#6 今はもう、育つ場所がちがう  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
   
   
足首がキレイな女性というのは、内臓の位置がしっかりしてる。
どういうことかというと…
   
まず、自然界に生きて生かされる人間は
呼吸をしている。
産まれたての正常な赤ん坊のように
口で吐いてから、ちゃんと鼻から吸って
で精一杯、空気を吸って、また口で吐く。
するってぇと、大腸も動いて便も出る仕組みの道理もあって 
全身の筋肉の細胞分裂の生命活動も活性化する。
それを自ら意識して止めてみたり、
何かの事故や災難に巻き込まれて瀕死の状態にならない限りは
血液の循環や呼吸は、その肉体において生涯、静止することはない。
人間らしい深い呼吸が、いつも整っているなら 
お腹の筋肉(内臓を支える腹筋の細胞)も動くし、
手足ものびのび自由に、どこも痛くも辛くも何の不自由もなく動かせる。
多少の病気や怪我に対しても、
太陽と水と空気と大地の、すべての動植物の営みの恵みが用意された中で
その肉体を動かす心が健全であるなら 
そこに治癒力も働き、自分で自分を治す力も養える。
本来の、創られた通りの人間ならな。
して、その人間の肉体ってのは全体の65%が筋肉でできてる。
その筋肉の中には血液が流れてる。
どこに? 血管に。 
血管ってのは、成人の場合なら、
すべての毛細血管を全部、一本に繋ぎ合わせると
地球を2周半もするほどの長さになる。
そんな長い血管へ、人間の臓器のうち、…今度は心臓
心臓は、頭の天辺から足の爪先まで
24秒間でひと巡りする速度で血液を循環させるポンプのような仕事をやってる。
誰もが、産まれる以前から死ぬまで休みなく。本来はな。 しつこいっ!
で、心臓が全身の筋肉にある血管へ送る血液ってのは 
かなりの量で肝臓に蓄えられている。
その蓄えられた血液を出し入れする肝臓は 
一年が365日ある“日の出”と“日の入り”のリズムに従って
朝から昼から晩から寝て休むまで、
動いて生きるために血液が流れる量を調節している。
そんでもって、肝臓の血液ってのは
腎臓によってゴミ掃除された状態のキレイな血液を蓄えている。…本来ならな。
そういう実に精巧に創られ、精密な臓器の連携プレーってのは
人間の医学や学問が造ったもんじゃない。絶対に。
そんな中途半端に編集段階の解剖学の本や教科書、
最新版の科学雑誌に書かれてること以前に
既に“人類の存在”という発明は
人間がこの地球上へ誕生する以前に、この世にあったわけだ。
どんな宗教よりも、あらゆる教祖様の言葉よりも先にな。
しかも、人間の肉体は自然界と対象に創られている。
大宇宙の中の小宇宙。大自然の中の小自然。
人間は大自然の子、自然の産物でしかない。…あちら側からすると。)
自分たちの生活する周りには、すべてにおいて
人間の五臓を対象に創られた営みや巡り逢わせもあるよ。
たとえばぁ…、そうだなぁ、
映画の撮影現場ってのも、人間の五臓の動きや仕組みによく似てる…よな。
監督が肝臓。その撮影現場の段取り、回し方を実行に移すのが
人間の胆嚢【たんのう】としての助監督、ADさん。
VTRだろうとフィルムだろうと、
監督が考えて必要とするカットだけを絞り込んで
不必要なシーンは即座に捨てるカメラさんは腎臓だな。
二つのカットを同時に撮り捌ける技術と似たようなもんで
人間の腰には腎臓が二つある。
全身に27箇所ある脈を司る心臓は、
常に撮影の流れにあるキレのいいタイミングを計ってる。タイムキーパーのオバサン。
現場ではなぜか女性に多いんだけど、なんでも隅々までよく知ってるしな。
そして、この世に生きる人間の肉体の細胞活動と血液循環という、
壮絶なるドラマを繰りひろげるためには
各々の臓器を陰陽のバランスでサポートするために
大腸や小腸、膀胱(陽としての腑の部分)…などの消化器官もある。
喩えるなら、照明や音声、美術大道具や衣装さんだな。
そういう各々の臓器の活動、役割分担。
その全体の運行を司ってる脾臓【ひぞう】(オナカ全体の筋肉)は 
製作プロデューサー。これもいないと困る。
んで、肺は呼吸する臓器で自然界では金曜日。金に喩えられることになってるので
スポンサー・サイド…ということにしておこうか? 
それなりの予算、バックアップ、カネがないと満足なモノは作れない。
台本は頭脳だ。
人間は脳の支配によって生きているわけではない。
心も、身体も、基準は五臓であって、すべてに流れがあり、つながりがある。
「撮影現場は人間のカラダに似ている」 スカイパーフェクTV『映画な人々』より
こんなことを云ったヤツは未だもって人類にはいない。 だからなに? 
ハリウッドにもいない。仲井間知事のお嬢さんも知らない。
ああ? 役者さん? 
あんなのは世の中に掃いて捨てるほどいる。
演技が美味くてもマズくても。 ごめんなさい。仲代さん。
だから、大腸とか小腸とか胃の中を通る食べ物でしかないよ。
俳優なんてのは、いずれは消える。
また新しく新鮮な果物や野菜のように登場もする。
“人間の五臓のしくみ”と対称な自然界に照らし合わせるとな。
その映画や舞台の芝居が旨かったかどうかなんて消化作業も
偉大なるドラマの展開も結末の感動も、観客の心が判断するこった。
クソなら売れない。トイレへ流せ。
肉や魚を強調した栄養価やカロリーが高すぎるような“濃い演技”も 
そこにハッとさせて度肝を抜くような瞬間が見え隠れしたとしても 
それは一時的な凌ぎの流行り廃りでしかない。
バック・ミュージックで助けられるような芝居にはメリハリもカンキュウも間もない。
スポンサー企業と視聴率コンバーターを持ってる民家を喜ばせるためでもないのに
見せかけだけの芝居では、韓国映画を越えることは不可能。
フィルム・コミッショナーは国際化のタテマエではない。
もう黒澤映画は誰にも創れない時代になっちまった。
どこもかしこも、必要以上にカラーで鮮やか過ぎる の。
消化不良おこしちゃうよ。
   
だからねぇ…。
…子宮癌でも頑張れる女優さんなら、もうそれは天然記念物に近いよ。
本当に癌に侵された子宮ってのは、もう腐ってる卵なんてもんじゃない。
誰もそばにも寄れないほどの異臭を放つ。
茶の間や映画館で画面やスクリーンを観てる分には臭いは感じないかもしれないけど
もしもそんな女優さんが精神の底力をふりしぼって
「これでも私は終わらない」というほどの演技を魅せたとき。 もしもなもしもだよ。)
俺は神を憎むね。
「なんで? どうして? なんのために つづけさせられないの? 
教えてほしい、どこいらへんで何が狂いはじめたのか?」

すると、神様は応える。
「ブラック・レイン。男と女の違いを認めろ…」ってな。
わかんねぇーぞえ、それでは。
男も女も区別つかぬほど人間を丸焦げにしたあとに降った黒い雨が
その後の男女平等教育思想の世で生きる日本人にとって 
いくら洗い流しても浄化されはしない地に降り注ぐ春雨だったとでも言うのか? 
それは神様、あんたも酷ではねぇかい? オマエの発想が怖い! 
なぜにどうして、人類に癌という病との無駄な戦闘を用意したのか? 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014612599.html  July 12, 2006
正確に原因を突き止め、正常に治す方法を見つけられないような社会構造と
その使い古された常識の引きずり方を、今後いつの時代まで誰に撮影させるのか? 
「慌てないでもいいです。徐々に見通しは明るくなっています。」とある医者という学者の考察留りな意見
ざけんな。人間を正常に死なせることに努力が必要なのか? 
努力ってのは、女の又ぢからでしかない。
自分の腹の中に宿した命を産み落とすときの、
あのときの押し出す力だけだろ。人間の努力というものは。
あとは努力と呼ぶには、あまりにも母なる海に失礼だ! ごめんなすって。手前、生国は…
お前らお医者様連中に産婦人科なんて「科」を取り揃えておきながら
世の中には人間が生きるために押す人がいて引っ張りあげる人がいるって道理の中で
何を正常な分娩措置(装置?)を施しているというのか? 
「当院は日曜祝祭日のほかに定休日もあります」
なんで土曜日と日曜日産まれの子供が少ない時期があったの? 
受胎の瞬間に産まれる日も死に逝く日(寿命)も完全に決められているはずの人間に
どこの会社の何のクスリを使って、その人件費の上乗せに出産日の調節を図ってきたのか? 
少子化で潰れそうな看板経営を維持するのも大変ですねぇ。
出てくる胎児を引っ張り出すことが、面倒な他人の世話だったのか? 
筋力の弱い母体とお母さんの体力の所為にしてみたり、
どんな道具を使ってんだ!? 
カンシ分娩? 吸引分娩? お子様の味方くんも? 誰?それ?
子供を産んだ経験もない不慣れな若者ナースが逆子の足を無理に引っ張った? 
股関節の脱臼は一生モノの障害(傷害?)だぜ。
オマケに保険適応のためだけの会陰切開【えいんせっかい】なんてことが
本来の人間のお産に本当に必要なことだったのか? 
通常、胎児ってのは頭の方から産道を通ってこの世へ出てくる。
そのときに、出にくいのは母体の筋力が弱いばかりでなく
それまでの本人の生活が豊かで便利な時代に慣れ親しんでいればいるほど
この地球上に創られる人間、人の命を授かるために与えられる苦しみに耐え切れない。
やればオマエにもできるシステム に乗っ取った戦後の義務教育9年間を経て
勉強も部活動も、みんなと同じようにもしくはそれ以上に)一生懸命に頑張った経験はあっても
独りの時間が長ければ長いほど
豊かさと便利さが追求された世の中では
人間としての当たり前の営みに煩わしさも増えてくる。
ここんとこは精神だけの問題じゃない。わりーけど。
教育による肉体の破壊は四季を通して日増しに現代人を蝕んできた。
まず、戦後のGHQの指導による学校給食制度の奨励をはじめ、
1954年の学校給食法の公布から今日に至るまで、 学校給食てもんと栄養学への拘り常識は
人間が生きる絶対条件である“食べる”という道理、人の食生活の基本を破壊したほか 
何よりも栄養を付け過ぎた子供たちの成長。その摂理を変貌させてしまった。
本来の女性の生理が始まる時期というものは、12~13歳、遅くても14歳で初潮を迎えることになってた。
ところが、ここ40年近くは、早い人で小学校3~4年生で生理になっちまった子供(娘)もいる。
生理になれば子宮の比重は普段より重くなるので
当然、通常の位置から下へ下がる。
人間が二足歩行をして歩く地球に引力がある限り、
腹筋で支えられない内臓は下がったまま、下垂したままになる。
通常なら、月に一度の生理が終わる頃には
徐々に子宮の位置も元へ戻る。
ところが現代女性。教育により破壊された母体は
女としても未だ身体が出来あがってないうちから飛んだり跳ねたりの過激な運動、
過酷なスポーツ、部活動の指導は、かつての文部省が奨励してなかったとしても 
呼吸が浅く、全身の細胞・筋肉に酸素も血液も行き渡らない状態で
内臓を支えきれない腹筋の中の臓器の位置をメチャクチャにしてしまった。
男女平等思想、男女合同画一化教育、雇用機会均等法ほか、
ピンクのヘルメット、第院クラブの権利の主張に乗せられてな。
どうした? その下腹部は? 精神状態は落ち着いてますか? 
将来、自分が愛した男の大切な子供を宿す子宮は、どこに位置してるんだ?
女性の子宮の位置ってのは
本来の自分に決められた正常な位置から髪の毛一本でもズレてると
精神状態に支障を来たすことになる。
だから今の時代は、たとえ妊娠できたとしても 
そこへ胎児を抱え、やがて産気づいた日が予定日であろうと早産であろうと
押して出す方も出す方で、ひっぱり取りあげるほうもあげる方だ。
人間が子供を産むということに、本当に分娩台は必要なのか? 
「よし、産まれるぞ! さぁ、お湯を沸かせ!」
ってときの自宅出産が普通だった、そのむかしは 
この世に自分の家系の世継ぎを授かる日となれば
家中の箪笥の引き出しも全部あけ放って 
雨戸だろうと開かずの物置だろうと扉という扉も全部を開いて
そこに招かれる新しい命を受け入れて出産に取り組んでいた…
日本人には、そういう命を大切に思う生活があった。昔はな。
「仕方ないから、これで引っ張ろう!」と考えた産婦人科医が誰であろうとも
カンシという道具を胎児のコメカミの辺りへ引っ掛けたやり方が不慣れでなくても
やがてそれは大人になるまでに
眼の位置が斜視になってしまった人も世の中には少なくない。俺の親戚とか。)
また、産まれたばかりの赤ん坊でさえ脳天の筋肉(百会【ひゃくえ】 / 会陰部の真上)
ペコペコとして柔らかいし、首も据わるまでに時間がかかるのに  
吸引器具で胎児の頭を無理矢理に引っ張れば
まずもってして、のちのちの成長過程で頚椎に損傷を来たす可能性は高くなる。
「なんだかさぁ、最近、クビが痛くって…」
それは果たして中学生なのか? 高校生なのか? 社会人になったOLなのか? 
その子供の出産は、どんなものだったのか? 
話はジュリアス・シーザーの時代へ遡るけど 
世の中には、身体の大きい人も小さい人もいるので
骨盤を囲む筋肉の状態と胎児の育ち具合によっては 
「この産道の状態では通常の分娩は無理!」という場合もある。
そのために帝王切開という手段もあるかも知れないけど 
それはそれで、ちゃんとした子宮の位置を守った母体の中で
人間として正常に発育して産まれたのなら問題はない。
「産道を通らなかったことがどーのこーの」という考え方も 
出来た結果で物を言う浅墓な新興宗教の教祖と一緒だ。
そんなババアは相手にすんな。
1985年から2001年までの想い出 と一緒に
巨人様の住まわる便所へでも流しときゃぁいいだろ。勝手にほざかしておけ

問題は、「0」【ゼロ】からのスタートの部分…。
最近(ここ数十年の間)の現代人にみられるように 
この世に産み落とされる道理としては、
受胎の瞬間に入った人間の魂が、その規則正しい細胞分裂を経て 
十月十日【とつきとおか】で3000g以上の正常な人間の形に形成されるという、
道理は道理、約束は約束だ。それなのに、
下垂しきって狭い骨盤の下の方で、のびのびとして発育できなかった状態は 
この世に産み落とされてからも全身の筋肉の発育が
心身ともに健全な人間の状態とは、くいちがってきてしまう。
たとえば、
立った姿勢のまま、膝を徐々に畳んで、足の爪先だけで体を支えて地面や床に座る姿勢。
これだけのことができない子供がいる
その、
トゥーンタチー ”できない子供は、足首につながる何処に問題があるのか? 
今の教育現場の現状がどうあろうと、体育の授業でもなんでも、あるいは
スポーツ指導にあたる現役の人も、最近の子供たちの姿を見て知っている人もいると思うけど、
それは、昨日 産まれた子供よりも、今日 産まれた子供に多い。
つまり、人間が人間として育つ場所が違う。産まれる前も、産まれてからも…。
とくに、教育によって破壊された母体の問題については
これまでも、今後これからも、俺は徹底的に書いてゆくけど
今回の、この長々としたページ。全体を通して読むと
もう既に今は、“人間の育つ場所が違う”という、この事実を残酷なまでに明らかにしている。
読む人には申し訳ないけど、気づくべき時期も過ぎて
そこへはもう引き返せないほど狂いに狂った人間常識の中では
自分がまず前へ進むためには知っておかなきゃなんない事実がある。
…でもね。恐いかも知れないけど、俺が書いてることなんて、ほんの一部だよ。
これからはもっともっと深刻になってくることが今の日本の社会にはもう
いっぱいありすぎて、誰も収拾がつかなくなっちまうほどだ。
その中でまず、自分がどうすりゃぁいいのか? 
俺の解釈や表現がどうあろうとも、
まずは、人間の創られ方の基本的な道理を知ってくれ。
誰かがどこかで正しく気づかない限りは
もう誰も前へ進めなくなっちまうような時代で
このまま面白おかしく踊り続けるのはよそーぜ。
   
てなわけで、つづく。 
   
   
         ☞ 気持ちを落ち着かせてな。 …俺が。
            http://ameblo.jp/badlife/entry-10022531895.html