PTSDは「病気」であり、治癒する。 | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

拝読ブログの記事
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-398.html
のコメント
PTSDもオカルトである
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-398.html#comment6535
にコメントを付けようとしたら長くなったので、記事にしました。

PTSDなどという『病気』は存在しない。
…いずれも、抗精神作用がある毒物の中毒症状に過ぎない。
すなわち、西洋オカルト薬学が作り出した『麻薬』中毒である

というのは、勘違いです。
抗精神作用がある毒物の中毒症状」がないケースでも
「暴力依存症」といった形で「加害者としてのPTSD」=触法精神障害者になるからです。

もっとも、現代社会には、
抗精神作用がある毒物」や(therapist/psychiatrist's ego-centered で恣意的な「なんちゃって診断」に基づく)心理操作によって「医原性PTSD」を発症させているケースがあることは間違いないと言えます。
therapist/psychiatrist's ego-centered だから「医原性PTSD」を発症させられるわけで、client-centered (← client's ego-centered ではないことに注意)=来談者中心でないところが致命的な誤りです。

来談者中心でなく、来談者そっちのけで、当事者たちが「人的環境・物的環境の現状への適応」ができれば「よし」とする適応論です。その「人的環境・物的環境の現状」こそが「社会病理」を含んでいるため、さような状況に適応することをゴールとする「適応論」に陥ることは、人間存在を歪めてしまいますから、それこそ
『人の病気が治らない=社会がよくならない』
http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-396.html
結果を招いて終わってしまいます。「事なかれ主義」では、こうした「適応論」で「人の病気が治らない=社会がよくならない」しかし、一時的に波風は立たなくなるので、心理職や精神科医から離れて「通院が終わり」、「治った」ということにしよう——ということになります。処方薬に依存しながらであれば、もちろん、治ってはいないので「寛解」と呼ぶことにしよう——というのが従来の精神医療でした。そして、「ずれ」(http://bit.ly/1DkspnT)があることを感知せず、誰かにセルフネグレクト強要を受容させてOKということにして臭いものには蓋をします。これは、「構造的な暴力」という「社会病理」に他なりません。

そうではなく、S先生(http://bit.ly/Ssensei)のように、
「傷ついた人が自然にトラウマを受容していく様子との『ずれ』」に着目し、
「ずれ」(http://bit.ly/1F8rpFl)を
来談者中心(←“client-centered”であって“client's ego-centered”ではない点に注意)にして修正するだけの介入に止めて、あとは当事者たちの自己治癒力が働くことを妨げないことが唯一、精神医学が「患者」の人格権も生存権も守りつつ、その精神を機能するように回復させる道です。そうして、PTSDが治癒=精神が機能するように回復すれば、PTSDゆえのストレス脆弱性は緩和するし、認知機能の歪みが修正され、現実検討能力が発揮できる結果、人的環境・物的環境への適応も改善し、「構造的な暴力」に抵抗し、社会システムの改善に貢献できるようになります。

このように、PTSDには、どこにも「オカルト」の要素はなく、野口整体と同じ思想で捉えた「病気」の一種です。即ち、
「自分の力で病気の経過を
スムーズにまっとうさせ、
その病気を踏み台に
より元気な心身を創りだす」
http://www.ac.auone-net.jp/~youhaku/
というプロセスが「病気」です。


次に、
江戸時代まで日本人にはPTSDは…存在しなかった」というのも勘違いで、
「解離」状態が観察されていたということは「PTSD」が存在したということです。
しかし、かつて日本では、
断食=斎戒(=purification)や「行(ぎょう)」で治していたので、「抗精神作用がある毒物」や(therapist/psychiatrist's ego-centered な)心理操作によってPTSDをこじらせることはなかったということです。とはいえ、「心中もの」が明治維新以前から演劇のテーマになっているように、自殺や他殺、どちらとも分類できない本当の心中——いずれも「解離」行動なので、治せなかったPTSDのために落命する人がいたのも事実です。解離による落命(事故死、自死、殺害)の回避は、(トラウマ強化受容 http://bit.ly/trauma-juyou によって)PTSD予防や治癒を通して可能です。

PTSD児に見られる主客未分もPTSDの特徴です。例:
http://ameblo.jp/raingreen/entry-10906188321.html
http://ameblo.jp/raingreen/entry-11994417174.html#c12686335718

PTSDに対処するには、
「トラウマという『人生最大の課題』と主体的にどう取り組むか」
http://amba.to/1CaNmD4
が問われます。従って、「主体性がない知識取得」は(ユングの言う)個性化に役に立たない点では「無意味」
http://amba.to/1z4PWEo
と言えます。

主体性のある知識取得の始まりは、「人と人との間」にあり、
「そもそもがinter-estで、人間存在の要は間にある」
http://ameblo.jp/raingreen/entry-11994417174.html#c12686335718

『Intéressant(アンテレッサン)について ― 欧語散策(1)』
http://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-11559954999.html

こういうわけで、地味でも臭くても良いので、kusaiinu 氏や
http://bit.ly/Ssensei
のように、臨床現場で治癒について現象学を進めることが人類の福祉に貢献する道であると私は考えます。以前、
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11990604750.html
に書きました。

以上のことは、「フリーメーソン」、「一神教」、「西洋科学」に依存しません。心身景一如(© http://ameblo.jp/kmomoji1010/)を、東洋的視点で見ようが西洋的視点で見ようが同じ現象を記述し、検討できるからです。


皆さまも、お大事に。