「三重県の座繰製糸についての一考察」
当記事中の製糸にまつわる用語について
動力(蒸気機関など)を伴う製糸機械(reeling machine)が導入された明治期の文献等に於いては、
それを指して“器械”と表記し、製糸機械を用いた製糸の事を“器械製糸”と呼称していました。
製糸の分野では、現在でも当時の表記法や呼称を踏襲し、製糸機械(reeling machine)による製糸を“器械製糸”と言い習わしていたりします。しかし、それでは現代的な“ことばの感覚”とは乖離が著しく、「機械」と「器械」を明確に言い分かつ現在の言葉の用例に沿えば理解に混乱をもたらします。
事実、製糸を扱う、各々の専門領域でも、製糸機械(reeling machine)を用いる製糸について、
器械製糸と機械製糸が鼎立して用いられており、例えば、製糸機械という用語を用いながら、そのれを用いて行なう行為について器械製糸という言葉を用いている例もあり、このような「機械」と「器械」の表記の適用についての事情から考えれば、明治期という過渡期の誤謬を、そのまま受け継ぎ慣用化して、現在でも混在している事情が伺えます。
だから、現時点に於いても、この製糸機械(reeling machine)を用いる製糸について慣用例に従い、「器械製糸」という言葉を当てはめて用いた場合、座繰器や踏転製糸器を用いた人力による製糸の形態を、どのように呼称すれば良いのかという問題は未解決にして放置せざるを得なくなってしまいます。
そして、その事に加え、何よりも、そのような状態では製糸にまつわる実態が一般の方に向けて発信する場では伝わりに難いという実情を鑑みて、当記事においては製糸技術を以下に示すように分類し記載しております。
● machine
・機械製糸(蒸気機関・水力などの動力機関を伴う。)
【動力を伴う機械(machine)を用いた製糸 ⇛ 機械製糸】
● instrument
・器械製絲(人力によって駆動する専用の道具を用いた製糸)
【人力で動かす器械(machine)を用いた製糸 ⇛ 座繰製糸】
【人力で動かす器械(machine)を用いた製糸 ⇛ 足踏(ダルマ・踏転器)製糸】
【人力で動かす器械(machine)を用いた製糸 ⇛ 玉糸製糸】〔玉繭・屑繭を用いた〕
● silk reeling techniques
・手繰(手挽・手引)製糸(簡単な道具は用いるものの、主として、ひとの手技に頼って行なう製糸)
【丑首繰り法】
【丑首座繰り法】
【奥州流胴繰り法】
【三丹流手繰法】
【手挽き紬糸】〔玉繭・屑繭・出殻繭を用いた〕
三重県での、過去の養蚕と座繰製糸の事情を調べています。
以前に、工房がある一志郡や、伊賀地方(那賀郡)、北勢地方などでは黄繭種の飼育が盛んであったということにふれましたが、同じ三重県内でも、南勢地方では売り繭をしていた長野、群馬県の製糸家の多数が、アメリカへの輸出生糸の生産をしていた関係から白繭を要望したので、南勢地方では白繭種が主流だったそうです。
このような事が判ってくると、養蚕製糸といっても、一様でなく、輸出向・国用向(国内織物用)ということがあったという点が思い起こされます。
例えば、昭和十年の時点で、座繰り製絲場が2乃至3工場あったことが確認できる那賀郡の場合、別の史料に照らし合わせれば、輸出向0・国用向3工場とあるので、那賀郡には国内織物用の製絲に携わる座繰り製絲場が3工場あったことが確認できます。
他の史料も加えて、昭和十年ころの那賀郡の器械製絲場の実情にせまれば、座繰り製絲場x1、座繰りと玉絲製絲場x1、玉絲製絲場x1の、計3工場があったことが浮かび上がってきました。
座繰製糸というと群馬県というイメージができあがっていますが、その改良座繰製糸結社で有名な群馬県では、そのような結社での製糸も大正初頭頃から順次、座繰りの器械製糸から、機械製糸に変化していったそうですし、この同時期になると群馬県では座繰製糸場は消えて、前橋や渋川を中心にした玉糸器械製糸場があるのみになってしまっています。
だから、昭和の恐慌も乗り越えて、座繰製糸を行っていた三重県の、この状況は面白いですね。
そして、さらに調べてゆくと、当時、三重県で飼われていた黄繭種の品種もわかってきました。
また、その品種の由来をたどると、明治の頃に選定された品種で、この品種の開発者の方の苦労を記したものを読むと、生糸輸出全盛で白繭種主流の当時では、黄繭種は見向きもされなかったのに、優秀な黄繭種ができたと云う事がもれると、同じような名前をつけた粗悪コピーが出回ったりして大変な目にあわれたそうです。
黄繭種なんかには興味もなかった人が、売れるとなると目の色を変えて、
粗悪コピーしてくるなんて、最低ですね。
このようなことは、今も昔もあることですが、・・・
志の有無が、そこの両者を分かつのでしょうね。
三重県で黄繭種が飼われ、また、戦争で座繰り製糸が途絶えるまで、それらが残った理由を考えれば、・・・
ひとつは、和装関係の地場産業である伊賀組紐があったということが関係してくると思います。
このように、伝統的工芸産業の素材との関係で器械製糸を見てみると、伝統的工芸産業の産地の近辺や、産地に素材を提供している昔からの関係があるところでは昭和十年頃になっても座繰りの器械製糸場が残り、そうでない輸出生糸が主流のところでは、それまでに座繰り製糸は機械製糸に移行してしまい、機械では糸が引けなかった屑繭の整理産業という形で器械の玉糸製糸が行なわれるというような構図があったように思います。
このような、すでに三重県では廃絶してしまったことについて調べるのは、時間と、根気と、手間隙がかかって、「疲れるな。」と思うことも頻りなのですけれど、やっぱり、調べてゆけば、自分の方向性とかが、はっきり自覚できる面も現れてきたり、意外な事実にも出会えるので、面白いですね。
フロンティアの背後に隠された志と地道な努力。
粗悪コピーにもめげない、タフなメンタリティー。
ピュアな志に満ちた先人の行ないは、時代を超えて勉強になりますね。