念彼観音力

全国各地の寺院・城郭の訪問記、御朱印収集、仏像見仏の記録。
現在は西国三十三所、坂東三十三所などの観音霊場や、
日本100名城スタンプラリーに挑戦中。


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 前の週の水野敬三郎先生の講演では、運慶の現存作品を製作年代順に解説する展開でした。一方でこの週の山本先生の冬期講座では、近代における運慶研究がどのように進展してきたかを時系列で追うとともに、山本先生ご自身と運慶作大日如来像との関わりについて交えながら解説してくださいました。

 話は3つのパートに別れていて、I.円成寺像、II.光得寺像、III.真如苑像という構成でのお話でした。以下、順を追って講演メモを補足する形でまとめてみました。

I. 円成寺 大日如来坐像

 この像が発見されたのは1921年で、これによって近代的な運慶研究が始まったと言える。

★円成寺像発見以前

 円成寺像が発見される以前の運慶作品は
☆東寺南大門の金剛力士像(※明治元年に焼失)
☆東大寺南大門の金剛力士像 
☆興福寺北円堂諸像 
の3件しかなく、うち2件が仁王であったことからも、円成寺像が発見される以前は、「運慶イコール仁王」のイメージであった。(例えば夏目漱石の小説中にも運慶作の仁王が出てきたりする。)

★近代的な運慶研究の始まり 

 1921年になって円成寺多宝塔(当時の多宝塔は移築されて、鎌倉の長寿寺の観音堂になっている)から発見された大日如来坐像の台座銘文により運慶作であることが判明する。
 
銘文では
「大仏師康慶
実弟子運慶」
と複数行で書かれているため、当初は康慶と運慶の合作であると考えられたこともある。
 しかし、台座に木の節や中央の穴があるために、改行されて書かれたものであり、実際は「大仏師康慶実弟子 運慶」と一行で書きたかったのだろう。さらに、花押が運慶のもので運慶の立場での墨書であると見なせる。製作期間も11ヶ月かかっていることから運慶が独りで作り上げたと考えられる。

★戦後の運慶研究の発展

・1959年(昭和34年)、浄楽寺像の発見 ⇒ 胎内に月輪形の銘札が納入されており、銘札に運慶の銘があった。奈良や京都ではなく、東国で運慶作品が実際に見つかったことは大きな意味がある大発見であった。

・月輪とは何か?
しゃもじのような丸い部分が月輪(心月輪ともいう)で、仏像の魂を表現する。これは悟りを開いた心を○で表現する。
 金剛峯寺八大童子にも解体修理されていないが、X線調査により中に月輪形の銘札が納入されていることが分かっている。

・1960年 願成就院像の発見
  江戸時代に取り出されたと言われる銘札に運慶作と記されていた。しかし、長い間、その銘札は今は現存しない仏像から出たもので、現存する毘沙門、不動像は運慶の作品ではないと思われていた。
 というのも、運慶作品は東国にはないだろうということと、作風が現存する不動、毘沙門は、円成寺大日や北円堂弥勒などと異なることなどから、これらの仏像は運慶作ではないと考えられていた。

 しかし、浄楽寺像が運慶作なら、それに類似する願成就院像も運慶で間違いないだろうという見方になった。

★円成寺 大日如来坐像について

山本先生と円成寺の大日如来との出会い…大学時代の山本先生はこの円成寺大日如来像、特に側面感と人間の自然な体つきの表現に魅せられて、仏像の研究を始めようと思った。そして、卒業研究も円成寺の大日如来に関する論文を書き、その後、修士課程に進む。

★奈良国立博物館所有の平安時代後期の大日如来坐像と比較した円成寺像の特徴
・智拳印の高さ
 円成寺像の智拳印の位置が高い。一般の像はおへその辺りで結んでいるが、円成像は胸の前。高い位置で結ぶ智拳印によって、空間が複雑になっている。

・足の立体感
 一般的な像が平面的なのに対して、円成寺像は立体的である。

・背中
 円成寺像は背中のふくらみを極端に表現している。これによって背中のラインにリズムが生まれている。

・高い髻
 東寺講堂の五大菩薩を参考にしているだろう。平安初期の密教像の様式を参考にしながらも、運慶は人間の身体の自然な動きを表現した新しい像を作った。


・1979年(昭和54年)、滝山寺での運慶作品の発見
  修士に進んだ山本先生であったが、その当時、運慶に関連する新しい資料がないため、運慶研究ではなく鎌倉時代後期のことをテーマに修士研究を進めていた。そんな頃に、恩師の水野敬三郎先生のところに手紙が届いた。それが愛知の滝山寺に運慶仏があるという手紙であった。

 滝山寺にいた寛伝という僧侶が頼朝の従兄弟にあたるため、源頼朝の菩提を弔うために発願された像である。

II. 光得寺 大日如来坐像
 
 昭和61年に当時の群馬県立女子大の佐野助教授の紹介で、足利市に住む女子学生の卒業論文指導を手伝った。この学生の地元の足利にとても立派な大日如来像があるということで調査したところ、それが運慶作品であることが分かってくる。

 光得寺像は小さい像であるが、円成寺像と同じ大きさに見えるように写真を拡大して比較してみると、光得寺像のほうがスケールの大きさ、迫力を感じさせられる像である。理由として、手の組み方に迫力がある。顔つきも光得寺像は非常に強い顔をしていて、特に、あごが大きくなっている。これによってたくましさ、大人びた感じが出ている。

・胎内納入品について

 X線調査によって明らかになったのは納入品が、浄楽寺や高野山八大童子像などのような月輪形の木札ではなく、水晶の珠と五輪塔形の木柱からできている。水晶の球は、月輪形銘札の発展した形である。後の興福寺弥勒佛像でも、同様に水晶の心月輪が納入されている。

つまり、浄楽寺や高野山八大童子の頃の平面の円板の木の板で表現される心月輪から、興福寺北円堂の立体の水晶で表現される心月輪に発展していくことが判る。この光得寺像はその発展の中間に位置する年代感と考えられる。

・製作年代について

 1199年頃と推定。納入品の前歯は像の完成後に右肩から入れられていて、これは足利義兼あるいはその周囲が義兼が亡くなる直前にこの像を造らせたと考えることができる。ということは、足利義兼が亡くなった1199年頃の作と考えるのが自然。

・光背の三十七尊曼荼羅と獅子について
 注目すべきは光背の如来像や菩薩像。これが文書にある三十七尊曼荼羅に相当。頭の付近には塔があるが、これは曼荼羅の中で大日如来のシンボルである。本体の大日如来と光背の曼荼羅の大日如来が重複するのを避けるために塔で表現していると考えられる。

光背に三十七尊、台座に獅子がいるのは何か典拠があるのだろうか?

 ここで、東寺講堂の本尊大日如来の存在がクローズアップされてくる。「東宝記」という当時の記録によれば、東寺講堂の大日如来像の特徴として、光背の中に三十七尊があり、蓮華座には八頭の獅子を置いている点を挙げている。


 光得寺の大日如来像は東寺講堂の大日如来を模して造られたと推測できる。そうすると、円成寺像および、他の慶派の浄瑠璃寺像や岐阜の横蔵寺像なども光得寺像に似ているので、これらの像にも三十七尊、八獅子があったかも知れない。これらの像を『東寺講堂型大日如来』と呼ぶことができる。

 光得寺像の衣文線は膝のあたりの衣文を省略している表現などに見られるように、作風の上では光得寺像のほうが円成寺よりも進んでいることが判る。

(後編につづく)

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