無い物ねだりはやめて、あるもの探しをしよう。

2010年12月11日(土) 17時06分04秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
私たちの不幸は、
無い物ねだりから始まっています。

これが足りない!
あれが足りない!

こういったことができない!
ああいったことができない!

勉強ができない!
数学がわからない!?
英語ができない。
ちっともわからない>

時間が無い。
お金が無い。
知識が無い。

場所が無い。
やり方がわからない。
使い方が無い。
道具が無い。

人材がいない・・・・・・。

こういった考えは、自分で自分を束縛しているだけの暇つぶしです。
自縛思考っていうか。

多くの物や、お金を必要とせず、収入を必要最小限に減らしながら、
充分な時間と、自分の望むことだけをして、
なおかつ、社会的にも貢献し、多くの人に大きな影響を与え続けている人がいました。

「減速して生きる ダウンシフターズ」
という著作を出された、髙阪 勝さんです。

ヒマで儲からないのに6年間黒字!
ちっぽけなオーガニック・バー店主の
目からウロコの減速ビジネス&ライフ入門
(帯から引用)

「無い」ことによる恐怖から、
人は不幸になり、
また、戦争も起こっているのです。

私も、ダウンシフターズになろうっと。思ってます。

減速して生きる―ダウンシフターズ/高坂 勝

¥1,365
Amazon.co.jp

不幸の種

2009年06月21日(日) 14時16分33秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
不幸の種 それは、中智

KENNY Gのparadiseを聴きながら、ふと昔読んだこの本を思い出しました。

『心眼―エサしか視えないカエル』 森 政弘 (著)
アマゾンで調べたら、なんとかまだ中古で買えるようです。私が購入したのが25年前の昭和59年ですから26歳のときですね・・・・・・。
アンダーラインや自分の書き込みを見ているととても懐かしい思いがしました。
以下、長文になりますが、ご紹介します。

まえがき
「人生とは、より魅力的なものへの接近である」
青年時代に私が得た一般式の一つがこれでした。もちろんこれは、青二才でしかなかった私の観点ゆえ、人世観と言えるようなものでもないのですが、最近、これについてフト思い当るところがありました。それはこういうことです。
魅力の感じ方が健全でさえあれば、確実に幸福をつかむことができる反面、感じ方が不健康であると間違いなく不幸に陥ってしまいます。
このため、着目しなければならない点は、われわれ人間に賦与された―魅力あるものに惹かれるという―性質そのものよりも、われわれが、どういう事柄に対して魅力を感じるかという、心の健康状態にあるということだと考えます。
人間ならば誰もが求める幸福の原点はここにあるのではないでしようか。

ところで今日、物質文明が行き過ぎて心の面がおろそかになっているとか、物質公害とか、人間性尊重ということが、ひんぱんに言われるようになりました。このように人間の心の面に意識が向けられてきたことは人間回復へのきざしとして非常に結構なことと思いますが、ここで用心しなけれはならないのは、人間の心の向くままに行動することが、人間性尊重や心の重視につながるのではないという点です。
心というものは極めて恐ろしい側面を持っているのであって、心を整備し制御することなく、わがままを通し、あるいはわがままを通させてあげることが心の尊重であると早合点したならば、心というものに対する魅力の感じ方は、すでに健全ではないと言わなければなりません。
不幸のおとずれること必定です。

心を常に整備して健全に保つことこそが幸福ヘの鍵なのですが、そのためには、ものごとを客観的に洞察する眼力を身につけることが前提となります。
私はロボット工学や生物工学を専攻する科学技術者で、第四章で述べるように、その専門の科学をとおしてカエルという動物は、われわれ人間の眼には見えているもののほとんどが見えておらず、わずかに自分の方に近づいてくる虫(エサ)だけが見えるということを知ったのです。

われわれはカエルをあざ笑っているわけにはまいりません。
このことを敷衍して考えれば、われわれにもカエルのように、実在しているものが見えていない可能性は十分にあるのです。
心の眼が開けば、幸福ヘの門は開けられたと同じで、あとはその先にある道を歩めばよろしい。(中略)
人生の目先のことばかりに心を奪われていたのではカエルと同じことです。人間としての視野を広げるための一助として本書を活用していただければ本望であります。
一九七六年十一月

森 政弘氏はいわずと知れたロボット工学の権威ですが、このブログでご紹介している良知心学(陽明学)や「天風哲学」と同じ見解です。
それもそのはず、氏は仏教に大変お詳しく、著作も大変たくさんお持ちです。
「自分の心が、自分の現在をつくっている。幸せも、不幸せも。」

さて、本文を借りてもう少し具体的に見てみましょう。
・・・・・・・・・(以下本文より)
「これで、もう大丈夫。おれは、絶対に事故は起こさないぞ!」
と帰路につく途中、田舎道の踏み切りで一時停止を怠って列車に接触し、三か月の大けがをしてしまった・・・・・・。
「だから、わしは信仰ってものがきらいなんだね。神や仏に析ってさえいれぱ、何事も願いどおりになるんなら、これほどうまい話はないが、そうはいかんよ」

大声で、話は、ぼくの耳に自然に入ってきてしまうのである。その話を聞いていて、ぼくは考えたのだ。
この話のように、交通安全のお守りを受けに行った帰りに、油断して事故を起こしてしまうという例は、かなり多いらしいのである。だから最近は、たとえば成田山とか、浅草寺などのお寺では、クルマのお守りを受けにきたドライバーに対して、「帰り道は、くれぐれも安全運転をお願いします」と、わざわざ念を押さなけれぱならないのだという。
まさに、お守り札の逆用と言わねばならないのである。

どうして、そんなことになってしまうのだろうか? 考えていくうち、ぼくの頭の中に、こんな言葉が浮かんできたのだ。
「これは、いわば〝小智″と言わねばならぬものなのではないだろうか」
世の中には、「鰯の頭も信心から」などということわざがある。鰯の頭のようなものを信心の対象にして、それで病気が治った、などという人の話を聞かされたら、だれだって、
「そんなパカなことがあってたまるものか!」
と反発したくなるだろう。どう考えてみても、鰯の頭で病気が治るという合理的な納得は得られない。つまり、それは不合理きわまることであって、そこには、論理性も科学性も、まったくない。
同じように、クルマのおはらいをしてもらい、お守り札をもらったからといって、それで自分の体が不死身になったなどと考えたとすれば、それは不合理きわまることで、〝小智″と言うしかないことになる。けれども、現代の社会に生活している人々の中で、こんな不合理をそのまま鵜呑みにして信じ込んでいる人は、まずあるまい。

義務教育で一応の常識は備えているし、科学が発達し、生活のあらゆる場所に科学的知識が浸透している時代だから、不合理をそのまま信じているようでは、毎日の生活すらおぼつかなくなってしまう。
そこで、現代のぼくたちが絶対の信頼をおくようになったのが、ちゃんと論理をふまえ、科学的に証明されるもの、ということになったわけだ。
「なるほど、そういう話なら、理屈に合っているから納得がいく」
だとか、
「この薬にはパイ菌を殺す力があることが科学的に証明されているから、これを飲んでいれば病気が治るはずだ」と、信用する。これを、ぼくは〝中智″と名づけてみた。

策をめぐらし策に溺れてしまう〝中智″

考えてみると、現代社会でのぼくたちの生活のほとんどが、この"中智"によって進められているのである。
「こうすれぱ、こうなるから、こういうふうに手を打っておかなくちゃならん・・・・・」という考え方である。
たとえば、物価高の中で毎日の家計のやりくりに頭を悩ます奥さんなら、こんなふうに考えるだろう。
「うちの主人は一流大学を出ていないから、いつまでも安月給で、そのために、あたしが、こんなに苦労しなくちゃならないんだわ。やっばり、子どもは一流大学を卒業させなくちゃ。そのためには、一流高校ヘ入れなくちゃならないし、そのためには有名中学ヘ、そのためには名門の小学校へ入れてやらなくちゃならない。家庭教師もつけなくちゃならないし、ボヤボヤしてはいられない。あしたから、あたしも働きに出て、お金をためておかなくちゃ」

ちゃんと論理もふまえているし、十年先、ニ十年先くらいのところまで、一応、見とおしてはいるのである。けれども、そう思惑どおりに事が進んでくれるかどうか、だ。
現在、ぼくは大学で就職担当の仕事もおおせつかっているのだが、学生諸君が、こんな希望を申し出てくる。
「ぼくは、××工業ヘの入社を希望しているんですが・・・・」
「そうかね。で、どうして××工業を選んだのかね?」
「××工業は、今、ものすごく株価が上がっていますし、初任給がズパ抜けていいんです。五年後には、これだけの給料、十年後には、これだけの月給になって、退職金は・・・・」
あるいは、その計算どおり順調に事が運ぶかもしれない。だが、場合によると、その××工業の株が、卒業するころには急落し、入社して何年か後には、もうピンチになっていた、ということも、まま、ありがちなのである。

いくらか先は見とおして考えているのだけれども、この世の中は、いろいろな要因がからみ合って変化していくものであるという、その全貌を見とおすことができなければ、それは、ある一面しか見ない考え、"中智"と呼ばざるをえないのである。
将棋や碁を打つとき、ぼくたちは必ず、何手が先を読んでいく。
「ここに金を張れば、敵の飛車がここヘ出てくる。そこで、その飛車の頭ヘ銀を張れぱ身動きできなくなるから、その間に、こっちの角で、こう攻め立てる・・・・」
つまり、先ヘ先ヘと読んで策略をめぐらすわけだが、それが、まったく裏目に出てしまうことも多いのである。
「原油価額が一三〇パーセント上がり、電気、ガス、国鉄、私鉄などの公共料金が軒並み大幅アップする。今のうちに製品の値上げをしておかないと大損をする」 
と、クルマの大幅値上げをしたところ、買い手の財布のヒモが締まって、バッタリと売れ行きが止まってしまうということが起こりがちなのである。

また、この"中智"によって、「こうすれば、ああなる。ああなれば、こうしなければならない・・・・」と、一生懸命になって知恵をしぽっているつもりで、いつのまにか、どうにも身動きがとれないように自分で自分を縛り上げてしまうことも多いのである。

京都の北嵯峨野に直指庵という尼寺があって、その縁に『想出草』と名づけられたノートが置かれ、この庵を訪ねていく若い人たちが、自分の胸の底にたまったグチや懺悔を書き残していく。
そのノートがたまりたまって千冊を越え、庵主の広瀬善順尼の手で一冊の本にまとめられて出版されたが、このノートに書き残きれた若い人たちの苦しみ、悩みも、実は"中智″ゆえのように、ぼくには思えるのだ。
たとえば、あるお嬢さんは、こんなふうに嘆いている。

「お見合いをしたけど、どうしても結婚するまでの気持ちになれません。私には好きな人がいるけど、その人には私の気持ちが通じなくて、じれったいと思うのだけれど、だからといって自分から言うことはとてもこわい。もし、断られた時のことを考えると、勇気が出ないし、その時、自分が、どうなるかわからないから・・・・。お見合いの人からは返事をせまられているけれど、どうしていいかわからない毎日・・・・」

だいたい、"中智"というやつは、自分本位の損得勘定で計算し、それに基づいてかってな未来予測をしてしまう。
現状が好ましい状態だと、それをどんどんふくらませてバラ色の未来を描いて有頂天になるし、逆に、現状が不満足だと、その線を延長して暗い未来を描き、そこから自分は、もう抜け出すことばできない、と絶望してしまう。


無策の策の"大智″へどう飛躍する?
自分にとって、よかれと考え、よりよき方向をめざして、先を見通しているつもりなのに、それが苦に突き当たってしまう。
「この"中智"を越えるものがなくてはならないはずだが、それは何だろう?」
と考えていって、ぼくが、もう一つ思いついたのが"大智″というものだったのである。
ところが、この"大智"というのが、なかなか難しい。
というのは"中智″をどんなに広げ、より訓練していっても、その延長線上では、どうにもこの"大智″に行き着くというぐあいにはいかない感じがするのである。
たとえば、コンピューターは広範なデータを記憶していて、ぼくたち人間よりも、より正確に、より速く答えを出すことができるが、何か大切なものが欠けている。だから、コンビューターがはじき出した未来予測は、一見、いかにも納得がいくものに見えて、実際には大きな狂いが出てしまうということが、よく起こるのである。
どんなに精密なコンピューターを備えつけたロボットでも、どうしても具えることのできないもの、それが〝大智″のような気がするのである。

"大智″は、"中智”の合理性や、科学的な世界と、どこかで断絶している。かといって、もちろん"小智"の不合理の(むしろ没論理の)世界でもない。いってみればそれは"超論理の世界"であり、だから、それは一見、"小智"の世界に酷似しているのである。
「なるほど、この辺に、迷信と信仰がごっちゃにされてしまう原因があるらしい・・・・」
ぼくは、ようやく合点がいったのだった。

数学の世界に二次曲線というものがあることは、みなさんも勉強されて知っておられるだろう。直線が一次であるのに対して、円、楕円、放物線、双曲線などが二次曲線と呼ばれるものであることは、ご存知のとおりだが、このうちの双曲線というのが、おもしろい曲線なのである。
次頁の図のようにX軸、Y軸をとって双曲線を描くと、それは点線で示した漸近線という直線に沿って、どんどん近づいてはいく。この双曲線の先端は延ぴれば延びるほどいくらでも漸近線に近づきはするが、どこまで延ぴても漸近線と一致することばない。しかし、無限に双曲線が延ぴた、その無限のかなたでは一致する、という線なのである。(中略)

「"中智"から"大智"ヘ移るのには、どこかで飛躍を遂げなければならない。その飛躍は何によって可能になるのだろうか?」
いろいろ思いめぐらせていくと、それがやはり、ぼくたちがいまこの地球上に一つの生命として存在することの必然性というものを真に知るか否か、つまり、この世界の真実を"観る"目を具えているか否かにかかっているのである。(中略)

そこから"大智"が開けてくる。
「無策の策」という言葉があるが、ぼくたちが"中智″に立っている間は、先ヘ先ヘと読んで、あれこれ策をめぐらさないと安心できない。「よりよい策、相手に負けない策をめぐらした者が勝利を得るのだ」と、策略の競争に血眼になるのだが、ひとたぴ"大智"に立ってみると、もう、そんな才覚の必要など感じなくなってしまうのである。
「すべて、あるがままに受け入れよう。自然のことわりにのっとって生きればいい」(略)

外側からみると、それは"小智"と変わらないものになってしまう。
けれども、この大智の人は、策をめぐらせば、ある程度のところまで、うまくいくぐらいのことはもちろん知っているのである。いろいろな策をめぐらす力も具えている。
けれども、さらにその先を見とおし、いかに精密に予測し、計算しても、その計算は、どこかで狂ってしまうことを知っていて、変わらぬ、ただ一つのものにのっとって"任せ切り″どっしり構えているわけなのである。

ぼくたちの社会が、あちこちで衝突ぱかり起こして、どうもうまく進まないのも、この"大智"に立つことができないからなのではないだろうか・・・・・・と、ぽくは考えた。

よりよく思案し、考えつめていけば、必ず解決が現れてくる、と思って"中智″にしがみついている限り、一つの問題を解決すると、また、その過程で次の問題が出現してきてしまう。
現在の日本の社会は、まさにその悪循環にはまり込んでしまっていると言うしかない感じである。

たとえば、商店の経営者が問屋ヘの支払いができなくなって銀行から借金をする。返済日になっても金ができない。その苦を解決するために、街の金融会社を駆けずり回り、平身低頭して高利の金を借りて返す。その返済日がくると、借金取りに追い回される苦しさから何とかのがれようと、もっと高利の金融会社を駆け回って、金をかき集める。走り回って、畳に額をこすりつけて、何のことはない金利をどんどんふくらませる努力をしているだけなのに、それに気がつかない。借金を返すのには、働いて金を儲けなければならないのに、金策に追われて、商売をする暇さえなくなってしまっている・・・・それが"中智"にとらわれたわれわれの姿なのではなかろうか。

(略)大学がどうにもうまくいかず、「ここを直せ、あれを取り除けばいい大学ができる」と一生懸命になれぱなるほど、新たに難問が出てきて、にっちもさっちもいかなくなってしまう・・・・。
そこから抜け出すために、お釈迦さまは、「よく(中智を)捨てるものはよく(大智)得る」と、教えられたのである。
そして、お釈迦さまは、まず、「この人生は苦しみが常であると悟らなけれぱならない」と、ぼくたちにおっしゃられるのだ。
つまり、「この借金の苦しみから、のがれられないのだ」と、 一度、覚悟して、債権者に頭を下げてしまうわけだ。
すると、これまでの見方、考え方とは、まったく別な世界が見えてくる。後生大事にしがみついていた地位や資産を投げ出して、債務をタナ上げしてしまわないことには、金利でたちまち押しつぶされる自分が見えてくる。それを捨てるのがこわくて、しがみついていた自分の愚かな姿に気がつく。

つまり、"中智"を捨てたとき、苦しみの原因がハッキリと見えてき、それを取り除くために、どういう行動をとらねばならなかったのか、それが、ようやく明らかになってくるのである。
(略)
人間の歴史をふりかえってみると、人間が一貫してやってきたことは、いやなこと、苦しいことからのがれ、より魅力のあることをしようという努力であったと言ってよいのだが、よくよく考えてみると、何万年もその努力を続けてきたのに、人間は苦しみからいっこうに開放されていないのである。
早い話が、第二次大戦で物がなくなって苦しんだので、その苦しみからのがれようとしてわれわれは大増産をしたわけだが、その結果、物はふえはしたものの、公害で苦しみ、その反対運動で卜ゲトゲしくなり、インフレに悩み・・・といった具合である。
つまり、ある苦しみが消えかけたとたんに別の苦しみが顔を出すのが常なのである。
それならば、本当はどうすればよいのか。そてれは、苦しみからのがれようとするのでなく、「この世界は矛盾や苦しみのあることこそが常の姿であって、苦しみというのは異常な事態ではないとはらをすえ、苦しみよ、どんどん向ってこいと居直る」ことが必要なのである。逆説といえば逆説だが、こうすると、「苦しみが苦しみでなくなる」、つまり苦しみを苦しみとして感じなくなるのである。この考え方を苦諦という。この苦諦が苦しみや矛盾を退治する第一歩なのである。
次に「人生の苦しみに悩んでいる者は、その原因を探究し、反省してみると、その原因は、他人とか環境とかといった、自分以外のところ(客休)にあるのではなく、本当は自分自身の脳の中、つまり自分の心の持ち方にあることがわかる」というのが集諦である。ここで集とは原因という意味。

それなら、「心の持ち方を変えれぱ、あらゆる苦は消滅するものである」というのが滅諦である。
こういうと諸君の中には、滅諦というのが内面的な主観を変えるだけなら、それは悪い世の中を苦しいものではないと錯覚させるだけのことで、それではいっこうに社会は改善されないのではないか、と反論される方も出てこよう。が、実はそうではないのである。「主体は客体に影響をおよぼす」という事実を忘れないでいただきたい。苦諦のところで話したように、苦しみからのがれようとすると、次の別の苦しみが現われてくるというのは、じつは主体である自分の心の方を整備もしないでほったらかしにしておいて、客体だけを整備改善しようとしてきたからなのである。そして客体を整えれぱ事態がよくなると信じ続けてきた。
ところが次章「目玉だけでは何も見えない」で説明するように、主体である心がガタついでいたのでは、どんなによい客休でも悪くなってしまうのである。逆に主体が整備され、清らかな心を確立すれば客体はひとりでによくなって、住みよい平和な社会が生まれてくるのである。

そこでどうすれば主体が整備できるかという、言うなれば心を清めるための道を、お釈迦さまが示されたのが道諦である。
つまり、本当に苦を滅する道は、苦からのがれようと努力することではなく、正しくものごとを見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しく生活し、正しく努力し、正しいことを正しく心の底に定着させ、正しい心を周囲の影響や環境の変化によって動揺しないようにすることなのである。
これを八正道という。

この"大智"の立場に立ってみると、これまで、苦を取り除こうとして、まったくあベこベの方向へ、がむしゃらに進んでいた自分が見えてくるのである。

『心眼―エサしか視えないカエル』 森 政弘 (著) から引用させていただきました。


ずいぶん長い引用になりました。

「あなたの理想は、あなたの未来を予言するものにほかならない」

2009年06月04日(木) 17時17分40秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
「あなたの理想は、あなたの未来を予言するものにほかならない」

【原因と結果の法則 ジェームズ・アレン著 から引用】
デビッド・サンボーンを聴きながら。

この本の初版が印刷されたのが2003年4月10日、それは、私の何回目かの誕生日です。
また、アレン氏がこの本を書いたのは、1902年のことですからずいぶん時が経っています。
彼が著作家になって、2冊目の本だそうです。
訳者による解説では、
「彼はこの本を通じて、のちのち高い評価を受けることになった自身の哲学を、この上なく雄弁かつ簡潔に語っていますが、自分ではその内容に満足していなかったようです。彼が本書を出版する気になったのは、妻のリリーの粘り強い説得があったからだといいます。」

私には、アレン氏の出版を躊躇した気持ちが分かるような気がします。

この本は、とても「厳しい本」だからです。

今あなたが、不幸であること、貧しいこと、病気であること・・・・その
「あなたを取り巻くすべての環境は、あなたの心が作り出したものだ。」

繰り返し、繰り返しアレンは語ります。
救いをもとめて手にした読者が、その言葉に打ちのめされないことを祈らずに居られません。

でも、もうひとつ私は感ずることがあります。
この本は、アレンの心の、そして人生の軌跡を振り返った「若き日の自分自身に向けた」言葉なのではないかと。

アレンが、自分自身に向けて書いた作品なのではないかと。

それほど、アレンは厳しく自分を律してきたからこそ、法則を体現し、「表現できる」ひとになったのだと思うのです。
74pの「より良い人生を夢見て」の章は、きっと彼自身のことではないでしょうか?

「原因」と「結果」の法則/ジェームズ アレン
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追伸:私は、戌年生まれです。今日朝刊の中日新聞の運勢欄にはこう出ていました。

「いぬ年:環境を変えて幸運になるのではなく、心変えれば幸運の環境に居る」

素晴らしいタイミングです。

「原因と結果の法則」は、続編②があります。
サブタイトルは、「幸福への道」
魅力的なタイトルでしょ。

「原因」と「結果」の法則2/ジェームズ・アレン
¥1,470
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すべての人生・生命の公式 

2009年06月04日(木) 11時51分29秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

すべての人生・生命の公式 



希望は信じることへの入り口であり、

信じることは知ることへの入り口であり、

知ることは創造することへの入り口であり、

創造することは、経験への入り口である。

経験は表現への入り口であり、

表現は「何かになること」への入り口であり、

「何かになること」はすべての生命活動の入り口であり、

神の唯一の機能だ。

「希望」とはエネルギーだ。それ以上でも、それ以下でもない。

すべての思考はエネルギーで、

「あの世」と言われているのはエネルギーの場以外の何者でもない。

そこは、

「限りない可能性がある宇宙の場」だ。

<神へ帰る ニール・ドナルド・ウォルシュ著、吉田利子訳:より>

神へ帰る/ニール・ドナルド ウォルシュ
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冒頭紹介した文は、上の書籍、神との対話シリーズ(最終版)から引用しました。

このシリーズは、10種発行されています。期間も10年に及ぶものです。

よっぽど時間と気力がないと、今から最初の本から全部読むのは大変でしょうが・・・。



陽炎の辻  居眠り磐音 江戸双紙

2009年05月30日(土) 21時14分51秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
陽炎の辻  居眠り磐音 江戸双紙

佐伯泰英:著 NHK土曜時代劇

西村由紀江さんのBest of Bestを聴きながら・・・・・。

ずいぶん前ですが、NHKラジオで、読書家として知られる俳優の児玉清さんが、この時代小説をご紹介されました。
私は、読む本がかなり偏向していて、人に薦められた本はまったく読まないたちなのですが・・、なぜか心に残り、書店で第1巻を買いました。そして、嵌まりました。あっというまに当事の既刊本20数巻を読みきり、今では新刊が出るのを楽しみにしています。

予感したとおり、この小説はドラマ化されました。NHKの土曜時代劇です。
そして、今日7時30から、見て、また、感動で目蓋を濡らしました。

私を含め、原作を読んでいる人は、結末を知っています。主人公が不覚を取って刺客に斬られて大怪我をしても、必ず直る、死ぬことはないと・・・。また、最愛のおこんと生涯連れ添うことと、佐々木道場の跡継ぎになることの整合性も知っています。

「私たちは、未来を知っている」のです。

ドラマの中の磐音をとりまく、愛すべき人間たちは、未来を知りません。
不安に駆られ、おろおろし、それでも一所懸命に生きています。
自分にできることを、とにかく不器用でも、磐音とおこんのためにやり続けます。
その人間くささが、私の心を打つのです。

「未来が分からない・・・・・。」
これこそが人間の根本的な不安の種です。
ですが、磐音の周囲の愛すべき人々は、未来を信じています。「磐音さまは、きっと助かる。死んでしまうわけがない・・・」と。

未来を知っている。未来を信じている。
その強さ。

知っているからこそ、信じているからこそ、・・・未来を創り上げていくための勇気が湧き上がるのです。
人間万歳です。

陽炎ノ辻―居眠り磐音 江戸双紙 (双葉文庫)/佐伯 泰英
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わが子に豊かさと成功をもたらす7つの法則・・・・<ディーパック・チョプラ著>

2009年05月23日(土) 16時06分10秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
わが子に豊かさと成功をもたらす7つの法則・・・・<ディーパック・チョプラ著>

私の職場では、全社員参加で月に1回勉強会をしています。この勉強会は私が主催していますので、当然「森田ゼミ的」になっています。しかし、仕事の内容が子供たちへのアシストですから、テーマとテキストを工夫しています。それが、表題の「わが子に豊かさと成功をもたらす7つの法則」です。

「豊かさとは、愛と幸福に満ちあふれていること。
       成功とは、そのひとの心のあり方のこと。」

表紙カバーに記されたこの言葉のとおり、内容は心のあり方について書かれたものです。
すでにこのブログでご紹介させていただいた、「人生に奇跡をもたらす7つの法則」の中身を子供向けに、親が話してあげられる内容になっています。
この本で、チョプラ師が想定している「わが子」とは、1歳の幼児から中学卒業ぐらいまでの年頃の子供たちです。
中学3年は、子供時代の終わり・・・そして青春時代の幕開けなのです。
青春時代は、自分が求めているものを模索する、大変むずかしい時です。じきにもう親では満たしきれない欲求を抱えるようになるのです。

「子供の能力を信じ、自立させなければいけない」
・・・・<本書より引用>
あたらしい環境と新たな心の成長のステップへ踏み出そうとする子供たち。
親である私たちは、不安に駆られます。

今までの自分の教育は正しかっただろうか?、親としての振舞いは、良かっただろうか?
だいじょうぶ。子供たちは元気で無限の可能性を持っています。
チュプラ師のあなたへの言葉をお贈りします。

「本当の成功とは、自分にとって意味のある目標、心から喜べる目標を達成すること・・・・・・。
あなたは子供たちがまだ小さいときからそう教えました。
他の人を喜ばせ、他の人のためになることをするには、まず自分で実感するのがいちばんよい方法だと思ったからです。

あなたは子供たちの夢を応援しました。
子供たちが自分の願いを信じ、精神的な成長を遂げるために堂々と心の旅ができるように・・・・・・・。」


わが子に豊かさと成功をもたらす7つの法則/ディーパック チョプラ
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「奇跡の脳 」

2009年05月22日(金) 16時40分19秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
「奇跡の脳 」ジル・ボルト テイラー、著 竹内 薫訳 新潮社

井上淑彦さんのサックスを聞きながら・・・・。
久しぶりの推薦図書のご案内です。

「脳科学者の私の脳が壊れた・・・・・。」
著者は、ハーバード医学校で人間の脳について研究していた神経解剖学者でした。
ある朝目覚めると左目の奥がズキズキと鋭く痛み、起き上がって軽い運動をしてみると体はぎこちない感じで、体の感覚が何かから切り離されていくそんな感じを受けました。行動している自分を記憶の録画再生をみているような感覚。浴槽の蛇口から出る水の音が異常に大きく聞こえる・・・・。次第に右半身の感覚が麻痺し、数字や文字が理解できなくなっていく・・・・。
その朝、著者に起こったことは、脳の静脈が破れ、大量の血液が大脳の左半球に吐き出された。脳内出血だったのです。
 左脳の機能が麻痺した結果、電話番号や文字認識の機能が限りなく低下し、助けを呼ぶ電話さえ掛けられない状態に陥りましたが、不思議なことに「心、意識」はちゃんと働いていたのです。助けがやってくるまでの4時間とその後の8年に及ぶリハビリの記録は、脳科学者自身による、脳卒中患者の生きた証言として貴重な知見を私たちにもたらしてくれます。

しかし、もっとも驚くべきことは、実は損傷を免れた「右脳」の驚くべき性質を実体験を持って語られていることです。まさに右脳こそが、スピリチュアルな脳だったのです。

いつもは優勢である脳の左半球の機能が麻痺したことで、右脳の機能だけが鮮やかに働いて表にでたのです。そして、その右脳の機能・性質とは・・・・・!まさに驚異に満ちたものでした。

いくつかご紹介しましょう。
・「からだの境界」という感覚がなくなって、自分が宇宙の広大さと一体になった気がしていました。・・・・・意識は爽やかな静寂の流れのにあり、至福の時を感じ・・・・・・
・ただ美しい自然の中をぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへと私の意識は変容しました。
・神経が傷を負っているのに。忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在のすみずみまで浸透しています。そして、静けさを感じました。
・永遠の幸福感に舞い上がった意識の中に天国がありました。

もう、お分かりでしょうか?
奇跡の脳/ジル・ボルト テイラー
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左脳の機能が邪魔をしなくなると、意識は、いわゆる「涅槃」の状態になるのです。

「この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は、右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。・・・・(略)・・・・・
わたしが脳卒中によって得た「新たな発見(insight)は、こういえるでしょう。」
「頭の中でほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」


リハビリの過程で失われた左脳機能が復活するにともなって、この右脳優位がもたらす「幸福感・全体感・思いやり」といった涅槃の宝物たちを失うことはしたくない。と著者は決意します。
リハビリの8年間、彼女は注意深く、頭をもたげてくる「左脳マインド」を「右脳マインド」でコントロールする「術」を身につけました。

この彼女の「実体験」は、脳科学者であったがために、正確です。単なるインプレッションではありません。
本書の価値は、彼女の語る「左脳マインド」のコントロール技術にあります。

タイム誌が、「2008年世界でもっとも影響力のある100人」に選んだとおり、21世紀の地球にとって、スピリチュアリストには必読本だと思います。

本書の題名=奇跡の脳とは、まさに右脳のことですね。

甲子園への遺言

2008年03月08日(土) 11時10分34秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

門田 隆将
甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯
  門田隆将:著
「才能とは、逃げ出さないこと。最後まであきらめないこと。」

高畠導宏という異色の高校教師が、いつも言っていた言葉です。
プロ野球界の天才軍師として「戦略コーチ」という名を生んだ高畠氏は、元プロ野球コーチとして30年間の実績を持っています。
30人以上のタイトルホルダーを育て、兄貴のように慕われ、恩師として仰がれた人物です。

その高畠氏が、人生の最後のチャレンジに選んだのが、高校の教師という仕事でした。
「高校の教師になって、生徒たちと一緒に全国制覇をしたい。楽しい野球を教えてあげたい。あきらめなければ、きっと夢が叶うということを伝えたい。」
50代半ばで一念発起し、通信教育で教員免許を取得し、九州の筑紫台高校で社会科の教師になります。

しかし、就任から1年余、元プロ野球関係者が高校球児を直接指導することのできる2年の停止期限が解ける前に、膵臓ガンで帰らぬ人となりました。 
その高畠氏の伝記本が「甲子園への遺言  門田隆将:著」です。

私が、この物語を知ったのは、NHKの「土曜ドラマ」で、この原作をドラマ化した「フルスイング」という番組を見たからです。
毎週、泣きながら見ました。

感動の連続でした。
創作された熱血教師ではない。
そのとおり生きてきた実在の「一人の壮年の男の物語り」に、感動したのです。

高畠氏は、筑紫台高校に大きな贈り物をしました。
たった1年余なのにその贈り物は、生徒たち、同僚の教師たちの心の中にいつまでも生き続けることでしょう。
プロ野球のコーチと高校教師。
教えることは一緒でも普通は別世界の存在です。
ところが、高畠氏にはそんな区別はありません。
選手に技術を押しつけることは一切しない。
一人ひとりの才能や個性を最大限尊重する。まさにティーチングではなく、本物のコーチングの姿であると私は思います。

活字が苦手でない方は、ぜひ読んでみて欲しい本です。

暴力はどこからきたか・・・・・・・。

2008年03月08日(土) 11時06分33秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

山極 寿一
暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス 1099)
 いまの世界は、まったく暴力が蔓延しているように見えます。
国家間の戦争、テロ、犯罪、そして恋人を暴力で支配する男、幼児を殺す男たち。 

少なくとも、この暴力は「オトコ」たちが振るっている、主役であるように見えます。
ですが、アメリカ初の女性大統領が誕生したとしても暴力・軍事力による世界戦略をやめにできるかどうかは私には分かりません。 

直接的な身体に対する暴力だけではなく、数による圧力、言葉による抑圧も立派な暴力です。
刑法の傷害罪は、外傷の有無に関係しません。心的被害も立派な傷害ですし、脅迫に当たります。
それにしても世に「暴力」は蔓延しています。 

私の立場上、特に「パワハラ」というのが厄介です。
立場を利用したハラスメントにならないようにと注意する事は、社長である私の言動を強く拘束しています。
感情的か理性的かはともかく、私の言ったことは相手にしてみれば「最後通牒」となって強く印象付けられるわけです。
心理的な攻撃・強制と受け止められれば「パワハラ」裁判が待っています。 

暴力とは、人間の本性なのでしょうか?
知られるとおり中国の古の聖人たちは性善説と性悪説を繰り広げました。

私としては、性善説を主張した孟子に賛同しています。ただし、中国の施政に深く関与した思想家は性悪説を唱えた人たちでした。 
モーゼの十戒は「してはならない」ことのリストアップですし、聖徳太子の7か条の憲法も「和を持って尊しと成す」ですから、そうでなかった世相が透けて見えます。

では、やはりヒトはもともと非平和的な存在であって、暴力は避けられないのでしょうか。 

人間とは何か。人間はどう進化してきたのか。

そういった根源的な命題から人間の暴力を解決していこうとする試みが、「暴力はどこから来たか」というこの本です。 
考えてみれば、ヒトに一番近い「類人猿」たちはどのような「暴力」をもち、あるいは「暴力の抑制」をしているのだろうか? 
私たちは、本当は何も知らないのです。

自然界は「弱肉強食」の世界であると強く信じているのは、前時代的なパラダイムに支配されている無知な人々か、あるいは、自分にとって都合のよい「論理」を振りまいている先導者たちによってコントロールされている状態なのです。 
自然界の動物たちは、たしかに弱肉強食の野蛮な行動原理、暴力が支配しているように見えます。 
ですが一言で「暴力」といってしまう事が多くの錯誤を生んでいます。
捕食者に対する「防衛行動」と、自分が生きていくための「狩猟行動」と、集団における「トラブル解決の方法」等における「一見暴力的にみえる行動」は、全く違う行動原理が働いているのです。
それを私たちが見分ける事ができるとしたら、私たち人間は「正しい自己理解」ができるのではないでしょうか。
 人間が人間として、他の類人猿たちと進化の歴史を分かつ事ができたのは、全く非暴力な連帯関係を構築する事であったという著者の見解に私は同意します。
そうでなければいけません。
私たちの「暴力」的行動を類人猿や他の動物の表向き残酷に見える生態に擬人化して正当化することは詭弁なのです。 
サルたちは、逆に複雑な社会構造を種毎に進化させているということが研究者の間では認知されています。
その社会構造の変化は、限りなく「暴力」を抑制する方向へ進化してきているのです。
霊長類や類人猿たちの行動から私たちヒトがその特性をどう受け継ぎ、進化させてきたかを知覚しなければなりません。 

私たちは、どこかで「ボタンを掛け違ってしまった」のです。 

暴力を考える事は、「オトコの進化論」へと発展します。
いやおうもなく、「暴力」はオトコにまつわる命題なのです。

永遠平和のために・……。

2008年03月08日(土) 11時00分51秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
イマヌエル・カント, 池内 紀
永遠平和のために

永遠平和のために・……。
私たちの国、日本は1945年の終戦の日以来60年以上にわたって他国との戦争を経験していません。
ですが、戦争協力に限りなく近い「国際貢献責任を果たせ。」という無責任な状況圧力は日増しに高まっています。

様々な思惑や、国のご都合は私の知る由ではありませんが、たった60年の非戦闘という実績でさえ、「他国の国民を殺していない希少な国である」という時代に暮らしている事は確かなようです。

18世紀は、どんな時代だったのでしょう。

私たちは余りにも無知であって、「今」の世界情勢のことも良く知らないし、まして200年前の18世紀という時代については記憶の外にあります。
日本では徳川幕府による長い平穏な時代が続いていた頃ですが、西欧では、戦国時代だったようです。

西欧各地で数年に渡る熾烈な戦争が幾度も繰り広げられていた時代なのです。
かの有名なナポレオンが登場するのがこの18世紀で、1803年からは、ナポレオン戦争といわれる歴史に残る過酷な戦争が繰り広げられました。
そんな戦乱の西欧において、一人の哲学者が「永遠平和のために」という書物を世に出しました。

この時代は、専制国家の隆盛な時代ですから、戦争反対者は身に危険が及びます。
それでもあえて永遠平和のために書物を著わす勇気にまずは、乾杯です。
そしてその内容は、時代を超えて今、このときの私たちに響くものがあります。

「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである」現在の国家で、憲法上常備軍を持っていないのは中央アメリカのコスタリカという国が有名です。
『現在、パナマ、ハイチ、アンティグア・バーブーダ、セント・ルシア、セントクリストファー・ネイビス、セントヴィンセント・グレナディーン、ドミニカ国、グレナダ、ナウル、ツバル、キリバス、モナコ、アンドラ、バチカン、サンマリノ、リヒテンシュタイン、アイスランドなどの国では、各国それぞれの事情において常設の軍備が存在せず、その中にはコスタ・リカを模範にした国もある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

少なくとも先進国といわれるなかで、常備軍を持たない事は、現在の国際状況、国際政治の常識では、「ありえない」ことなのです。
もちろん日本の自衛隊は「常備軍」ですし、実力はともかく世界有数の規模を誇る「軍隊」です。
現代の軍隊や軍備の本質は、もちろん他国の征服や侵略を目論むものではありません。
それは他国からの干渉や侵略に備える事や、自国の国益や国民を守るためのものです。
ただそれらはすべて、国としての存在を脅かされるに違いないという「恐怖心」が動機となっています。
なぜなら他国には「常備軍」が存在しているからです。
広い意味で「防衛」を目指している軍隊が、他国にとっては「脅威」となる。
それが「恐怖」の悪循環を促進しているのです。

近代の歴史に限らず人類の長い歴史の中で、国や民族にとって戦乱に備える事は必須であり義務でした。
弱いものは食われてしまうという弱者必衰の論理がまかりとおってきたのです。

この哲学者は、常備軍をなくすという命題のために、
「自由な国家の連合による国際法」の制定を提唱しました。
200年前です。すばらしい知見です。
ただし、国家連合や国際法が機能するための要点を掲げています。それは、
「他人の権利に関係する全ての行為のうち、原則的に公開性を拒むものは不正である」という命題です。
これは、国どおしの関係にとどまりません。
まさに情報公開の原則が大切なのです。
「公開されない=秘密である」ことは、不安を冗長させる究極の原理なのです。
家族でも会社でも地域でも、国家でも。最近のニュースで中国の軍事予算の不透明さに他国が警鐘を鳴らしていましたが、つまりそういうことなのです。秘密にする事は、情報を操作する事です。
不知による相手の無知と恐怖心を利用して、大衆や相手を支配したり、コントロールしたりすることが可能になります。
今、私たちの周りではモラルを原理として国家の英知を考える「モラルある政治家」ではなく、モラルを利用して政治家として成り上がる「政治的モラリスト」が暗躍する不幸な状態に陥っています。 
200も前にこの哲学者が書いた小さな本から「国連」や「憲法9条」の理念が生まれたといわれています。
この世界有数の哲学者「カント」が著わした「永遠平和のために」という本のエッセンスをぜひ味わってみてください。

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