禅譲か、簒奪か!「鍋島直茂の下剋上の謎」②[龍造寺の仁王門] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 隆信の母慶誾(けいぎん)が妻を亡くしていた直茂の父清房と押しかけ気味に再嫁し、直茂は九歳年上の主君隆信の義弟となりましたが、直茂の力を買っていた慶誾に先見の明があったことはやがて証明されます。

 

 元亀元年(1570)、豊後の大友宗麟が龍造寺氏の領国である肥前に侵攻してきました。

 

 隆信の居城佐賀城は八万ともいわれる大軍に包囲され、窮地に追いこまれます。

 

 直茂はこのとき、大友一族の親貞が陣する今山を夜襲すべきだと進言します。

 

 結果、軍勢を率いて親貞を討ち取り、大友勢は肥前から撤兵しました。

 

この一戦で勢いづいた隆信は、龍造寺に与せぬ肥前の国衆らを平らげ、肥前一国を統一します。

 

天正六年(1578)、大友宗麟が薩摩の島津氏に耳川の合戦(宮崎県木城町)で敗れますと、大友氏の勢力下にあった筑後国へ攻め入りました。

 

隆信は筑後全土をおさえ、さらに筑前西部・豊前北部・肥後北部も龍造寺の支配下となります。

 

こうして隆信は五ヶ国の主という意味で「五州太守」と号し、全国に龍造寺の名を轟かせたのです。

 

隆信は勇猛果敢な反面、思慮に欠ける面があったといわれています。

 

直茂がその主君の欠点を補い、仁王門の阿形(あぎょう)(うん)(ぎょう)をなぞり、のちに隆信と直茂は「龍造寺の仁王門」と称されようになるのです。

 

(つづく)

 

 

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