Living Will(生前の意思) について。
こんにちは。
今日は夕方から食事会の予定がある以外はまったり暇なので重要なことを書いておこうと思ってます。
わたしのリビング・ウィル(Living Will)…
つまり、「生前の意思」についてです。
なんだか妙なことを考えているな、って話ですので念のため…現在わたしは至って健康です。
なぜここでいきなり書いたか、ということに関してはのちに触れます。
重たい話なので、ふさぎがちの方はお避け下さい。
=============
さて、ここからは個人の意見ですが…
わたしは移植しても生命に直接関係ない臓器についてのドナーになることは、承諾したいと思っています。
レシピエント側からしても、臓器移植にはさまざまな条件があり、ドナーが増えることはこの条件に合致する確率をあげることにもつながり、喜ばしいことだと思います。
しかし脳死判定後の生命にかかわる臓器のドナーになるのに関しては、承諾は今のところしたくないと思っています。
生命維持装置やIVHの恩恵であれなんであれ、少しでも生きることができるなら、できるだけ長く生きたいと思うのです。
レシピエント側からは提供を希望されることは言うまでもありません。
しかし新聞にもあるように、臓器提供の例がはびこることによって、提供の拒否が非難される事態にはなってほしくないのです。
今まではドナーカードによって提供の意思の有無が判断されていました。
しかし今では…
提供承諾の意思を伝えるのは簡単ですが、では提供拒否についての意思はどのように伝えたらいいのでしょう。
この類の話はあまり縁起がよいとは言えないので、家族に相談しづらいところです。
なので、いずれ話すにしても…ここに掲載するに至りました。
(わたしの両親はともにわたしのmixiその他ブログは一切知らないので)
生きられるなら、できるだけ。
意識が戻ることが絶望的でも、生にすがりつきたい。
これは尊厳死や安楽死についても同じこと。
医療が発展したことによって、植物状態で生きながらえることの倫理的問題…
昨今いろいろと言われていますが、わたし自身は少しでも長く生きることができるようになる技術はできるだけ受けたいですし、どういう状態であれ生きていることを素直に喜びたいのです。
「植物的機能(=自律神経系)が続く限り、ひとは人であり続ける。」
と言った人がいます。
長い間つらいこと、苦しいことに耐え続けてきた人生。
最期に病気の痛みに耐えなければならないとしたら、それも人生。
安楽死や尊厳死によって、それまで耐えてきたことが無意味になるような結果になってしまうのは本望ではありません。
この意思をいつかどこかにしっかり書いておこうと思います。
=============
さて、臓器に関しては最近、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究が進んできているという話を聞きます。
今までは移植でしか助からなかった患者さんも、自分の細胞によって助かる時代がいずれ来るでしょう。
そして、もしこれがすべての臓器において実現したとき、また生命の倫理観は変わるのかもしれません。
今週、ようやく大学が始まります。
秋学期の授業でわたしは2つの科目で生命倫理について学ぶ予定ですが、こういう問題は忌み嫌われる傾向にあるとはいえ、やはり大事なことだと私は思います。
誰だって、いつかは向き合わなければいけない問題ですから…。
※意見等、ありましたらコメントくださるとうれしいです。
今日は夕方から食事会の予定がある以外はまったり暇なので重要なことを書いておこうと思ってます。
わたしのリビング・ウィル(Living Will)…
つまり、「生前の意思」についてです。
なんだか妙なことを考えているな、って話ですので念のため…現在わたしは至って健康です。
なぜここでいきなり書いたか、ということに関してはのちに触れます。
重たい話なので、ふさぎがちの方はお避け下さい。
=============
最近新聞記事で臓器提供の話をよく目にします。
本日の読売新聞の記事を読んで、少し真剣に考えたのですが…。
7月に改正臓器移植法が施行されるに伴って、脳死判定患者の家族の同意による臓器提供ができるようになりました。
これに伴って、家族の同意による臓器提供が世間で注目され、またこの例も増えているとのことです。
さて、改正法施行前は本人の意思表示が可能な時期に書かれたドナーカードやその意思を示す書類などがないと、脳死判定患者の臓器提供が認められませんでした。
そのために脳死判定患者がドナーになる例は少なく、また本人の意思表示があってもそれをきちんと証明するものがないせいで提供が実現しないこともありました。
この法改正による緩和によって、上のような人々の提供も可能になり、より多くの臓器提供者が出ることが予想されます。
いままでより、多くの患者の命が臓器移植によって救われるかもしれないのです。
============= 本日の読売新聞の記事を読んで、少し真剣に考えたのですが…。
7月に改正臓器移植法が施行されるに伴って、脳死判定患者の家族の同意による臓器提供ができるようになりました。
これに伴って、家族の同意による臓器提供が世間で注目され、またこの例も増えているとのことです。
さて、改正法施行前は本人の意思表示が可能な時期に書かれたドナーカードやその意思を示す書類などがないと、脳死判定患者の臓器提供が認められませんでした。
そのために脳死判定患者がドナーになる例は少なく、また本人の意思表示があってもそれをきちんと証明するものがないせいで提供が実現しないこともありました。
この法改正による緩和によって、上のような人々の提供も可能になり、より多くの臓器提供者が出ることが予想されます。
いままでより、多くの患者の命が臓器移植によって救われるかもしれないのです。
さて、ここからは個人の意見ですが…
わたしは移植しても生命に直接関係ない臓器についてのドナーになることは、承諾したいと思っています。
レシピエント側からしても、臓器移植にはさまざまな条件があり、ドナーが増えることはこの条件に合致する確率をあげることにもつながり、喜ばしいことだと思います。
しかし脳死判定後の生命にかかわる臓器のドナーになるのに関しては、承諾は今のところしたくないと思っています。
生命維持装置やIVHの恩恵であれなんであれ、少しでも生きることができるなら、できるだけ長く生きたいと思うのです。
レシピエント側からは提供を希望されることは言うまでもありません。
しかし新聞にもあるように、臓器提供の例がはびこることによって、提供の拒否が非難される事態にはなってほしくないのです。
今まではドナーカードによって提供の意思の有無が判断されていました。
しかし今では…
提供承諾の意思を伝えるのは簡単ですが、では提供拒否についての意思はどのように伝えたらいいのでしょう。
この類の話はあまり縁起がよいとは言えないので、家族に相談しづらいところです。
なので、いずれ話すにしても…ここに掲載するに至りました。
(わたしの両親はともにわたしのmixiその他ブログは一切知らないので)
生きられるなら、できるだけ。
意識が戻ることが絶望的でも、生にすがりつきたい。
これは尊厳死や安楽死についても同じこと。
医療が発展したことによって、植物状態で生きながらえることの倫理的問題…
昨今いろいろと言われていますが、わたし自身は少しでも長く生きることができるようになる技術はできるだけ受けたいですし、どういう状態であれ生きていることを素直に喜びたいのです。
「植物的機能(=自律神経系)が続く限り、ひとは人であり続ける。」
と言った人がいます。
長い間つらいこと、苦しいことに耐え続けてきた人生。
最期に病気の痛みに耐えなければならないとしたら、それも人生。
安楽死や尊厳死によって、それまで耐えてきたことが無意味になるような結果になってしまうのは本望ではありません。
この意思をいつかどこかにしっかり書いておこうと思います。
さて、臓器に関しては最近、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究が進んできているという話を聞きます。
今までは移植でしか助からなかった患者さんも、自分の細胞によって助かる時代がいずれ来るでしょう。
そして、もしこれがすべての臓器において実現したとき、また生命の倫理観は変わるのかもしれません。
今週、ようやく大学が始まります。
秋学期の授業でわたしは2つの科目で生命倫理について学ぶ予定ですが、こういう問題は忌み嫌われる傾向にあるとはいえ、やはり大事なことだと私は思います。
誰だって、いつかは向き合わなければいけない問題ですから…。
※意見等、ありましたらコメントくださるとうれしいです。