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2012-01-12 21:22:16

国会議員の定数削減に関する頭の体操

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どもっ、aufのヘッドをやってる、早稲田政経政治の草竹敦紀ですっ。今日は、今少し話題になってる国会議員の定数削減に関して頭の体操レベルですが考えてみやしたっ。

中長期的にやり続けてこそ、初めて実を結ぶ政策もある。少子化対策なんかまさにそうだろう。家計への現金給付、保育インフラの整備、有休資源の利用、育児休業のシステム、女性にとってキャリアに傷がつかないようにするための種々の保障。これらを組み合わせて初めて効果が出る可能性が高まるが、その効果は10年単位で表れ、その恩恵が生産年齢人口、租税、社会保障の担い手の増加といった形で表れるのは、その更に20年先である。このため、短期的に効果が出ないといった早とちりやら、向こう30年先のことだからといった投げやりやらに走らない、息の長さもまた必要なんだろう。

以前のブログの繰り返しになるが、今年の日本政治は、消費税の増税の扱いが最も大きな政治的なイシューとなる。この関連で、最近半ば常識化しつつある議論として、税の引き上げの前に、公務員給与、議員定数の削減など身を切る姿勢を示す必要があるという身切り先行論がある。これがさも規定路線のように進行していくことに奇怪なまでの違和感がある。特に後者に関してそうである。

議論の前提として、国会議員の定数削減は法律改正だけでできるが、一度削減したらもはや再び増員はできないだろうとの予測に立つとした時に、その影響は長期的なものになるといった点は確認しておきたい。

そもそも何故増税が必要であるのか?を問い直した時に、仮に中長期的な社会保障の枠組みの維持にその目的があるとすれば、それが議員の定数削減と連動することはおかしい。我が国の人口構造の変化からして、現行の税率でもって現行の社会保障の枠組みを維持できないとして、仮に国民の多数が枠組みの維持を求めるとするならば、その分歳入を補強するために税収を増やすというのはしごく普通の判断である(その方法は、必ずしも増税のみにとどまらないにしても、要は還元されるのだから)。

一応、今回の増税の目的は、社会保障の維持と充実ということになっているが、歳出増のほとんどが社会保障費の増加によってもたらされているとすれば、本質は財政の補強にあるとも言える。仮に社会保障の自然増が現在の財政を圧迫しているにしても、これまでの長年の政治に財政の基礎的な部分の悪化の原因を求めるとすれば、連動してもおかしくないと一瞬思ってしまう。だが過去の失政の責めで、ある程度の詰め腹を切れというのは、そもそも代議制の理屈に合うのかという疑問が拭えない。

それに今回増税するにあたって定数削減をしたとして、再び7年後なり8年後なり更なる消費税の増税が必要になった時も同様の理屈で削るのだろうか?

まあこの不可解な連関をひとまず良しとしよう。それでも他にいくつか疑問が浮かぶ。1つは、民主党が提案している定数削減は衆議院の議席を80削減するというものだが、何故衆議院だけなのか?ということだ。政治家が身を切る覚悟を示すというのなら、参議院の定数削減も同時に提案しなければ理屈が通らないはずだが。

また1つは、ホントにできるのかということだ。09年の民主党マニフェストによれば、確かに衆議院の比例区の定数を80削減すると明記してある。野田総理は年始の会見で、公明党など小党に配慮して比例のみで削減というのを取り下げたようだが、とすれば小選挙区の定数も併せて削減することを目指すということになる。仮に今年の夏前に法案を成立させることができたとしても、小選挙区の定数を削減する場合はその後に区割りの変更からなんから来年夏の任期満了までにやることになるわけだ。果たして、この調整を含めてできるのか?

そして1つは、何故数を減らすことにこだわるのか?ということだ。つまり公費から政治家にあてがわれている費用をもって身を切る覚悟を示すというのなら、本来国会議員の数を減らすということに手段は限定されないはずだ。給与を減らすなり、政治家の数を大きな算定基準として交付されている政党交付金の総額を減らすなり、いろいろバリエーションは考えられるはずだ。それにも関わらず80削減することにこだわるからには、よほど80という数に何らかの合理性があるのか?と言われれば、どうやらそういうわけでもなさそうだ。

ここには代議制民主主義の下での代表者の数に関して、些かあきれるほどの軽さがあるように思えてならない。現行の小選挙区と比例区の300:180の割合と、300:100の割合を比べて、仮に明日選挙をやるとしたら、もしかしたら前者ではどの党も過半数に達しない可能性があるのに対して、後者では過半数に達する可能性が高い結果が出てくるだろう。80削るか否かといったことだけで、日本の政治がより多党制的な側面を残すか、より二大政党的な側面を強めるのかといった大きな分かれ目となりうるわけだ。その帰結が政治に及ぼす影響は大きいかもしれない。だから数を削る、どれをどれだけ削る、といった議論は、選挙制度のあり方を含めてより慎重に行われる必要がある。

(各国の連邦制、単一性と定数との関係、あり方に関してちょっと書こうと思ったが長くなりそうなので、今回は割愛っ笑)

言説政治の中で、消費税と身を切る姿勢はリンクされてしまった。だが定数を削減する、そのことの選挙制度のあり方全体の中での意味などは全然軽視されている。また参議院だけでなく、衆議院の選挙制度そのものを改正しようという動きもポツポツで始めている。ならば、身を切る=数を減らすに極限すんのは今はやめようというのが今日の結論だ。

じゃあ国民に対して示せる代替案はあんのか?。単純に考えれば、なくはない。

例えばこれも身を切るの中に入れられそうな感じだが、今度の常会で国家公務員の給与を7.8%削る法案が提出されるだろう。それなら、国会議員の給与、文書交通費、そして公設秘書の給与など国会議員1人にかかってる費用を同率下げたらどうだろう。減った分だけ院車など削ればいいし、もっとMっ気が必要なら赤坂の議員宿舎なぞ売っぱらってしまえばいい。722分の80は11%。大体トントンになるじゃないかと思う笑

冒頭の対少子化政策は、長年かけて決定を積み重ねてようやく効果が出せる課題だ。そしてこの選挙制度のバランスと絡んだ定数削減の課題。これは安易に、一回きりの議決でやれるが、その影響はよくも悪くも長きにわたる。だから他に代替があるなら先を急ぐべきではない。



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2011-12-27 19:16:24

「時間」の政治学

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どもっ、aufのヘッドをやってる早稲田政経の草竹敦紀ですっ。相変わらず乱筆ですが、何となしに野心的なもんが書けたのでのっけときます笑

物事を見る時に、「時間」を意識してみるようにしている。そこから人口に膾炙した法則を確認できるし、自分なりの観測基準を設定することもできる。僕はここ何年か、日本の政治の問題点を考える際に、制度的な改革、またそれよりも下位の次元の工夫によって改善できる点も多いだろうと言ってきた。その中の主要な一つが、選挙周期に関する提案だ。その考え方が頭に浮かんだきっかけも、政治を「時間」の角度から見た時に、そのアリーナでそれぞれ動く政治家やその集合体である政党、あるいは有権者がどう動くかといったことを、色んな事例を素材にして考えた結果である。今日は、来年の日本の政治の中で恐らく最も大きな政治イシューになるだろう消費税の引き上げをめぐる問題を、「時間」の視角から見てみたい。

事象を「時間」を通してみる見方は、別に目新しいものではないようだ。例えば、今月の17日に亡くなったと言われる金正日以後の北朝鮮をめぐる動きでもそう言える。専門家の間では早くも、金正恩を戴く後継体制の脆さを指摘する声が出ている。その理由として、父親の金正日が長年かけて後継者として自らの権力基盤を高めた末に指導者になったのに対し、正恩の場合は後継指名されて日が浅い点が挙げられる。以前、aufで北朝鮮内部の権力構造に関してプレゼンしたことがあるが、僕も同意見だ。74年に後継者となり、80年代には父親の金日成を凌駕する権力を握った正日と正恩の初期条件は比べるべくもない。こうした見方の背景には、権力基盤を固める期間が長ければ長いほど、その基盤は確固たるものとなりやすい、との半ば常識とも言える「時間」と権力の関係性の法則がうかがえる。

また北朝鮮を取り巻く国際情勢という点でも、同様に「時間」を使った分析も聞かれる。つまり6カ国協議の構成国の中で、北朝鮮以外の5カ国中、日本を除く4カ国にとって、来年は指導者の交代、選挙が予定されている年である。この場合、選挙を意識して問題の噴出を避ける選択にプライオリティを置く、あるいは選挙を意識して対外的に強硬姿勢をとる等、考えられる選択肢はあっても、経験則から言えば一定の経済規模を持つ国においては、前者を選好しがちである。恐らく、2012年に各国の北朝鮮政策については、大きな政策的な変化はないだろう。だとしたら、その際に日本はどうすべきか?それを測る上でも、「時間」が教える法則は大いに役に立つ。

経済学の世界でも、同様に「時間」は使われる。例えば、今バーナンキがやってる、より長いスパンの債権の買取の政策も、FRBがより長い将来まで引き締めに転じることがないという市場の期待を狙ったものだし、八ッ場ダムの例に見られる様に経済対策とそれが実際に実行され、実際の経済効果を及ぼすまでのタイムラグに関する研究なども実に興味深いものがあるようだ。

さて、来年の政治は、恐らく春前から消費税の増税を大きなテーマとして揺れることだろう。早くも、消費税増税に反対する民主党の若手議員の離党の動きが表面化し、また党内では小沢グループを中心に反対論が根強い。こうした情勢の中で、消費税増税の実施時期に関してかなりの弾力性を持たせるなど多少の妥協は図られるだろうが、恐らく総理のこだわりと党内の反対派の選挙をにらんだ右往左往を見ても、この問題が来年の政局を大きく左右するであろうことは言を待たない。

まず民主党内がまとまっていない。政府は、この増税の法案を2012年3月に国会に提出しようとしているが、野党が引き延ばしをはかって、運良く与党だけで衆議院を可決させたとしても、参議院で野党の反対で否決されれば、衆議院でも再可決の数を満たさずこの案は潰れる。そうなると野田総理は、衆議院を解散するか、総辞職するか、9月の代表選に求心力が低下したまま臨むかの3つしかない。民主党の議員心理としては、不人気な消費税に積極的に賛成しては選挙に不利だし、否決、解散になるくらいなら泥船から出よう的な思考になるのはある意味自然ですらある。

消費税の増税をめぐっては、自民党はじめ野党も民主党政権の下での増税には反対する姿勢のようだ。09年総選挙の時の民主党マニフェストの4年間は消費税増税は行わない、との整合性や、子ども手当はじめ数々のマニフェスト違背によって正当性を失った民主党政権は衆議院を解散すべしとの論が野党に強く、それが反対の大きな根拠となっている。

本来、消費税の増税と言った税制の根幹に関わる問題は、政治改革や安全保障の立法と共に与野党の合意に基づいて行われることが望ましい。それは、そうした政治課題の中でもとりわけ基幹的なものは、短期的な変動は望ましくなく、与野党の協議会での一致と言ったような責任の共有の過程を経たものの方が後々の政治争点になって制度そのものの安定性を揺るがすことがないという意味で最良であるためだ。しかし、飽くまで自民党はじめ野党はまずもって国民の信任を経た上での検討を最優先としている。だが可決に不可欠な自民党は、反対の姿勢を崩さない。

「時期」のポリティクスから、これを見てみると実に面白い。ポイントは、衆議院の総選挙が遅くとも、そして参議院選挙が確実に2013年の夏にあるというタイミングである。ここで自民党にとっては、2012年の夏に消費税の増税に反対し否決させることはメリットがある。つまりここで否決させて、野田総理が解散を追い込めれば、早期に政権に復帰する可能性が高まるし、またその他の選択肢をとったとしても民主党の分裂含みになることは目に見えてる。

仮にこのタイミングが総選挙の1年前とかでなく、例えば2年半前とかだったら局面は大きく違ってたかもしれない。民主党の議員からしても、ここで不人気な消費税の増税を断行したとしても、残りの期間の間にその不利を挽回できる局面が出てくるかもしれないと考えればむやみと反対して与党から離脱しようとは思わないだろう。また自民党にとっても、任期の終点が2年半後と遠いとすれば、消費税の増税の必要性の認識が共有されているならば、与野党協議に乗ることが政局判断より優先するかもしれない。

要するに、同じ事象でも、「時間」の要素をインプットすることによって、違うアウトプットが出てくるということだ。この視角からすれば、まあ来年夏に消費税増税が成立することの困難性は非常に高いと結論できる。

だが一方で、「時間」を考えると、違う結論が実は自民党にとっても最適な可能性もある。つまり来年夏に野党によって否決され、総選挙を早晩経て自民党政権が誕生したとしても、消費税の増税は政治課題とならざるを得ない。しかし自民党は、公明党と合わせても、参議院で過半数に達しない。また2013年には参議院があり、その直前に消費税増税ができるかと言えば、議員心理から先延ばしの結論が出てくるだろう。また野党に転落した民主党が、今度は反対の立場になる与野党協議に乗ってくるかと言われれば極めて難しい。ならば、より長いスパンの予測が可能ならば、「時間」の政治学は、自民党に与野党協議の上で消費税増税にくみして、その後の総選挙でマニフェスト違背を含めて民主党を批判して政権を奪還するという選択肢をも教え得るかもしれない。

民主化の多くが様々な規定要因に左右されるとしても、一方で偶発的な出来事や指導者の登場により左右されたように、この政治学にとっての「時間」も万能ではない。だが、何らの説明もできぬほど無能でないことも確実だろう笑



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2011-12-19 20:01:00

2012年へ 越年の課題たち─社会にとって、世界にとって、そして僕にとって

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どもっ、aufのヘッドやってる、早稲田政経政治の草竹敦紀です。今日は盛大かつ質の濃い誕生会の記念に、一気に書き上げましたw相も変わらず乱筆ですが、ご一読を。


今年も、もう10日余りで終わりますね。2011年という年、前の年の12月にチュニジアの1人の青年の焼身自殺を契機に中東大に広がった体制変革の波が広がっていわゆる「アラブの春」、3.11日本列島を襲った大震災とその後の原発災害、リーマン・ショック後の第二波がソブリン・リスクという形でユーロの存続を揺るがした。


いずれも来年に大きな宿題を持ち越している。


「アラブの春」は、まだ終わっていない。チュニジア、エジプトで短期間に独裁的な統治者が舞台から降ろされ、内戦の末にリビア、紆余曲折の末にイエメンと、この1年で4つの国で長期政権が倒された。しかしシリアでは未だにサダト政権と反体制派の間の対立は収まっておらず、死者の数を積み上げながらその抑圧はとどまらない。ダールは、民主化指導者がその座を降りる条件として、指導者やその取り巻きが体制崩壊後に再び「権力を勝ち得る」確証が得られるかにかかっていると言ったが、もはやここまでくるとシリアは戦後の過去の清算ををも踏まえてリビア的な決着になるか、抑圧体制の継続の画を見るかのいずれかになるだろう。そういう意味で、この地域の変化は越年である。


また前のブログでも若干触れたが、一連の中東の騒乱が「春」と呼びうるか否かは、その帰結を見て結果論として論じなければならない以上、その一定の評価も越年の課題となろうということである。チュニジアでは、ブルギバ、ベン・アリの体制下で抑圧されていたイスラム政党を含む新政権が発足し、これから本格的な民主化に着手することとなる。その経済、文化的な水準など基礎的状況からして、4カ国の中で最も民主化を楽観できる。一方で、これは他の3国にも共通することであるが、イスラム政党の宗教的政策と世俗的な軍との関係性は不安要因として残る。エジプトでは、暫定的に政権を担っている軍に対する市民側の不満の高まりから、両者の衝突が起こる中で、制憲議会選挙が越年で行われている。市民と政党レベルとの意識のギャップ、制憲議会で躍進が確実なイスラム同胞団系と軍との世俗性のかねあい、軍の既得権と平和的撤退の可否、イスラム対少数派キリスト教との対立をどう乗り越えうるか、これらの課題の上に初めてエジプトの民主化の安定の前提条件が満たされる。リビアは、それより遥か劣った基礎条件にある。国軍すらない中、またカダフィ体制の下で国境すら曖昧な状況にあった部族の連合体がどのように国家性を形成しうるか、そして資源の分配の仕方に関する対立の導火線も地中に潜む。


そして一連の動きを、「革命」と呼びうるかは、これからの過程の結果、新しい体制の下の権力資源の構造、そして経済的資源の分布を含め旧体制とは違った形態になる必要がある。いわゆる「社会革命」の側面である。それには手続き的な民主化(ダールの言うポリアーキ)が達成されるだけにとどまらず、できた政権が、そして代議制を担う政党勢力が、有権者に対して応責的である必要がある。つまり文化性を引きずったままに恩顧的な形態で民主主義が運営されていたり、民主主義の枠外で軍なり別個の留保された権力が併存しているならば、なかなか資源の平等は達成されずに、民主主義の逆行のリスクは高まる。また宗教的な争点軸や対外的な争点が強調されすぎると、社会的変動は疎かになる。こうしてものを乗り越えて、「革命」的な色彩が内実かし得るためにいかなる制度がベターなのか─もちろん制度のみがその解を与えてはくれない─。これは僕自身としても越年の課題である。


3.11に関しては、震災被害に関しては、予算的な大枠とその財源もある程度決着している。復興庁、特区制度を利用しつつ、都道府県以下のレベルでいかなる復興を行っていくかが来年以降の中心的課題であろう。基礎自治体やそれ以下の集落では、徐々に復興計画で合意するところが増えてきている。その一方で、春から指摘されてきたところだが、高台への集団移転や漁場の集約化といった問題は、共同体秩序やそのコストへの不安などから反対する住民と、早期に決着し人口の流出を防ぎたい住民との対立が続く地域もある(松島の景観と防壁の高さの議論の例などは実に興味深い。興味ある人は調べてみて)。僕は梅雨のブログで、短期的な効率性よりも、プシェヴォルスキの議論も借りながら、合意の形成段階で住民の納得を得るという段階に大きな労力がいるとしても、それを行うことが住民の協賛という長期的な効率性を得られる近道であると書いた。今でもその基本線に変わりはないが、だが大きな設計図の合意がないまま、若年者が流出し続けていけば、その地域の持続性の起点すらも失われかねない。これは地域にとっても、僕にとっても越年の課題である。


また原発もまた越年の課題である。福島第一原発の事故は、政府が国際公約した冷温停止状態はほぼ達成したが、これからどう廃炉にしていくのか。その道筋は数十年先と遥かに遠い。また20キロ圏内に住んでて、避難を強いられてる人たちをどうするのか。原発の賠償がつみあがるにつれて、東電の国有化は避けえなくなるだろうし(現行でもそれに近い)、除染後の処分場の福島外の立地の問題もつみあがる費用とともに政治課題とあっていくだろう。また来年5月には稼働数が0になる我が国の原発の再稼働の問題も、エネルギー政策の大局的な議論の中で避けえない。そしてもう一つ強調したいのは、時間が経つに従って、事後対応の適切さに関して本格的な検証が必要だということだ。当時の政治指導者、東電首脳、そして規制官庁は事前事後対応に関して、行動の問われる立場であることは、多すぎる課題の中で忘却されてはならないだろう。いずれも越年の課題である。


ヨーロッパに広がる債務危機もまた、越年の課題である。マネがユートピア的なヨーロッパの共同体を構想し、50年かけて実を結んだEU、そしてその多くが実現したユーロ、その前提となるヨーロッパの少なくともエリート菜間でのヨーロッパ協調は、少なくともこの1年で相当棄損された。ギリシャ、ポルトガルに続き、危惧されていたイタリアでも債務危機の予兆が告げられ、有効な対策が描けない中で、市場の圧力が各国の「信認」を揺るがしている。過去の清算のために、一気に債務削減させて、危機が終息した後にドイツ流の緊縮財政を各国に強制する形での財政統合の道を歩む道がベストだと思うが、よくも民主主義国の集まりであり、コンセンサス式の決定方式というEUの制度と各国の財政的価値観の違いがそれを許容しない。そのズルズルが、違う国をも巻き込みながら、域内のみならず新興国にも影響を与え始まる越年である。これは僕の課題でもあるが、経済学を学ぶ学生の課題でもあるw


そして今日、北朝鮮の金正日が亡くなったというニュースが、青天の霹靂の如く伝わり、2011年という年にまた1つ大きく添えた。ビン・ラディンの死と、イラクからのアメリカの撤退も、冷戦以後の世界大の変化─特にアメリカの覇権によって形成されている(た)構造の変化─に示唆を与えてくれる。これも越年の課題である。


その中で我が国日本。1つ1つの政策的課題もさることながら、それを実現する政治的な構造、制度の課題に着目する必要を最近感じる。その中で、各国の政治を人より多く知る者として、いくつかのプランを考えてきた1年であった。これもまた僕の越年の課題だが、具体的な提案を来年の卒業までにaufなど、僕が大学時代に接した優秀な仲間たちと越年で考え、これは僕の学生生活に添えたいと考える。






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