救いについて
テーマ:クリスチャン生活わたしのとった行動は間違っていただろうか、、、
この数週間ずっと同じことを考えている。
数年ぶりの大きなショックと痛み。
「わたしはクリスチャンです」
そう周りに言ってきた。
隠したことなんてなかった。
日本だから日本人ですと言うのと同じことだ。
でもそれは、ちょっと勇気のいることだった。
ブログでも時々教会のこと聖書のみ言葉のことを
いろいろ書いてきた。
だれか求めている人がいたら少しでも救いになればよいと思っていた。
もっと聖書のみ言葉、神様の生きた言葉を多くの人に知ってもらいたかった。
ただそれだけだった。
だけど、それも勇気のいることだった。
恐れが全くないことなどない。
それでもイエス・キリストの福音を伝えたかった。
時々、周りの人を教会にお誘いした。
祈り、伝えていくにしたがって救われる人もいた。
伝道は時間も体力も精神も使う。
それでも伝えられずにはいられなかった。
大好きな友人が病気になり
週に1回ほどお見舞いに行くようになった。
左半身麻痺になった彼女の為にお祈りをした。(最初にお祈りするときは本当に勇気がいる)そしてイエス・キリストの福音を話した。
何度かのお見舞いの後、彼女は泣きながらイエス様を受けいれてくれた。
イエス様を受けいれて救われたのだ。本当に心からへりくだり受けいれてくれた。
実は彼女は昔、わたしがクリスチャンになることを反対した人の1人だった。
でも今彼女はキリストに出会い、素直に受けいれてくれたのだ。
その友人のご家族からわたしはひどく非難されたのだ。
「突然病気になったのだからそういう話を受けいれてしまうのは当たり前!人の弱みに付け込んで!」
「勧誘するなら来ないで!」
いろいろな言葉で攻撃を受けてしまった。
イエス様の話を伝えているとき、彼女にとってもわたしにとっても良い時間だった。
彼女は本当に心からイエス様を受けいれていたのだ。
「ごめんね、ひろみ。わたしはひろみからその話を聞いているとき全然嫌じゃなかった!でも家族が反対する。家族に嫌われたくないの」
泣きながら彼女は謝っていた。
傷ついた、、、
ショックだった。
声をあげて泣いて帰ってきた。
家に帰ってからも目が腫れるほどに泣いた。
それほど悲しい辛い出来事だった。
でも一番傷ついたのは彼女だ。
せっかくイエス様を受けいれたばかりだったのに。
「サタンが怒っている」
牧師も教会の友人達もそう言った。
人がひとり救われたことにサタンは非常に怒ったのだ。
「ひろみはどうやって家族の反対を説得したの?」
数日後に(すごく勇気をふりしぼって)お見舞いに行ったときに彼女が尋ねた。
通常、家族や身内から反対者が出るのはあたりまえのことだ。
わたしもあらゆる人達からの反対を受けた。
説得などしていない。
イエス様を知った当時は説得するほど知識も何もなかったのだから。
ただ、神様の愛から離れられなかっただけだ。
それは言葉で説明できるようなものではなかった。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
高いものも深いものも、
その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、
わたしたちを引き離すことは出来ないのである。
(ローマ人への手紙8章35・39節)
救いとは何を「信じるか」ではない。
そうではなくてなんで「あるか」である。
2000年も前にイエス・キリストがわたしたちの罪の為に十字架にかけらて死んで下さったこと。そして3日目に蘇られたこと。
このことが非常に重要なのだ。
その時にわたしの罪の代価は全てイエス・キリストにより支払われた。
過去も未来も現在の罪も全て。
どんなにお金を積んでも自分で自分の罪を贖うことはできない。
世界じゅうの富を集めてもだ。
それをイエス様が身代わりとなり十字架の上で死んでくださったのだ。
罪が赦されただけではなく、イエス・キリストはわたしに「永遠の命」もくださった。
恵みまで与えてくださったのだ。
死からも勝利されたイエス様はわたしに命をくれた。
それを受けいれるか受けいれないかは個人の選択だけ。
イエス様が無理やり土足で上がりこんでくることはないのだ。
自分がイエス様に心を開くだけ。
罪だけではない。
病もイエス様は十字架に背負ってくださった。
神は癒す神。
病は全てサタンや悪霊の業。
どんな病気であっても既にイエス様は勝利してくださった。
サタンは敗北しているのだ。
だから信仰があればイエス・キリストのみなによって癒される奇跡も
不思議なことではないのだ。
聖書に書かれている病人が癒されていく様々な奇跡は現代でも続いている。
何故なら神様は永遠に変わらないかただから。
神様は私たちの病も心も魂も精神もすべて癒したいと願っている。
最近、教会で神に語られた。
「もう彼女のところに行かなくてもよい」
「何故なら、あなたから行かなくても彼女自ら求めてくるからです」
人にどう思われてもいい。
わたしにとって神様がわたしをどう思うかのほうが重要なのだ。
























