暫く寝てるんだか寝てないんだか分からない日々が続いていた。
2時間ほど仕事をして、1時間ほど仮眠をとってまた働く。
昼間は別の仕事をしているから、そちらもおろそかにはできない。
短い睡眠時間で元気になる方法を調べたりコーヒーや体に悪いと評判のエナジードリンクをがぶがぶ飲んで仕事していたら、彼女様が鬼の形相(標準装備)をして仕事部屋に入ってきた。



「寝られへん死ね」



我が家では唐突に死刑宣告が下されることがあるのだ。
一体どの件で眠れないほど怒っているのかと尋ねたら、普通に布団に入っても喉が痛くて眠れないと言う。
取り急ぎ僕の何かに怒っている訳ではないということで安心したが、このままストレスが溜まって暴れられたりしたら仕事どころではない。
僕は色々考えた後、寝室にしている和室から布団を一組連れてきて、僕の仕事部屋の空いているスペースに敷いてみた。



彼女様「なんでお前の尻見ながら寝やなあかんねん」

僕「和室は喉が痛いんでしょう。あの部屋どれだけ掃除しても埃っぽいから、この部屋の方が喉は痛くないかもよ」

彼女様「うぬう・・・」




そうして彼女様は渋々布団に入って、僕の尻を見上げた。
僕は尻を千本の針でつつかれるような思いでパソコンに向かって、未だ要領を得ない仕事に手探りで飛び込んだ。

しばらくキーボードを叩いていると、「あ、寝れるわ」と彼女様がつぶやいた。
やはり埃は大敵であるな、と振り向かずに声を掛けたら、「いつ見ても働いてるヤツを見ながらってすごくよく眠れる」と帰ってきた。
振り返っていたら、涙を見られていたかもしれない。



次の日、昼の仕事を終えて帰ってきた僕に彼女様が告げた。



彼女様「今日からあの部屋で寝ます」

僕「そうなんですか」

彼女様「和室は埃がすごいので、寝たくありません」

僕「いいけど、僕ずっとパソコンカタカタやってて、君毎晩落ち着いて寝れるのかい」

彼女様「出ていけ」

僕「えっ」

彼女様「あの部屋を明け渡せ」

僕「えっ」




和室に現在ズボン掛けとして活用中のテレビとソファを移転して残った寝具を元の仕事部屋に運び込むと、いよいよ僕はプライベートな空間を失った。
振り返るとモモンガが飯をくれとゲージの中を飛び回っていて、トマトでもあげようと冷蔵庫に近づくと半蔵(チワワ/オス/太い)が床に垂れ流した尿を踏みつける。
疲れてチョコレートを食べていたら、大河(チワワ/オス/白い)を抱えた彼女様が「私のお前より大事なチョコを食べたな」と言って迫ってきて、モモンガはいっそう激しくゲージの中を飛び回る。
ベランダの向こう遥か彼方に、あべのハルカスの針金のような灯りがきらめいていた。



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引用元:さよならプライベート空間
もう一年が経つのだ。
母方の祖母が亡くなって、一周忌の法事であった。



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この日僕は30歳になった。
なるほど、30歳の風景というのは10歳の時のそれとなんら変わらない。
むしろ色々なことを知った上で好き放題するようになっているのだからタチが悪くなっていると言える。

祖母の法事は賑やかに終わっていった。
亡くなった人が生きている人を集めるきっかけになるのだから、死にまつわる催事というのは何度経験しても興味深い。
毎回徳のない坊さんがお経を上げて、終わったらみんなでブツブツ文句を言うのが一連の流れである。

母方の家族は女系で、実に元気が良い。
山本家は男系で親戚が集まってもそれほど賑やかにならないのだが、こちらの家族は集まる度にキャイキャイと大騒ぎである。

こういう時何の役にも立たない男衆は部屋の隅で「そこに座っていなさい」という女傑たちの無言の令に従う。
おっつぁん達は寄ればゴルフの話しだから、ゴルフをしない僕はせっせとこうやって記事を書いているというわけだ。
そうやってゴルフォっつぁん達の隙間でじっとディスプレイを眺めていたら「母の親戚達は全員引き笑いをする」という至極どうでも良い事実を発見した。



祖母が逝って僕たちは一年を過ごしたが、祖母はどうだろうか。
徳の無い坊さんは「死んだ人の時間は止まる」などといった話しをダラダラとしていたが、生きていても体感時間は伸びたり縮んだりするのだから、止まると言われてもいまいちピンとこない。

そもそも祖母という個はまだ存在するのだろうか。
僕の中にいる祖母は「ええわいしょ」などと言って足元のシロを愛おしそうに眺めていて、それは見事に祖母個人である。
それとは罰の、僕の理解の及ばない場所に祖母がいて、その個がまだ存在していたりして先に逝った家族達と再会したりしているのだろうか。

確認のしようもない。
ということは、あまり考えなくてもいいのでしょう。
そういうことにしてぼけっとしていたら「よくじっとしていられたな」と女傑たちから堂島ロールが振舞われて、われら男衆はあまいのううまいのうと口角に生クリームの髭を付着させた。



そのうち一人また一人と参列メンバーが帰り始めた。
チーム高齢の皆様は「わたいらもいつ死ぬか分からんでえ」などと言って笑っている。
きちんと見送ろうと思う。
なんてことを思ったら、そういえば30歳になる前に死んじゃうヤツも大勢居た訳で、なんだ僕も立派に生きているではないかと少し元気になった。

窓の外を見ると早くも日が傾き始めている。
今15時だから田舎の涼やかな気候を考えてもやはり秋なのだと、ここでもまた時の流れを感じたのだった。





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引用元:三十歳の一周忌
月に一回ほどのペースで実家に顔を出している。
そろそろ住民票を大阪に移したり、うやむやになっているシガラミなんぞを整理せねばなるまいと面倒を被る覚悟を決めているところだ。



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母方の祖母の一周忌の法事で帰ってきたのは昨日の昼過ぎのことだった。
ちょうど仕事が休みで家にいた母が弟のちゅわさんのエブリワゴンで駅まで迎えに来てくれた。

田舎の穏やかな空気を壁のようなエブリワゴンのフロントガラスで乱暴にこじあけつつ爆進していると大量発生しているトンボが軽い音を立てて視界の隅で弾け飛んだ。
合唱しつつ交差点に差し掛かると目の前の信号が今まさに停止命令を出そうとしているところであった。

エブリワゴンは慎重なブレーキングで停止する。
これには驚いた。
母は「信号は赤くなってから0コンマ3秒までは青信号やねん」と公言するような人物であるのだ。



僕「ジャックナイフと呼ばれていたお母様も随分丸くなられたじゃないですか」

母「今のブレーキかぁ」

僕「横向きのGに備えて踏ん張ってましたのに」

母「この車で本気のコーナーリングしたらひっくり返るからな」




舐めてましたスイマセン。



自宅に帰って2階の仕事部屋と、ついでに母と自分の寝室を掃除した。
思っていたよりもホコリが溜まっていて掃除シートがあっという間に真っ黒になる。
多少は気持ちの良い空間作りに貢献できたかと、自分に言い聞かせる。

仕事が一段落付いた頃にじーちゃんに大声で呼ばれた。
今夜はガレージで焼き鳥であった。
冷蔵庫の中で冷えていたアサヒのスーパードライを片手に参戦する。
彼女様のご実家はアサヒの株を持っているらしいので、うむ、などとひとり大きく頷いたのであった。

沖縄で事業の立ち上げに失敗して先月末に引き上げてきたちゅわさんがトングを片手に煙の向こうでがははと笑っていた。
この悲観の無さというか、その場でその場を楽しむ精神は大したものである。
わずか数ヶ月で住民票やら車やらを大移動させた沖縄から戻ってきた引き際の良さも、尊敬に価する。
このようにおだてて僕は秘密裏に彼を「永久に焼き鳥を焼く係」に任命し、その目論見は見事に達成された。



飲んで食べて騒いでいると日中ゴルフで白球に翻弄された父が帰ってきた。
戦績を聞くと「お父ちゃんは過去に縛られへん」と言ってトリにかじりついた。
炭の火が小さくなってきたので「永久に焼き鳥を焼く係」に追加を命じる。
母が残ったトリと野菜を網の上に乗せて「見事に食べきった。私の買い物目分量は大したもんや」と大見得をきった。
我々も「それは大したものだ」と言って同調した。
父が「僕がお腹いっぱいになったかどうかは関係ないんですか」と赤い頬を震わせたが、誰も聞いていなかった。

晩餐が終わると、シャワーを浴びて仕事に戻った。
仕事とはいえまだまだ教えてもらうばかりのヨチヨチ歩きであるから、とにかく言われたことを飲み込んで咀嚼することで精一杯だ。
一刻も早く仕事を覚えて世話になっている社長を楽させたい。

ひと段落がついて布団に入ったのは3時になる頃だった。
田舎の山の中で深夜に電気を付けてナニガシをしていると周辺の虫が大量に集まってきて、どことも分からない隙間から忍び込んでくる。
ピロピロ飛び回る羽虫を見上げながら最近梅田の蔦屋書店で偶然見つけた「芸術の売り方」という本を開いた。
フィリップ・コトラーが推薦しているマーケティング本で楽しみにしていたのだが、ビジネス洋書特有の長い前書きを読んでいる途中で寝入ってしまった。
幸せな一日だった。





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引用元:永久に焼き鳥を焼く係任命式
もう一部の身近な仲間たちは知っているのだけど、8月の末に引っ越しをして大阪のマンションで彼女様と一緒に暮らし始めている。
付き合い出してからぼちぼち10年になろうかというわれわれであるから、いわゆるひとつの年貢の納め時というやつだ。
年貢ならもう払いすぎるほど払っている気がするが、お上、もとい女将の搾取はまだまだこれかららしい。

彼女様と暮らし始めて最も大きく変化したのは、大河と半蔵という2頭のチワワが同居人になったことだ。
彼女様は僕が千葉にいた頃から定期的に顔を出して長い時は1週間ほどを掛けて関東の友達と遊んだりコミケ的なものに繰り出す拠点とされていたりしたから、同じ部屋にいることにそれほどフレッシュな感覚はない。
そんなことより、唐突に始まった2頭のチワワ達との『日刊犬と暮らす』が、それはそれは新鮮である。



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まず、彼らは僕の帰宅を大喜びして飛び跳ねる。
すひすひとかはふはふとかがじがじとか、色んな音を立てながら歓迎の舞を披露してくれるのだ。
おおそーかそーかそんなに嬉しいのか可愛いヤツらよのうなどと浮かれつつ広いリビングに乗り込むと、フローリングの真ん中にテロ的に投下されたウンティーヌが「あんだよ文句あんのかよ」といった顔で鎮座しているから油断ならないが、まあそういった地雷を踏みさえしなければ、彼らとの生活は実に心地よい。

彼らとの生活で最も大きな恩恵は、例えば大河を撫でている時は、他の余計なことを考えなくてもいいことだ。
僕はついうっかりしているとすぐさまにも嫌なことや不安になることを考えてウジウジしてしまうのだけど、あの白く小さな生き物を撫でていると、手のひらや指先にふれる毛の感触や肌の温もり、彼の体をめぐる命の躍動で、頭の中がいっぱいになる。
そこに隣りのソファーの脇あたりで陰干しされていた半蔵が



「我も愛でよ」



とでも言いたげにででーんと飛び出してきたりしたなら、んもう1時間でも2時間でもあっちゅうまに過ぎ去ってしまうんである。
余計なことを考えて疲れたり、明日に怯えて暮らすくらいなら、鼻水垂らして能天気に笑いながらチワワの抜け毛にまみれたり、モモンガの世話をしている方がよっぽど健全である。
ただでさえこの世で一番の脅威が同じ部屋の中にいるのだ。
それくらいの逃げ道はあっても許されるはずなのだ。



あとこれは嬉しい誤算なのだけれど、掃除のやり甲斐が違う。
人間2人とチワワが2頭(モモンガも1匹いる)がいると、もの凄い勢いで床にホコリや毛がたまる。
これを掃除機やクイックルワイパー的なものでざしゅーっとさらうのが、実に気持ちいい。
常にキラキラぴかぴかの我が家、とは中々いかないが、大量の抜け毛をシートもろともゴミ箱に放り込む瞬間は、中々の快感である。

気をつけなければならないのは、そういった細かな汚れがたまりやすいため、少しでも掃除が滞るとたちまち部屋の中がホコリっぽくなってしまうことだ。
ホコリが溜まると彼女様が喉から「グゥグゥ」と訳のわからない音を出すから、それがひとつの指標である。
彼女様は僕のことを掃除する巨大なインテリアくらいにしか思っていないから、仕事をしないとただの巨大なインテリアとして処分される恐れがある。
ここでもやはり油断ならない。



今日は掃除しない日4日目だ。
日中に風呂桶の下の黒カビ汚染地域を高圧洗浄機で浄化したから随分と気分がいいが、室内のホコリはぼちぼち許容量を超える。
明日朝起きたらクイックルワイパーでホコリをさらおう。
年貢とはこれほどコンスタントに納めるものなのだろうかといった疑問が出てきたら、大河か半蔵を捕まえて撫でればいい。
解決できない悩みは、抱かないに限る。





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引用元:日刊犬と暮らす。
仕事の関係で今Windowsのデスクトップをメインマシンとして使っているのだけど、Macの歴が長くなっていたのと画像の編集などに使うアプリの使い勝手の関係で、ブログ記事の仕上げは今まで使っていたMacbookしている。
実際小さな画面の方が集中できるし、キーボードの使い勝手も(F9キーなどの短縮変換機能を除き)Macの方がいいもんだから、持ち運びができて記事が仕上げられて最低限の仕事もできるということで、やはりMacbookは良いものだと思う。



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よくMacとWindowsでどっちがいいだのなんだのと論争が起こっている。
僕もケータイ屋時代に、Mac信者と呼ばれる、んもうMac製品のことを語っている時が人生の至福と言わんばかりのおっちゃんから酷く専門的なクレームというかイチャモンを付けられて、困惑したことがある。
おっちゃんは「自分たちが扱っている製品の知識くらいきちんと持っておけ」と言うが、どう考えてもMac素人相手に知識を振りかざして気持ちよくなりたいだけのイチャモンだったから、僕はいい歳こいたおっちゃんの自慰行為に巻き込まれたアワレなイケメンだ。



「現場個人のレベルにはどうしてもバラつきがあるから、メーカーのサポートデスクというものがあるのですよ」



などともっともらしいことを言ってみたが、ウサ晴らしのターゲットに指定した若造からもっともらしいことを言われたおっちゃんは、んもう引っ込みがつかなくなってしまった。
当方の仕事ぶりがいかに稚拙であるかを、iPhoneとiPadの同Wi-Fi環境下における通話転送機能活用方法を交えつつこんこんと説いてくださった。
これは失敗だった。


そういう一部のメンドクサイおっちゃんにはなるまいと決意を固めつつ、しかしやはり僕はMacのこのロジックではなくマジックに訴える構造や発想が好きである。
Windowsは世の中のスタンダードだからPCを商売道具にする上では必ず一台は持っていないといかんのだけど、自分に合っているものや素敵だと感じられるアイテムを知っているというのは嬉しいことだ。



行為にせよ、物理的なモノにせよ、自分の好き嫌いを知るには「比較」が重要である。
僕はずっとWindowsユーザーだったのだけど、ある時ふと思い立ってMacを導入したところ、これが実にフィットした。
それは即ち、Windowsとの「比較」があってこそのMacへのフィット感であって、最初からMacを当たり前に使っていたらこの「合致感」といいますか、そうそうこれこれという「巡り合えた感」は、なかったと思うんだなあ。

よく自分の好きなことが分からない人が多いという話しを聞くけれど、それってつまり、「比較」するものが少ないからなんでしょう。
僕の知り合いには異常なほど音楽を聴いている気持ちの悪い人が何人かいるけれど、本当に山のような情報が自分の中にあるから、ワタクシの統計学と言いますか、そういったフィーリングが実に高度に発達している。
笑顔で



「ビートルズは全部レコードを買って、全部聴いたよ。やっぱりすごいバンドだよね。大っ嫌い。」



と語る某音楽バーのマスターを理解するには、今世残った時間ではどう考えても足りない。


Windows/Macと一緒で、どれだけの音楽を聴いているのかと一緒で、何ならどれだけ沢山のアニメを見ているのかと一緒で、頭の中にある体験や経験や知識の量がそのまま自分という人間の好き嫌いの振り幅になる。
好き嫌いがあるというのは、先述した「比較」ができるだけの知識と体験、そしてそれらへの「理解」と「解釈」があるということだ。

僕は『勇者警察ジェイデッカー』というロボットアニメが好きで、ビールがあれば二晩でもぶっ通しで語れる自信があるのだけど、それは同シリーズの別アニメ『勇者特急マイトガイン』とか、『太陽の勇者ファイバード』とか、そういうものを見まくってよく知っているからである。



「なーんつーかよう、他の連中は個々のロボの個性が全然なくってよう、後半になったら飛び出してきて合体してやられっちゃうだけなんだけどよう、ジェイデッカーつーのはな、オイ、寝るな、あのな、この番組だけはな、最終回前後で合体して悪いヤツとくんずほぐれつ大爆発なーんてことがなくってよう、みんなで合体もしねーで並んで自分の考えを述べて、オイ、だから寝るな、オイ」



といった濃厚なトークは、「比較」と「理解」と「解釈」なくしては成り立たないのである。
逆に、「比較」と「理解」と「解釈」さえあればある程度の好き嫌いや自分への向き不向きが見える訳だから、沢山のサンプルを得て、体験して、その渦中に身を置き続ければ、いずれ明確なものが見えてくる。
それがつまり「色々な体験をしなさい」という大変抽象的な言葉として世の中に飛び出していくんだけど、色々な体験をすること自体が楽しいと理解してない人にとっては、やっぱり抽象的すぎてよくわかんねーんだな、これが。



という訳で結論。
ちょっとでも興味が湧いたものには、手を出してみる。

僕は自分の嗜好が見えなかった時期が長かったから言いきっちゃうけど、自分が何が好きなのか分からない人は、その物事が「こいつァ間違いねえ!」的100点満点を自分に提示してくれないと動かないのだ。
でも、やる前から100点を見せてくれるものなんか、こっちの財布を狙ってる娯楽業界の広告くらいしかないもんだから、行動してみたところで消費者という立場から抜け出せない。
別に生産者になろうと言いたいわけじゃあないんだけど、少なくとも自分自身は、まあ30点くらいの赤点を回避した物事に関しては、こう、びしばしと手を出していきたい。





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引用元:赤点ギリギリぐらいがちょうどいい。
とかく人間バランスが大事でござんす。
僕なんかはそれはそれは穏健友好、とにかく優しいイケメンなのだが、つまり「おとなしい」という方面にバランスが傾向しているということでもあるのです。
よって至極個人的な話しで申し訳ないのだけど、たびたび自分のことを締め上げちゃったりして落ち込んだりであるとか、そういうことになるんである。



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よく鬱になっちゃうとか、落ち込んでしまうという人は、どうにもこういった優しくておとなしい人が多い。
これが攻撃的なヤツだと自分よりも弱いヤツを必死こいて見つけ出してはイジめはじめる訳だから、それと比べると随分とマシだなぁと思う。
だけども、うっかり舐められてしまうとそういう攻撃的なヤツに狙われてしまうから、そこはしっかりと「お前な、余計なことしたらな、どうなるかわかんねーんだかんな」的武装防衛を示さねばならない。
目の前に暴力を振るうつもりのヤツが現れたらこちらも戦う覚悟と準備をしないと、サンドバッグになってまた後ほどネチネチと自分を責めて、それがまたまた鬱屈としたヤツの弱いモンレーダーに索敵されて・・・といったスパイラルを繰り返すのだ。



冒頭から話しがそれてしまったが、つまり優しい人はちょっと強く、強い人はちょっと優しくなれると、それは実にバランスのとれたええ感じの人間が出来上がる訳なんである。
それで、ここがまたちょっと難しいところなんだけど、人によってそのバランスの取れる位置というのは全然違ったりする。

例えば僕は元々がイジメられっ子体質だから、ある程度の武装が必要である。
だけどそもそもがイジメられっ子なのだから、多少の強さを手にいれたところで人間的に大きな変化がある訳ではない。
むしろそこでガツッと変化しちゃうのは、ちょっとマズいでしょう。

要は、今よりちょっとマシになればよいのである。
優しいだけだった人が、優しくて強い人になる。
強いだけだった人が、強くて優しい人になる。
可愛いだけだった人が、可愛くて自立した人になる。
自立していた人が、可愛い面もしっかり出していく。

そうやって自分の今の立ち位置から、少しだけ未知の方向に踏み出すと、人は思わぬところでバランスをとって、いい感じになる。
そういうもんである。
そういうふうにできているんである。



話しを元に戻すと最近自分の中にひとつキーワードがあって、それは、「ふざけんな」なのです。

例えば今椎名誠さんの本をしこたま読んでいて、たぶん今のブログにも随所にその影響が現れてると思うのだけど、あのおっさんがまぁいい文章を書くんである。
語彙が多いのも当然なのだけど、僕らが普段知ってる使ってる言葉を使って「おのれ!」とハンケチを噛み締めちゃうような、その手があったか的表現が本当に多い。

で、ふつうだったらそういう格上の文章に打ちのめされるとスイマセンとショボくれちゃうのだけど、そこで白旗の代わりに「ふざけんな」という反旗を翻すと、それまで感じたことのなかった新しい質のエネルギーが湧いてくる。
「ナニクソ根性」とか「負けん気」とか言ったりするのだろうけど、僕はそういう戦いとか怒りみたいなものは随分と握りつぶしてきたから、本当に「戦うエネルギー」というのが、新鮮であったのです。

なんだかちょっとしたことを言うために大げさなことを書いちゃったけど、毎回そうだから、今更いいか。
今宵も僕ァ悔し涙のメロディーに復讐の言葉を乗せて、面白おかしいこだわりにぐいぐいと突入してゆく。
それはとてつもなく楽しくて幸せなことなのです。





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引用元:「ふざけんな」は新感覚


窓を全開にして玄関を開けると、秋の渇いた風が高い空からぐんぐんと流れ込んでくる。
玄関は内向的なくせに時折暴発的なワンパクさを発揮するわがチワワ達がくぐり抜けられない程度の隙間なのだけれど、それでも十分な量の新しい空気が、部屋にこびりついた疲労や苦悩を連れ出してくれた。

よく言われる話しだけど、水は流れていればこそ新鮮で、バケツにすくって閉じ込めた途端にたちまち腐ってしまう。
小さい頃に祖父の海釣りに付いていくと、竿を構える前に海の水をバケツですくって側においておく。
その後釣れた魚をその中にポイポイ放り込んでいくのだけど、その魚たちはしばらくするとすぐにぐったりとして死んでしまうのだ。

「そりゃアナタ、当たり前でしょう」なんて思われるかもしれないが、僕にはとても意味深く感ずる記憶なんである。
『大きな流れから切り離されたものは死んでしまう。』
この世にいくつかある、真理だと思う。
そういう訳で、大いなる真理に基づき、僕は額に汗して新居の清掃活動に勤しんだのであった。



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掃除は「上から始める」が鉄則だ。
軽薄にも掃除機掛けなどから始めて棚やライトの拭き掃除を後回しにしようものなら、ピカピカにしたフローリングの上にボタボタとホコリやゴミが落ちてきて発狂することになる。
そもそも床だって「いっちょ掃除でもやったるかァ」という思いに駆られる時には様々なナニガシで埋め尽くされているものだから、まずは掃除機や雑巾を掛けられる床を発掘する作業が必要である。

手掛ける順序を誤ると、それだけでどんなに頑張っても掃除が進んでいる気がせず、そのうちやる気が削がれてうっかり目を合わせた未読の書籍にヨヨヨと引き込まれてしまう。
そんなことだから貴様は生まれてこのかた片付けられない女としてホコリと犬の毛を胸いっぱいに吸って生きているのだと、掃除が始まると同時に掃除機に手を伸ばした彼女様に心の中で叱責した。

思いが通じたのか(通じては困る)彼女様は直ぐに掃除機を所定の位置に戻し、「これは美女の仕事ではない」と言った。
異論は無いが、掃除機を手放した理由は分からなかった。



掃除が終わると部屋の中が見違えるように明るくなった。
ちょうど水を入れ替えたばかりの水槽のように晴れやかだ。
その中を大河と半蔵が、これから買い出しに伴う長時間の留守番を強いられるとも知らずに気持ち良さそうに泳ぎ回っている。
帰宅後われらは部屋の各所に投下された報復のウンティーヌを目撃することになるのだが、それはまた別の話である。

見渡すと、彼女様の調理器具および小物類およびその他分類ままならぬサムシングが各所に点在している。
それらについては収めるべき収納棚がまだ無いので致し方ないということだ。
確か引越し前に膨要るとも要らぬともつかぬ膨大なる所持品に跨って「引っ越し前なので致し方ない」と言っていた気がするが、まあ、気のせいだろう。

引っ越しは当分終わらない。
理由はよく分からないが、ホコリのよくたまる部屋だから、できるだけマメに掃除は続けていきたい。



>>>山本優作のHPはこちら。

引用元:わが新居のホコリっぽきお掃除事情。
悲しい人、不幸な人は、いつだって悲しくなることや不幸になるようなことを考えている。
悲しいことも不幸なこともしんどいのに、しんどいことが嫌だと言いながら、率先してそういうことを考える。

どうしてそういうことになるかというと、人がそういう風にできているからだ。
我らが祖先が大自然と体ひとつで向き合っていた頃、人の力を超えた強大な危機(肉食獣との遭遇、寒波の到来、嫁のヒステリーなど)に立ち向かう術として、率先して不安を発見する能力が必要だった。
その名残が現代を生きる人間の脳にも残っている。
それもなんとか新皮質とかいう、いかにも新しい感じの部分ではなくて、なんかもっと根深いところに組み込まれちゃってるもんだから、僕らの心からは不安がなくらんのである。



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不安がそこに形を持って存在するのではなくて、「恐怖を感じる」から不安が発生する。
車が走るから、「走っている車」が発生するのと同じだ。
彼女様が暴れ始めると、「暴れる彼女様」が発生するのと同じである。ぐすん。

「不安」とは、状態を指す言葉なのだ。
「恐怖を感じて嫌なことを想像している状態」を、「不安」と呼ぶんである。



で、世の中には恐怖に弱い人間というのがいる。
トキの雛の10倍デリケートであると言われた僕にしてもそうで、何かひとつ自分の恐怖の琴線に触れるものがあると、そこから実に様々な色々を想像して泣きたくなる。
新しい仕事に挑む時も、今の倍以上の家賃が必要な賃貸物件の契約をする時も、彼女様から電話が掛かってきた時も、それはそれは無数の恐怖がわらわらと湧いてきて、恐ろしくなったり悲しくなったりする。

そういった恐怖や不安の中で30年近く生きてきて、最近気付いた。





こういうものなのだ。





人生には恐怖が付き物だ。
しかし、それと全く同じように、喜びも付き物だ。

定食屋で生姜焼き定食を頼むとお勘定がついてくる。
しかし生姜焼きは美味しい。
そういうものなんである。

どう生きても僕は恐怖を感じるし、不安にもなるし、悲しくもなる。
ただ恐怖と不安と悲しみを感じる人生には、それ以上の喜びや感動がある。

せっかく街に散歩に出かけた人が、犬のフンや立ちションの後を見て嫌な顔をして帰ってくる。
よくある光景だけど、そこにはきれいなお姉さんも、美味しそうなパンの香りも、街角のミュージシャンの音楽も、きっとあったはずなのだ。
素敵なものはあって当然、自分が嫌なことばかりに目を向けているのだから、嫌な気分になるのは当たり前でしょう。

で、僕が言いたいのは終始一貫「気分良く生きよう」ということなんである。
嫌なことは、目に入る。
これは脳の仕組みだから、仕方ない。

ならばそれと同じかそれ以上に、素敵なものを見つけようとすればいい。
何もしないでいると嫌なこと、不安なことを見つけるのだから、何かしていればいいんである。
「楽しいことを見つける努力」をすればいいんである。



「楽しいことを見るける努力」は、やり始めると人生が最高に楽しくなる。
今までの「努力」という言葉のイメージがひっくり返る。

何せ、努めて自分の気分がよくなることや楽しくなることに身を投じていくのだ。
美味しい料理が好きな人は美味しい料理を食べ、素敵な音楽が好きな人は素敵な音楽を聴き、セックスが好きな人はナンパでも出会い系でも風俗でもどんどん楽しむ。

それが僕にとっては実家に帰ってのんびりすることであったり、部屋の掃除をすることだったりするのだ。
そういった事柄を見つけるのも簡単で、例えば「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」が頭に付くモノコト。
これが往往にして、自分の本当にやりたいことであるケースが多い。

「実家なんか帰っても何する訳でもないもんなぁ・・・」と思っていたけど、帰ってみたら穏やかな空気と自然の囁きがめちゃめちゃ気持ち良かった。
「掃除なんかしてもどうせすぐ汚れるしなぁ・・・」と思っていたけど、やってみたら掃除の最中に自分の気持ちが心が整ってきて、部屋がきれいになるころには気持ちもかなりスッキリしていた。

「でもなぁ・・・」「どうせ・・・」に、挑戦してみてはどうだろう。
良いことも悪いこともちゃーんとおこるから、その中の「良いこと」「素敵なこと」「気分がよくなること」に全力でフォーカスを合わせてみてはどうだろう。

僕はこれから新しい部屋の鍵を受け取って、バルサンを炊いて天井と壁と床を掃除する。
しこたま掃除の指示を出してきた彼女様とは、まだ連絡が取れていない。
僕の心、整いまくっちゃって、仏のレベルに達しちゃうかもしれない。
ほら、素敵なこと、あるでしょう?(白目)





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引用元:その不安は的中する。だけど、同じくらい素敵なことも起きる。
鍵には2種類ある。
自分で用意する鍵と、人が用意する鍵だ。

自分が用意する鍵は、自分の大切なものを守るために用意する。
人が用意する鍵は、人の大切なものを守るために用意されている。
鍵というのは、人生の防衛網において実に重要な、まさにキーアイテムなんである。



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大切なものを守っているからこそ、鍵というのはおいそれと人の手を渡ったりしない。
仕事の休憩中に



「ちょっと悪いんだけどお前の部屋の鍵2~3日貸してくんない?」



なんて話しは、普通しない。
そんなタバコ切らしちゃったから一本ちょうだい的お気軽さでやりとりするものではないからだ。
迂闊に女性にそんな言葉を掛けたら、鍵がもらえないどころか職を失う可能性もある。



鍵のやりとりには「信頼」が必要だ。
それも生半可な信頼ではない。
「この人は別に悪い人じゃないから」程度の信頼では、家の鍵や金庫の鍵、自転車の鍵だって、貸したくはないだろう。

不動産賃貸の部屋を借りるための手続きがあれほど煩雑なのは、その信頼を様々な角度で検証する必要があるからだ。
家賃を払えるだけの収入があるのか、その収入は安定しているのか、などなど、主に金銭的な部分に着目される。
その他にも、畳の上でボディペインティングをする趣味がないか、きちんとトイレで用が足せるか、週に一度ベランダから月に向かって泣きながら大声で般若心経を唱える習性がないかなどといった疑いの視線に勝ち得て初めて、我々は鍵を手にいれることができるのである。



明日、新しい部屋の鍵が手に入る。
今までで一番高額だった鍵だ。
新しい生活と、新しい日々が待っている。

懸念される唯一にして最大のポイントは、その部屋の鍵を所持するのが僕だけではないということだ。
虎穴に入らずんば虎子を得ずと言うが、その穴には虎しかいない。
どんなに疲れていても、どれほど良い気分でいても、常に鋭い牙や底なしの敵意と隣り合わせである。

幸いなことに、その部屋には僕の個室になる予定の5.5畳の部屋がある。
不幸なことに、5.5畳は今の事務所よりも狭いスペースだ。

しかし幸いなことに、その部屋があるお陰で僕は扉に鍵を設置することができる。
しかし不幸なことに、「お前の部屋の鍵を外せ」と恫喝された時に、それをはねのけるだけの力が僕にはない。

だが幸いなことに、彼女様は僕の仕事部屋に何の用事もない。
だが不幸なことに、彼女様は自分の気に入らないことは徹底的に排除する気質がある。



僕の当面の目標は、その部屋の鍵を手放さなくても済むように、さらに従順さに磨きをかけることだ。
既に彼女様から明日、家電やエアコンの搬入業者が来るまでにバルサンを炊いて部屋中を掃除しろという指示が出ている。
財布が一本化される関係で、僕の金庫の鍵も渡すことになった。

鍵を手に入れたはずのに、失ったものの方が多い気がする。





>>>山本優作のHPはこちら。

引用元:手に入れた鍵。失った鍵。虎子はなくとも虎穴の中。
実家に帰省してきた。
月に一度の楽しみで、週末土日に体が自由な時を狙って帰る。
今回は色々と報告事項もあり、お盆の行事もあり、締切間近の仕事もあったりしたのだけど、やはり毎回の帰省の目的は変わらなくて、それは「気持ちの良い場所に自分を置く」という、とてもシンプルなものだったりするんである。



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「気持ち良い」ということを、もっと大切にしたい。
僕はよく神社に行くのだけど、それもやっぱり「気持ちが良い」からだ。
逆にザワザワする場所や心が引きつりそうになる場所はどんどん避ける。

素敵なアイデアというのは、余裕のある心から出てくるでしょう。
優しい言葉というのは、穏やかな心から出てくるでしょう。

自分を気持ち良くさせる。
気持ち良くなった自分は、勝手に素敵なアイデアを吐き出すし、勝手に人に優しくなったりするのだ。
その「気持ち良い」という土壌に、技術やノウハウというものを立てていきたい。
気合いや熱意というものも、やはり「気持ち良い」という大地を踏みしめて解き放ちたい。



「気持ち良い」がないと、しんどい。
しんどいのは嫌である。

誰かの発言にカチンとくる時は
誰かの考えをバカにする時は
誰かの行動を非難する時は

僕らは結構な確立で、元々苛ついている。
「気持ち良い」と、「気分が良い」と、それが出来ない。
ええわいええわい、そーゆー考えのヤツもおってええわいと、余裕満面許しちゃったりする訳なんである。

もちろん人間だから、どんなに気分が良くても許せないこともある。
だけど、気分が良いとだいたいのことが許せる。
それだけで、「許せない」という状態を脱せるだけで、どれだけ楽か。

許せないとしんどい。
しんどいのは、嫌なんである。



という訳で今回も実に気分良く大阪の事務所に帰ってきた。
帰りの電車の中で気分良く本を読んでいたら、次の自分の人生のステージがなんとなく見えた。

やっぱり僕は、人に何かを教えるということをやりたいのだ。
長年教師をしている父を尊敬しているからか、袈裟を着て説法をしていた母方の祖父を見ていたからか、僕の周りに愛のあるお師匠が沢山いたからか、いいえ、たぶん、全部が理由で。

では、何を教えるのか。
それはやっぱり、「気持ち良い」ことなんだと思う。
今ポケットの中には、この「気持ち良い」という言葉ひとつしか入っていないのだもの。

そうと決まったら、次は何をするか、よし、考えるぞ。




>>>山本優作のHPはこちら。


引用元:いい気分で一歩進む。気持ちの良いことは正しいこと。