Gestalt Prayer | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

「変な人」のなかには、“Gestalt Prayer” が好きな人が結構いるはずです。私もそうです。日々これ、ご期待に沿えず申し訳ないものの、悪しからず、ご寛恕くださいとしか言いようがないので。

「神は妄想である」——ドーキンス
愛は妄想である——キルケゴール読み
近代的自我は妄想である——ラマチャンドラン読み

なんだ、結局、全部「妄想」——脳の産物——に過ぎないではありませんか。アホらし~。

註:「アホらし~」と思う一方で、宗教的妄想は物心ついてからずっと定着しておりますので、これから捨てようとは思っておりません。むしろ、それとは折り合いの悪い近代的自我のほうを捨ててもいいかと思っております。


それでは、生きている限り、いちばん、あてになるものは何かというと、豊饒の海のような無意識界(©神田橋先生『発想の航跡2』)。


「無意識界は豊饒の海である」
(神田橋絛治(著)『発想の航跡2』、岩崎学術出版社、 2004年、p.439)

これ、脳の側から観ると、自分の身体なんですよね。物言わぬ胃腸とか、手足とか、皆そう。

ですからねえ、ガリ勉の皆さま、勉強するとバカになりがちなので気をつけましょう。

身心を構成するサイレント・マジョリティたる身体細胞を無視すると、しっぺ返しを食らいます。


ところで、私、CPU が悪くてシングル・タスクなどと言われます。一度に一つのことしかできません。高速タイム・シェアリング・システムですが、シングル・プロセッサです。

ところが、私は短い間ながら、デュアル・プロセッサだったことがあるのです!——すごいでしょ~。

妊娠している間は、私の身体には2つの脳みそが埋め込まれていました。胎内の脳は、そのときはまだ「物言わぬ脳」でした。しかし、既に種々の機能を果たしており、急激な発達の道を進んでいました。その脳と私の身体は直接、胎盤で結びつけられていて強固なコミュニケーションが成立していました。そこのプロトコルがどうなっているのかは不明ですが、私はそこから非言語的な情報を得ていました。胎児や胎盤から分泌される化学物質によって、私の無意識界に直接、情報がインプットされ、それがまた、形成不全な近代的な自我しか持ち合わせない私の意識の側へ、ぽろぽろと漏れ出てくるのでした。それで食べ物の味覚が変わったりして何だか胎児が私に「あれ、食べて」「これは食べないで」と指図をしているかのようでした。そうやって母親の身体を使って胎内で育った子どもが外界に生まれ出て臍の緒が切れたからと言って、いきなり母の身体は「他者」であると認識するわけもなく、赤ん坊というものは母親は自分の身体の延長だと思っていて当たり前です。


村上靖彦氏が妊娠、出産、授乳を体験できると、また面白い展開になるのではないかと妄想する次第です。ほらね、こういう妄想もまた人畜無害でしょ?

註:ここでいう「人畜無害」とは、妄想がひどくなっていって人格が破綻したりはしないという意味です。「そんな想像、グロテスクすぎる~ありえない~」というご意見がありましたが、私もさようにグロテスクなことを「想像」したわけではなく、出ちゃうから「妄想」なんですねえ。「妄想」は、しようと思ってするものではない点、悪しからず、ご寛恕くださいませ。

自閉症の現象学/村上 靖彦

¥2,730
Amazon.co.jp

話は戻って、私は妊娠中に赤ん坊の指図に従って構成した食生活を、出産後いきなり変えたりすることなく、食べたものを分解・合成して母乳を分泌しており、自分の子どもに最適化した食物を子どもに与えることができました。フェニールケトン尿症などがある場合は別ですが、大概の場合は、何も考えなくても普通に健康に愉しく暮らしていれば大丈夫です。これ、全部、無意識界を信頼して OK という世界です。

こうしたことを整理していくと、後知恵で「母性」という屁理屈(妄想)を作ることは可能なのでしょうが、そういう妄想を構成する必要はそもそもなく、「案ずるより産むが易し」——終わり。子どもがいる暮らしは楽しいな——というふうにすれば良いので、本田由紀(著)『子育ての隘路』

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち/本田 由紀

¥2,100
Amazon.co.jp

にあるように子育てが隘路になってしまっては社会システムとしてダメなんです。今の日本は、失業といった社会問題を個人で無理に解決させようとして、困ったことに母親を脅迫して教育ビジネスが稼ぐという構図があり、それがそのまま療育分野でも繰り返されています。そこでカモにならないためにも、神田橋ほか(著)『発達障害は治りますか?』を読んで、自分たち家族にとって「みんなが楽しい修行」を模索しましょう。

発達障害は治りますか?/神田橋 條治

¥2,310
Amazon.co.jp


近代的「自我」という「妄想」の「形成不全」がある私のようなタイプは、“Gestalt Prayer”に魅かれるのではないかという仮説を私は立てています。



ビデオで確認できるのは以下のようなシンプルな形です。

Gestalt Prayer

I am I
and You are You
I am not in the world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
“I” is “I”
and “You” is “You”

私は私、あなたはあなた
私はあなたの期待に添うためにいるのではないし、
あなたは私の期待に添うためにいるのではない。
「私」と名付けられたものは「私」であり、
「あなた」と名付けられたものは「あなた」である。


2013年8月9日追記:
http://now.ameba.jp/aya-quae/1794676315/
《Gestalt Prayer》は「我と汝」を確認し、それをベースに考えを進めるということでもある。「我とそれ」(http://amba.to/KelU8Z)を避けることで[PTSD予防]法の一種になっているのだ。


http://www.chukyo-u.ac.jp/educate/psychol/kyoin/z-kujiraoka.html
というエピソード記述のアプローチも[PTSD予防]を進める実践的な方法になっている。

こういうアプローチであれば、
「自分の子どもは自分で守るため、親は学習する(子どもを壊さないために)」
http://ameblo.jp/autist/entry-10380287084.html
にあるように、療育する立場にある養育者が子どもの自発性を無視して、子どもを暴力的に引きずって「散歩」できましたと報告するような[自己欺瞞]や[自己保身]が避けられることだろう。

悪気がなくても[自己欺瞞]&[自己保身]で子殺しOKに堕することはあり得るわけで、そうならないように[自己糾明]が必要なのだ。そこが甘いとカルト的側面を強める(「アングロサクソンの妄想性障害」 http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11547997142.html に書いた)。



皆さまも、御身ご大切に(←心身一体科学の見地からしても[PTSD予防]になるご挨拶)。