車検制度

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自家用車の車検を受けました。
点検費用、消耗品の取り替え、登録量など、全部含めて11万円かかりました。
収入が減っていく中、ものすごく痛い出費です。
これから二年ごとにこの出費があると思うと気が重くなります。
そもそもどうして2年ごとに車検を受ける必要があるのでしょうか。
自動車産業の黎明期ならともかく、今の日本製の自動車はものすごく品質が良いはずです。
耐久性もあり、外国でも高く評価されています。

もう10年ほど前、規制緩和の観点から、車検を廃止しようという動きがありました。
そのとき、業界は「日本で自動車事故が少ないのは、車検という制度があるからだ。」と反論し、その理屈が通りました。
逆にいえば、外国にはそんな制度はない、ということです。
業界が食っていくための屁理屈に近いです。

修理工場が潤うだけでなく、メーカーにとっては車の買い替え需要を生む、一石二鳥のシステムです。
これって経済成長には貢献するかもしれませんが、環境には優しくありません。
購入した車はできるだけ長く使った方が地球環境のためには良いはずです。
もし、故障したらそのときに修理工場に持っていけばよいのです。
車検制度は時代の流れに逆行していると思います。
廃止してほしいです。

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声かけ力の養成

作家の渡辺淳一氏が
「草食系男子というのは、性欲がないのではなく、プライドが高くて 恥をかきたくないだけだ。」と書いていました。
私もそうじゃないかな、と思います。


少年時代、私も女性に自分から声をかけて誘うなんて、とてもじゃないけどできないと思っていました。
理由は、断られたら、大恥をかく(と信じていた)からです。
当時は硬派を気取っていましたが単に勇気がなかっただけです。
(タレントの東山紀之君も同じだったらしいです。)


しかし、高校を卒業して、ダンスパーティやディスコに行くようになると、女性に話し掛けることに抵抗がなくなってきました。
踊ってもらうには女性に声をかけないといけないからです。
じっと待っていても誰も踊ってくれません。
当時は踊りも下手だったので、リードができずに恥をかいたし、断られることもありました。
でも、何事も慣れです。
だんだん、恥をかくことにも慣れてきて、(良い意味で)厚顔無恥になってきます。
女性に断れても、たいしてダメージを受けなくなります。
こういう訓練って若いうちからやった方がいいと思います。

「婚活時代」という本の中で、女性である著者が「女性が外国を旅行するとわかるが、日本人男性の「声かけ力」は他の民族に比べると
圧倒的に劣る。」という記述があります。
日本人女性が町を歩くと、外国の男たちは次から次に声をかけてくるらしいです。
それだけ、外国人の男性は、女性を誘って恥をかくことを恐れていないのです。
声をかけないと何事も始まらない、と理解しているのでしょう。

漫画のチャーリー・ブラウンが、「僕は女性と話すのが恥ずかしいので、ダンスを習いに行く。」と言う場面があります。
欧米の男性は子供の頃からそういう訓練をして、女性への「声かけ力」を養うようです。

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シューフィッター

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シューフィッターと呼ばれる靴の専門家がテレビに出演していました。
多くの日本人は、草履や下駄を履く感覚で、つま先を靴に突っ込んでから靴のサイズを合わせますが、これは間違いだそうです。
まず、かかとを合わせるのが先決らしいです。
西洋の靴はかかとで歩くようにできているからです。
かかとを合わせたら、紐靴の場合は、足の甲の先の方で締め付けます。
足首近くではありません。
そうすると、つま先に余裕ができ、自由につま先を動かせるようになります。
これが正しい靴のサイズだそうです。
明治時代に西洋から靴が輸入されましたが,日本人は靴を未だに正しく履いていないらしいです。
多くの日本人がダンスを踊るのに、苦手意識があるのは、これも一因だと思います。
かかとを使って歩くことにもまだ慣れていない人が多いです。
日本人は明治維新まで、草履やわらじ、下駄をはいていましたが、これらの履物にはかかと(ヒール)がありません。
文化の違いだから仕方ない面もありますね。
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私が高校を卒業した年の冬、クリスマスのダンスパーティに誘われました。
不器用な私が踊れるはずもなく、若い男女の踊りを見て壁のしみになっていました。
途中で明かりが消え、音楽が止まりました。
何事かと思ったら、タキシードとイブニングドレスに身を包んだ二人の男女が登場しました。
男性はなんと私の中学校の同級生でした。
二人はジルバのデモンストレーションを始めました。
私の目は初めて見るカップルダンスに釘付けになりました。
今、考えるとたいしたステップは踏んでいなかったと思いますが、初めて社交ダンスを見る者にとっては驚愕でした。
「かっこいいなあ~。」これが最初の感想です。
その同級生は中学校のときは、成績が悪く、どちらかいうと不良でした。
私としてはあまり良い評価はしていなかったのですが、そういう男がスポットライトを浴びて、女性とかっこよく踊る姿は
ある意味でカルチャーショックでした。
私が社交ダンスに目覚めたのはこのときです。
家に帰って音楽を流しながら、マンボやジルバのステップを一生懸命、覚えました。

就職してからは、なかなか時間が取れず、ダンスからは離れましたが、
映画を観て再び触発され、40歳近くになって本格的に習うようになりました.

今、思うと若い頃にジルバのデモを見たことが社交ダンスへとつながっています。
ワルツやタンゴなど、高度なダンスのデモもいいですが、若い人には簡単なステップで踊れるダンスのデモを見せてもいいんじゃないかな、と思います。

生涯賃金

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解雇された派遣社員を対象に、農林水産業や介護業界が、人を募集していますが、
なかなか人が集まらないみたいです。

理由は慣れない仕事なので不安なのと、給与が低いからだそうです。
確かに今まで働いていた製造業に比べれば、時給や日給は低いと思います。
しかし、そんなことを言っている場合じゃないような気もします。
もちろん、人によって事情は違うでしょうから、一概には言えないでしょう。


生涯賃金という言葉を最近、よく耳にします。
大企業の正社員なら、生涯賃金は約2億円、これがフリーターだと6000万円。
だから、なんとかして正社員にならないとダメだ、みたいな言い方をします。
非常にわかりやすいのですが、よく考えると変です。
生涯賃金という言葉の根底には、人間の価値とか幸福を、その人が稼いだお金で計ろう、という考えがあります。
それってすごく一面的なのではないでしょうか。
何らかの理由により、一生お金を稼ぐことができなかった人は、生きた価値がないのでしょうか。
お金という概念のなかった大昔の人は、生まれてこなかったと同じなのでしょうか。
経済最優先の考え方はそろそろ見直すべきだと思います。

教え魔

ダンスパーティに出ると、たいして上手でもないのに、女性に教える中高年男性が多いです。
たまに若い女性が参加すると、アリのように、高齢の男性が集まってきて、その女性に教えようとします。
主催者から、「ここは踊って楽しむ場であり、教えるところではありません。」と言われているにもかかわらずです。
どうしようもないなあ、と思っていたのですが、最近、教え魔に対する考え方が少し変わりました。
社交ダンスは、誰かに教えてもらわないと上手にはなりません。
多くの人は、ダンス教室やサークルで、教師や指導者に教えてもらうわけです。
ダンスに限ったことではないのですが、一方的に教えてもらうばっかりでは、あまり上達しませんし、理解もできません。
人に教えることによって、理解が進み、早く上達します。
ところが、社交ダンスにおいては、後輩に教えるという場がなかなかありません。
教室やサークルで後輩に教えるのは、先生や指導者の手前、とても勇気のいることです。
教えたい人は、ダンスパーティに出かけて、そこで自分より下手そうな人(特に女性)を見つけて教えるのが、最も簡単です。
そう考えると、教え魔と言われる人々にも、言い分がありそうな気がします。
しかし、やっぱり本来、ダンスを楽しむべき場で、誰彼かまわず、教えようとするのは迷惑です。
教え魔対策として、それぞれのダンス教室やサークルで、後輩を教えられる雰囲気を作ることだと思います。


昔の田植えの回想

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田植え、終わりました。
家族総出で、それなりにたいへんな作業でした。
機械化されているので、昔ほどは人力を要しないのですが、
それでも、機械が植え残したところを人が植えていきます。
朝起きると、腰が痛みました。体力勝負のかなりきつい仕事です。

今から40年ほど前、父の実家の田植えに家族で参加(?)しました。
当時は、まだ田植え機がなくて、手で苗を植えていました。
広い田んぼを、人海戦術で植えていきます。
親類一同、近所の人も手伝いに来て、老若男女がみんなで植えました。
当時は一大イベントだったような記憶があります。

大人たちは腰を曲げて中腰の姿勢をキープしないといけないので、たいへんな労力だったみたいです。
でも、当時は田植えを通して、親類や近所の人たちとの共同体意識を強めることができました。
私も従兄弟たちと田んぼの周囲で大人の手伝いをしました。
田植えが終わると、風呂に入って、みんなで食事しました。大人は酒を飲んでいました。

今は、機械化が進み、家族や親類で共同作業する機会が減ってきました。
一緒に田植えや稲刈りをするどころか、普段の食事さえもばらばらに食べる、という家族も増えています。
だんだん人々の共同体意識がなくなっていきます。
その結果、自分はどこの集団に所属しているのか、わからなくなってきます。
今までは企業がその集団の役割を果たしていましたが、それもなくなりつつあります。
人々は孤立して、不安を覚えるようになるのでしょう。

昔が良かった、とは言いたくないですが、田植えや稲刈りのような人々が共同体意識を感じられるような
イベントが必要だと思います。

人がダンスを踊る目的とは何でしょうか。
多くの人は特に目的など気にせずに楽しく踊っているのでしょう。
でも、ダンスはそれなりにエネルギーを消費し、体力も使います。
何か目的がないと踊らないと思います。
単に、楽しいから、という理由付けもできますが、では、なぜ楽しいのでしょうか。

人によっていろんな考えがあると思います。
私は、人がダンスを踊る目的、あるいは踊ると楽しい理由は、
「自分以外の人と音楽(リズム)に合わせてステップを踏むことにより共感を得ること(ができるから)」だと思います。
人類はまだ言葉を発する以前、一緒にリズムを踏むことにより、周囲の人々と一体感を得ていたらしいです。
ステップを踏んで、みんなと心を通じ合わせて、集団を形成したそうです。
ダンスを通じて、人類は進化した、という説もあります。
未開の地の狩猟民族が、楽器を叩きながら、みんなで踊るシーンを見ると、確かにそうかもしれない、と思います。
言葉を使わなくても、他人とコミュニケーションできるからダンスは楽しく、また、それがダンスの目的だと思います。

では、社交ダンスの目的はなんでしょうか。
当然、異性と言葉を交わさなくても意志を通じ合うこと、ということになります。
パートナーである異性と音楽(リズム)に合わせてステップを踏むことにより感情を共有することができます。
また、それができないと二人で調和の取れたダンスは踊れません。
これが難しく、同時に楽しいのです。

今、日本では社交ダンス人口はどんどん減っています。
若い人に受けないからです。
私は社交ダンスの衰退の原因はダンスの目的を見失ったことである、と思います。
本来の男女の二人が感情を共有するという社交ダンスの目的を忘れ、枝葉末節の技術ばかりを追い求めているような気がします。
難しいステップを覚え、上手に踊っている姿を人に見せることがダンスの目的だと勘違いしている人が多いのです。

また、ダンスはスポーツだと思っている人も多いです。
確かにダンス・スポーツ、というカテゴリーはあります。
でも、これは、米国のワーク・スポーツの考え方の延長にあります。
ワーク・スポーツの代表として、「木こりスポーツ」があります。
木を切り倒したり、丸太を川で運んだり、木こりの技術を競う一種のスポーツです。
そういうカテゴリーがあるからと言って、「木こりという職業はスポーツだ。」という人はいないと思います。
それと同じ事がダンスでも言えます。
ダンスをスポーツとしてとらえる人は競技会で勝つためにひたすら力と技を磨こうとします。

もちろん、何事も努力して上達することは、向上心を満足させますし、他人より上手に踊るという目標を持つことは良いことです。
それはそれで間違ってはいませんが、二人の心も大事にするべきだと思います。
競技会場で喧嘩するカップルも多いです。
感情を共有するはずのダンスが、二人の心を引き裂いているのです。
本末転倒もいいところです。

難しいステップばかりを教えられ、パーティで踊れるようになるまで、膨大なお金と時間を要するような
社交ダンスには、よほど暇を持て余すお金持ちしか興味を持たないでしょう。
社交ダンスを始めたいと思う人や、ダンスファンが減っていくのは、しかたのないことです。

私もスポーツダンスの団体に登録しており、これからも機会があれば競技会に参加したいと思っています。
頭からダンスのスポーツ化を否定するつもりはありません。
ただ、社交ダンス本来の目的は忘れてはいけないと思います。
そうじゃないと、二人の心がバラバラに離れていては、美しく、人を魅了する踊りにはならないでしょう。

社交ダンス界の指導者に望むことは、ダンスの目的を再認識して欲しいということです。
明治の初め、せっかく日本に入ってきたカップルダンスがこのまま衰退していくのはしのびないです。


私の通った高校は、夜は定時制高校になっていました。
放課後、クラブ活動が終って帰るときには、20代くらいのお兄さん、お姉さんが仕事を終えて登校してきていました。

今、定時制高校はどうなっているのでしょうか。
日本で働く日系ブラジル人が、仕事が終った後、定時制高校で学びたい、という意志を
会社に伝えたところ、拒絶されたそうです。

多くの外国人が、「日本はやり直しができない国だ。」と言います。
企業で働きながら、あるいは、いったん会社を辞めて、大学や専門学校に通って知識や技術をステップアップし、別の企業に就職するなんてことは日本ではとても難しいです。
また女性だと、子育てが終って、大学に入りなおして、再び専門職として働くことも困難です。
人生は長くなったのに、途中で進路の変更がしにくいです。
女性は一度退職するとあとはパートか派遣社員しか再就職の道はありません。

このことが人生の選択肢を極端に狭くしています。
そして結果的に日本の社会から活力と柔軟性を奪っています。