2007-04-06 17:51:46

スポーツマネジメントの世界へ。

テーマ:自己紹介

私のスポーツマネジメントとのかかわりは2003年7月21日

に始まりました。



6月末ぐらいに入社が決まり、7月に一度東京にきて、家を

探しました。東京には住んだこともなく、土地勘も全くなかっ

たのですが、東京滞在期間は2日しかなく、とりあえず不動

産屋さんに見繕ってもらったのを3つぐらいみて、そのうちの

一つに決めました。初台勤務ということでとりあえず、家から

電車1本でいけて20分以内という条件で適当に決めました。


最初の住まいは芦花公園になりました。

当時の家賃が7万6千円、会社での給料が額面20万9千円。

給料は大使館時代の三分の二ぐらいになりました。大使館

時代は、家賃は90%ほど負担してもらっていたので、実質

給料は半分ぐらいになった感じですね。


普通は、給料の3分の1以下でないと生活は苦しいらしい

ですが、正直東京での最初の1年の暮らしはきつかった

ですね。昼は5割ぐらいの確立で吉野家。とにかくお金が

なかったので牛丼にけんちん汁つけるかどうかですら悩

むぐらいでした。笑


入社して配属されたのが、ライセンスマーケティング部と

いうところで、簡単にいえば、海外から取得したのマーチャ

ンダイジングライセンスの管理という仕事でした。


当時、会社が持っていたライセンスは、ACミラン、インテル

FCバルセロナ、マンチェスターユナイテッド、ユベントス、

ハンブルガーSV、フェイエノールト、FIGC、MLB、NHL、

NBA、NFL、WWEなどなどです。


この会社は日本全国に25店舗ぐらいのスポーツファン

グッズショップを展開していて、特にお台場にあった

グランドームというオフィシャルグッズショップが集まっ

ているところは本当に物凄いとしかいいようがないほど

贅沢なショップでした。(内装が。)


お台場にはすでにACミラン、マンチェスターユナイテッド

のオフィシャルショップがあったのですが、僕が入社した直後

にはインテルミランのオフィシャルショップがオープンし、その

1ヶ月後にはFCバルセロナのオフィシャルグッズショップが

オープンすることになっていました。



ショップオープンそのものは仕事的にはそこまで大変な

仕事ではないのですが、海外のライセンスの取得している

ので、ロゴなどを使用するすべてのものはアプルーバルと

いってライセンサー(ライセンス元)の承認をとらなければ

ならないので結構大変なのです。



バルセロナのオフィシャルショップのオープンが2003年

8月29日を予定されていたにもかかわらず、ショッピング

バッグとか、内装とか、店員ユニフォームとか、そういった

様々なものの承認が全くとれていない状態で、会社はて

んやわんやの状態でした。



入社してから1週間ぐらいは、あまり仕事もなかったの

ですが、8月からは、いきなりバルセロナ担当として、

実戦に放り込まれることになりました。


というのも、当時会社にはスペイン語を使える人が一人

もいなかったために結構仕事が滞っていたのです。


私はそもそも小売業、ライセンスビジネスなどを一切やった

ことがなかったので、とりあえず適当に仕事を進めていた

のですが、もともとサッカーそのものには相当詳しかった

ので割とスムーズに仕事に入りました。


主に担当していたのは、承認作業で、いろんな部署から

まわってくるデザインなどをサクサク許可をとっていく仕事

です。 


実は、担当になってしばらく、自分が何のために、バルセ

ロナに承認を出しているかよくわかっていませんでした。笑


とりあえず承認に出してくれといわれて、いろんなファイルが

メールで送られてくるので、「承認よろしく!」みたいな感じで

すべてバルセロナに横流し。


まあ、完全に伝書鳩ですね。


バルセロナ側としては、スペイン語でやりとりができるので

楽だったようです。













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2007-04-04 18:48:52

JICAの試験

テーマ:自己紹介

2002年9月、ベネズエラ駐在から帰国しました。


帰国前描いていた今後の人生のシナリオは・・・


1. ベネズエラ永住


  → 仕事を探す(日系企業)

  → ベネズエラで起業する。


2. 国際協力の道へ進む


  → JICAを受ける

  → 青年海外協力隊を受ける

  → 国際開発関係の大学院へいく


3. 民間に戻る


  → スペイン関連の仕事

  → マーケティング関連の仕事


こういう感じでした。



ベネズエラ永住の道は早々にくずれました。

その理由はなんといっても、「日本人がいない」

ということです。日本人の女の子の友達とか

欲しいなあと思っても、カラカスにいる日本人の

女の子って、大使館の書記官の娘とか、いわゆる

不可侵の人たちなのです・・・。


ベネズエラ人もそれはそれでありっちゃあありなの

ですが、いかんせん、侘びさびが通じない。


すみません。話がそれました。

まあ、単に日本に帰ってきたかっただけですね。


残り2つの選択肢の中では、やっぱり国際協力かな

あってことで、JICAに絞りました。


JICAの社会人入試は5月だったので、つまり9ヶ月

間は強制的にぷー太郎なわけです。(浪人と呼ぶのか?)


そこで、帰国後は、日本で1ヶ月英語学校に通い、

その後、AMDAというNGOのスタディーツアーでネパール

の奥地へいき、1月からは、イングランドのボーンマス

に2ヶ月語学留学しました。


いや、ほんとに、超のんきな27歳でしたね。

ボーンマスの学校でも20代後半の男でのんきに語学留学

なんて来てるやついなかったですもん。


それもこれも、自分はJICAの試験に受かるという根拠の

ない自信からでした。 5月を迎えて、意気揚々とJICAの

試験を受けにいきました。結果は筆記で撃沈。


にもかかわらず、落ちても大して悔しくなかったんですね。


この時点で、27歳独身、実家で暮らし、無職期間9ヶ月。

転職暦3回。これってニ、ニ、ニートじゃないですか!


この頃、家で毎日リクナビNEXTとか見てました。

サッカーの仕事もないかなあと思って、サッカーエージェント

のジェブエンターテイメントのサイトを見たりしてました。


7月に入って、そろそろマジでやばいという時期にリクナビで

「スペイン語」でなんとなく検索し、引っかかった会社に

日本スポーツビジョンという会社がありました。


英語必須、スペイン語かイタリア語できれば尚良しみたいな

ことが書いてあって、急成長中のわが社で活躍しませんか?

とありました。


サッカー+スペイン語+英語ってことで、すぐに応募しました。

書類選考を通過し、次はいきなり人事部長面接。


実は、日本スポーツビジョンは、海外サッカーチームのマスター

ライセンスを5チームほど獲得していて、私が面接を受けていた

ときは、ちょうどFCバルセロナのオフィシャルショップをオープン

させる2ヶ月前のタイミングで、スペイン語が出来る人が欲しか

ったようです。


そのまま社長面接もすんなり通り、内定から2週間もしないう

ちに東京に引越し、入社することになりました。確か、2003年

7月21日だったと思います。


かくして、ぷー太郎期間は、10ヶ月9日で終わりを告げることに

なりました。







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2007-04-03 21:34:53

ベネズエラ勤務

テーマ:自己紹介

在ベネズエラ日本国大使館で働いていた期間は、2000年9月~

2002年9月です。


なぜスペインではなく、南米で勤務したかというと、大学時代に

学んでいた国際協力関係の分野に興味があったのです。

元々国際協力関連の仕事で食べていこうとは思っていなかった

のですが、日本での社会人生活をしているうちに国際協力の

仕事もしたいなという考えが浮かんできました。


おそらく大学時代に国際協力の勉強をしたことと、大学時代に

コスタリカ、エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコ

をバスで旅行したときに感じたことが影響してたんだと思います。


南米だと国際協力関係の仕事と接することが多いだろうという

のがベネズエラを選んだ理由です。 実際、働きはじめてから

はJICAの人や国際協力関係の仕事をしている人から情報を

得たり、国際開発学の本を読んだりして結構勉強してました。


ベネズエラという国の説明をすると長くなるので省きますが、

治安がめちゃくちゃ悪い国で、ホテルなどは、ドアの前に

鉄格子がありますし、夜、車に乗るときは信号で絶対とまっては

いかないというような国です。



市内

そういう予備知識が入っているので、町行く人の半分以上

は強盗に見えました。


いえ、これ本当です。

最初は少しでも誰かが近づいてくると、ゴルゴ13より

早いんじゃないかというぐらい急にふりかえってました。


実際、私が勤務していたときには強盗は日常茶飯事、

誘拐事件などもありましたし、クーデターも起こりました。


といっても、日中は結構のんびりで、町を歩けばマンゴーが

なっているというようなところです。



カラカス


大使館の仕事をしているうちに、国際公務員になりたいなという

思いが芽生えてきました。国際公務員になるためには最低でも

修士、かつ英語、スペイン語ができて、発展途上国での勤務経験

があると有利というような感じでしたので、ベネズエラ勤務中は

毎週2回プライベートレッスンで英語を勉強していましたし、

週1回はフランス語の学校にも行っていました。


この頃は正直サッカーのことは頭の片隅にしか残っていません

でしたね。ベネズエラでもプレーはしていましたが。。


ベネズエラでの2年間は本当に楽しかったです。

車で5日かけて、陸路でブラジルにもいきましたし。


国境


2001年9月11日ニューヨークのテロのときは、大使館で

テレビを見ているところでした。ちょうどその2日後に

姉の結婚式に参加するため、ニューヨーク経由で日本

へ帰るところだったのですが、テロでフライトキャンセル。

地球を逆まわりし、オランダ経由で帰りました。


カラカスから10時間のフライトで、アムステルダム着で

3時間待ち、そこからさらに12時間のフライト。まじで

死にます。




お気づきの方もいるかもしれませんが、私は2002年ワールド

カップはベネズエラでむかえました。


ベネズエラに行く最大のネックが日本で行われるワールドカップ

が見られないということだったのです。本当に悩みましたが、

やはり自分のやりたいことが大事ということで泣く泣く海外赴任

しました。



ベネズエラでの日本サッカーの注目度はゼロでした。

日本との時差が13時間もあったので、日本で行われる試合は

ベネズエラでは深夜でした。 有料放送に入っていないと

試合を見られないので、どこかパブリックビューイングをやって

いるところは・・・と探したものの、そんなことをやっているところ

はなく、最終的にたどり着いたのはホテルのロビーでの観戦

という荒技です。笑



大使館の何名かの面子に声をかけ、みんなでパブリックビュー

イングをしようといって集まったものの、ふたをあけてみると

集まった人数は2人。 ベルギー戦、鈴木のゴールでめちゃ

めちゃ喜んでいる我々の声がロビーにこだましてました。。



長くなってきたので話をまとめますが、ベネズエラから帰国

するときには、26歳。


帰国後社会人入試でJICAを受けようと思っていました。


そこから人生のどんでん返しが起こるわけです。

いや、まじで人生ってわからんもんですよ。









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2007-04-03 01:03:34

社会人になる。

テーマ:自己紹介

正直、社会人になってからは結構挫折の連続でした。


最初に入った会社では、1年以内にメキシコへという話だったの

ですが、入社して早々の工場研修で嫌気がさし、実際の配属が

茨城県の工場になるとわかった瞬間、辞表をだしました。


超高速です。4月に入社して、7月には辞表だしてましたから。

会社にもあと半年ぐらいがんばればメキシコにいけるのに・・・。

みたいなことを言われたのですが、自分としては、ノーモア工場

ですよ。 


こういう書き方をすると工場で働いている方には申し訳ないので

すが、工場の仕事は自分には全く不向きでした。


これが仮にメキシコに行ったとしても仕事内容が嫌だったら嫌だ。

という、まあ単なるわがままでしたね。


ただ、この4ヶ月での退職がその次の仕事を決めるのに結構

ネックになりました。今でこそ転職万歳!って感じですが、

当時はまだ転職はあんまりよくないというイメージが強かったのです。

勤務期間 : 1999年4月~8月


次の仕事がきまるまで7ヶ月かかりました。

実家で生活してたので金銭的にはどうってことはないのですが、

関西で探すとなかなか自分が希望する会社ってないんですよね。。


希望ってのがまた、「海外に行ける会社」というふざけた希望なもの

で、結構苦戦しました。最終的に、大阪にある繊維関係の商社に

決まったのですが、ここでは何が問題だったかというと、上司との

相性が最悪。たぶん、これまでの人生の噛み合わなかった人ランク

をつけると圧倒的ナンバーワンだと思います。


上司との相性の悪さと、あと仕事では英語しか使う機会がなかった

ということもあって、かねてから狙っていた仕事を受けてみることに

しました。在外公館派遣員という試験で、海外の大使館で2年働け

るという制度です。


実は、繊維専門商社に入社したときにはすでに願書を出していた

のです。笑  ただ、試験は5月だったので商社の仕事がよければ

試験を受けずに商社で仕事を続けようと思っていたのですが、

とりあえず受けるだけ受けて、受かってから考えようというスタンス

で受けました。


結果は、1次の筆記が通り、2次の面接も受かり、いよいよ最終試験。

なんと東京の外務省での試験でした。もちろん有給を申請しての

試験。 なんというひどい社員でしょう。。 (今だとそう思います。)


結局、最終試験もとおり、在ベネズエラの日本国大使館に2年勤務

することに決まり、商社もさくっと辞めることになりました。

ここでの勤務期間も約4ヶ月。 2000年3月~7月。


今の自分が過去を振り返ってみて、この在外公館勤務が2回目

の人生の転機ですね。 ちなみに1回目は、スペイン留学です。






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2007-04-01 16:16:27

就職

テーマ:自己紹介

スペイン留学から帰った後は、25歳までには、英語、スペイン語

イタリア語を話せるようになろうという目標と、とにかく人生の早い

段階で海外で働くということに焦点をしぼって生活していました。


大学4年になる直前の春休みには、カナダへ1ヶ月短期留学した

り、日本では、関西外大にあった、スピーキングパートナーという

制度を利用して、イタリア人のスピーキングパートナーを作りま

した。基本的にはこっちが日本語教える代わりにイタリア語教え

てもらうというやつです。交換授業ですね。


就職活動は、動くのが非常に遅かったです。まわりは大学3年の

11月ぐらいからはじめているにも関わらず、僕が始めたのは大学

4年の4月から。かなりの数の会社がすでにエントリーを締め切って

いました。 (超氷河期だった??)


そんな中海外にいけるかも・・・。という会社だけに絞っていくつか

受けられるところをあたりました。 近鉄エクスプレス、海外新聞

普及社、近畿日本ツーリストなどです。


などといっても結局面接を受けたのは、全部で5社。最終的には

入社から1年以内にメキシコに行かせてくれるという話があった

日本ハムに行くことになりました。確か1998年4月です。


当時、将来は何をしたいという考えで動いていたのではなく、

入社から最短で海外へいき、海外で3年経験を積んだのち

海外での転職を考えていたのです。


今となっては、なんという浅はかな考えで就職したんやろうと

思います。笑







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2007-03-30 15:57:40

スペイン留学

テーマ:自己紹介

マラガに留学したのは、1996年4月~1997年2月。

サッカーで言えば、ロナウドがバルサで大活躍していた時代です。


なぜマラガを選んだかというと、単に滞在費が安かった。

ただそれだけでした。


何か高邁な目的があったわけでもなく、単にスペインへ留学したい!

という思いと、外国語が話せるっていうのはどういう感覚なの

かってところに自分としては非常に興味があったわけです。


今、そういう人が自分の目の前に現れたら、

間違いなく、「単に行くだけでは意味ないよ~」とかいってしまい

そうなんですが、当時はなんというか、自分探しですかね。


昼間は学校へいってスペイン語を勉強し、

夜は、遊びほうけてました。


といっても、ディスコとかでは、昼に覚えた言い回しを

試しに使ってみるという感じで知らず知らずのうちに

スペイン語を覚えたという感じです。


サッカーに関しては、マラガのエルパロという小さな町の

サッカーチームに入ってました。監督はスペイン人で、

当時は、自分が所属しているチームが何のリーグに所属

していて、何の大会にでていてとかま~~~ったくわから

ないまま、試合にでてました。


監督の指示も全くわからず、交代してもその理由もわからず。

でも、PKは蹴らしてもらえたりして、信頼されてたのかされて

なかったのかという感じです。


観客もいたから4部か5部ぐらいのリーグには入ってたんや

ろうか・・・。今でも謎です。




留学もあと数ヶ月となったときには真剣に悩みました。

スペイン語って、別に大学じゃなくても学べるんですよね。

スペイン語が話せるのに、そこから外国語大学のスペイン

語学科に戻ってなんの意味があるのかと。。



大学辞めて、経営とか経済学部に入りなおそうと真剣に

考えてました。 今から考えると、なんちゅうことを考えて

たんやろ、俺はって思いますが。。笑


そして、この頃から将来的にはぜ~ったい海外で仕事を

するという考え方も芽生えました。



今振り返ってみると、だいたいの事は実現してるんで

すよね。思えば叶うです。


















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2007-03-25 19:12:21

仕事でサッカーと関わるようになったきっかけ①

テーマ:自己紹介

どうやってサッカーの仕事についたのですか?

とよく聞かれます。(長いので何回かに分けて書きます。)

実は、中学校ぐらいから漠然とサッカーに関する仕事につけた

らいいなとは思っていたのですが、当時はインターネットもなく、

奈良県に住んでいる僕にはそもそもサッカーの仕事は何がある

のかすらわからない状況でした。

今ではインターネットがあるのでほとんどすべてのサッカー関連

の会社にアクセスできるので非常に楽になりましたね。

中学時代はほぼ何も考えずサッカー三昧。

高校時代も同じく何も考えずサッカー三昧。

ただ、高校時代からすでに外大でスペイン語を勉強したいなと

いう考えはあって、当時の希望大学を見るとほとんどスペイン語

関係です。

僕の人生の転機は3回ぐらいありまして、1つは大学1年の3月に

スペインへいったことです。

1ヶ月ぐらいバジャドリッド大学に通ったのですが、この時に

滞在中4週間連続でサッカーを見に行きました。

当時、バジャドリッドというチームが1部にいて(城が所属する前です)

アウェイで試合をするときには、2部チームの試合とかも見てました。

行かれたことがある方は感じたかと思うのですが、スペインの空は

本当に突き抜けるような青で、世の中にこんなところがあるのか~

っと思ったものです。

それ以来、もうスペイン万歳ですよ。

日本に帰る飛行機の中では、もう留学すると決めてました。

で、とりあえずスペインに留学すると公言することからはじめました。笑

そしたらうまい具合に同じバイト先にスペインへの1年留学から帰って

きた人がいまして、いろいろ教えてもらいました。

大学3年になってからいったら就職活動がしにくいので、大学2年の

終わりに旅立つべく、バイトを3つかけもちして、休みほぼゼロの生活

を1年ぐらい続けました。といっても結局100万ぐらいしかたまらず、

親から100万ぐらい借りて、大学をさくっと休学して、スペインのマラガ

という町へいきました。

当時は、サッカーというよりは、スペイン語の方に頭がうつっていて、

サッカーで仕事につくという概念はたぶん自分にはなかったです。




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2007-03-18 19:18:17

なぜ僕はサッカーの仕事に関わっているのか

テーマ:自己紹介


このブログは、私が執筆しているスポーツナビのセレクトブログ

浜田満のサッカーエージェント現場主義 というブログの兄弟ブ

ログです。



スポナビブログの方は、日常のサッカー関係の仕事などを書い

ているのですが、サッカー業界で仕事を始めて3年半。これま

でわき目もふらず仕事に没頭してきたのだけれども、ここまで

歩んできた道のりをもう少し掘り下げ、丁寧に自分の人生を回

顧し、今後の自分の人生にいかせればいいなと思います。



そして、そしてサッカー関係の仕事につきたい人や、サッカーに

関わりたい人、その他単に自分の人生の岐路に立たされている

人たちに少しでも「へえ~、そういう人生もあるんやね」ということ

を知ってもらえればとも思います。



そういった理由からアメブロでもブログを立ち上げました。



内容的には、スポナビブログとかぶる部分もあると思うし、全くか

ぶらない部分も多いと思います。スポナビブログの方は、現在

の話が多いので名前を出せないことも多いですが、こちらでは、

かなり細かくかけるかなと思います。



それでは。スタートは、スポナビブログと同じ内容ですが、僕の原

点なのでこちらにも掲載します。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


スペイン出張から帰ってきました。


今回の出張中、なぜ自分は今ここにいて、こういう仕事をしていて、

そして、どこに向かっているのかということが明確になった非常に

有意義な出張でした。


今回、FCバルセロナサッカースクールを訪問しました。
そこでは、6歳~10歳ぐらいの子供たちが週2回練習をしています。


年間数名は、このサッカースクールからバルセロナの下部組織へ

巣立っていきます。今回の視察では、単にどういった形で練習をし

ているのかなどを確認をするためにいったのです。


ところが、練習している子供達を見ながら、子供達が本当にうらやま

しくてうらやましくてしょうがなかったのです。


何がうらやましかったのかというと、FCバルセロナのサッカースクール

でサッカーをすることができるという子供達の環境ではなく、その子た

ちは、自分さえがんばればプロサッカー選手になれる可能性があると

いうことにです。


確かに僕も小学校4年、つまり10歳のときから大学1年までサッカーを

していましたし、それなりのチームでのプレーしていました。でも、何か

を目指していたわけではなく、ただ漠然と一生懸命プレーしていただけ

なのです。


今、自分の人生を進めていく過程の中で、常に目標を置き、その目標

から逆算をして日々の生活をしています。しかし、当時は、どうすれば

プロになれるのかとか、自分に何が足りないかとかは考えず、そういう

ものはある日突然うまいやつが誰かに呼ばれて連れていかれるものだ

と思っていました。つまり全く主体的ではなかったのです。


その選手の時代に、自分が無知で努力をしなかったことによる自分へ

の後悔。その大きな後悔がもの凄く、今の自分の仕事の活力になってい

ます。しかし、何をどれだけがんばっても、たぶんサッカー関連のことに

関しては、これだけやったのだからと満足することはないでしょう。
(いい意味でです。)

会社を立ち上げて2年半。まわりからはよく働くね~とか、仕事命でしょう

とか言われることがしょっちゅうありますが、自分では働いている感覚は

全くないのです。その理由が、過去の後悔から成り立っている自分の仕

事であり、自分という人間形成に誰よりも影響を与えてくれたサッカーへ

の恩返しなんだと思います。


僕は、サッカーに興味を持ったことが理由でメキシコワールドカップ

を見て、メキシコワールドカップを見たおかげで海外、そしてスペイ

ン語圏に興味を持ち、スペイン語圏に興味を持ったことで、スペイン

へ留学し、スペインへ留学したおかげで、スペインサッカーに出会

い、スペイン語が話せるようになり、スペイン語が話せるようになった

おかげでFCバルセロナと仕事ができるようになりました。FCバルセ

ロナと仕事ができるようになったおかげで、会社が倒産しても独立

することができ、今置かれている状況があるのです。


個人的には、たぶん世の中でプロを目指したことのあるサッカー経験者

ほとんどみんなが同じような悔しさを心の中に閉じ込めながら生活して

いるのではないかと思います。


もしそういう方がいらっしゃってサッカー業界にかかわりたいと考えている

人がいましたら、ボランティアでも何でもどんどんサッカーに関わってい

かれるのがよいのではないかと思います。きっと心の底に押し込めてい

た過去の悔しさを思い出すと思います。でも、きっとそれが今後の人生

の活力につながると思います。


また、もしサッカーで今でもまだプロになれる年齢の人だったら、まだ

チャンスはあります。今、この瞬間サッカーができて、プロを目指せる

幸せを感じながら挑戦してください。


最後にバルセロナで僕が見つけたスペイン語のフレーズを紹介します。

Nada termina hasta que tu sientes que termina.

(あなたが終わったと思うまでは、何一つ終わることはない。)



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