陽明学をご存知だろうか。中国の明の時代に活躍した儒教家である王陽明が唱えた「真理」説である。一般にはなじみが薄いが日本の幕末の志士たちの心の拠り所であったと聞けば、興味が湧いてくる。陽明学は一種の(革命)成功哲学であり、明治以降昭和の時代まで、陽明学の精神は日本政財界に生きていた。陽明学者の安岡正篤師が昭和天皇の終戦の詔を校正し、有名な「万世のために太平を開く」という文言が生まれた。
この陽明学、別名「良知心学」を弟子たちがまとめたのが「伝習禄」である。その伝習禄をスピリチュアルに限りなく近い視点で解説してくれているのが、■「真説・陽明学」入門 林田明大著 三五館■である。すこし難解だが 「主客合一」の部分を引用する。
《 耳・目・口・鼻・手足が身体である。心でなければ、耳は聴き、目は視、口はもの言い、手足は動くようにさせることはできない。心は、みたり聴いたりものを言ったり動かしたいと思っても、耳・目・口・鼻・手足がなかったら、やはりできるものではない。
だから心がなければ、身体は機能しないし、身体がなければ心は主体性を発現できない。ただ、形而下のものとして存在することを指して身体といい、身体を主宰する主体を指して心といい、心が発動してはたらいているのを意識といい、意識のはたらきが霊明であるのを知覚といい、意識がはたらきかけている客体との関係を「物」=主客関係という。》
陽明は明確に人間の主体を「心」に置いている。しかも陽明のいう心は、単に人間の喜怒哀楽を言うのではなく、スピリチュアルな世界の本質である「愛(陽明は天理と呼んでいる)」を元にした「心」であり、その状態の心を陽明は「良知」と呼んでいる。
《意識とは具体的な客体なしにははたらくものではない。必ず具体的客体との関係の場ではたらくのである。意識がはたらきかけている具体的な対象に即して主客関係を正しくし、意識が誠のままにはたらくのをさまたげている欲望を昇華して、本来の天理の発現にゆだねたならば、良知は、本来の自己を発揮することができるのである。》
私たちは、スピリチュアルな世界の純粋な魂から、この地上に生まれて様々な余分な思考や感情を蓄積していく。そういったものを「昇華」して、物事にあたれば何事もうまくいくのだ。現に陽明は、地方のテロや反乱を100戦100勝の実績で治めている。しかも無駄な戦いをせず、戦わずにして勝つ術をもっていた。ほんとにすごい人だったのだ。
《この心が私欲に覆われていない状態が、すなわち天理そのものなのです。それ以上そとから何かを付け加える必要はないのです。この天理そのままの純な心を発揮して、父に仕えればそれがすなわち孝なのです。発揮して君に仕えれば、それがすなわち忠なのです。さらに友と交わり民を治めるときに発揮したら、それがすなわち信であり、仁なのです。ただこの心から人欲を取り除いて天理を発揮するように努力さえすれば、それでいいのです。》
陽明に言わせると「孝」「忠」「信」「仁」などという儒教の難解な概念も一言で終わってしまう。すべて「天理=スピリチュアルな愛」が、相手(人間関係、立場)によって現れる行為とそれを現す言葉の違いだけなのである。陽明の思想は、「万物一体の仁」すなわち宇宙との一体感、宇宙の本質は愛であることを見抜いていたのである。
次回から、このテーマにおいて■「真説・陽明学」入門 林田明大著 三五館■の「第一部 王陽明の生涯」を抜粋、引用しながら、王陽明の生涯をご紹介していきたい。

著者: 林田 明大
タイトル:
真説「陽明学」入門―黄金の国の人間学