間奏曲:追悼・岸由一郎さん
テーマ:ユートピア岩手・宮城内陸地震で鉄道博物館の岸由一郎さんが不慮の死を遂げられたことをニュースで知った時、私は今更ながら世の中の不条理を思い知らされる気がしました。また、その後の報道などで岸さんが如何に鉄道を愛し、その保存に情熱を注がれてきたかを知るにつけ、「どうして岸さんのような善人が…」と天を呪わずにはいられません。こんな感情に苛まれるのも、私は岸さんと個人的にお会いしたことがあるからです。
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おそらく岸さんにはすでに私の記憶などなかったと思いますが、私が未だ新しき村で生活している時に突然岸さんから一通のメールが届きました。村の幼稚園跡に放置されている都電を清掃・修復したいという要望でした。勿論、ボランティアの活動として、です。それから何度かメールのやり取りをした後、一度仲間の方々と下見に来て戴くことになりました。確か、私が離村する一週間ほど前のクリスマスの日だったと思います。その際に岸さんから仕事のお話を伺ったのですが、短い時間にも拘らず、鉄道に対する岸さんの熱い思いがひしひしと伝わってきました。村の都電だけではなく、各地に寄贈されて散在している都電を確認調査され、仲間と一つ一つ修復している、とのことでした。その時の岸さんの、実に楽しそうな笑顔が忘れられません。「どうして岸さんのような善人が…」詮なき嘆きながら、繰り返しその思いだけが込み上げてきます。
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さて、私は思わず天を呪いましたが、岸さんに限らず、今回の地震のような災害の悲劇は自然の律によるものです。言うまでもなく、これは人間が全面的に依存できるような恩寵的他律ではなく、有無を言わせぬ力で人間を捩じ伏せる強制的他律に他なりません。従って、自然災害の悲劇を繰り返さないためには、自然の強制的他律に対抗し得る人間的律を実現する必要があるでしょう。そもそも不条理とは自然の律と人間の律の軋轢に他ならず、人間の律を意識することがなければ、世界は合理的に「ただ一切はすぎていくだけ」です。
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しかし乍ら、満足な地震予知さえ未だ叶わぬ人間に強大な自然の力を制御できる律などつくれる道理がありません。と言うより、厳密には純粋に「人間の律」と言えるものはなく、せいぜい「自然の律」の人間的応用にすぎないでしょう。すなわち、英語の言葉遊び風に言えば、人間の自律はNatureにhuman natureを如何に対応させるか、ということでしかないのです。勿論、Natureを超越的に捉えるか内在的に捉えるかによって我々の対応の仕方も自ずと変わってきます。しかし重要なことは、Natureにせよ、昨日戴いたコメントにあるような独裁国家にせよ、その強大な他律的力に対して我々が人間として如何に抗し得るか、ということだと私は考えています。確かに我々は無力な存在でしかありません。しかし、それでも反抗を止めるべきではないでしょう。たとい岸さんのような善人の不条理な死に直面して歯ぎしりしかできなくとも、我々は他律的勢力に屈伏してはなりません。では、どうするか。日々そのことばかり考えていますが、今は岸さんのご冥福を静かに祈りたいと思います。







1 ■地震
日比野英次 様
大阪の一ピープル T.K
岩手・宮城内陸地震でお亡くなりになった方をご存知とは知りませんでした。お悔やみ申し上げます。強大な他律による予期せぬ死はとくに不条理なモノでしょう。これに対して人間として反抗しないといけない というお考えはよく理解できます。
この場面で、垂直化水平化問題を取り出すのは不適切かもしれませんが、理解の為に敢えて取り上げます。先の地震に対して反抗することとは 震源地の物理学、化学等の切り口で知見を広め予知能力を上げるのも一つ、建物の構造対策も一つ、災害は必ず発生するとして人名救助からライフライン確保を常日頃から準備するのも一つ、被災者の心身散治療の準備も一つ、等々いろいろあります。人助けに繫がるモノ全て大切であります。ここで問題にしたいのは これらの行為は垂直化の結果なのか水平化の結果なのか ということです。おそらくは 水平化でこと足りるようにおもうのです。何か目標をきめて行動するのは水平化のパターンと思われるからです。垂直化はそうではなく臨機応変、即応力的なモノが要求されるのではないか とおもうのですがいかがでしょうか。先の秋葉原の殺人事件でも同様です。準備して対応するか 居合わせた瞬間の対応 の差のように思うのです。瞬間対応は 自律
であり、経験を加味した共通感覚がベースになっていると思うのです、これが垂直化の一つの顕在化されたもののように思うのですが。
勝手を言っております