不幸の種 それは、中智
KENNY Gのparadiseを聴きながら、ふと昔読んだこの本を思い出しました。
『心眼―エサしか視えないカエル』 森 政弘 (著)
アマゾンで調べたら、なんとかまだ中古で買えるようです。私が購入したのが25年前の昭和59年ですから26歳のときですね・・・・・・。
アンダーラインや自分の書き込みを見ているととても懐かしい思いがしました。
以下、長文になりますが、ご紹介します。
まえがき
「人生とは、より魅力的なものへの接近である」
青年時代に私が得た一般式の一つがこれでした。もちろんこれは、青二才でしかなかった私の観点ゆえ、人世観と言えるようなものでもないのですが、最近、これについてフト思い当るところがありました。それはこういうことです。
魅力の感じ方が健全でさえあれば、確実に幸福をつかむことができる反面、感じ方が不健康であると間違いなく不幸に陥ってしまいます。
このため、着目しなければならない点は、われわれ人間に賦与された―魅力あるものに惹かれるという―性質そのものよりも、われわれが、どういう事柄に対して魅力を感じるかという、心の健康状態にあるということだと考えます。
人間ならば誰もが求める幸福の原点はここにあるのではないでしようか。
ところで今日、物質文明が行き過ぎて心の面がおろそかになっているとか、物質公害とか、人間性尊重ということが、ひんぱんに言われるようになりました。このように人間の心の面に意識が向けられてきたことは人間回復へのきざしとして非常に結構なことと思いますが、ここで用心しなけれはならないのは、人間の心の向くままに行動することが、人間性尊重や心の重視につながるのではないという点です。
心というものは極めて恐ろしい側面を持っているのであって、心を整備し制御することなく、わがままを通し、あるいはわがままを通させてあげることが心の尊重であると早合点したならば、心というものに対する魅力の感じ方は、すでに健全ではないと言わなければなりません。
不幸のおとずれること必定です。
心を常に整備して健全に保つことこそが幸福ヘの鍵なのですが、そのためには、ものごとを客観的に洞察する眼力を身につけることが前提となります。
私はロボット工学や生物工学を専攻する科学技術者で、第四章で述べるように、その専門の科学をとおしてカエルという動物は、われわれ人間の眼には見えているもののほとんどが見えておらず、わずかに自分の方に近づいてくる虫(エサ)だけが見えるということを知ったのです。
われわれはカエルをあざ笑っているわけにはまいりません。
このことを敷衍して考えれば、われわれにもカエルのように、実在しているものが見えていない可能性は十分にあるのです。
心の眼が開けば、幸福ヘの門は開けられたと同じで、あとはその先にある道を歩めばよろしい。(中略)
人生の目先のことばかりに心を奪われていたのではカエルと同じことです。人間としての視野を広げるための一助として本書を活用していただければ本望であります。
一九七六年十一月
森 政弘氏はいわずと知れたロボット工学の権威ですが、このブログでご紹介している良知心学(陽明学)や「天風哲学」と同じ見解です。
それもそのはず、氏は仏教に大変お詳しく、著作も大変たくさんお持ちです。
「自分の心が、自分の現在をつくっている。幸せも、不幸せも。」
さて、本文を借りてもう少し具体的に見てみましょう。
・・・・・・・・・(以下本文より)
「これで、もう大丈夫。おれは、絶対に事故は起こさないぞ!」
と帰路につく途中、田舎道の踏み切りで一時停止を怠って列車に接触し、三か月の大けがをしてしまった・・・・・・。
「だから、わしは信仰ってものがきらいなんだね。神や仏に析ってさえいれぱ、何事も願いどおりになるんなら、これほどうまい話はないが、そうはいかんよ」
大声で、話は、ぼくの耳に自然に入ってきてしまうのである。その話を聞いていて、ぼくは考えたのだ。
この話のように、交通安全のお守りを受けに行った帰りに、油断して事故を起こしてしまうという例は、かなり多いらしいのである。だから最近は、たとえば成田山とか、浅草寺などのお寺では、クルマのお守りを受けにきたドライバーに対して、「帰り道は、くれぐれも安全運転をお願いします」と、わざわざ念を押さなけれぱならないのだという。
まさに、お守り札の逆用と言わねばならないのである。
どうして、そんなことになってしまうのだろうか? 考えていくうち、ぼくの頭の中に、こんな言葉が浮かんできたのだ。
「これは、いわば〝小智″と言わねばならぬものなのではないだろうか」
世の中には、「鰯の頭も信心から」などということわざがある。鰯の頭のようなものを信心の対象にして、それで病気が治った、などという人の話を聞かされたら、だれだって、
「そんなパカなことがあってたまるものか!」
と反発したくなるだろう。どう考えてみても、鰯の頭で病気が治るという合理的な納得は得られない。つまり、それは不合理きわまることであって、そこには、論理性も科学性も、まったくない。
同じように、クルマのおはらいをしてもらい、お守り札をもらったからといって、それで自分の体が不死身になったなどと考えたとすれば、それは不合理きわまることで、〝小智″と言うしかないことになる。けれども、現代の社会に生活している人々の中で、こんな不合理をそのまま鵜呑みにして信じ込んでいる人は、まずあるまい。
義務教育で一応の常識は備えているし、科学が発達し、生活のあらゆる場所に科学的知識が浸透している時代だから、不合理をそのまま信じているようでは、毎日の生活すらおぼつかなくなってしまう。
そこで、現代のぼくたちが絶対の信頼をおくようになったのが、ちゃんと論理をふまえ、科学的に証明されるもの、ということになったわけだ。
「なるほど、そういう話なら、理屈に合っているから納得がいく」
だとか、
「この薬にはパイ菌を殺す力があることが科学的に証明されているから、これを飲んでいれば病気が治るはずだ」と、信用する。これを、ぼくは〝中智″と名づけてみた。
策をめぐらし策に溺れてしまう〝中智″
考えてみると、現代社会でのぼくたちの生活のほとんどが、この"中智"によって進められているのである。
「こうすれぱ、こうなるから、こういうふうに手を打っておかなくちゃならん・・・・・」という考え方である。
たとえば、物価高の中で毎日の家計のやりくりに頭を悩ます奥さんなら、こんなふうに考えるだろう。
「うちの主人は一流大学を出ていないから、いつまでも安月給で、そのために、あたしが、こんなに苦労しなくちゃならないんだわ。やっばり、子どもは一流大学を卒業させなくちゃ。そのためには、一流高校ヘ入れなくちゃならないし、そのためには有名中学ヘ、そのためには名門の小学校へ入れてやらなくちゃならない。家庭教師もつけなくちゃならないし、ボヤボヤしてはいられない。あしたから、あたしも働きに出て、お金をためておかなくちゃ」
ちゃんと論理もふまえているし、十年先、ニ十年先くらいのところまで、一応、見とおしてはいるのである。けれども、そう思惑どおりに事が進んでくれるかどうか、だ。
現在、ぼくは大学で就職担当の仕事もおおせつかっているのだが、学生諸君が、こんな希望を申し出てくる。
「ぼくは、××工業ヘの入社を希望しているんですが・・・・」
「そうかね。で、どうして××工業を選んだのかね?」
「××工業は、今、ものすごく株価が上がっていますし、初任給がズパ抜けていいんです。五年後には、これだけの給料、十年後には、これだけの月給になって、退職金は・・・・」
あるいは、その計算どおり順調に事が運ぶかもしれない。だが、場合によると、その××工業の株が、卒業するころには急落し、入社して何年か後には、もうピンチになっていた、ということも、まま、ありがちなのである。
いくらか先は見とおして考えているのだけれども、この世の中は、いろいろな要因がからみ合って変化していくものであるという、その全貌を見とおすことができなければ、それは、ある一面しか見ない考え、"中智"と呼ばざるをえないのである。
将棋や碁を打つとき、ぼくたちは必ず、何手が先を読んでいく。
「ここに金を張れば、敵の飛車がここヘ出てくる。そこで、その飛車の頭ヘ銀を張れぱ身動きできなくなるから、その間に、こっちの角で、こう攻め立てる・・・・」
つまり、先ヘ先ヘと読んで策略をめぐらすわけだが、それが、まったく裏目に出てしまうことも多いのである。
「原油価額が一三〇パーセント上がり、電気、ガス、国鉄、私鉄などの公共料金が軒並み大幅アップする。今のうちに製品の値上げをしておかないと大損をする」
と、クルマの大幅値上げをしたところ、買い手の財布のヒモが締まって、バッタリと売れ行きが止まってしまうということが起こりがちなのである。
また、この"中智"によって、「こうすれば、ああなる。ああなれば、こうしなければならない・・・・」と、一生懸命になって知恵をしぽっているつもりで、
いつのまにか、どうにも身動きがとれないように自分で自分を縛り上げてしまうことも多いのである。
京都の北嵯峨野に直指庵という尼寺があって、その縁に『想出草』と名づけられたノートが置かれ、この庵を訪ねていく若い人たちが、自分の胸の底にたまったグチや懺悔を書き残していく。
そのノートがたまりたまって千冊を越え、庵主の広瀬善順尼の手で一冊の本にまとめられて出版されたが、このノートに書き残きれた若い人たちの苦しみ、悩みも、実は"中智″ゆえのように、ぼくには思えるのだ。
たとえば、あるお嬢さんは、こんなふうに嘆いている。
「お見合いをしたけど、どうしても結婚するまでの気持ちになれません。私には好きな人がいるけど、その人には私の気持ちが通じなくて、じれったいと思うのだけれど、だからといって自分から言うことはとてもこわい。もし、断られた時のことを考えると、勇気が出ないし、その時、自分が、どうなるかわからないから・・・・。お見合いの人からは返事をせまられているけれど、どうしていいかわからない毎日・・・・」
だいたい、"中智"というやつは、自分本位の損得勘定で計算し、それに基づいてかってな未来予測をしてしまう。
現状が好ましい状態だと、それをどんどんふくらませてバラ色の未来を描いて有頂天になるし、逆に、現状が不満足だと、その線を延長して暗い未来を描き、そこから自分は、もう抜け出すことばできない、と絶望してしまう。
無策の策の"大智″へどう飛躍する?
自分にとって、よかれと考え、よりよき方向をめざして、先を見通しているつもりなのに、それが苦に突き当たってしまう。
「この"中智"を越えるものがなくてはならないはずだが、それは何だろう?」
と考えていって、ぼくが、もう一つ思いついたのが"大智″というものだったのである。
ところが、この"大智"というのが、なかなか難しい。
というのは"中智″をどんなに広げ、より訓練していっても、その延長線上では、どうにもこの"大智″に行き着くというぐあいにはいかない感じがするのである。
たとえば、コンピューターは広範なデータを記憶していて、ぼくたち人間よりも、より正確に、より速く答えを出すことができるが、何か大切なものが欠けている。だから、コンビューターがはじき出した未来予測は、一見、いかにも納得がいくものに見えて、実際には大きな狂いが出てしまうということが、よく起こるのである。
どんなに精密なコンピューターを備えつけたロボットでも、どうしても具えることのできないもの、それが〝大智″のような気がするのである。
"大智″は、"中智”の合理性や、科学的な世界と、どこかで断絶している。かといって、もちろん"小智"の不合理の(むしろ没論理の)世界でもない。いってみればそれは"超論理の世界"であり、だから、それは一見、"小智"の世界に酷似しているのである。
「なるほど、この辺に、迷信と信仰がごっちゃにされてしまう原因があるらしい・・・・」
ぼくは、ようやく合点がいったのだった。
数学の世界に二次曲線というものがあることは、みなさんも勉強されて知っておられるだろう。直線が一次であるのに対して、円、楕円、放物線、双曲線などが二次曲線と呼ばれるものであることは、ご存知のとおりだが、このうちの双曲線というのが、おもしろい曲線なのである。
次頁の図のようにX軸、Y軸をとって双曲線を描くと、それは点線で示した漸近線という直線に沿って、どんどん近づいてはいく。この双曲線の先端は延ぴれば延びるほどいくらでも漸近線に近づきはするが、どこまで延ぴても漸近線と一致することばない。しかし、無限に双曲線が延ぴた、その無限のかなたでは一致する、という線なのである。(中略)
「"中智"から"大智"ヘ移るのには、どこかで飛躍を遂げなければならない。その飛躍は何によって可能になるのだろうか?」
いろいろ思いめぐらせていくと、それがやはり、ぼくたちがいまこの地球上に一つの生命として存在することの必然性というものを真に知るか否か、つまり、
この世界の真実を"観る"目を具えているか否かにかかっているのである。(中略)
そこから"大智"が開けてくる。
「無策の策」という言葉があるが、ぼくたちが"中智″に立っている間は、先ヘ先ヘと読んで、あれこれ策をめぐらさないと安心できない。「よりよい策、相手に負けない策をめぐらした者が勝利を得るのだ」と、策略の競争に血眼になるのだが、ひとたぴ"大智"に立ってみると、もう、そんな才覚の必要など感じなくなってしまうのである。
「すべて、あるがままに受け入れよう。自然のことわりにのっとって生きればいい」(略)
外側からみると、それは"小智"と変わらないものになってしまう。
けれども、この大智の人は、策をめぐらせば、ある程度のところまで、うまくいくぐらいのことはもちろん知っているのである。いろいろな策をめぐらす力も具えている。
けれども、さらにその先を見とおし、いかに精密に予測し、計算しても、その計算は、どこかで狂ってしまうことを知っていて、
変わらぬ、ただ一つのものにのっとって"任せ切り″どっしり構えているわけなのである。
ぼくたちの社会が、あちこちで衝突ぱかり起こして、どうもうまく進まないのも、この"大智"に立つことができないからなのではないだろうか・・・・・・と、ぽくは考えた。
よりよく思案し、考えつめていけば、必ず解決が現れてくる、と思って"中智″にしがみついている限り、一つの問題を解決すると、また、その過程で次の問題が出現してきてしまう。
現在の日本の社会は、まさにその悪循環にはまり込んでしまっていると言うしかない感じである。
たとえば、商店の経営者が問屋ヘの支払いができなくなって銀行から借金をする。返済日になっても金ができない。その苦を解決するために、街の金融会社を駆けずり回り、平身低頭して高利の金を借りて返す。その返済日がくると、借金取りに追い回される苦しさから何とかのがれようと、もっと高利の金融会社を駆け回って、金をかき集める。走り回って、畳に額をこすりつけて、何のことはない金利をどんどんふくらませる努力をしているだけなのに、それに気がつかない。借金を返すのには、働いて金を儲けなければならないのに、金策に追われて、商売をする暇さえなくなってしまっている・・・・それが"中智"にとらわれたわれわれの姿なのではなかろうか。
(略)大学がどうにもうまくいかず、「ここを直せ、あれを取り除けばいい大学ができる」と一生懸命になれぱなるほど、新たに難問が出てきて、にっちもさっちもいかなくなってしまう・・・・。
そこから抜け出すために、お釈迦さまは、「よく(中智を)捨てるものはよく(大智)得る」と、教えられたのである。
そして、お釈迦さまは、まず、「この人生は苦しみが常であると悟らなけれぱならない」と、ぼくたちにおっしゃられるのだ。
つまり、「この借金の苦しみから、のがれられないのだ」と、 一度、覚悟して、債権者に頭を下げてしまうわけだ。
すると、これまでの見方、考え方とは、まったく別な世界が見えてくる。後生大事にしがみついていた地位や資産を投げ出して、債務をタナ上げしてしまわないことには、金利でたちまち押しつぶされる自分が見えてくる。それを捨てるのがこわくて、しがみついていた自分の愚かな姿に気がつく。
つまり、"中智"を捨てたとき、苦しみの原因がハッキリと見えてき、それを取り除くために、どういう行動をとらねばならなかったのか、それが、ようやく明らかになってくるのである。
(略)
人間の歴史をふりかえってみると、人間が一貫してやってきたことは、いやなこと、苦しいことからのがれ、より魅力のあることをしようという努力であったと言ってよいのだが、よくよく考えてみると、何万年もその努力を続けてきたのに、人間は苦しみからいっこうに開放されていないのである。
早い話が、第二次大戦で物がなくなって苦しんだので、その苦しみからのがれようとしてわれわれは大増産をしたわけだが、その結果、物はふえはしたものの、公害で苦しみ、その反対運動で卜ゲトゲしくなり、インフレに悩み・・・といった具合である。
つまり、ある苦しみが消えかけたとたんに別の苦しみが顔を出すのが常なのである。
それならば、本当はどうすればよいのか。そてれは、苦しみからのがれようとするのでなく、「この世界は矛盾や苦しみのあることこそが常の姿であって、苦しみというのは異常な事態ではないとはらをすえ、苦しみよ、どんどん向ってこいと居直る」ことが必要なのである。逆説といえば逆説だが、こうすると、「苦しみが苦しみでなくなる」、つまり苦しみを苦しみとして感じなくなるのである。この考え方を苦諦という。この苦諦が苦しみや矛盾を退治する第一歩なのである。
次に
「人生の苦しみに悩んでいる者は、その原因を探究し、反省してみると、その原因は、他人とか環境とかといった、自分以外のところ(客休)にあるのではなく、本当は自分自身の脳の中、つまり自分の心の持ち方にあることがわかる」というのが集諦である。ここで集とは原因という意味。
それなら、「心の持ち方を変えれぱ、あらゆる苦は消滅するものである」というのが滅諦である。
こういうと諸君の中には、滅諦というのが内面的な主観を変えるだけなら、それは悪い世の中を苦しいものではないと錯覚させるだけのことで、それではいっこうに社会は改善されないのではないか、と反論される方も出てこよう。が、実はそうではないのである。「主体は客体に影響をおよぼす」という事実を忘れないでいただきたい。苦諦のところで話したように、苦しみからのがれようとすると、次の別の苦しみが現われてくるというのは、
じつは主体である自分の心の方を整備もしないでほったらかしにしておいて、客体だけを整備改善しようとしてきたからなのである。そして客体を整えれぱ事態がよくなると信じ続けてきた。
ところが次章「目玉だけでは何も見えない」で説明するように、主体である心がガタついでいたのでは、どんなによい客休でも悪くなってしまうのである。逆に主体が整備され、清らかな心を確立すれば客体はひとりでによくなって、住みよい平和な社会が生まれてくるのである。
そこでどうすれば主体が整備できるかという、言うなれば心を清めるための道を、お釈迦さまが示されたのが道諦である。
つまり、本当に苦を滅する道は、苦からのがれようと努力することではなく、正しくものごとを見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しく生活し、正しく努力し、正しいことを正しく心の底に定着させ、正しい心を周囲の影響や環境の変化によって動揺しないようにすることなのである。
これを八正道という。
この"大智"の立場に立ってみると、これまで、苦を取り除こうとして、まったくあベこベの方向へ、がむしゃらに進んでいた自分が見えてくるのである。
『心眼―エサしか視えないカエル』 森 政弘 (著) から引用させていただきました。
ずいぶん長い引用になりました。