人生に奇跡をもたらす7つの法則

2008年03月20日(木) 15時59分13秒 テーマ:森田ゼミ2



森田ゼミでは過去に何度かこのテキストを使ってゼミを進めてきました。

平成19年度(平成19年9月から平成20年8月まで)の今年のゼミも久しぶりに『人生に奇跡をもたらす7つの法則』:ディーパック・チョプラ著を題材にしてゼミを進めています。

残念ながら、この書籍は現在絶版になっています。

定価1300円でしたが、アマゾンで一時は3000円以上の中古価格がついていました。

ずいぶん人気があるようで、WEBサイトでもこの書籍の復刻を望む『人生に奇跡をもたらす7つの法則 ディーパック チョプラ 復刊 リクエスト投票』 なるホームページができているほどです。


沢山あるスピリチュアル系の法則本のなかでも、卓抜した内容でしかも分かりやすい。と私も思っています。


さて、この7つの法則とはいったいどういうものなのでしょうか?ご紹介しましょう。

一、 純粋な潜在力の法則

二、 与えることの法則

三、 「カルマ」または、原因と結果の法則

四、 最小限の努力の法則

五、 意図と願望の法則

六、 執着しないことの法則

七、 「ダルマ」または、人生の目的の法則

以上の7つの法則が説明されています。


一つ一つの言葉のなじみで言うと、カルマとか、ダルマという言葉が誤解が多いようです。

分かりにくいかもしれません。

また、語句の組み合わせで言うと、「最小限」と「努力」などが分かりにくいと思います。

あるいは、「執着しないこと」も意外かもしれません。


私たちは皆それなりに努力していますし、希望や夢や願望にこだわっています。

強く思う事は、即、執着心の強さだと思っています。

そんな私たちの「常識」からすると、チョプラ氏の7つの法則は理解しにくいものかもしれません。


ココがミソなのです。


同じように努力した人でも、その努力が実った人と実らなかった人。

努力が報われる場合と報われない場合。

もっといえば、運のいい人良くない人。

そのようなある種不公平な現実が、いくらでも転がっています。

あえて言い換えれば、努力は美しいけれども、その努力が100%人生に奇跡や成功をもたらすとは限らない。

と真摯に受け止めてみよう。

だとすれば、本当の人生の奇跡や成功の法則はどこにあるのだろうか?


その問いに答えているのが、この人生に奇跡をもたらす7つの法則なのです。

この書籍の原題は『The Seven Spiritual Lows of Success』、直訳すれば、「7つのスピリチュアルな成功の法則」です。

そうです。

これらは完全に「スピリチュアル」な法則なのです。


7つの法則をお話しする前に、気がついて欲しい事があります。

私たちが尊いもの、大切なものなどとして仰いでいる「概念」というものは、全部が「私たちが経験によって作り上げてきたもの」ばかりではない。という事です。

いいかえれば、誰かに作られたもの、や誰かが作ったもの、である事です。


歴史的に見ても「美談」や「英雄」などの逸話において形成されてきた「概念・常識」がいかに沢山あることでしょう。

それらは、その時代に尊ばれ、その時代を形作ったパラダイムでした。

たしかに永遠の輝きを持った美学、パラダイム、概念というものもいくらか存在する事でしょうが、確かな事は、検証してみない事には分かりません。


時代が作り上げてきた「美学・道徳・倫理」というものに価値を見出す事は大切なのですが、それらの観念にはそれなりの犠牲や抑圧というものが必ず着いて廻っていたという冷徹な理性も必要です。


かつての古き聖人たちは、常に時代のパラダイムと戦っていたという事も真実です。

私たちは誰かの作り上げた「思考の枠組みの中」で喜怒哀楽をつくりつつ暮らしているのです。 


現代は、いわゆる唯物科学が行きつくところまで来ている時代です。ミクロの世界を探求してきた量子理論は、観測不可能という証明とともに従来の科学の枠組みを超えつつあります。

また、マクロの世界を記述した相対性理論も、なぜミクロの世界を記述できないかというジレンマに陥っています。


ミクロとマクロの世界の法則を含有するような統一理論を求めて理論物理学の世界は、多次元宇宙という仮説に救いを求め、また成功しつつあります。

この宇宙が11次元で構成されていると仮定すると、ミクロの量子理論もマクロの相対性理論もどちらも成り立つような宇宙法則が見出せるというのです。 

これこそは、従来のパラダイムをはるかに越えたニューパラダイムとなる資格があります。

しかし、私たちの実感できるこの宇宙は、4次元の時空間でしかありません。

のこりの7次元は私たちヒトは、五感で感ずる事のできない世界です。

でも実際にその見えない7次元の世界が、私たちと共にあるのなら、当然、私たちもその影響化にあることは理解できます。

ただ、私たちにその因果関係が「見えない」だけなのです。 


この7つの法則の第一、純粋な潜在力の法則は、このことを言っています。

私たちのこの宇宙には目に見えない「高次の世界=純粋な潜在力」が廻りに満ちている。

このことが前提としてあって、目に見えない「因果法則」が働いている。ということにまずは、「気づくこと」。

そうすれば、次々に明らかになる「成功の法則」気づかないヒトから見れば「奇跡の法則」がそこにあるのだと。

↓これです。

ディーパック チョプラ, Deepak Chopra, 岡野 守也
人生に奇跡をもたらす7つの法則

現在、復刻されていることが分かりました。
富と成功をもたらす7つの法則―願望が自然に叶う実践ガイド/ディーパック・チョプラ
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宇宙の姿

2008年03月20日(木) 15時55分50秒 テーマ:ブログ

宇宙の姿
考察1 この宇宙は、多次元世界である

1) 数と哲学の体系

私達は、生活にも仕事にも数学を使っています。長い歴史の中で数学は高度に発展してきました。現在の数学は、私達の日常概念を遙かに超えたところまで到達しています。また科学の発展も数学の力によって成し遂げられたものです。歴史的な数学者としてピタゴラスが有名ですが、ピタゴラスの作った学校は、一部の選ばれた者にしか伝授しない知識があるなど秘密結社に近い教団でした。そのピタゴラス学派の人々は道徳と行動を厳しく律し、共同生活を行い。菜食主義を守り、断食や瞑想が行われ、輪廻転生を信じていました。ピタゴラス学派の中心的な教えのひとつは、数がすべてであり、数がなければ何も考えることも何も知ることもできないというものでした。そのため、根源である数を様々な形で分類しました。

また有名なプラトンの哲学はイデア論を中心にして展開されています。生成変化する物質界の背後には、永遠普遍のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であるとしました。不完全である人間の感覚ではイデアをとらえることができず、理性によってのみとらえることができるというものです。また、イデアの認識は、いわば忘却されていたものの想起であって、その想起からはかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところのエロスが生じるとしました。
(Wikipedia より引用)
さて、数学と実世界とはどのような関係なのでしょう。

数の概念は、哲学の発展、人類の歴史とともに次第に拡大してきました。もっとも素朴な存在としての数は、ものの個数としての自然数です。整数が、有理数がそれぞれ得られて、四則演算が自由に行える体系を得られます。有理数から実数への拡張はこのような演算とは異なることで得られ、代数方程式の解法を通じて虚数を含む複素数へとたどり着きました。
◎自然数 → 整数 → 有理数 → 実数 → 複素数

この中で、一番高度で分かりにくいのが複素数の世界です。また、私達に身近で、不可解な数にπがあります。3.14・・・・・・・と無限に続くこの数は、円の面積を求めるのに必須なのですが、実態がまるでイメージできません。私達の計算は、観念値でしかないのでしょうか。計算どころか計量と言う作業になれば、もはやすべて近似値でしかありえません。

2) 虚数は実在する。

複素数は、実数 a, b と虚数単位 i を用いて a + bi の形で表すことのできる数のことです。
虚数は実在するというと「まさか」と思われる向きも多いと思いますが、次元を一つ付け加えると図表上に複素数の点が求められます。視覚的に実感できるのです。(参考→http://www.nikonet.or.jp/spring/cplx/cplx.html) 2次元方程式を2次元のxy図表で表しても実数解しか表示できませんが、3次元のxyz図表に発展させると虚数解が図表上に現れるのです。つまり、虚数は、異次元における解ということなのです。数学は高次元を表記することができるといえます。

3) 無限と零
無限と零も特別な数です。ご承知のとおり零に何を掛けても零ですし、零を零で割っても1には成りません。数を零で割った場合、解は無限大となります。無限と零は、四則演算の例外なのです。また、無限にもいくつかの無限があることが証明されています。ですから、無限大を無限大で割っても1にはなりません。ゲオルク・カントールという数学者がこの無限に挑みました
(参照:「無限」に魅入られた天才数学者たち/アミール・D. アクゼル)
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零に関しては、リーマンによる考察で、複素平面上にある球が、複素平面に投影されたものである。というリーマン球の発見によって、視覚化されました。球の接する極が零であり、反対側の極が無限遠点に相当するというのです。(参照:異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念/チャールズ サイフェ)
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この場合も高次元を導入すると、実像が視覚化されるという関係が見いだされます。これを私達の住む宇宙に置き換えると、四次元時空間で、矛盾や不思議なものは、それ以上の高次元から見ると普通化してくるのだと言えます。現にこういった特異点がこの世の中に存在していると言うことは、私達には見えないだけで、高次元な世界がいまここに同時に存在していることになります。
零や無限や複素数は、高次元への入り口のように見えます。

4) 多次元の世界
20世紀初頭に2つの偉大な科学上の発見が成されました。「相対性理論」と、「量子力学」です。それぞれに検証され実際の産業や生活に今では深く根を下ろしています。しかし、この2つの理論はお互いに排斥し合っていて、21世紀になっても謎のまま統合されずに残っています。この矛盾を解くために理論物理学者が注目しているのが「超ひも理論」と言われるもので、この理論によると、この宇宙は11次元の多次元世界であることになります
(参照:エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する/ブライアン グリーン)
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この高次元こそがプラトンの考えたイデアの領域といえるかも知れません。
私達が暮らし、認識している次元は時間を入れても四次元ですから、まだ7つの高次元(非物質的)領域が存在し、私達を取り囲み、またその中で暮らしているという事実を受け入れると、この世での「不思議な現象」などが良く理解できるようになるのです。
「学ぶと言うことは、見えないものが見えるようになること」夜間中学校元教師、松崎運之助氏の言葉(3/16 NHKラジオにて)を思い出します。
(参照→http://www.nhk.or.jp/radiodir/wakuwaku/coner/mimi.html)

ミッシングリンクを埋めるモノ

2008年03月08日(土) 18時17分55秒 テーマ:ブログ

山極寿一というひとは、一風変わった語り部です。ゴリラの生態学者であり、人類の進化論や、人間社会のありようなどを語る魅力的な先生なのです。

私が始めて氏の著作を読んだのは「父という余分なもの」という本でした。

山極 寿一
父という余分なもの―サルに探る文明の起源

 

山極氏の著作を読んで特に感じるのは、単に生態科学を研究しているMONO学者ではなくて、私たちが「当たり前」と思って考えもしていないミッシングな領域に読者を連れて行ってくれることです。


「ミッシングリンク」=(Missing-link)『連続性が期待されている事象に対して、非連続性が観察される場合、その比較的顕著な間隙を指す。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 


山極氏の著作に限らず、私が興味をもって吸収したいと思う知見は、ミッシングリンクを埋めてくれる知見です。

『「痴呆老人」は何を見ているか』の大井 玄氏もその期待にこたえてくれました。

痴呆と非痴呆の間の見過ごされているミッシングリンクを氏は熱く語っています。

共通点はMONOではなく「総合・統合的」学究者というところでしょうか。

長らく続いた「分解・分析的なデカルト思考」ではない、ブレイクスルー思考のように私には思えます。


ヒトはどのようにしてヒトになったのか?

この問いは、時代によって大きく変遷してきました。

ヨーロッパの中世には、この問いは「キリスト教会」が全て答えていたわけだし、日本では神道や仏教や儒教などがそういった答えを用意してきたはずです。

また科学が勃興してからでも、その科学の水準とその時そのときの世相、政治環境等に合わせられる形でさまざまな「知見あるいは学説」というものが産み出されてきました。

その時代のパラダイムといっていいでしょう。 

そのパラダイムは、何らかの形で私たちの「思考判断」を形作っています。

日常生活や学校や教科書を通して、知らず知らずのうちに身についたパラダイム=考え方です。


そのパラダイムが大きく揺らいでいます。

いやもうすでに揺らぎを通り越してシフトしているのかもしれません。

私としては、スピリチュアルな思考方式がニューパラダイムだと考えています。


もちろん山極氏も大井氏も、正統科学者ですから、スピリチュアルな観点で自説を発表する事はありませんが、生態とか進化という非物理的な物事の考察を推し進めて、ミッシングリンクを埋めていく過程で、きっとスピリチュアルな課題に対峙することになると期待しています。


DNA解析が進んで分かった事ですが、チンパンジーのDNAと、ヒトのDNAとの差異は2%未満だそうです。

素人感覚でなくてもたった2%なの?という気がするはずです。

それほど私たちヒトは他の類人猿と違っています。

しかし、純粋生物学的に見れば、サルとヒトとはほとんど同じ生き物なのです。

結局ヒトとサルたちを分けているのは、DNAではなく「生態、もしくは社会構造の進化」なのでしょうか。

山極氏はその部分にこだわって研究を進めていらっしゃるわけですが、私の仮説は「霊性」です。 


いったいヒトに限らず、生命の誕生、そして生物の進化における「根源的エネルギー」つまり進化させている力とは何なのでしょう。

そこに私は、スピリチュアルなエネルギーというものを仮定したいわけです。

既存の枠組み、学説を超えて総合的な知性で謎のミッシングリンクに挑み続けている山極氏に期待しています。


話は変わりますが、人類の進化についてスピリチュアルな仮説を提唱しているのは私だけではありません。

軽重を問わず最近特にスピリチュアルな文献があふれていますし、もっと分野を広げてみると、超常現象、UFO、オーパーツ、超古代文明、宇宙・太陽系惑星起源、など19世紀後半の世界的スピリチュアルブーム以降、さまざまな研究者や不思議現象の体験者たちがそれぞれその報告をし、文献も出版してきました。


とても全てに改めて目を通す事は不可能です。

ジョン・A・キールというこの分野の大家がいました。1930年生まれという事ですからもうすでに78歳ですが、彼の著作で

ジョン・A. キール, John A. Keel, 北村 十四彦
宇宙からの福音(エウァンゲリオン)

という文庫があります。


日本での初刊行が1975年ですので、もう30年以上前の著作になるのですが、逆に20世紀初頭からの幅広い見聞が数多く収録されていて、興味深い著作です。

その守備範囲も自身が『自らをUFO研究家ではなく、フォーティアン(fortean、広範囲にわたる怪現象を収集・研究する者。チャールズ・フォートに由来)と称するのを好んでいる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』というようにほとんど全ての「不思議現象」にわたっています。

現在巷にあふれる不思議現象の著作のまさにルーツといえる内容です。

逆に言うとこの30年来進歩がない?

ただ、やはり古い世代の人間なので特に氏の科学的知見からみたメッセージはずいぶん古臭い考えも見受けられますが。


これらの不思議現象もいってみればすべて「ミッシングリンク」なのです。

大方の知識人や科学者は、この失われた連続性を埋める努力をしてくれていません。

氏はそのリンクを埋めるキーワードに「超人類」というパラダイムを持っているようです。


超人類とはヒトより次元のたかい世界に生きている存在です。

きしくも「神々の指紋」シリーズで活躍したグラハム・ハンコックが

グラハム ハンコック, エハン デラヴィ, Graham Hancock, Echan Deravy
人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった

高次の知的生命体に地球の全ての謎の鍵があると喝破したように、地球・ヒトの進化はそういったスピリチュアルな存在たちを抜きには理解できないと私も思っています。

甲子園への遺言

2008年03月08日(土) 11時10分34秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

門田 隆将
甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯
  門田隆将:著
「才能とは、逃げ出さないこと。最後まであきらめないこと。」

高畠導宏という異色の高校教師が、いつも言っていた言葉です。
プロ野球界の天才軍師として「戦略コーチ」という名を生んだ高畠氏は、元プロ野球コーチとして30年間の実績を持っています。
30人以上のタイトルホルダーを育て、兄貴のように慕われ、恩師として仰がれた人物です。

その高畠氏が、人生の最後のチャレンジに選んだのが、高校の教師という仕事でした。
「高校の教師になって、生徒たちと一緒に全国制覇をしたい。楽しい野球を教えてあげたい。あきらめなければ、きっと夢が叶うということを伝えたい。」
50代半ばで一念発起し、通信教育で教員免許を取得し、九州の筑紫台高校で社会科の教師になります。

しかし、就任から1年余、元プロ野球関係者が高校球児を直接指導することのできる2年の停止期限が解ける前に、膵臓ガンで帰らぬ人となりました。 
その高畠氏の伝記本が「甲子園への遺言  門田隆将:著」です。

私が、この物語を知ったのは、NHKの「土曜ドラマ」で、この原作をドラマ化した「フルスイング」という番組を見たからです。
毎週、泣きながら見ました。

感動の連続でした。
創作された熱血教師ではない。
そのとおり生きてきた実在の「一人の壮年の男の物語り」に、感動したのです。

高畠氏は、筑紫台高校に大きな贈り物をしました。
たった1年余なのにその贈り物は、生徒たち、同僚の教師たちの心の中にいつまでも生き続けることでしょう。
プロ野球のコーチと高校教師。
教えることは一緒でも普通は別世界の存在です。
ところが、高畠氏にはそんな区別はありません。
選手に技術を押しつけることは一切しない。
一人ひとりの才能や個性を最大限尊重する。まさにティーチングではなく、本物のコーチングの姿であると私は思います。

活字が苦手でない方は、ぜひ読んでみて欲しい本です。

暴力はどこからきたか・・・・・・・。

2008年03月08日(土) 11時06分33秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

山極 寿一
暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る (NHKブックス 1099)
 いまの世界は、まったく暴力が蔓延しているように見えます。
国家間の戦争、テロ、犯罪、そして恋人を暴力で支配する男、幼児を殺す男たち。 

少なくとも、この暴力は「オトコ」たちが振るっている、主役であるように見えます。
ですが、アメリカ初の女性大統領が誕生したとしても暴力・軍事力による世界戦略をやめにできるかどうかは私には分かりません。 

直接的な身体に対する暴力だけではなく、数による圧力、言葉による抑圧も立派な暴力です。
刑法の傷害罪は、外傷の有無に関係しません。心的被害も立派な傷害ですし、脅迫に当たります。
それにしても世に「暴力」は蔓延しています。 

私の立場上、特に「パワハラ」というのが厄介です。
立場を利用したハラスメントにならないようにと注意する事は、社長である私の言動を強く拘束しています。
感情的か理性的かはともかく、私の言ったことは相手にしてみれば「最後通牒」となって強く印象付けられるわけです。
心理的な攻撃・強制と受け止められれば「パワハラ」裁判が待っています。 

暴力とは、人間の本性なのでしょうか?
知られるとおり中国の古の聖人たちは性善説と性悪説を繰り広げました。

私としては、性善説を主張した孟子に賛同しています。ただし、中国の施政に深く関与した思想家は性悪説を唱えた人たちでした。 
モーゼの十戒は「してはならない」ことのリストアップですし、聖徳太子の7か条の憲法も「和を持って尊しと成す」ですから、そうでなかった世相が透けて見えます。

では、やはりヒトはもともと非平和的な存在であって、暴力は避けられないのでしょうか。 

人間とは何か。人間はどう進化してきたのか。

そういった根源的な命題から人間の暴力を解決していこうとする試みが、「暴力はどこから来たか」というこの本です。 
考えてみれば、ヒトに一番近い「類人猿」たちはどのような「暴力」をもち、あるいは「暴力の抑制」をしているのだろうか? 
私たちは、本当は何も知らないのです。

自然界は「弱肉強食」の世界であると強く信じているのは、前時代的なパラダイムに支配されている無知な人々か、あるいは、自分にとって都合のよい「論理」を振りまいている先導者たちによってコントロールされている状態なのです。 
自然界の動物たちは、たしかに弱肉強食の野蛮な行動原理、暴力が支配しているように見えます。 
ですが一言で「暴力」といってしまう事が多くの錯誤を生んでいます。
捕食者に対する「防衛行動」と、自分が生きていくための「狩猟行動」と、集団における「トラブル解決の方法」等における「一見暴力的にみえる行動」は、全く違う行動原理が働いているのです。
それを私たちが見分ける事ができるとしたら、私たち人間は「正しい自己理解」ができるのではないでしょうか。
 人間が人間として、他の類人猿たちと進化の歴史を分かつ事ができたのは、全く非暴力な連帯関係を構築する事であったという著者の見解に私は同意します。
そうでなければいけません。
私たちの「暴力」的行動を類人猿や他の動物の表向き残酷に見える生態に擬人化して正当化することは詭弁なのです。 
サルたちは、逆に複雑な社会構造を種毎に進化させているということが研究者の間では認知されています。
その社会構造の変化は、限りなく「暴力」を抑制する方向へ進化してきているのです。
霊長類や類人猿たちの行動から私たちヒトがその特性をどう受け継ぎ、進化させてきたかを知覚しなければなりません。 

私たちは、どこかで「ボタンを掛け違ってしまった」のです。 

暴力を考える事は、「オトコの進化論」へと発展します。
いやおうもなく、「暴力」はオトコにまつわる命題なのです。

永遠平和のために・……。

2008年03月08日(土) 11時00分51秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
イマヌエル・カント, 池内 紀
永遠平和のために

永遠平和のために・……。
私たちの国、日本は1945年の終戦の日以来60年以上にわたって他国との戦争を経験していません。
ですが、戦争協力に限りなく近い「国際貢献責任を果たせ。」という無責任な状況圧力は日増しに高まっています。

様々な思惑や、国のご都合は私の知る由ではありませんが、たった60年の非戦闘という実績でさえ、「他国の国民を殺していない希少な国である」という時代に暮らしている事は確かなようです。

18世紀は、どんな時代だったのでしょう。

私たちは余りにも無知であって、「今」の世界情勢のことも良く知らないし、まして200年前の18世紀という時代については記憶の外にあります。
日本では徳川幕府による長い平穏な時代が続いていた頃ですが、西欧では、戦国時代だったようです。

西欧各地で数年に渡る熾烈な戦争が幾度も繰り広げられていた時代なのです。
かの有名なナポレオンが登場するのがこの18世紀で、1803年からは、ナポレオン戦争といわれる歴史に残る過酷な戦争が繰り広げられました。
そんな戦乱の西欧において、一人の哲学者が「永遠平和のために」という書物を世に出しました。

この時代は、専制国家の隆盛な時代ですから、戦争反対者は身に危険が及びます。
それでもあえて永遠平和のために書物を著わす勇気にまずは、乾杯です。
そしてその内容は、時代を超えて今、このときの私たちに響くものがあります。

「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである」現在の国家で、憲法上常備軍を持っていないのは中央アメリカのコスタリカという国が有名です。
『現在、パナマ、ハイチ、アンティグア・バーブーダ、セント・ルシア、セントクリストファー・ネイビス、セントヴィンセント・グレナディーン、ドミニカ国、グレナダ、ナウル、ツバル、キリバス、モナコ、アンドラ、バチカン、サンマリノ、リヒテンシュタイン、アイスランドなどの国では、各国それぞれの事情において常設の軍備が存在せず、その中にはコスタ・リカを模範にした国もある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

少なくとも先進国といわれるなかで、常備軍を持たない事は、現在の国際状況、国際政治の常識では、「ありえない」ことなのです。
もちろん日本の自衛隊は「常備軍」ですし、実力はともかく世界有数の規模を誇る「軍隊」です。
現代の軍隊や軍備の本質は、もちろん他国の征服や侵略を目論むものではありません。
それは他国からの干渉や侵略に備える事や、自国の国益や国民を守るためのものです。
ただそれらはすべて、国としての存在を脅かされるに違いないという「恐怖心」が動機となっています。
なぜなら他国には「常備軍」が存在しているからです。
広い意味で「防衛」を目指している軍隊が、他国にとっては「脅威」となる。
それが「恐怖」の悪循環を促進しているのです。

近代の歴史に限らず人類の長い歴史の中で、国や民族にとって戦乱に備える事は必須であり義務でした。
弱いものは食われてしまうという弱者必衰の論理がまかりとおってきたのです。

この哲学者は、常備軍をなくすという命題のために、
「自由な国家の連合による国際法」の制定を提唱しました。
200年前です。すばらしい知見です。
ただし、国家連合や国際法が機能するための要点を掲げています。それは、
「他人の権利に関係する全ての行為のうち、原則的に公開性を拒むものは不正である」という命題です。
これは、国どおしの関係にとどまりません。
まさに情報公開の原則が大切なのです。
「公開されない=秘密である」ことは、不安を冗長させる究極の原理なのです。
家族でも会社でも地域でも、国家でも。最近のニュースで中国の軍事予算の不透明さに他国が警鐘を鳴らしていましたが、つまりそういうことなのです。秘密にする事は、情報を操作する事です。
不知による相手の無知と恐怖心を利用して、大衆や相手を支配したり、コントロールしたりすることが可能になります。
今、私たちの周りではモラルを原理として国家の英知を考える「モラルある政治家」ではなく、モラルを利用して政治家として成り上がる「政治的モラリスト」が暗躍する不幸な状態に陥っています。 
200も前にこの哲学者が書いた小さな本から「国連」や「憲法9条」の理念が生まれたといわれています。
この世界有数の哲学者「カント」が著わした「永遠平和のために」という本のエッセンスをぜひ味わってみてください。

痴呆老人は何を見ているか・・・・・・。

2008年03月08日(土) 10時55分52秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介

大井 玄
「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)
……昨年11月に私の父が逝きました。
その前の年の1月に母が逝って以来、独居老人となった父の暮らしをどのようにケアしていけばよいのか。
当時は妻とともに手探りの日々でした。
大正生まれの父は、やっぱり頑固でした。

歩いて7,8分の距離である私の家で一緒に暮らそうといっても頑として「うん」といいませんでした。
かといって自分で自由に起き上がったり、食事をできるほどの身体能力はすでにありませんでした。
長く連れ添った母の後を追いたいのでしょうか。
まったく生きていく意志が感じられない状態でした。

急速にいわゆる「痴呆」いまでいう認知症の症状が目につくようになりましたが、自分で歩くことことができないことは、私たち看護する立場の人間には幸いしたかもしれません。
 ある日の下血をきっかけに無理やり入院をさせ、結局「大腸がん」の診断で手術をし、完全介護のホームで療養している中で6ヵ月後にリンパ節へのがんの転移によって逝ってしまいました。

ホームの人たちが父の葬儀に総出で参列されて、涙を流しながらお別れをしてくださいました。
彼らは、父はとても優しい「痴呆老人」だったというのです。

大きな声で騒ぐ事もしない。
夜中に奇声を上げるわけでもない。
もちろん徘徊はしません。
なにをいっても「うん、うん。」とにこにこ返事をするのですが、理解しているわけでもない。

一抹の恐怖心を私が抱いていなかったといえば嘘になります。
いったい私のことが分かっているのだろうか。
わけの分からぬ事を言い出すのではないだろうか。
周りの人たちに迷惑をかけないだろうか……・。 

「人に迷惑かけない」それが父の人生の美学であったことを私は知っています。
長い人生の中で、子供や親戚のことや責任ある仕事をしていく中で、人に難題を振りかけられても、自分は決して人様の迷惑をかけない。
そういう人生を遂げてきたことを私は知っています。 

それでも身体が不自由になり、遠のく記憶と薄れる現状認知のなかで、人様のお世話をいただかないと生きていけない状況が人生の最後に待ち受けていました。 

私がこの『「痴呆老人」はなにを見ているか』に出会ったのは、父を亡くしてからのことですが、著者のするどい観察と洞察とに敬意を表します。
『われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である』と看破する著者の見識に私は素直に同意します。
認知症といわれる老人たちは、病んだ人たちなのではない。
自然に老いた人なのかもしれないという「アンチテーゼ」は、心に響きます。
私たちと同じように、いやもっと直接的にその時、その人にとっての「環境や経験」によって認知症的「反応」が表出し、それが様々に私たちにとって都合の悪い「症状」としてとらえられている。
ただそんなことなのかも知れません。

「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」という人間の認知メカニズムに関する現代の神経生理・心理学の知見は、痴呆老人たちの問題行動を理解するうえで非常に示唆に富んでいるし、また私たち自身に当てはまる命題であるのです。

究極的にヒトの行動原理は、「限りなく自己防衛的に働く」つまり自分に都合の良い「世界」を経験によって「組み立て」て、そこに「安住する」。という原理は、痴呆老人の問題行動を理解するだけではなく、この世界の真の姿を垣間見させることに成功しています。

大は国家間のトラブル、小は人間関係・男女のDVにいたるまで広がっていく著者の思索は説得力があります。
そして、東洋と西洋の二つの文化圏における痴呆老人の介護実態や死に様から、大きな「二つのパラダイム」が今のこの世界に存在する事を著者は喝破し、警告をしています。
この本はただの介護読本ではありませんでした。

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