奈備)というのだが、円錐形のきれいな山の三輪山から連想されるのは、神名火の象徴の火の神朝があった霊峰富士なのである。


当時はまだ九州王朝もあり、富士王朝もあったわけだが、大和では両王朝に配慮する必要があったのだが、富士山ではなく独自の神名火である三輪山を神体とする事により、大化の改新までの間、独立性を高めていく事となったのであり、その誘導者が卑弥呼であったと思うわけです。まあ、今後どんな有力な証拠が見つかったとしても、もはや誰も100%納得できる検証する事は不可能であると思われるわけでして、どんな解釈をしようと自由なわけで、これからもこういう話は書いた者勝ちなのです。(^-^)/




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2009-11-17 17:00:00 テーマ:富士王朝

神名火(1)


一富士、二愛鷹、三紙(神)様     ( トイレットペーパーで運がつく )-原田実


低山登りにしろ、古代史にしろ、私も年相応の趣味に嵌りつつあるのだが、どちらも日本中でブームのようですね。で、どうも調べてみると、神々の話とか、邪馬台国の話なんかは古くからサブカルチャーとして若い人からも指示しれているようです。そんな中、纒向遺跡のニュースも連日大きく報道されていて、昨日のNHKのクローズアップ現代でも 「謎の古代都市は邪馬台国か?」と特集されていました。


現在の古代史研究の中では、邪馬台国があったのは畿内説と九州説が主流であって、それぞれが楽しそうに対立しているのだが、畿内説に異を唱えるのは九州説の学者であるし、その逆もあるわけです。そしてそれらの識者以外は異端としてまったく学問的には認められていないのが現状であるのだが、冒頭の 原田実 氏(実は同い年!)の 記事 なんかをwebで見つけたりすると、今の私にはこの上ないおいしいおかずなのである。


敬愛する80年代の加茂喜三氏の書籍の中にも一緒に写真が出ていた彼が1998年にまとめていた 記事 の中で纒向建設は東海地方の主導であって、東海の勢力が畿内を征服していたなどと、何とも嬉しい内容のものがあるのだが、マイナーな古代史研究家の中には現在常識とされている日本の古代史に反論する人は実は多いのです。


さて、昨晩のクローズアップ現代の中で気になる点が1つあった。それは、纒向遺跡の4棟の東西に規則正しく並んだ建物の事である。ゲスト解説の大阪府立近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏が、その後続く藤原京や平城京の建物の入口の方向が、中国の天子南面の考え方から南向きであったが、纒向遺跡の建物の方向が東向きである事に説明を入れていた事だ。



つづく



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2009-09-09 20:45:00 テーマ:富士王朝

だから王朝があったんだってば

静岡・辻畑古墳は東日本最古級 土器などの分析で判明

静岡県沼津市の辻畑古墳を調査していた市教育委員会は7日、出土した土器や副葬品を分析した結果、同古墳が弥生時代後期から古墳時代初期(3世紀中ごろから後半)に築かれた東日本最古級の古墳と分かったと発表した。


 近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたる可能性もあり、古墳が各地でつくられるようになった経緯を考える上で貴重な発見となりそうだ。


 市教委によると、辻畑古墳は全長約62メートルの前方後方墳で、一部が道路で削られたため幅は推定35メートル。後方部で木棺跡が検出された。鏡や鉄鏃(てつぞく)などの副葬品の組み合わせや土器を調べたところ、3世紀中ごろから後半のものと分かったという。


 また、墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。破片はほぼ全部分あり、高さ約20センチ。脚部上方にくしで引いたような横じまがあることから、3世紀前半に作られたとの指摘もある。


 市教委は「卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた可能性もある」と話している。 (静岡新聞)

一富士、二愛鷹、三紙(神)様     ( トイレットペーパーで運がつく )-辻畑古墳


で、箸墓古墳に比べずいぶん地味な報道なんだが、この調査を指導している愛知県埋蔵文化センター調査課長の赤塚次郎氏も 「邪馬台国の時代にも東海から東で独自の文化が形成されていたことはわかっている。」 と言っているわけで、古墳ではないが前に書いた芝川にある 大鹿窪遺跡 からは1万年以上も前に富士山に向けて祭祀を行なっていた痕跡が確認されているし、愛鷹山山麓には日本列島が大陸から切り離される前の、なんと29,000年も前の石器も発見されているわけで石器時代からこの辺では人が住んでいたのです。実は時代は別にしても富士市内だけでも600基を超える古墳がすでに発見されているのである。


通常、古墳とは大和朝廷などの中央の勢力が、地方の王や有力な豪族たちなど、限られた人々だけにつくることを許した墓であるとしているのだが、日本各地の風土記には大和朝廷に帰順しない人たちを 「土蜘蛛」 といって妖怪扱いしていたわけで、そんな人たちに古墳を作る事を許すはずはない。というか、今回発見された辻畑古墳が卑弥呼が生きていたとされる時代の230年前後の築造であるとしているわけで、大和王朝が富士王朝に習って前方後方墳を真似た可能性も否定は出来ないだろう。


ところで、辻畑古墳では13日午前10時と午後1時半の2回現地説明会をするのだが、国内の古代史マニアが参集する事でしょう・・・が、残念ながら私は所要があって参加できない。とほほ・・・(ノ_・。)





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