イエス様も、お釈迦様も瞑想してました。

2005年05月31日(火) 18時29分06秒 テーマ:古今東西の成功哲学
著者: ジョン・セルビー, 矢鋪 紀子
タイトル: セブン・マスターズ―〈瞑想〉へのいざない

スピリチュアルと言えば、瞑想です。

世の本には瞑想を扱ったものがたくさんあります。
私も何冊も買って試してみましたが、なかなかうまく行きません。

いつも「転寝(うたたね)」 迷走です。

あのエジソンも、瞑想というか、リトルピープルの声を聞くためにずいぶんと工夫と苦労をしたようです。

この『セブンマスターズ』は、ものすごく贅沢にも、7人のマスターズ、つまり悟りを得た人たちの瞑想の極意をまとめた本です。

①パタンジャリ

②老子

③仏陀

④イエス

⑤ムハンマド

⑥グルジェフ

⑦クリシュナムルティ

すごいラインナップに成っています。

手法や宗教にこだわらず、毎日の日常が瞑想なんだ。と思える内容です。

呼吸と瞑想 意識と無意識の狭間。パタンジャリ

2005年05月02日(月) 13時37分33秒 テーマ:古今東西の成功哲学
パタンジャリは、古代ヨーガの伝統を甦らせた人物です。
仏陀の死後数百年後のインドに生まれ「ヨーガ・スートラ」という経典を残しています。
おそらく当時のインドは、仏陀が起こした新しい考え=仏教のエネルギーに席巻されていたでしょう。
そのなかで、当時までの少なくとも二千年をさかのぼることのできるインド哲学を再興し広めた人物と言えます。
なかでもパタンジャリの瞑想法は、現代のさまざまな瞑想法のルーツと言えるはずです。 

パタンジャリの主張も、クリシュナムルティと同じように「いまこの瞬間」と向き合っているときのみ、霊的に目覚められる。というものです。
そして「いま」という瞬間からたえず注意を逸らす犯人は、思考する心である。とも言っています。

心はたえず「いまここ」を離れた記憶、イメージ、判断に流され、それらにまつわる抽象的な思考や物思いにふけってしまうのです。  
瞑想するときの最初の課題は、思考する心を過去や未来への執着から離し、「いまここの」貴重な呼吸に意識をむける自由を取り戻すことなのです。

呼吸は、意識的にすることもできますし、無意識にもしています。
つまり意識と無意識。現象界とスピリチュアルな世界とをつなぐものなのです。 

少年マンガで「ちばあきお」作の『キャプテン』と言うのがあります。
ちばあきおさんは、昭和52年『キャプテン』、『プレイボール』で第22回小学館漫画賞を受賞。『チャンプ』(ボクシング漫画)を連載中、昭和59年(1984)9月13日に自ら命を絶ちました。享年41歳でした。

「キャプテン」は少年野球マンガなのですが、猛練習の末につぎつぎと強敵を負かしていく感動物語りです。そのなかで、大舞台にたったチームの選手が、緊張していまいます。
落ち着きを取り戻し、ピッチャーの投げるボールに集中させるために、相手のピッチャーの呼吸・息使いに自分の呼吸を合わせて打席にはいるようにキャプテンが気付き指示します。
そして練習どおりの実力を発揮して勝ち進んでいくという場面がありました。

心を静めるために、呼吸に意識を集中させることは、余分な思考や体の緊張をなくす効果があるのです。
私たちは同時に複数の対象に注意を向けることはできません。
呼吸に意識を集中していると自然に思考や雑念から離れることができるのです。
そしてその意識を徐々に広げていきます。
呼吸への意識から、体全体への意識の拡大集中ができるとプロ級です。 

ゴルフのショットのとき、集中しているようで集中ができません。
グリップの形状からトップの位置、ダウンスイングの起動、コックの返しやフォロースイングなどコンマ何秒の間にひとつひとつ意識してスイングすることは事実上不可能です。
そのようなときに体全体を意識できる心があれば、きっとすぐに上達することでしょう。
瞑想の要でもあります。  

スポーツのような高度なからだの使い方でなくて、歩くという行為においても、実践することができます。
歩きながら呼吸に意識をむけて、思考の流れを止め、次に手足など全体に意識をむければ、効果的に意識を清らかな状態にできるはずです。
歩く瞑想です。

特別な時間や場所、環境でなくても瞑想はできるのです。
意識をいまここに保ち、内なる現実と外側の現実を『裁くことなく知覚しているとき』は、まさに瞑想していることなのです。  

私達が、学ばなければならないたった一つのこととは、すべてを注意深く行うということでなのです。『自分の心、体、行動を観察し、すべてを完全に意識的に行える人間は、光り輝く存在になる。「オショー」』 

「悟り」という遠い未来のなにかに向って直線的にすすんでいくことが、スピリチュアルな道ではありません。スピリチュアルな目覚めと言う「現在進行中のプロセス」を「いまこの瞬間」に体験していくことが、既にスピリチュアルな心の状態でいられるということです。

(参考引用抜粋:『セブン・マスターズ』[瞑想へのいざない] ジョン・セルビー著 サンマーク出版)

あるがままの「知覚」から「行為」が起きれば。生の全体性 クリシュナムルティ③

2005年05月01日(日) 13時22分21秒 テーマ:古今東西の成功哲学
クリシュナムルティは言います。『 人は断片化している。』と。

断片化されたものを「個人」と呼び、「日本人」と呼び、「課長」と呼び、「仕事」と呼び、「家庭」と呼び、「JR西日本」と呼び、重きを置いているのです。
断片化されたものが重要性を帯びてしまっています。
そして、断片であるがゆえにより一層の「断片」、より多くの葛藤、混乱、悲嘆を生み出しているのです。
断片であるものが、それを全体だと同一視してしまい、重要だと勘違いしているのです。
また違う断片が、われこそはと全体を主張し、矛盾が生じてもいます。
ですから、この世界は内も外もバラバラに分裂してしまっています。

断片化は、結果的に恐怖を引き起こしています。
断片化は、知識や体験から引き起こされているのです。
知識や体験のない乳児には恐怖は存在しません。
人は心理的に「知識・体験」を利用し、心理的な安定を願望しているわけです。
しかし、それが生物的安定を妨げていくという、自己矛盾に陥っています。

「私」というものが、心理的安定を与えてくれているのです。
私の地位、私の幸福、私の金銭、私の仕事、私の家、私の夫。
もし、「私」がみじめなら全世界が「無意味」だと感じますし、「私」の中に最大の安定がある。と思い込んでいるのです。

そしてそれは、今世界に起こっていることの事実でもあります。心理的には。

しかし、心理的安定などというものは、実はありえないのです。
じつは、心理的安定などというものはありえないのに、それを追い求めるから、常に断片化の葛藤を生み出しているのです。
心理的安定によって期待しているのは、「よりよくなる、もっと大きな成功、より大いなる理解、もっと多くの愛。」心理的安定などこの世に存在しないのに、それに期待するのは、物事をあるがままに見ることへの根深い反発があるからです。

心理的安定を求める「観念」ではなく、あるがままの「知覚」から「行為」が起きれば、「私」を心理的安定に陥れる「信念」にすがりつかずに、現実の不安定に対処していくことが出来るのです。 信念とはある意味では、理由もなく、盲目的に信じている何か。です。

人は、あるがままの相手や事物を見ずに、自分の解釈におけるイメージを通して見ています。
自分と相手との関係を「自分の解釈したイメージ」によって「心理的安定」を得られる現実として見ています。しかし、「私」は事実を知っている。事実に基づいて行動している。というでしょう。
本物は「私」なのだと。 「私」は、観念です。事実ではないのです。

「知覚」によってのみ、観念を突破し、超越しうるのです。
抽象化、観念化したものを知覚される現実へと引き入れることができます。

心理的安定とは、機械的反復に過ぎません。それは条件付けられたものなのです。
機械的反復が、未来を安定に導くと勘違いさせているのです。
クリシュナムルティのいう「知覚」は、王陽明のいう「良知」に近いものです。同じかもしれません。

過去の延長線上に未来はないのです。
 
(引用参考:恐怖なしに生きる/クリシュナムルティ瞑想録 J クリシュナムルティ)

恐怖は、思考が創り出す。   クリシュナムルティ②

2005年04月30日(土) 12時26分33秒 テーマ:古今東西の成功哲学
思考と恐怖
心理的な恐怖心とは、思考によって創り出されたものに過ぎません。
快楽もまた、思考によって創り出されるものです。
思考は、快楽の原因であり、恐怖の原因でもあるのです。
さらに怒りは、恐怖心の攻撃的表現といえます。
そして悲しみは、恐怖心の防御的表現なのです。 

私達は、なにげない日常の中で、思考と言うものに「なにも深く考えずに慣れて」しまっています。
そして感情や行動が「思考によって創り出されたパターン」だということに気付きません。 

営業の仕事などで、顧客からクレームの電話が入ります。相手はこちらのミスを指摘し、怒り心頭の様子です。大事なお客様を失ってしまう「恐怖」に慄きます。もう一日中落ち着きません。
あらためて「お詫び」に出向く道中は、生きた心持がしません。
電話によって想起された「恐怖」はなにも役に立ちません。
行動を遅らせ、注意をそらし、新たな不具合を生むのが関の山です。 
JR西日本の事故も、運転士の「罰則に対する心理的恐怖心」が、本来の「身体の安全性に対する恐怖心」を忘れさせ、新たな悲劇を引き起こしています。

30センチ幅の道路の白いラインなら、そのうえを平気で歩くことができます。
しかし、地上10メートルの高さに作られた30センチ幅の壁のうえならどうでしょう。
おなじ幅なのに高いと言うだけで、足がすくみ恐怖で身動き取れなくなってしまいます。
「落ちるかも知れない。いや、きっと落ちるに違いない。」この思考による恐怖が体を縛るのです。
「盲人へびに怖じず」と言う言葉があります。
目が見えないので蛇がいても分からず、恐怖を感じないと言うことです。

恐怖心は、意識されているものだけではなく、無意識の深い所に蓄積されているものがあります。
恐怖心に支配されていれば、そこに愛は存在できません。
恐怖とは愛のない状態なのです。
根源的な存在エネルギーである愛が、断ち切られた状態、非常に希薄な状態が恐怖・不安の実態なのです。何者にも支配されていない自由な心の状態でしか、愛は発現されません。
自由と愛は共存しているもの。不可分なものですが、恐怖心は支配・被支配(依存)を成立させます。

これが現代のこの世界の実態なのです。
恐怖には、戦っても勝てません。
相手はそれ以上に増強されてしまうのです。
そして恐怖を無視することもできません。
繰り返しそれはやってくるからです。
恐怖から逃げることもできません。
形を変えどこまでも追いかけてくるからです。

なぜなら戦い・無視・逃避は、すべて自分自身の思考のなせるものなのですから。
そして恐怖もまた思考が生み出すものです。
恐怖は思考が生み出す思考の分身なのです。

あるがままの、ものごと・存在・出来事を思考によらず「知覚」することができれば、人は「自由」に戻ることができます。

思考と行動
思考と行動の関係とはなんでしょうか。
行動は、概念や理念に基づいています。
なにをすべきかという、概念や理念は思考や言葉による近似であるので、常に行動との分裂があります。
思考から、自由になった瞬時の「知覚」と即座の「行動」に価値があります。

愛のある自由な存在とは、思考から影響を受けない行動のできる存在です。
すべての、道徳的、倫理的、社会的、宗教的、精神的な価値観は、恐怖と快楽に基づいています。
そして、恐怖と快楽は共に思考によって生み出されているものなのです。
思考のすべての動きを論理的に健全に分別を持って観察できれば、「知覚」そのものが完全な行動となり、それで、恐怖がすっかりなくなるのです。

まさにそれを実践したのが「王陽明」ですし、「中村天風」(本編既述)だと思います。

思考と時間
現在とは、いまこの瞬間を含め、過去と未来のことなのです。
過去も未来も同時に存在しているのです。
私達の「過去の知識=記憶」と「未来の想像=予測」そのものが、思考と心理的時間を働かせていて過去と現在と未来を分離しているのです。

脳がありのままの姿を見つめることで自分を条件付けることから開放されます。
恐怖とは、時間と思考の動きにほかならないのです。

(参考:『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ瞑想録 J クリシュナムルティ)

『瞑想とは、思考からの自由』技法や信念を否定した 神童 クリシュナムルティ①

2005年04月26日(火) 18時35分59秒 テーマ:古今東西の成功哲学
スピリチュアルな人生を送ろうと思うとき、瞑想というものを無視することはできません。
しかし実際に行おうとすれば、多くの場合挫折が待っています。
どんな方法が良いのか本物なのか、迷路にはまって失望を繰り返します。

しかし今日ご紹介するクリシュナムルティは、生涯に渡って特定の瞑想法を教えることを拒否しました。過去の教えとメソッドは、霊的目覚めの障害になるというのです。
私達に技法や流派にこだわるべきでないと教えてくれます。 

彼は、あらゆる信念からの自由=宗教・イデオロギーからの自由を常に主張しています。過去や思考に囚われている限り、真の神性に到達することはできないというのです。 

クリシュナムルティは、特筆すべき人生を送っています。
20世紀初頭のインドに生まれ、少年時代に神智学協会から
「人類を新しい霊的時代へと導く、世界教師」として選ばれました。
すごいことです。

しかし、彼は古代の宗教的な教えを研究することを拒否します。そして成人すると自身で非救世主宣言をして、組織を解体してしまいます。
自身を『意識と人間存在の究極的な真実を情熱的かつ正直に探求する一個人である』と宣言したのです。
これまた普通では出来得ない行動です。

死に臨んでクリシュナムルティはこう言い残します
「師は忘れ、教えを心にとどめなさい。」=クリシュナムルティの遺言  

クリシュナムルティの思想や主張は、聞くものの心に新鮮な革命を呼び起こします。
今回は瞑想についてクリシュナムルティの言葉を拾ってみました。

『私はあなたたちに尋ねたい。
あなたは過去の目なしに、自分を見つめられるか。
あなたは、人間関係のなかで行動している自分を、思考を働かせることなく観察できるか。
過去が存在しないとき、「いまこの瞬間」の至福がある。
あなたはすべての思考を脇に追いやり、心を静め、「いまこの瞬間」の真実を見つめて、
自分自身を直接知ることができるか。 』

『瞑想とは、自分の活動の全体像を意識することだ。瞑想とは、選り好み、歪曲、思考を離れて、物事の本質を見てとることだ。』

『瞑想は物事の本質を見つめることであり、聞くことであり、その彼方に進むことだ。それは、脳、心、体が本当に静かに調和したとき、つまり、理性、体、ハートが完全に一つになったときに生じる。すると、完全に人生の質が変わるのだ。』

『人は分析せずに心を観察するすべを見出さなければならない。分析家にならずに、意識の全容を観察するのだ。』

『思考をコントロールするのではなく、思考の出発点を理解することだ。思考は記憶の貯蔵庫から生じる。』

『思考を必要なときだけ働かせ、必要でないときは完全に静める。』

『こころが静まっているときのみ、真に見ることができる。』

『思考は常に断片でしかない、完全に静まった心は、人生の全体像を見て取れる。』

『瞑想の始めの一歩は、最後の一歩でもある。心の条件付けから自由になることだ。』

『人がするべきことは、ただ見ることだけだ。
重要なのは学ぶことではなく、ただ見ること、ただ聞くことによって
観察する主体とされる客体の分離が消滅する。』

『そのとき、心は空だ。するとすさまじい革命が起きる。行動が根本的に変化し、完全に全体的な存在になれる。』
(引用抜粋:『セブン・マスターズ』[瞑想へのいざない] ジョン・セルビー著 サンマーク出版)

クリシュナムルティは、
『裁く思考を手放して、自分自身とものごとの核心を直視せよ。』と訴えています。
過去とは思考の中に主観的に解釈された記憶に過ぎず、それは常に断片的である。とも言っています。ものごとをあるがままに見て、聞いて全体的に捉えることを日常的に意識していればそれは、瞑想的な生き方なのだと分かります。

波乱万丈 中村天風伝 

2005年04月18日(月) 09時30分30秒 テーマ:古今東西の成功哲学
中村天風という人物をご存知だろうか。幕末から明治、昭和にいたる時代は、日本にとっても波乱万丈の歴史だった。一人一人の国民が、今では考えられないような数奇な運命にもてあそばれた。そして必死に生きた。

そして今、私たちはその先輩達が作り上げた財産であるこの日本という国の中で、安寧に暮らしている。そう考えたことは無いだろうか。
市井の市民でもこの時代は、魂を揺さぶる特異な時代だったと思う。政治家、実業家たちといえば、この時代の立身出世物語は後を絶たない。

そのなかでも、中村三郎こと天風師は、激動の生涯を送った。そして私たちに輝かしい哲学を残してくれた。その天風師が残してくれた「天風哲学」と師の波乱万丈の人生を少しだけご紹介したい。
おそらく日本人でありながら、インド伝来のヨガを大聖者カリアッパ師から直伝を受け、免許皆伝のヨギとなったのは、天風師が初めてだろうと思う。

中村三郎は、明治9年7月30日に生まれた。若いときは血気盛んで、勝った柔道の試合の結果に因縁をつけられ、多勢に襲われ刃傷沙汰を起こしてしまう。
当時の政治結社の大物、頭山満に身を預けられ、日清戦争に備えた軍事探偵として満州に送られる。
満州では死線をいくつもくぐり、決して表にでることない任務だが、国の行く末を左右する活躍をする。
帰国後この活躍が、映画にもなった。
そんな武勇を誇った三郎が、帰国後に重病に陥る。肺結核である。
日本有数の病院で診てもらうことになるが、その答えは「治らない」ことがわかっただけであった。病におかされながら三郎は、救いをアメリカの医学に求めて、一人アメリカに向けて密航する。
アメリカで軍事探偵じこみの中国語を駆使し、中国人に成りすましてコロンビア大学で学び、医学博士号を取得するが、アメリカの医学博士の知識を持ってしても、自身の病気は治る見込みが無いことだけがわかったのであった。
ついに三郎は、精神の救いを求めてフランスの著名カウンセラーに会いに出かけ、心理学を学ぶが、そこでも自身を救う道は見出されることは無かった。

もう病は明日をも知れぬまでに悪化していた。三郎はどうせ死ぬのなら日本で死にたいと思い、フランスを離れ、帰国の旅に出る。 帰国の道中は、貨物船の荷倉の中であった。地中海を通り、スエズ運河を通ろうとしたとき、三郎の乗っている貨物船が、港に立ち寄った。

船中で知り合った乗組員が親切にも三郎に船外に出て、新鮮な空気を吸うように促した。息も絶え絶えの三郎は、船員に助けられ船外の港にでると、そこで不思議な人物に出会ったのである。
「おまえは日本人で、胸に大きな病を抱えておるな。私についてくれば命は助かる。」とその人物は三郎を一目見ただけで言った。

その人物こそ、ヨガの悟りを得たヨギで、ヨーロッパからヒマラヤ山中のヨギの村へ帰る途中の、カリアッパ師だったのである。
偶然にであったカリアッパ師に、魂を奪われたように三郎は付いていった。そして数年の歳月をヨガの修行に費やし、病は消え、ヨガの極意と悟りを得て大正2年、日本への本当の帰国の旅につくのである。

帰国途中上海で、大先輩山座円次郎にあい第2次辛亥革命に参加した。
革命は失敗に終わったが三郎には多額な謝礼が贈られ、帰国後それを原資にして経済的な活動に入るのである。
しかし所詮経済活動は三郎の性に合わなかった。その間さまざまな事件に関与し伝説を残しながら終戦を迎え、その後は、説法に専念するようになる。

昭和43年12月1日に92歳で三郎は帰らぬ人となる。 経済偉人伝に慣れ親しんでいる私たちも、中村天風伝のような哲学偉人伝を読みたいものだ。
日本の経済発展に比べて精神文化の方は心もとない。哲学思想を知る前に、その人となりを知れば、親しみと尊敬の念がおのずと沸いてくる。

以下は、中村天風伝 3部作です。
著者: 大井 満
タイトル: 戦場と瞑想―若き日の天風 中村三郎の軌跡
著者: 大井 満
タイトル: ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み

著者: おおい みつる
タイトル: 心機を転ず―中村天風 激動の生涯

高島易断を創った男 (持田鋼一郎著 新潮新書より抜粋引用)

2005年04月10日(日) 10時40分45秒 テーマ:古今東西の成功哲学
 高島嘉右衛門(1832.11.3生まれ)は、激動の幕末に生まれ、その時代とともに波乱万丈な人生を送っています。有名な高島易の創始者というだけでなく、新都市横浜を作り上げた未曾有の実業家でもありました。
易経という手段を使い自らのビジネスだけでなく国の施策にも大きな影響力を発揮しました。本編では嘉右衛門が易に出会い、易とともに人生をおくっていこうとするまでの前半生をご紹介します。
 王陽明③で言及したように嘉右衛門もまた獄中にて易経に出会っています。体力の限界にたっする獄中生活の中で、真理に出会い目覚めます。  

 高島家は両親とも子供の教育に熱心だった。ほりゅう蒲柳の質=病気にかかりやすい、神経質な子供だったが、子供の頃に親からの教育(六諭衍義:リクユエンギ)受けた。
・ 父母への孝行
・目上への尊敬
・ 同郷人との親睦
・ 子供の善導
・ 自分の立場をわきまえ得ること
・ 悪事を働かない
  5歳から寺子屋に通う(殿岡堂:生徒約100人、読み書きそろばん) 抜群の記憶力、8歳から四書五経の素読、大声で10回朗読すれば正確に記憶した。
  100日間、往復12キロの浅草観音まで往復し、学問成就の誓いをたてた。霊感の存在を意識するようになった。軍記や兵書を読んで、人間の運命を深く考えるようになった。
  13歳のとき、蘭学、科学に詳しい佐賀藩士 力武弥右衛門とであい物理、化学、機械などについての新しい知識を得て、新時代を感じた。
  元服してまもなく、初仕事で450両の利益を出す。
  南部藩への債権が焦げ付き、南部藩での採鉄・製鉄事業を引き受けるが、苦難が続く。 父は、臨終の間際、「俺の金は天に預けてある、自分で努力してその金をつかめ」と遺言を残す。武家への債権は、幕府の発布した棄捐令のためにすべて棒引きになっていた。
  父の死後、父の事業を継いだ次姉トミの養子に迎えた利兵衛が遊里での莫大な借金を作っていて、その借金が明るみに出た。利兵衛は、家督相続を放棄し、嘉右衛門が借財のすべてを背負うことになった。 しかし、債権者たちは、嘉右衛門の能力を認め、借金の成功払いを承諾する。  
 22歳のとき、ばったりと以前父の下で働いていた金谷万五郎と出会い、浅草の有名な山口千枝という人相見に占ってもらうと「あなたは、現在一文無しだが、30歳までに一万両を所有する、ただし長生きはできない。」と言われた。
 万五郎は、占いを信じて、世話をし深川で材木を借り出すことに成功し、その材木で嘉右衛門は土蔵を3軒建てた。  嘉右衛門の人生の節目毎に占いや不思議な現象との出会いが見られる。
  その後は、知恵と棒引きされた武家への債権や、借金している債権者の協力を引き出すことに成功して、父の死後9カ月で新築の土蔵3、借り倉3棟を使う材木商まで成長した。
 1853年6月、江戸城近くで、巨大な火の玉に遭遇、このとき江戸湾に滞留していた、アメリカの提督ペリーも赤い楔形の尾を持つ巨大な流星を目撃。江戸城築城のときに植えられたと言う江戸城内の杉の老大木3本が風もないのに倒れるという異変があった。
 24歳のとき、安政の大地震を予知する。弟の徳右衛門が、その日、火の気がないのに家の釜が鳴り出し、隣家にも聞こえるほどの音がしたことを嘉右衛門に話すと、何か大変事の予兆ではないかと勘を働かせ、見よう見真似で始めた易を占うと「火」とでた。 その日の夜のうちに、大金の前借りをし、大量の木材の発注をし、江戸の大火事に備えた。
 その2日後、幕府成立以来の大地震が起き、江戸の町は火に包まれた。  結局2万両(約1億円)の利益を出したが、その後の河川大氾濫で木場の木材が散逸し、結局2万両の負債が残った。
 借金に苦しむ嘉右衛門は、家老に抜擢された鍋島家の家老田中善右衛門に助けられ、横浜に佐賀藩特産専門店である伊万里焼の店を開く。佐賀藩の財政立て直し及び磁器産業の再建をはかるのに乗ずることができた。
 貿易をしてまもなく、金と銀の交換レートが国内と国外では違うことに気付き、外国人に金を売って儲けを出したが、幕府が外国人に金を売ることを禁じた後も密売を続けたため、ついに役人の知るところとなって、手配が回り、嘉右衛門は自首をする。
 1860年から牢内ですごしたが、まさに弱肉強食の世界。少ない食事と不衛生による病気や囚人同士の争いなどで、その頃の牢の中では、入牢後一カ月以内に囚人の半分は死ぬことになった。
 嘉右衛門は豊富な金品の差し入れによって牢内の取締役12人を配下に置くことに成功し、牢内の非道な囚人の取り扱いを極力抑制し死者を減らした。
 日が経つにつれ、嘉右衛門は人を恨み、自らを嘲けることの愚かしさに気付くようになった。
 ある日、牢内の隠居と呼ばれる役付きの囚人が敷いている畳を掃除していると、偶然「易経」が出てきた。このときの嘉右衛門にとって一冊の易経は1万両よりも価値があっただろう。  
 さっそく現在の自分の境遇と未来を占ってみると、「現在は運気混沌として種々の災難が降りかかって、自由に行動することが出来ないが、身を正していればやがて世に出て、十年以内に望みを達成する」と言う意味の卦が出た。嘉右衛門は驚き、そして喜び、牢内で本格的な易経の勉強を始めたのである。
 伝馬町の牢から、浅草溜に移送された、病気や病後の療養所である。ここで脱獄に巻きこまれ右腕に傷を負い生涯右腕が不自由になる。
 その後、再び江戸払いを命じられ佃島の人足寄場に移送される。ここで嘉右衛門は、吟味役の和田十一郎に昇進の希望が叶うかどうかの卦を見、見事に当てたのが功を奏して、1865年10月晴れて自由の身になったのである。
 6年間の獄中生活が終わり、嘉右衛門は、横浜随一の実業家への道を再び歩み出していくのである。

著者: 持田 鋼一郎
タイトル: 高島易断を創った男

王陽明⑥ 王陽明の生涯 武人・王陽明 (2)

2005年04月08日(金) 09時23分07秒 テーマ:古今東西の成功哲学
(「真説・陽明学」入門 林田明大著 からの抜粋)
 1519年、陽明48歳のとき陽明にとって生涯の大事件がおきた。皇族の寧王・宸濠の反乱が勃発したのである。宸濠は、前々から皇帝の座を狙って着々と仲間を集め朝廷内の劉瑾らとも結託し、勢力を拡大しつつあった。それが発覚しかけて挙兵したのだ。
  このとき陽明は他の地域の軍隊の反乱を鎮圧する命令を受けて100余名の手勢で河の中を船で下っていたが、挙兵した宸濠の反乱軍10万に進路を絶たれ、河の両岸にはすでに宸濠の1000余の手勢が待ち構えていた。陽明の乗っていた船は、風向きが悪く船が進まない。陽明は天に向かって祈った。
  「天よ。もし百万の命を哀れみくだされるなら、なにとぞ順風をお貸しください。」 すると風は見る間に収まり、北風に変わって、参謀らとともに奇跡的にこの窮地を逃れたのである。
  陽明は、四昼夜かかって江西省吉安につくと、宸濠の反乱を北京に急報し、四方に宸濠の罪を暴き、決起を促す檄を飛ばした。そして陽明は官軍の到着をまったが、官軍が到着しないことを読んだ宸濠は、6万の兵を率いて陽明に迫った。陽明は義勇兵を募って部隊を編成し、宸濠との激しい戦いが始まった。
 2日の戦闘の後、乱を企てた宸濠をその数百名の部下とともに捕虜にしたのである。まさに電光石火の早業で国家の危機を救ったのである。 しかし、事態は複雑に推移する。当時の皇帝・武宗は、無類の戦ごっこ好きで、乱が収まったにもかかわらず大軍を連れて南京に軍を進めたのである。
 紫禁城での兵隊ごっこに飽きていた武宗は、兵隊ごっこで地方に遠征をし、美人をさらっては淫乱にふけっていた。そこに本物の乱の知らせである。武宗にとって願っても無い遠征の口実ができたのである。
 しかし本物の戦は、民を消耗させる。多数の兵士の兵量は、地元の農民からの収奪であった。 その機会を陽明にあっという間に奪われてしまったのだ。そしてもっと大きな理由がある。陽明の行動が、官僚主義の論理を踏みにじってしまったのだ。陽明のとった行動は義兵であり、勅命によるものではなかった。それが明王朝の政治体制の秩序を大きくかき乱したのである。
 しかも、陽明が文武兼ね備えた武将であることが災いした。高官たちの自身の保身に恐怖を感じさせたのである。その頂点にいたのが武宗側近の張忠である。 張忠は、自分たちが連れてきた兵たちを使って執拗に陽明を挑発し、嫌がらせをした。陽明は礼を尽くして耐えた。
  張忠は、陽明のことを単なる文人と思い甘く見ていた。張忠率いる北軍と陽明率いる南軍の衆人の前で、陽明に恥をかかせようと目論んだ。張忠は弓自慢だった。陽明との競射をお申し込み、断る陽明を無理強いしたのである。
  陽明はとうとう競射に応じた。先に張忠らが的に向けて矢を放ったが、あまり良い結果ではなかった。弓場に立った陽明は、精神を集中して気を静めた。矢は3発放たれ、すべてが命中し、あろうことか北軍の兵までもが喝采した。張忠らは面目を失い兵を引き上げたのである。
  この後も陽明への中傷は続いたので、宸濠の乱を平定したにもかかわらず、その功績は認めてもらえなかった。陽明派に対する弾圧も続いたが、陽明の良知心学は逆境を乗り越え発展する。
 陽明は門人たちに<致知>を語り始める。<致知>とは良知を致すことであり、これが後に提唱する<致良知>説へとつながるのである。
 1521年武宗が死去。新たな皇帝が即位して、まだまだ重臣たちの妬みが残っていたのであるが、陽明はかろうじて復権する。そして帰省を果たし、以後越にいて門人を指導した。
 1528年陽明は、57歳の生涯を閉じた。病を患う陽明を死に陥れる諫言による勅命が降りた。その勅命による遠征のさなか帰国療養の願い叶わず、この人生を終えたのである。
 死期を悟った陽明は、口元にかすかな笑みを浮かべて狼狽する付き人に語った。「この心は光明である。いまさら何もいうことは無い。」と。そしてやがて静かに目を閉じた。 
  王陽明の生涯 「真説・陽明学」入門 林田明大著 からの抜粋 完。

王陽明⑤ 王陽明の生涯 武人・王陽明 (1)

2005年04月06日(水) 09時07分10秒 テーマ:古今東西の成功哲学
(「真説・陽明学」入門 林田明大著 からの抜粋)
  陽明は、1516年(44歳になる年)各地を見回り、地方官吏の不正を正し、暴動反乱などを取り締まる任務に抜擢される。いまでいう検察庁長官と警察庁長官を合わせたようなポストだ。
  陽明の晩年12年間は反乱鎮圧のため東奔西走する武人の生活が続いた。信じられないことだが、その間負ける事がなかった。その秘密を聞かれてこう答えている。
 《私には秘術などないのです。ただ平生みずから信じているのは良知です。およそ機に応じて敵に対したとき、ただこの一点の霊明(良知)が霊妙に感応し、いささかも生死利害に動かされなかっただけなのです。》
  もちろん数々の具体的な施策も試みている。治安防衛上必要な連帯意識を育むために教育を付加した「陽明先生保甲法」などである。
  任務についた翌年、福建省南部山岳地帯の賊を鎮圧、江西省の陳氏を平定し、武官の最高位・軍務提督(自由裁量が許され、賞罰権がある)に昇進した。つづいて湖北省南部のの流賊を平定。このときの賊との戦い方を述べよう。
  「横水の賊」の征討の前に、他の賊に帰順を勧め、何か手柄を立て贖罪したらどうかと諭し、彼らに銀や布を与え、謀反心を鎮めたのだ。陽明の告論文に感激した何人かの酋長らが、部下を率いて帰順してきた。そのものたちの精強の兵500人を選抜し、「横水の賊」の征討の官軍に編入したのである。また敵のスパイや協力者を捕らえて諭し、味方として手柄を立てさせ、敵の重要な情報を手にしている。
  《陽明の戦い方は、少数の兵を自分で指揮して、敵の本拠を不意に襲い、その不備を突くという作戦が多かった。まさに率先垂範である。従来の戦闘は大軍にものをいわせるという方法であった。大軍を動かすとすれば、その行動は敵に察知されやすかったし、準備にも時間と莫大な費用を必要とした。
  また、陽明は 賊の反乱を平定しようとするとき、まずは事前に現地や現状を調査し、何が原因でそんな事態を引き起こしているのかを見極めようとした。次に、心を込めて敵に話し合いを求めた。いろいろな条件を提案して、投降する事を心から願い、それでも駄目な場合に限って武力を用いたのである。
 しかし、賊を平らげたあとも心を尽くして寛大な処置をした。一度平定しても、軍が帰れば、再び盗賊が出るというのが常だった。そこで陽明は軍事だけでなく、その後の政治をしっかりさせた。食料の確保や学校を建てたりして教育にも力を入れた。》

王陽明④ 王陽明の生涯 受難と悟りの時代(2)

2005年04月05日(火) 09時10分04秒 テーマ:古今東西の成功哲学
(「真説・陽明学」入門 林田明大著 からの抜粋)
 陽明は、日夜静坐し、道を求めた。ある夜夢うつつの間に「誰か語りかけるものがいるようで」あった。夢の中で孟子が陽明のために懇切丁寧に、<良知>の章を講義したのだ。そして陽明は朱子学で云う<格物致知>の真の意味を悟ったのである。
 <格物>とは自分の心の中の不正を正すことであり、<致知>とは孟子の言う<良知>(仁愛)を発揮することだった。
 「聖人の道は、私の性に備わっている。これまで理を事物に求めたのは間違いであった。」  陽明は、喜びのあまりに思わず声を上げて従者を驚かしたという。後年このときのことを「天の霊によって良知の学を悟った」と繰り返し語っている。(まさにスピリチュアルな世界を体験したわけです。※森田注)
 そして陽明は生死の問題まで悟り、解脱したのである。それは身を殺して仁を成す。という儒学の要諦(根本)を体得したという表現になるだろう。この出来事を世に「龍場の一悟」と呼んだ。  
 陽明はさっそく暗記していた五経の言葉と、大悟の内容を照らし合わせてみた。すると見事に一致したので「五経臆説」を書く。これは五経の注釈書ではなく、陽明の思想を五経を通じて述べたものだったが、朱子学批判の第1歩となって、この著作は完全な形では残っていない。現在わずか13か条が残っているだけである。  
 陽明の名が広まるにつれて次第に人が彼のもとに集まってきた。 38歳のとき龍場で、<知行合一>説を提唱した。今では、陽明学と言えばこの言葉である。 《「知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成です。聖人の学門にあって、修行はただ一つ、知ることと行うことを、別個のものとは見なさないことです。」(伝習録 上巻)と語っている。 》
 いつまでも知識を求め、行動することを恐れるようになってしまったり、物事を細かく分析して、抽象的な無味乾燥なものにし、生き生きとした生命力を奪ってしまっていることを主張したのだ。
  《物事や自分と他人という分けて考える発想は、心に分裂と葛藤を生じさせ、その葛藤にほとんどのエネルギーを浪費してしまう。 陽明は、龍場での悟りや神秘体験を通じて、全体性の回復が必要なことを痛感した。知と行は一つであり、心と身体は一つであり、自然はトータルなものだ、という考え方が失われることは、人間が宇宙や自然界から孤立することにつながるからである。》  
 陽明39歳のときに、友人達の助力の甲斐あって栄転する。まもなく悪政を憎む人々の手により劉金の一味が捕らえられ、処刑された。陽明40歳のとき中央に復帰し、門人は日増しに増えていった。  結局陽明は、中央にはとどまらず格は上だが左遷の人事で南京での閑職についたが、汚れきった中央政府の役人の世界は陽明の肌に合わなかったので、喜ぶべきことだった。  
 陽明は、<事上磨錬>の工夫を強調している。(いわゆるOJT=オン・ザ・ジョブ・トレーニングのスピリチュアル版 ※森田注)  《人は何事もない静かなときは、我を忘れることはない。…………大変な状況に置かれるとパニックに陥ってしまうものだ。どんな状況下でも、主体性を持ち続けるための工夫が必要だと言うわけで、具体的な実践の場や、それぞれの仕事のうえでの主体性確立の努力の必要性を強調したのである。》

Amebaおすすめキーワード

    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト