2012-03-11 22:10:15
あの日から1年。
テーマ:ブログ今日14時46分練習中でしたが、ちょうど気付いたのであの日のことを話してた。怖かったなあ。あのことは忘れてはいけない。
練習前の黙祷の時もコーチが言ってた。こうして練習できることに感謝しなきゃ。少しでも早く被災地の復興を進めなきゃいけないし、協力しなきゃ。
2011年3月11日14時46分。
あの時私は学校で部活をしていた。揺れに気付いて避難経路確保のためドアを開けていたけど、体験したこともない大きな揺れが全然収まらなくて、とても長く感じた。体育館の天井の一部が剥がれて落ちて来て、バッグ持って走ってグランドにみんなで逃げた。 震源は関東だと勝手に思ってたけど、グランドに出てワンセグを見てびっくりした。
宮城って。
震度5弱だったけど、とても怖かった。みんなは家族と連絡が取れなくて、泣いてる子もいた。大丈夫だよって声かけてたけど、実際すごい怖かった。ワンセグ見るまでは近くが震源だと思ってたから家族の心配しなかったけど、宮城ってわかったら距離的には東海地震だとしてもおかしくない揺れの大きさだったんだね。
電車は動いてなかったけどバスは動いてたから家に帰って1人になって、報道や余震に震えてた。美紀がSkypeでオールしてくれた。
もう1年、まだ1年。
忘れちゃいけないし、どこでも起こりうることだから復興も対策もしてかなきゃいけない。
体験を語る、それだけでも防災になる。忘れない、それだけで被害者が報われる。
もう二度とこんな悲しみや恐怖を多くの人が味わうことのないように願う、、、
そんなあの一日、いや半日。
詳細を書いておく。忘れられないことですが、いつか記憶が薄れてしまった時に見て思い出せるように。
あの時のことは今でも鮮明に覚えてる。
何かの練習が終わって、スコピの練習しようかとしていたときだった。
さやこの「揺れてない?」の声に、隣でやってる部活とかジャンプ練習してる人達がいるからその振動でしょ?と言った。
違った。
揺れてたのは床ではなく地面だった。
ゆらゆらとしたところから大きく横に揺れ始めた。
私は東海地震が来ると小さい頃から名古屋で教育をされていたせいか、すぐドアのノブを掴んで避難経路確保のためドアを開けた。なかなか収まらない揺れの中、バラバラと体育館の天井が剥がれ落ちて来た。
体育館が潰れる、と思った。
あたしは一目散に逃げようかとは思ったが、みんなが動き出さないのでだいぶ驚いた。みんな初めての体験に動揺していたのだと思う。コーチの「パーカーを着てフードを被って逃げなさい」の声を聞き、ドアを開け放しバッグのところにあるパーカーを取りバッグも抱えて先頭を切って3階から1階へ降りた。降りたことろで「自動ドアは使えないかな」というまみなの声に手動ドアから外へ出て、1番近くにあった附属小学校のグランドに走った。
少しして大学関係者の人が「大学生はこちらのグランドへ」と校舎の反対側のグランドは誘導された。
あれは今でも意味がわからない。
移動する方が危険だっただろう。
そうは思ったが、10階建ての校舎がひしめく、いつガラスが割れて落ちてくるかもわからない道を通って大学のグランドへ50mくらい走った。もう疲れていた。
グランドに着いたら他の部活の人など200人くらいが集まっていたと思う。みんな騒がしくしたり、泣いてたり。座って待機をされられたが、座っていると余震を感じ恐怖で騒ぎ泣く子がいたのであたしは立って足踏みをしろ と言った。それが1番揺れを感じないと思ったから。わめいても仕方がなかった。
そこでとにかくあたしは親へ無事の連絡をしようと思った。電話が通じないことは承知だったが一応かけた。勿論無理でとりあえず「無事です」のみのメールを両親に送信した。
あとでわかったことだが、その時ママは何故私が突然安否確認のメールを送って来たかわからなかったそうだ。
ママは妹であるおばさんと車で出掛けていて、おばさんが車のハンドルが取られるので 風が強いなあ と思っていたという。それが地震だったのだ。名古屋でも小さい揺れながら長く続いたため地震酔いした人が多かったとか。
そこで、携帯をつかっていて初めて気づいた。バッグを持っていて携帯が手元にあるのは私だけだったのだ。
信じられなかった。みんなは「何故持って来たのだ」「冷静だね」などと口々に言ったが、パーカーを取りにバッグに行ったのに持って来ない方がだいぶおかしいだろうと思った。だってあの時の体育館は天井が剥がれ落ちて来ていたのに。潰れてしまえば携帯や財布などがなくなり連絡も帰宅もできなくなる。
そしてとりあえずワンセグでニュースを見た。きちんと覚えてる。
「宮城 震度7」
衝撃的なテロップだった。宮城って東北だよね?って。そんな遠いところが震源なのに東京でもこんなに揺れたのか、と。
余震の中、泣いたりしていない何人かがヘルメットをかぶり体育館へ戻りバッグなどを持って来た。
それからは寮へ移動し、みんなで談話室でテレビを見た。
コンビナート火災、津波、地震の瞬間のテレビ局内、駅にあふれる人々、そんな映像を見ながら「揺れてる」と誰かが言う。それの繰り返しだった。
コーチが近くのスーパーでおにぎりや少しの惣菜、飲み物などを買ってきてくれてみんなでわけながら食べた。親と連絡がつかない、と半ベソの子も少なくない中、私は電話ができてマンションに電話してもらって被害がないか聞いてもらった。
携帯の電池はみんななくなってた。寮生に借りてたけど足りてなかった。
あの日から私は携帯の充電器を持ち歩くようになった。
マンションの被害がないことがわかり、怖かったけどバスは動いてて帰れたので、みんなが買い出しに向かう時に一緒に出てバス停まで送ってもらい、帰った。バスは混んでいたし、道は渋滞していた。
でも街は不思議と普通にも見えた。
帰ってからはTwitterで情報を取り入れ拡散し、電話回線を逼迫してはいけないと、実家とSkypeをして顔を見て安心した。
しかしテレビからはひっきりなしに「今揺れています」緊急地震速報のブザー音が鳴り、怖くて怖くて眠れなかった。揺れてるのか揺れてないのかもわからなかった。
怖くて寝れなかったところ、美紀がSkypeしてくれて、夜の暗いのがまた怖くて怖くて仕方なかった私に朝まで付き合ってくれた。繋がってるだけで緊急地震速報がなってもまだ気を保っていられた。すごく安心できた。
そして朝になり、太陽が出て来て安心し、疲れていたのか少しだけ寝ることができた。
これが私のあの日の記憶。
あの日、地元の人が何人も大丈夫?って心配してくれた。麻紀はすぐメールくれて、有美は電話してくれて。他にもメールくれたり、電話してくれたり、食べ物とか飲み物とかくれたり、送ってくれたりして。沢山の人に感謝しなきゃいけない。
本当にありがとうございました。
生きていること、生かされてることに感謝して生きます。
終わり。 2012.3.11
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