バックパッカーの聖地みたいな書き方するな!!
テーマ:ブログ大阪西成区の「あいりん地区」にある日雇い労働者のための簡易宿所が、海外からのバックパッカーたちのホテルとして生まれ変わっているという話はよく知られている。新聞やテレビでは、2005年ぐらいからよく報道されるようになった。この地区で現在6軒のホテル約700室を営業している「ホテル中央グループ」によれば、2010年には約5万6千人もの外国人宿泊者が利用したとのことだ。
バックパッカーというのは基本的に個人旅行者で、安価で中身が濃い「地球の歩き方」をする旅人だ。彼らには彼ら共通の情報ネットワークがある。その拠点は、各国大都市にあるバックパッカーたちの小さな街であり通りであり、ゲストハウスなどと呼ばれるホテルやユースホステルである。代表的なところではタイ・バンコクのカオサン通りや香港の重慶大厦などが知られていて、世界中からの旅行者が集まり情報交換が行われている。
その情報は一人旅のための移動や宿泊、観光から「どこの食堂のランチが安くてうまい」といった情報まで幅広いが、感覚的には60~70年代のヒッピー的な手触りがする。けれどもその時代との情報ネットワークの決定的な違いは、そこにインターネットが加わっていることだ。
あいりん地区の簡易宿所だったホテルにバックパッカーたちが集まったのも、外国語によるHPを立ち上げたのがきっかけだ。ホテル中央グループの代表取締役社長、山田英範さんによると、10年ぐらい前から韓国語、台湾語、英語のホームページ(HP)をつくったが、「どこからかわからないところからアクセスしてきた」。これはバックパッカーたちのネットワークのウエブ上のサイトやスレッドに、その情報が書き込まれ、また個人のHPの旅行日記や情報ブログにリンクが張られたのだろうと見てよい。
実際にその宿泊施設のひとつ「ホテル来山南館」を訪ねると、欧米系の若者がロビーのフリースペースに備えてあるパソコンの前で熱心にキーボードをたたいていた。そのフリースペースには、共用のキッチンがあって電子レンジやオーブントースターやコーヒーメーカー、そしてテーブルには情報交換用の落書きノートがあった。英語とハングルの書き込みが多くて、どちらも3割くらいを占めている。
このインターネットと現地個人の口コミ情報の共存こそが、リアルな旅情報を支え合っているのだ。当初は日本にいる留学生や英会話教師などが宿泊し、そこから外国からの旅行者に広まったというが、日本や大阪を知る先輩が、顔も知らない後輩のために情報発信するこのネットワーク。そこに感じられるのは、国や人種を越えたバックパッカーたちの「仲間意識」である。(編集者 江弘毅)
悪いイメージを持っていない外国人たちにとってはとっても都合のいい場所なのかもしれないが、あそこを見て日本の基準とされることを非常に心配します。
あそこは日本人の没落者を在日が搾取しその頂点に暴力団がいるという日本とは全く別世界の日本の中にある租界地のような存在です。
すみついているのは日本人が圧倒的に多いのですが、支配しているのは南北朝鮮人と支那人。
そのため日本的な情緒のかけらもなく単なるバラック地帯です。
あの地帯は日本人の常識は通用しない世界です。
健常者だったころ、提携していた大阪の警備会社が人手不足で応援を要請してきました。
そのとき大阪に住んでいた経験を買われて(あいりん地区は昔住んでた家から4~5kmの範囲内)あいりん地区の再開発工事に行きました。
同僚たちには「貴重品は絶対に肌身離さないように、それとおごってくれおごってくれという人間がいてもおごるな」ときつく言っておきました。
それでも同僚たちはここがどんなところか知らないので油断していたため、バックの置き引き(未遂は私も)にあったり、浮浪者上がりの土工たちにたかられていました。
そして気の弱い同僚の数人に連中はたかりたかってきだしたので、「いい加減にしろ。」といってきつくしかりつけました。
連中はその日暮らしが板についてしまっているため貯金をするという能力がなく、あるとき払いでギャンブルや嗜好品をバカスカ買って、(もっとも連中の手元に入るのは日当の3~4割。住み込みなら1割というところもざら)
宵越しの金を持たないため、おごってもらうことで食いつなぐのが日課のようなもので、仕事をしていても中身は乞食となんらかわらないような連中でした。
また地面に置いてあるものはすべて見つけたもの勝ちと言わんばかりに我々の着替えの入ったバックなどもよく置き引きされました。私は今から30年前にこの近辺に住んでいたので、ここの人間がどんな連中か知っているので、中身は日本人でも日本人としての矜持を捨てたゴキブリかハイエナかウジみたいな連中と見定めていました。当時小1~2の私にまで「ぼく、なんかおじちゃんにおごってんか」といってくるくらいですからね。
20年ぶりに仕事で戻ってみるとやはり何も変わっていませんでした。
私は同僚たちが日雇いにたかられないようにするため気を配ったり、ルンペンが工事にいちゃもんつけてたかりによくくるので、これに対しても毅然とした態度をとらないといけませんでした。
大阪の現場であり、大阪の土建業者なので現場で仕事をするときに地回りに花代は払ってくれていたのでしょうか、散発的なルンペンのたかりはありましたが、集団でのたかりはありませんでした。
場所が違いますが、横須賀や横浜中華街で現場が動いた時も、横須賀は最初から、中華街はちょっとしたもめごとがおきそうになったので花代をおさめました。すると全くもめごとはなくなりました。まあ高い無駄銭ですけど何事もなく現場が完了してくれるのが一番ですからね。大阪出張の時は公園からのルンペンの締め出しにも駆り出されたこともあり、この時ばかりは同僚たちも「最低飼主からもいってくれほかの人間を交代要員に送ってくれ」といって職場放棄を申し出てきました。当然ですよね。普段の仕事の内容に比べたら過激で一つ間違えたら自分たちらも怪我するか殺されてしまうわけですから。雑踏警備の範疇に公園からのルンペン摘除に伴う混乱の収捨のための警備はやはり無理があるように思います。業務内容が違いすぎますからね。
また廃屋に勝手に住みつくルンペンの追い出しなどおよそ警備業と関係ないような仕事を結構させられました。
それが今から10年前の話です。
確かに10年違えば随分変わったのかもしれませんが、私は日本人としてまたあの界隈の近くに住んでいたものとしてあそこがそう簡単に変わるとはとても思えません。
それが日本を代表するところとして何も日本を知らない外国人に認知されてしまったとしたら、日本人としてたまらなく厭でつらい話です。どういうわけかドヤ街が日本でも外国でもバックパッカーに歓迎されているみたいですね。








1 ■はじめまして
根本はなかなか変わらないでしょうが、パッカーによって少しずつでも街の風景が変わって行けばいいですね。
僕も昔、何も知らずに安い宿を探して三日間滞在しましたが、ちょっとキツかったなぁ(笑)