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恐怖は、思考が創り出す。   クリシュナムルティ②

2005年04月30日(土) 12時26分33秒 テーマ:古今東西の成功哲学
思考と恐怖
心理的な恐怖心とは、思考によって創り出されたものに過ぎません。
快楽もまた、思考によって創り出されるものです。
思考は、快楽の原因であり、恐怖の原因でもあるのです。
さらに怒りは、恐怖心の攻撃的表現といえます。
そして悲しみは、恐怖心の防御的表現なのです。 

私達は、なにげない日常の中で、思考と言うものに「なにも深く考えずに慣れて」しまっています。
そして感情や行動が「思考によって創り出されたパターン」だということに気付きません。 

営業の仕事などで、顧客からクレームの電話が入ります。相手はこちらのミスを指摘し、怒り心頭の様子です。大事なお客様を失ってしまう「恐怖」に慄きます。もう一日中落ち着きません。
あらためて「お詫び」に出向く道中は、生きた心持がしません。
電話によって想起された「恐怖」はなにも役に立ちません。
行動を遅らせ、注意をそらし、新たな不具合を生むのが関の山です。 
JR西日本の事故も、運転士の「罰則に対する心理的恐怖心」が、本来の「身体の安全性に対する恐怖心」を忘れさせ、新たな悲劇を引き起こしています。

30センチ幅の道路の白いラインなら、そのうえを平気で歩くことができます。
しかし、地上10メートルの高さに作られた30センチ幅の壁のうえならどうでしょう。
おなじ幅なのに高いと言うだけで、足がすくみ恐怖で身動き取れなくなってしまいます。
「落ちるかも知れない。いや、きっと落ちるに違いない。」この思考による恐怖が体を縛るのです。
「盲人へびに怖じず」と言う言葉があります。
目が見えないので蛇がいても分からず、恐怖を感じないと言うことです。

恐怖心は、意識されているものだけではなく、無意識の深い所に蓄積されているものがあります。
恐怖心に支配されていれば、そこに愛は存在できません。
恐怖とは愛のない状態なのです。
根源的な存在エネルギーである愛が、断ち切られた状態、非常に希薄な状態が恐怖・不安の実態なのです。何者にも支配されていない自由な心の状態でしか、愛は発現されません。
自由と愛は共存しているもの。不可分なものですが、恐怖心は支配・被支配(依存)を成立させます。

これが現代のこの世界の実態なのです。
恐怖には、戦っても勝てません。
相手はそれ以上に増強されてしまうのです。
そして恐怖を無視することもできません。
繰り返しそれはやってくるからです。
恐怖から逃げることもできません。
形を変えどこまでも追いかけてくるからです。

なぜなら戦い・無視・逃避は、すべて自分自身の思考のなせるものなのですから。
そして恐怖もまた思考が生み出すものです。
恐怖は思考が生み出す思考の分身なのです。

あるがままの、ものごと・存在・出来事を思考によらず「知覚」することができれば、人は「自由」に戻ることができます。

思考と行動
思考と行動の関係とはなんでしょうか。
行動は、概念や理念に基づいています。
なにをすべきかという、概念や理念は思考や言葉による近似であるので、常に行動との分裂があります。
思考から、自由になった瞬時の「知覚」と即座の「行動」に価値があります。

愛のある自由な存在とは、思考から影響を受けない行動のできる存在です。
すべての、道徳的、倫理的、社会的、宗教的、精神的な価値観は、恐怖と快楽に基づいています。
そして、恐怖と快楽は共に思考によって生み出されているものなのです。
思考のすべての動きを論理的に健全に分別を持って観察できれば、「知覚」そのものが完全な行動となり、それで、恐怖がすっかりなくなるのです。

まさにそれを実践したのが「王陽明」ですし、「中村天風」(本編既述)だと思います。

思考と時間
現在とは、いまこの瞬間を含め、過去と未来のことなのです。
過去も未来も同時に存在しているのです。
私達の「過去の知識=記憶」と「未来の想像=予測」そのものが、思考と心理的時間を働かせていて過去と現在と未来を分離しているのです。

脳がありのままの姿を見つめることで自分を条件付けることから開放されます。
恐怖とは、時間と思考の動きにほかならないのです。

(参考:『恐怖なしに生きる』クリシュナムルティ瞑想録 J クリシュナムルティ)

JR西日本の運転士は、何のために生きているか。目的の再構築。悲惨な事故を悼む。

2005年04月29日(金) 12時20分23秒 テーマ:ブログ
JR福知山線の脱線事故は、106人が「突然の死」を迎えました。
104人は即死状態だったと報道されています。
冥福をお祈りします。

けがをされた人、マンションの住人の方、JRのひとたちなど事故の直接・間接の関係者方々のご心中をお見舞い申し上げます。

通常の事故死や病死や老衰死などでしたら、程度の差はあれ死にたいする予知があるものです。重病の知らせを聞いて「もしかしたら、死んでしまうかもしれない。」当事者もまわりの家族も様態や病状の悪化の中で、死というものを徐々に認識してきます。 

しかし、今回のように日常生活の繰り返しの中で、突然に予想もしない大事故で命を失ってしまうと、多くの場合、死者の意識は自分の死が簡単に受け入れられないものです。残された家族もまた同様です。
事故現場において大規模な追悼法要がなされることを希望します。

事故原因について、精力的に調査が行われていますが、その一方でいまだ「オーバーラン」が繰り返されています。
なぜ、どうように「脱線」が起ったかを現場と車両の「物理的因果関係」に求めていては、本当の解決はやってきません。

報道によると、事故車両の運転士は、子供のころから「電車の仕事が夢」でした。
純粋な子供の夢が叶ったはずの「仕事」に何があったのでしょうか。
多くの人たちの命を預かり、知識と技術を駆使して、車両を運転操作する「仕事」はどうなっていたのでしょうか。

JR西日本では、競合の「私鉄に勝つ」ことが会社としての「目的」だったようです。
事故現場の福知山線では、「より早く」がその「勝つ」ための手段=目的になっていました。
料金は私鉄より50円高いので、私鉄より5分「早く到着する」ことが、より多くの「利用者獲得」のための戦術だったわけです。

手段が目的にすりかわること自体、とても危険なことです。
そしてその会社の目的は、当然現場で働く人たちを縛ります。
規則や罰則が設けられ、限界に近い運行スケジュールの中で、現場で働く人たちの「心」を壊していきます。

少年の「電車の運転士になりたい」という、純粋な夢は、「より早く」運転するという会社の「目的」にすりかえられ、壊されていったのです。

公共交通機関としての目的とは一体何でしょうか。
私企業である限り利益を出していかなければ存続できません。
しかし利益だけを求めるならばそれは限りなく「犯罪」に近づいていきます。
悪徳商法や法令無視が世を跋扈していますが、彼らは利益だけを求めているのです。

会社には、公器としての「目的=理念」が必要です。
理念と利益が両方そろっていなければなりません。
「理念」と言うのは「何のために、その会社が存続し、その仕事をしていくのか」ということです。
さらにいえば理念には「社会性・人間性・科学性」の3つの側面がそろっていると理想的です。

公共交通機関であるJRであれば、会社の理念=目的はまず、「安全に確実に旅客を運ぶ」ことが最大の理念でなければならないでしょう。
そしてその会社の目的を一人一人の社員が共有して、現場で仕事を全うしていくための「教育・制度」が求められます。

少年の夢が、「会社の利益を生み出すこと」にすりかえられ、自分が何のために仕事をし、何のために生きているのかを見失ったとき、悲劇が起ったのです。
その意味でJRの悲劇は必然だったと言わざるを得ません。

私たちは、目先の「何か」に心を奪われ、本当の目的を失っているのです。
この世に生まれてきた目的=スピリチュアルな意識も失っているのです。

今、この悲劇を目にし、私たちは何のために生きているのか、何のために仕事をしているのか。
国も、地方公共団体も、企業も、個人も「目的の再構築」が必要です。

奇跡の水 ルルドの泉 聖母マリアの愛

2005年04月28日(木) 18時06分58秒 テーマ:奇跡と預言
ファチマの預言(本編既述)でもふれましたが、聖母マリアの奇跡は無数にあります。数からいっても内容からいっても聖母マリアは特別な存在です。

1852年2月11日、フランスのルルドに聖母マリアが出現しました。出現を受けたのは14歳の貧しい家の娘ベルナデッタでした。薪を拾っている途中で、洞窟にやってきたときそこに聖母マリアが出現したのです。
良く見られるパターンですが、聖母は自分から名乗ることはありませんでした。 

このことを周囲の大人達は誰も信じようとしませんでした。しかし17回目にベルナデッタの前に現れた聖母マリアは、洞窟でベルナデッタに名前を聞かれ、次のように答えたのです。

「私は、汚れなき孕り(やどり)です。」

この答えは、まわりの人々を驚かせました。その言葉の意味は、数年前にローマ法王が正式に聖母マリアのことを「汚れなき孕り」であるとして新たに信仰箇条として宣言した言葉だったからです。

貧しい無学のベルナデッタが、そんなカトリック教の教義を知るはずはなかったのです。 この言葉によって、聖母マリアの出現は村中に広がり大ニュースになりました。

聖母マリアのいいつけどおり、ベルナデッタは土を掘り水が沸いてきました。その数日後20年間白内障だった人物が、洞窟に涌いた泉の水で目を洗ったら、突然治ってしまったのです。

こうしてルルドの奇跡の泉が誕生したのです。

奇跡は続き、時が経ちました。
1903年にノーベル医学賞を受賞したカレル博士がその年に、彼の患者を連れてルルドの泉を訪れました

カレル博士は泉の奇跡に疑問を持っていましたが、患者が目の前でみるみるうちに治癒していくのを見て「これは間違いのない奇跡だ」と驚嘆のなかで宣言したのです。 

日本人の科学者で、このカレル博士の発言をきっかけに、ルルドの泉の水の成分を本格的に研究した人物がいます。後述をお楽しみに。 

こうしたルルドの泉の奇跡は、その後もつづいています。有名な霊的スポットとして訪れる人が絶えません。

しかし、もっと驚くべきことは、聖母出現に立ち会ったベルナデッタがその後修道会にに入り、1879年4月16日に35歳でなくなったのですが、30年後に墓を開いたとき、遺体は腐らず葬られたままの姿だったのです。

そして今では126年もの時を越えてヌベール修道会のガラスケースのなかでまるで眠るように安置されているベルナデッタの遺体を見ることができます。

まさに奇跡は続いているのです。

すべてを記憶する 水

2005年04月27日(水) 18時41分22秒 テーマ:科学仮説を読む
ホメオパシー(同種療法)と呼ばれる代替医療があります。
代替医療とは伝統的な機械論的外科手術や対処療法的な薬物投与をせずに、全人的(ホリスティック)な医療を進めていこうという方法のことです。

ホメオパシーは、鉱物や植物、動物などの自然界から採取した成分を圧倒的な水の量で希釈して使用します。(分子的には存在し得ないほど薄める場合もある)それぞれの成分は、飲むとある症状を起こしてしまうのもなのに、たとえ劇薬でも、大量の水で希釈して飲むと、同じ症状がでている人のその病気を治してしまうというものです。

ホメオパシーは、ドイツ人医師サミュエル・ハーネマン(1755~1843)によって発見されました。彼は医学書の翻訳をしているとき、「キナノキの皮がにがいので、マラリヤに効くという」記述を不思議に思い、実際に自分でキナノキの皮の抽出液を飲んでみたのです。

するとマラリヤに特有の悪寒、脱力感、発刊という症状が現れたので、キナノキの成分がマラリヤと同じ症状を起こし、そのせいでマラリヤが治るのではないかと考えたのです。 

そこで健康な人が服用したときに、ある特定の病気と同じ症状の現れるさまざまな成分(これをレメディーという)を持つ物質を探し、実際の病気の治療に使い始めたのです。

彼の治療は、治癒率が非常に高く人気を博しましたが、当時の医学会では、猛烈な反発があり、またペニシリンなどの新薬の発見によってホメオパシーは忘れられようとしていましたが、今ではスピリチュアルで健康的な生活をしようという機運に押されて、発展しています。

レメディーの不思議な振る舞いはいくつもあります。患者が持つ精神的な傾向とも反応するというのです。そのためホメオパシー医療では、患者の過去の人生経験や考え方、こころの状態などを吟味してもっとも共鳴しやすいレメディーを選ぶのです。

自殺願望が消えてしまった患者の例なども報告されています。
さらにレメディーは薄めれば薄めるほど強力になるのです。
私たちの常識では。濃いほうがなんにつけても強力に効くように考えますが、レメディーは逆なのです。
つまり、実際の水の中の薬効成分の量が効果を現しているのではなく、水の分子に蓄積された薬効成分の「情報」が、効果をもたらしているのです。

その「情報」が体内のDNAなり細胞なりを刺激して自己改変(シュワルツの仮説参照)させ、病気を癒していく自然治癒力、免疫力を強力に働かせるのです。

自殺願望のような「こころの状態」でも、レメディーという「物質」と情報をやり取りして自己改変させるところを見ると、「万物に聖霊が宿る」という意味や、仏教の言葉「山川草木悉皆仏性」という言葉の意味が、科学的な土俵に乗る日も近いのかもしれません。

私たちの生命に不可欠な水は、情報を蓄積しているスピリチュアルな物質と言う事ができます。
(参考:魂の記憶 宇宙はあなたのすべてを覚えている:喰代栄一著)

『瞑想とは、思考からの自由』技法や信念を否定した 神童 クリシュナムルティ①

2005年04月26日(火) 18時35分59秒 テーマ:古今東西の成功哲学
スピリチュアルな人生を送ろうと思うとき、瞑想というものを無視することはできません。
しかし実際に行おうとすれば、多くの場合挫折が待っています。
どんな方法が良いのか本物なのか、迷路にはまって失望を繰り返します。

しかし今日ご紹介するクリシュナムルティは、生涯に渡って特定の瞑想法を教えることを拒否しました。過去の教えとメソッドは、霊的目覚めの障害になるというのです。
私達に技法や流派にこだわるべきでないと教えてくれます。 

彼は、あらゆる信念からの自由=宗教・イデオロギーからの自由を常に主張しています。過去や思考に囚われている限り、真の神性に到達することはできないというのです。 

クリシュナムルティは、特筆すべき人生を送っています。
20世紀初頭のインドに生まれ、少年時代に神智学協会から
「人類を新しい霊的時代へと導く、世界教師」として選ばれました。
すごいことです。

しかし、彼は古代の宗教的な教えを研究することを拒否します。そして成人すると自身で非救世主宣言をして、組織を解体してしまいます。
自身を『意識と人間存在の究極的な真実を情熱的かつ正直に探求する一個人である』と宣言したのです。
これまた普通では出来得ない行動です。

死に臨んでクリシュナムルティはこう言い残します
「師は忘れ、教えを心にとどめなさい。」=クリシュナムルティの遺言  

クリシュナムルティの思想や主張は、聞くものの心に新鮮な革命を呼び起こします。
今回は瞑想についてクリシュナムルティの言葉を拾ってみました。

『私はあなたたちに尋ねたい。
あなたは過去の目なしに、自分を見つめられるか。
あなたは、人間関係のなかで行動している自分を、思考を働かせることなく観察できるか。
過去が存在しないとき、「いまこの瞬間」の至福がある。
あなたはすべての思考を脇に追いやり、心を静め、「いまこの瞬間」の真実を見つめて、
自分自身を直接知ることができるか。 』

『瞑想とは、自分の活動の全体像を意識することだ。瞑想とは、選り好み、歪曲、思考を離れて、物事の本質を見てとることだ。』

『瞑想は物事の本質を見つめることであり、聞くことであり、その彼方に進むことだ。それは、脳、心、体が本当に静かに調和したとき、つまり、理性、体、ハートが完全に一つになったときに生じる。すると、完全に人生の質が変わるのだ。』

『人は分析せずに心を観察するすべを見出さなければならない。分析家にならずに、意識の全容を観察するのだ。』

『思考をコントロールするのではなく、思考の出発点を理解することだ。思考は記憶の貯蔵庫から生じる。』

『思考を必要なときだけ働かせ、必要でないときは完全に静める。』

『こころが静まっているときのみ、真に見ることができる。』

『思考は常に断片でしかない、完全に静まった心は、人生の全体像を見て取れる。』

『瞑想の始めの一歩は、最後の一歩でもある。心の条件付けから自由になることだ。』

『人がするべきことは、ただ見ることだけだ。
重要なのは学ぶことではなく、ただ見ること、ただ聞くことによって
観察する主体とされる客体の分離が消滅する。』

『そのとき、心は空だ。するとすさまじい革命が起きる。行動が根本的に変化し、完全に全体的な存在になれる。』
(引用抜粋:『セブン・マスターズ』[瞑想へのいざない] ジョン・セルビー著 サンマーク出版)

クリシュナムルティは、
『裁く思考を手放して、自分自身とものごとの核心を直視せよ。』と訴えています。
過去とは思考の中に主観的に解釈された記憶に過ぎず、それは常に断片的である。とも言っています。ものごとをあるがままに見て、聞いて全体的に捉えることを日常的に意識していればそれは、瞑想的な生き方なのだと分かります。

知性とは何か。科学はどこまでしっているか。

2005年04月25日(月) 17時50分21秒 テーマ:科学仮説を読む
人は60兆もの細胞でできています。その細胞の一つひとつに60億の遺伝情報=DNAが存在します。

霊長類と呼ばれる私たちですが、このDNAの一番近い存在は、チンパンジーです。しかし、チンパンジーと人のDNAの違いは1.6%と言われています。誤差を多く見積もってもおそらく3%未満の差しかないのです。

私たちとチンパンジーの差と言えば、知性ですが、この知性の差と見た目の違いを含めて人とチンパンジーの差をたった3%のDNAに求めることは出来るのでしょうか。
人と動物を大きく隔てているのが、脳の構造です。特に人の前頭葉は他の動物に比べてはるかに発達しています。その差は3%のDNAの差とはとても思えません。

ところが、アイオワ大学のダマージオ教授は、事故で前頭葉を損壊した患者が、日常生活でなんの問題もなく暮らしていくことが出来た症例を発表しました。

それでは知性とは一体何なのでしょうか。
あるいは、私たちの日常生活はほとんど無意識の反復行動であって、知性的な活動でないのでしょうか。  

知性と言えば思考力です。思考はどのように生まれ活動しているものなのかという脳科学の分野があります。脳の化学的変化が感情や思考を作り出すという前提で研究が行われています。

つまり思考や感情も物理的器官である脳が外部からの刺激に反応して起る化学変化であるというものです。いいかえれば、こころと言うものは、それ自体は存在せず、単に外部からの刺激に反応している後天的に学習された機械的作用だと言う論点です。

これに反して知性は非物質的な「こころ」が、脳を媒体として使って身体の動きや表情や言葉として現れてくるという画期的な研究レポートが出始めました。
この論点はまた後術と言うことになりますが、すくなくとも人の脳あるいは前頭葉の働きだけに知性と言う原点を求める研究は挫折しつつあると言うことが出来るでしょう。 思考と言うものは、人の知性の現れとして考えることができます。

しかし、「感じていること」を思考として成立させているものは実は「言語」なのです。私たちは何か考えているとき、言葉を使って考えています。日本語であろうと英語であろうと言語を使って思考しているわけです。 このように言語と思考とは表裏一体です。

しかし概念や感情を言語化するとき、そこには必ず近似化という力が働きます。つまり言語=言葉と言うものはものごとをアバウトに現しているに過ぎないのです。
さらにいえば言語化された知性は、それ自体近似的、類似的に貶められた真実の一部しか表現できないという宿命を担っています。思考に限らず、感情が言葉で表された瞬間、それはクリシュナムルティ(まだ本編で紹介していませんが)が言うように、「断片」に変質するのです。
簡単にいえば、思考力や言語と言うものは、本来的な知性をすべて表現しているとは限らないと言うことです。

さてそれでは知性とは何でしょうか。王陽明が、曇りなき心で知覚せよと言い、天風師が観念要素の更改をせよといった意味がここで明確になります。
クリシュナムルティの明瞭な頭脳が言っている通り、思考に頼らない「知覚」こそが知性であり、「叡智」なのです。
もっといえば、古来から人類が追い求めてきた「悟り」とはそういった言語変換できない「知覚」なのです。 しかし、チンパンジーと人の違いを現代の科学は、言語に求めています。かのネアンデルタール人とクロニョン人の形態的違いが明らかにされました。
それは声帯の発達に関するものです。クロマニョン人は、ネアンデルタール人より声帯の物理的進化があり、言語による複雑なコミュニケーションが可能であったから、生き残ったと言う仮説です。
それは現在のチンパンジーとひとの身体形態の違いと同じで、ひとがひとたる所以だと言うのです。 
2・3歳児の知能があるといわれるチンパンジーも、文明を起こすことは出来ません。
それは言語による世代を超えた経験の継承が出来ないことに論拠を求めているのです。

考古学的に見て、人類の進化の痕跡は、断絶しています。アウストラピテクスが500万年前の化石として姿を現して以降、次のホモハビリスの登場まで200万年ものあいだを埋める何者も見つかっていないと言う現実は何を物語るのでしょうか。

科学が知性と言うものを、思考や言語においている限り、ゾウやイルカたちの知性やこころを感じることは難しい。まして万物においてはいわんや、と言うことになります。
言語化されない知性、あるいは人類よりもっと緻密で精細なこころの動きを言語化している知性というものにはやく科学が気づいてほしいと思います。 (言語形態、日本語や英語など、それぞれの言語としての特質も知覚に近いものとそうでないものとの差があるといえます。英語は論理言語と言われています。)

アメリカの宇宙論学者ロバート・ディッキーが「この宇宙は、進化の過程で、宇宙自身の姿を確認してくれるような知的な生命を生み出すことを要請していたのだ。=宇宙の人間原理」(引用:地球外知性体 宇宙物理学、探査40年の到達点 桜井邦朋著:クレスト社)
と言っていますが、スピリチュアルな観点で言えば、
「知性が、それ自身を経験するために宇宙の進化の中で生命体を生み出したのだ」
と言うことになります。

ここでいう知性とは霊魂です。

 システムとしての情報の記憶と自己改変された情報発信を提唱している「シュワルツの仮説」(本編既述)のような新しい科学の進展を待ち遠しく思います。

偶然は2度とやってこない?『待ちぼうけ』

2005年04月24日(日) 20時55分43秒 テーマ:感動の詩・唄
日本の童話作詞家と言えば、北原白秋、そして作曲家と言えば山田耕作。
この二人の作品に『まちぼうけ』という唄があります。出典は中国の故事「韓非子」ですが、韓非子の思いはリアルです。故聖人(老子や孔子)たちのスピリチュアルな考え方を一刀両断のもとに切り捨てています。  

韓非子の、「守株待兔」という物語。

『宋の国で、男が畑を耕していました。畑には切り株があり、兎が走ってきて切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまいました。男は簡単に兎を手にすることができました。このことがあってから、男は畑仕事を止め、くる日もくる日も、切り株を見張っていました。しかし二度と兎を手に入れることは出来ず、宋の国の笑い者になりました。』そこで韓非子は当時の政治を『先王の 古いしきたりにとらわれ、民を治めているということは、このような類のことだといえる』として批判したのです。
《 宋人有耕田者、田中有株、兎走觸株、折頸而死。因釋其耒而守株、冀復得兎、兎不可復得、而身爲宋國笑。今欲以先王之政、治當世之民、皆守株之類也。 >宋人に田を耕す者あり、田の中に株あり、兎走りて株に触れ、頸(くび)を折りて死す。因りて、そのスキを捨てて株を守り、兎また得んことを願ふ。身は宋国の笑となる。今、先王の政を以って、当世の民を治む、皆、株を守るの類なり> 》  

韓非子は、偶然と必然の意味において論拠しているわけではありませんが。西洋科学合理主義に近い思想家であったことは間違いありません。でも私たちが、セレンディピティとかシンクロニシティというささやかな「奇跡」を考えるとき、そして「思いが成就する」というこころの法則を実践するときに、忘れてはいけない物語です。  

この唄をゆっくりと味わって、なぜ偶然は2度とやってこなかったか。を感じなければいけません。  
北原白秋は、おおらかに言っています。「ウサギはきっと、コレラに罹っていた(当時の日本ではコレラをコロリといって怖れていました。)のだから、そんな珍しいことはなかなか起らないよね。」見たいな。

まちぼうけ
北原白秋作詞/山田耕作作曲

待ちぼうけ 待ちぼうけ

ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が 飛んで出て
ころり ころげた 木のねっこ

待ちぼうけ 待ちぼうけ

しめたこれから 寝て待とか
待てば獲ものは 駈けて来る
兎ぶつかれ 木のねっこ

待ちぼうけ 待ちぼうけ

昨日鍬とり 畑仕事
今日は頬づえ 日向ぼこ
うまい伐り株 木のねっこ

待ちぼうけ 待ちぼうけ

今日は今日はで 待ちぼうけ
明日は明日はで 森のそと
兎待ち待ち 木のねっこ

待ちぼうけ 待ちぼうけ

もとは涼しい 黍畑
いまは荒野の 箒草
寒い北風 木のねっこ

「あるひ、せっせと野良かせぎ」この男がせっせと野良かせぎ=畑仕事をしていたからこそ、ウサギを偶然(必然)に手に入れることが出来たのです。

男の目的が「せっせと畑仕事をする」から、「楽してウサギを手に入れること」に変わったことによって、2度と「ウサギを手に入れること」も、「畑仕事で暮らしていくこと」も叶わなくなってしまったのではないでしょうか

生命とは何か。科学はどこまで知っているか。

2005年04月24日(日) 10時57分38秒 テーマ:科学仮説を読む
地球外生命体を考えるとき、「生命とは何か」が問われます。
科学実験ではいまだ無から生命を生み出していません。アミノ酸までが限界で、生命を生み出すことは失敗に終わりました。

しかも地球上の生命は、原始の地球で生まれたのではなく、宇宙空間から隕石などに付着して地球にやってきた古細菌がもとになって進化発展したのではないか。という仮説=「パンスメルニア説」が注目されています。

それでも生命発祥のなぞが解決されたわけではありませんが、少なくとも「宇宙空間」に舞台が移ることで地球のみが生命を育んだ特別な惑星だという考えはしぼんでいきます。
どこででも生命が生まれる可能性があるのです。  

原始的な生命体といえば、アメーバを連想しますが、アメーバはまだまだ高等なほうです。つまり複雑さを持っています。古細菌は発見された歴史がまだ浅いのですが、この古細菌は通常の生物とちがって酸素を必要としないとか、100℃を超える深海の熱水の中で棲息しているとか私たちの生命観を超えています。  

原始的な生物が細胞を進化させていく過程で、この古細菌のなかに原核細胞が寄生して生まれたのではないかと考えられています。ミトコンドリア=パラサイト説です。

ミトコンドリアは、本編のイブ仮説でも紹介しましたが、きわだった特徴があります。あらゆる動物細胞にはミトコンドリアがあるのですが、あたかもそれ自身が一個の生命のように見えるのです。そして既述のように母性遺伝しか行われません。  

私たちの身体を形作る一つひとつの細胞が、ミトコンドリアとなる細菌が原核生命だった細胞に寄生(共生)して真核細胞が生まれ、進化をはじめたとしたら、とかく直線的(リニア)に考えがちな生命進化というものを抜本的に見直す良い機会ではないでしょうか。  

細胞に限らなくても、私たちの身体の中には無数のバクテリアやウィルスが存在します。消化を助けたり、皮膚を守ったり。人間の身体も大きな意味で複合共生体なのです。細菌を処理している白血球やマクロファージなども、ひょっとしたら、ある時期に生命体に侵入したウィルスが共生進化したものかもしれません。  

真核生命の誕生から30億年を経たカンブリア紀に生命の進化の流れの中で、多様化の波が押し寄せました。30億年のあいだほとんど進化を見せなかった生命が、突然やたらとさまざまな生物を生み出したのです。
化石として複雑怪奇な姿をみせるこれらの生物達は、まるで誰かが思いつきで創ったとしか思えない様相です。今の生物学では考えられないような生命がこの時代には繁栄していたのです。  

DNAの発見から半世紀を過ぎました。この地球上の遺伝形式は一種類しかないことが分かっています。この意味でもすべての生命は、兄弟なのです。40億年の生命進化の長い歴史の中で、もとになる生命の発祥がただ一度きりだったことは、驚嘆に値します。  

もし、宇宙空間からの古細菌が生命のもとであれば、地球外生命体が私たちと同じ遺伝形式を持っていたとしても不思議ではありません。
環境が似ていればまるで人間のような宇宙人が存在しても、おかしくはないわけです。  

生命とは何か。さまざまな科学者達の試行錯誤の末、「生命とはエントロピーの増大したエネルギーを外に放出することで定常状態を維持している開放系である。」(引用:地球外知性体 宇宙物理学、探査40年の到達点 桜井邦朋著:クレスト社)
と最新科学は定義しつつあります。  

この定義に従えば、太陽や地球も生命体ということなってきます。科学者達は戸惑っていますが、やっとスピリチュアルな真理と科学との接点が結ばれようとしているのです

地球外知性体 科学はどこまで知っているか。

2005年04月23日(土) 17時11分10秒 テーマ:科学仮説を読む
この宇宙のどこかに、地球外知性体がいるののでしょうか。「彼らがどこかにいるのなら、なぜ、彼らは地球にやってこないのか」この疑問を科学的課題として提出した物理学者がいます。

1950年ごろに提唱されたこの科学的課題は、提唱者の名前にちなんで「フェルミのパラドックス」と呼ばれました。

エリンコ・フェルミは、ノーベル物理学賞を受賞したイタリアの物理学者です。この時代ですからまだ人類も宇宙に旅立つ前のことです。
すすんだ文明を誇る宇宙人が実在するなら、なぜ地球にやってきてその姿や存在を私たちに見せることが出来ないのか。教科書には絶対記述されませんが、科学者達は半世紀も前からこの疑問に科学的証明を求めて努力してきました。  

宇宙人との遭遇や、その証拠を隠匿しているといううわさはいつまでも絶えませんが、それにしても、公に一般の人になぜ宇宙人たちは、姿を見せないのでしょうか。  

当時から大きな勢力を持つ見解があります。それは、なぜ宇宙人が姿を現さないかというのは、「彼らが存在しないからだ。」というものです。いないから、出会わないというわけです。

もう一つは、アインシュタインの相対性理論によれば、宇宙の物質は光速を超える事が出来ない。という事柄から、もし光速に限りなく近づくことの出来る宇宙船を開発するような超高度な知性を備えた宇宙人がいたとしても、その知性にいたる歴史的時間軸、例えば地球は45億年かけて人類を生み出していますが、その45億年のたかだか最近数百年が宇宙人を認識できる時代なので、その文明どおしが同じタイミングで出会う確立は、ほとんどゼロに近く、さらに隣どおしの恒星間でも光速旅行は、数十年の時間を必要とするので宇宙探検旅行に出て、現実的に宇宙人どおしが出会う確立はゼロに近い。物理的現実的否定論です。  

少なくとも、私たちの認識できる現代科学をベースとして議論している限り、この答えはやってこないでしょう。

特筆する見解もあります。「もし、地球よりすすんだ知性を持つ生命体がどこかに存在し、周囲の星々に出かけて、他の生命体を探る研究をしていれば、地球がどんな天体であって、人類がどの程度の文明を築いているのかすでに知っていて、まるで私たちが希少な動植物をその棲息する自然環境も含めて保護するように、直接地球人とコンタクトを取ることなく、遠くからその進歩を見守ることに決めたのではないか。」
スタンフォード大学教授のブレースウェルは、このように私たちの文明の遅れが、宇宙人が地球に姿を現さない理由ではないかと言っているのです。  

残念なことに私たちは、この地球上で逆の状況を見ることが出来ます。教育や産業の基盤の出来ていない農耕や牧畜、漁労を生活の主体としてきたもとは平和な地域が、マシンガンや小銃をもって殺し合いをしています。

文明にとって高度な技術や知識が破壊となって現れている現実を私たちは知っています。
そして宇宙人はもっと良く知っていることでしょう。
 (参考:地球外知性体 宇宙物理学、探査40年の到達点 桜井邦朋著:クレスト社)

出会いは運命か。セレンディピティ

2005年04月23日(土) 12時15分19秒 テーマ:推薦図書・ビデオ紹介
 
タイトル: セレンディピティ~恋人たちのニューヨーク~

映画 セレンディピティ

 クリスマス直前のニューヨークで、 偶然であったジョナサンとサラ。 楽しい時間をともに過ごすが、 お互いに恋人のいるふたりは連絡先も告げずに別れる。 この出会いが運命なら、また会えると信じて・・・。 数年後、ふたりはそれぞれの恋人と婚約し、 結婚式を目前に控えていた。 なのにふたりの心に浮かぶのは、 行方も分からない相手のことばかり。 運命はふたりの再会を導くのだろうか。 (DHC完全字幕シリーズ セレンディピティ 巻頭から引用)

セレンディピティという言葉は、偶然の中から幸せを見つけ出す能力やその出来事といった意味で使われています。 もともとは、『セレンディップの三王子』という寓話から出ています。

今のスリランカの3人の王子が異国を旅しながら、一見偶然のように見える出来事からさまざまな発見をしてそれぞれ王国を作り上げ幸せに暮らしたというような寓話です。

最近では学問の世界でも、とりわけ良く使われています。ニュートンがりんごの木から実が落ちるのを見て、引力という概念を思いついたように一見何も関係がないと思いがちな日常の中で、意味を感じていく能力です。

このことは、自分自身が常に明確な目的意識をもっていないと起りません。漫然と暮らしていてはそれは過ぎ去っていくばかりです。 強烈な目的意識が、そういったヒントになる物事、セレンディピティな出来事を引き付けている。というスピリチュアルな事実があります。

人の意図そのものに、物事を成就させていく基本的なエネルギーが宿っているのです。ただ、私たちは無数の無意識的な意図を発散させているので、通常は相殺されてしまい、明確な結果となって現れてくることが稀なのです。

意識的に意図の向きをそろえていくことが、目的や信念によって可能になります。

セレンディピティーという概念は、映画や小説のテーマには頻繁に登場していますが、これはその言葉そのままの映画です。

学術的出発をした共時性(シンクロニシティー)と違ってセレンディピティは、常にロマンチックな香りがします。この映画でどっぷりとセレンディピティに漬かってください。

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