恐怖は、思考が創り出す。 クリシュナムルティ②
2005年04月30日(土) 12時26分33秒 テーマ:古今東西の成功哲学
思考と恐怖
心理的な恐怖心とは、思考によって創り出されたものに過ぎません。
快楽もまた、思考によって創り出されるものです。
思考は、快楽の原因であり、恐怖の原因でもあるのです。
さらに怒りは、恐怖心の攻撃的表現といえます。
そして悲しみは、恐怖心の防御的表現なのです。
私達は、なにげない日常の中で、思考と言うものに「なにも深く考えずに慣れて」しまっています。
そして感情や行動が「思考によって創り出されたパターン」だということに気付きません。
営業の仕事などで、顧客からクレームの電話が入ります。相手はこちらのミスを指摘し、怒り心頭の様子です。大事なお客様を失ってしまう「恐怖」に慄きます。もう一日中落ち着きません。
あらためて「お詫び」に出向く道中は、生きた心持がしません。
電話によって想起された「恐怖」はなにも役に立ちません。
行動を遅らせ、注意をそらし、新たな不具合を生むのが関の山です。
JR西日本の事故も、運転士の「罰則に対する心理的恐怖心」が、本来の「身体の安全性に対する恐怖心」を忘れさせ、新たな悲劇を引き起こしています。
30センチ幅の道路の白いラインなら、そのうえを平気で歩くことができます。
しかし、地上10メートルの高さに作られた30センチ幅の壁のうえならどうでしょう。
おなじ幅なのに高いと言うだけで、足がすくみ恐怖で身動き取れなくなってしまいます。
「落ちるかも知れない。いや、きっと落ちるに違いない。」この思考による恐怖が体を縛るのです。
「盲人へびに怖じず」と言う言葉があります。
目が見えないので蛇がいても分からず、恐怖を感じないと言うことです。
恐怖心は、意識されているものだけではなく、無意識の深い所に蓄積されているものがあります。
恐怖心に支配されていれば、そこに愛は存在できません。
恐怖とは愛のない状態なのです。
根源的な存在エネルギーである愛が、断ち切られた状態、非常に希薄な状態が恐怖・不安の実態なのです。何者にも支配されていない自由な心の状態でしか、愛は発現されません。
自由と愛は共存しているもの。不可分なものですが、恐怖心は支配・被支配(依存)を成立させます。
これが現代のこの世界の実態なのです。
恐怖には、戦っても勝てません。
相手はそれ以上に増強されてしまうのです。
そして恐怖を無視することもできません。
繰り返しそれはやってくるからです。
恐怖から逃げることもできません。
形を変えどこまでも追いかけてくるからです。
なぜなら戦い・無視・逃避は、すべて自分自身の思考のなせるものなのですから。
そして恐怖もまた思考が生み出すものです。
恐怖は思考が生み出す思考の分身なのです。
あるがままの、ものごと・存在・出来事を思考によらず「知覚」することができれば、人は「自由」に戻ることができます。
思考と行動
思考と行動の関係とはなんでしょうか。
行動は、概念や理念に基づいています。
なにをすべきかという、概念や理念は思考や言葉による近似であるので、常に行動との分裂があります。
思考から、自由になった瞬時の「知覚」と即座の「行動」に価値があります。
愛のある自由な存在とは、思考から影響を受けない行動のできる存在です。
すべての、道徳的、倫理的、社会的、宗教的、精神的な価値観は、恐怖と快楽に基づいています。
そして、恐怖と快楽は共に思考によって生み出されているものなのです。
思考のすべての動きを論理的に健全に分別を持って観察できれば、「知覚」そのものが完全な行動となり、それで、恐怖がすっかりなくなるのです。
まさにそれを実践したのが「王陽明」ですし、「中村天風」(本編既述)だと思います。
思考と時間
現在とは、いまこの瞬間を含め、過去と未来のことなのです。
過去も未来も同時に存在しているのです。
私達の「過去の知識=記憶」と「未来の想像=予測」そのものが、思考と心理的時間を働かせていて過去と現在と未来を分離しているのです。
脳がありのままの姿を見つめることで自分を条件付けることから開放されます。
恐怖とは、時間と思考の動きにほかならないのです。
(参考:『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ瞑想録 J クリシュナムルティ)
心理的な恐怖心とは、思考によって創り出されたものに過ぎません。
快楽もまた、思考によって創り出されるものです。
思考は、快楽の原因であり、恐怖の原因でもあるのです。
さらに怒りは、恐怖心の攻撃的表現といえます。
そして悲しみは、恐怖心の防御的表現なのです。
私達は、なにげない日常の中で、思考と言うものに「なにも深く考えずに慣れて」しまっています。
そして感情や行動が「思考によって創り出されたパターン」だということに気付きません。
営業の仕事などで、顧客からクレームの電話が入ります。相手はこちらのミスを指摘し、怒り心頭の様子です。大事なお客様を失ってしまう「恐怖」に慄きます。もう一日中落ち着きません。
あらためて「お詫び」に出向く道中は、生きた心持がしません。
電話によって想起された「恐怖」はなにも役に立ちません。
行動を遅らせ、注意をそらし、新たな不具合を生むのが関の山です。
JR西日本の事故も、運転士の「罰則に対する心理的恐怖心」が、本来の「身体の安全性に対する恐怖心」を忘れさせ、新たな悲劇を引き起こしています。
30センチ幅の道路の白いラインなら、そのうえを平気で歩くことができます。
しかし、地上10メートルの高さに作られた30センチ幅の壁のうえならどうでしょう。
おなじ幅なのに高いと言うだけで、足がすくみ恐怖で身動き取れなくなってしまいます。
「落ちるかも知れない。いや、きっと落ちるに違いない。」この思考による恐怖が体を縛るのです。
「盲人へびに怖じず」と言う言葉があります。
目が見えないので蛇がいても分からず、恐怖を感じないと言うことです。
恐怖心は、意識されているものだけではなく、無意識の深い所に蓄積されているものがあります。
恐怖心に支配されていれば、そこに愛は存在できません。
恐怖とは愛のない状態なのです。
根源的な存在エネルギーである愛が、断ち切られた状態、非常に希薄な状態が恐怖・不安の実態なのです。何者にも支配されていない自由な心の状態でしか、愛は発現されません。
自由と愛は共存しているもの。不可分なものですが、恐怖心は支配・被支配(依存)を成立させます。
これが現代のこの世界の実態なのです。
恐怖には、戦っても勝てません。
相手はそれ以上に増強されてしまうのです。
そして恐怖を無視することもできません。
繰り返しそれはやってくるからです。
恐怖から逃げることもできません。
形を変えどこまでも追いかけてくるからです。
なぜなら戦い・無視・逃避は、すべて自分自身の思考のなせるものなのですから。
そして恐怖もまた思考が生み出すものです。
恐怖は思考が生み出す思考の分身なのです。
あるがままの、ものごと・存在・出来事を思考によらず「知覚」することができれば、人は「自由」に戻ることができます。
思考と行動
思考と行動の関係とはなんでしょうか。
行動は、概念や理念に基づいています。
なにをすべきかという、概念や理念は思考や言葉による近似であるので、常に行動との分裂があります。
思考から、自由になった瞬時の「知覚」と即座の「行動」に価値があります。
愛のある自由な存在とは、思考から影響を受けない行動のできる存在です。
すべての、道徳的、倫理的、社会的、宗教的、精神的な価値観は、恐怖と快楽に基づいています。
そして、恐怖と快楽は共に思考によって生み出されているものなのです。
思考のすべての動きを論理的に健全に分別を持って観察できれば、「知覚」そのものが完全な行動となり、それで、恐怖がすっかりなくなるのです。
まさにそれを実践したのが「王陽明」ですし、「中村天風」(本編既述)だと思います。
思考と時間
現在とは、いまこの瞬間を含め、過去と未来のことなのです。
過去も未来も同時に存在しているのです。
私達の「過去の知識=記憶」と「未来の想像=予測」そのものが、思考と心理的時間を働かせていて過去と現在と未来を分離しているのです。
脳がありのままの姿を見つめることで自分を条件付けることから開放されます。
恐怖とは、時間と思考の動きにほかならないのです。
(参考:『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ瞑想録 J クリシュナムルティ)








