2007-04-18 14:21:32 posted by aslj

民事再生 → 独立準備開始

テーマ:JSV時代

前回、話をしたキャプテン翼プロジェクトですが、

高橋陽一先生に同行してのバルセロナ取材は、2月中旬。

その後、翼Tシャツが発売されたのが3月7日でした。


このときには会社の状態がやばいってことは知っていまし

たが、まさか倒産寸前だとは思いませんでした。


というのも、3月後半にもスペイン、イタリア、ポルトガル、フランス

への出張へ行くことになったからです。


この頃から他部署の仕事の手伝いをするようになってきていま

した。私が所属していたのはライセンスマーケティング部だったの

ですが、商品部の予算での出張だったのです。



みなさん、会社が倒れるときってどんな感じか想像できますか?



よく、自分の会社が倒産したってことをテレビではじめて知ったと

かいうのを聞いたことあったのですが、僕は「またまた~~そんな

わけないやん」と思ってました。 自分が経験するまでは。



3月のヨーロッパ出張から帰ってきた翌日、朝会社にいくとどうも

会社の様子が変でした。


昼を過ぎたあたりに僕が何も知らないことを把握していない同僚から

声をかけられました。


同僚 : 「はま、聞いた?」


僕 : 「え、何を?」


同僚 : 「3時らしいよ」


僕 : 「え、何が」


同僚 : 「リリースでるらしいよ。」


僕 : 「え、何の?」


同僚 : 「え、はま知らなかったの?、民事再生するらしいよ。」


僕 : 「まじ・・・?」



そして、運命の3時。


ニュースリリースと同時に債権者(取引先)からひっきりなしに

電話が・・・。部長からの命令では、「とにかく何も答えるな。す

べて部長にまわせ」と。


今まで仲の良かった取引先からは、「どうして何も教えてくれなか

ったんですか?」「知ってたんでしょ?」とか、いやまさに信用がな

くなるとはこのことやなあと思いましたよ。


さらに上層部から出た指示は、取引先が現物回収に来る可能性

が高いので、店にいって追い返せと。。




民事再生法適用の申請をした3月30日からは、新たにお金の発生する
仕事を進ませることを禁止されました。というのも法律で営業活動を

することを禁止されるのです。


つまり、

仕入れ禁止!


広告禁止!


他社とのタイアップ禁止!


店の営業だけはOK!



そして仕事内容は・・・


ひたすらネットサーフィン。

お茶する。

他の社員と身の振り方の話をする。



などなどでした。


まあ、つまり会社の身売り先が決まるまでは遊べってことでした。
民事再生というのは簡単にいえば、倒産ではなく、債務を帳消し

にして再出発ができるという制度でして、一応雇用は保証される

場合が多いらしいです。


僕は下っ端の社員だったので、上のほうで起こっている
話などはあまり伝わってこなかったし、営業ではなかった
ので他社へ侘びに行く必要もなく、身の振り方の話を
しょっちゅうしていました。


部署ごと独立して、会社を立ち上げようかとか、夢のよう
な話がでてきては消え、現実路線に戻るという感じでした。


僕はといえば、28歳ですでに4社めだったのでさすがに
5社めの会社に転職するのもどうかなあ・・・という感じ
でリクナビとかを眺める毎日でした。

東京にでてきて9ヶ月ほどたって、それなりに刺激のある

生活だったこともあって、東京をでるつもりはなかったのです。



ただ、せっかくFCバルセロナと仲良くなれたのに
違う業界にいって、バルサの人達と疎遠になるのも
なんか中途半端やなあと思ってました。


自分の思いとしては、とにかくバルサと一緒に何かやりたい!
という思いが大きかったです。


それ以外は特になく、でも独立しようにもお金はないし、
会社作ったこともないし、ぺーぺー社員以外はやったこと
ないし・・・ってことで、そら無理かなあ。。と。


でも、独立するならこのタイミングしかない!!!



という確信に近い思いはあり、今自分が出来る可能性の
あることを探る日々でした。


8ヶ月ほどバルサを担当して、わかっていたことは、バルサ
にはコアファンが多く、バルサのソシオになりたい!という
人が非常に多いこと、そしてその年の8月にはプレシーズン
マッチのために日本にくることでした。


僕が漠然と描いたことは、日本でソシオを募集したら、
結構な人がソシオになるんちゃうかなということでした。


とはいっても、自分で勝手にHPを作っても、誰からも見て
もらえへんし、そもそも、おれ、HP作れへんやん!


ということで、どうしよっかなあと考える日々が続き、ふと
ひらめいたことが、あるHPとのコラボでした。


そのHPはブラウグラナ(www.blau-grana.com )というHP
で、バルサファンからは絶大な人気を誇るカリスマサイトでした。


僕は、さっそく管理人のユウさんという方にメールを書き、
事情を説明し、話がしたい旨、連絡しました。
もともと何回か告知協力とかしてもらっていたのでメール

だけですが、一応知り合いという感じでした。



すぐに返事が返ってきて、とりあえず、神戸で話をしましょうと
いうことになり、ご対面。


確か、2004年の5月ですね。


ソシオの代理店をブラウグラナをメインに展開したいという
話をしたところ、「いいですよ」とあっさり。



とはいってもどれぐらいの人がソシオになりたいとかわからない
し、当の本人があんまり自信もなかったため、リスクを避ける
目的と、バルサとの交渉をするにしてもどれぐらいの人がなりた
いといっているか数字で説明しないと権利はとれないだろうなと
思いサイト上でアンケートをすることになりました。



ふたをあけてみると本当にびっくりで、確か10日間ほどアン
ケートをしたのですが、有効回答が2000強あり、そのうち90%
ぐらいがソシオになりたい!ということで、さらに80%以上の
人が、バルサグッズをサイト上で買えればいいなあと思って
いたことでした。


そしてその数字を元に事業計画を作り、現バルサの副会長である
マークイングラに直接メールでプレゼン資料として、メールを
“送信”。


今もその事業計画書は持っているのですが、今の自分がみ

ると本当に質が低くて恥ずかしくなってしまうレベルのものです

が、大切にとってあります。 


バルセロナに送った事業計画書は、まあ、無視されればそれ

はそれで、とりあえずやれるだけのことはやったので、悔いは

ないかなあと自分の中で納得してました。




2007-04-16 23:05:43 posted by aslj

キャプテン翼プロジェクト

テーマ:JSV時代

2003年10月、週刊ヤングジャンプで連載されているキャプ

テン翼の大空翼君が“バルセロナ”というチームに所属して

いることに目をつけた当時の上司がある企画をあたためて

いました。


それは劇中では“バルセロナ”に所属している翼君をリアル

のFCバルセロナに完全移籍させてしまおうという企画です。


当時、バルセロナに所属していることになっていた翼君です

が、このバルセロナというチームは、実際のFCバルセロナ

ではなく、架空のチームだったのです。


当時の上司が集英社に持っていった話の内容は、架空の

チームとして連載されているバルセロナを実際のチームで

あるFCバルセロナからお墨つきをもらうこと。そして、FCバ

ルセロナとの交渉をJSVがコーディネートするということで

した。


JSVとしては、小売企業なので、翼君の肖像などを使用し

たFCバルセロナとのコラボ商品を販売したいというもので

す。


FCバルセロナとの交渉を担当したのが私でした。

最初は翼君の話をしてもわかるんかいな・・・と思ってたの

ですが、交渉は意外にとんとん拍子に進みました。


というのも、現地でもキャプテン翼が放送されていたの

です。 オリベルとベンジーという名前だったのですが・・。


最終的に、キャプテン翼の作者である高橋陽一先生を

FCバルセロナが招待し、ラポルタ会長の部屋で実際の

選手さながらに、2+8 TSUBASAと入ったユニフォーム

を渡し、握手を交わすという絵が現地でとられました。


現地では翌日のムンドデポルティーボ紙、スポルト紙の1面

にラポルタ会長との握手の写真、高橋先生が書き下ろした

翼君の絵が掲載され、その絵がラポルタ会長に寄贈されました。


日本でもヤングジャンプの巻頭カラーで紹介されると同時に

翼 x FCバルセロナコラボグッズが発売になりました。


商品が発売されたのが、確か2004年3月7日だったので、

かれこれ5ヶ月かけたプロジェクトです。


翼君がFCバルセロナにわたってからFCバルセロナのユニ

フォームをきた翼君の絵が何回か書き下ろされたのですが、

実は、ここで翼君のシューズのメーカーに関してのせめぎ

合いがあったりとバーチャルとリアルの融合としては非常に

面白い取り組みだったと思います。


この翼プロジェクトは、現地で相当話題になり、僕自身、この

プロジェクトがきっかけとなり、FCバルセロナから名前を覚えて

もらえることとなったのです。











2007-04-14 16:47:14 posted by aslj

会社が倒れるときって。。

テーマ:人脈の作り方

2003年9月。


私が株式会社日本スポーツビジョン (以下、JSV)に入社

して2ヶ月がたちました。


入社して早々、会社の状態がよくないということはある程度

わかっていました。というのも200名強の企業にも関わらず

社長の決裁がなしでは、何一つ進まないという状況でした。


社長の決裁を待つために各部署の担当者が社長の同行

を気にしてうろうろうろうろ。 部署間の連携はほぼ皆無で

完全にお互いがお互いを引っ張り合っている感じで、

誰がみても会社は末期だという感じで、そして誰もがそれを

わかっているにも関わらずどこか他人事のような感じでし

た。


この会社大丈夫かなあ・・・と思っていた矢先に会社が買収

されることになりました。突然、買い手の企業が入ってきて

社長は解任。新社長が就任し、取締役クラスも数名を除いて

刷新されました。


当然、元からいた社員、幹部クラスは新しく入ってきた会社

の人を心よく思わず、会社はさらにばらばらに。


そして元からいた社員はどうやって会社の業績が上向く

のかを考えるかわりに、会社がどういう人の手に渡り、

その人の手腕がどうなのか、自分の職は保証されるのか、

など誰しもが自分のことを考えていました。


かくいう僕も入社2ヶ月で会社がぐちゃぐちゃになっている

状況をみて、自分の将来をどういう風に持っていくかばかり

を考えていました。


一番社員の士気が下がったのは、新社長がスポーツには

全く無知だったことです。社員が何かを提案しても、社長は

何もわかっていなかったので、社員が社長のことを馬鹿に

しはじめました。


社員みんながこういう状況だと当然のことながら業績は

さがる一方で、さらに追い討ちをかけたのが、社員の4分の

1がリストラされるということになったときです。


私は幸い対象ではなかったのですが、会社が倒れていく姿

を目の当たりにして、「会社ってこういう風に倒れていくんや・・・」

と思ったものです。


そういった状況の会社だったのですが、私個人としては、

FCバルセロナオフィシャルショップがオープンした後、

ライセンスを持っていた各プロパティーのマーケティングプラン

を作成する仕事を担当することになりました。


当時会社が持っていたライセンスは、FCバルセロナ、インテル

ACミラン、マンチェスターユナイテッド、ユベントス、MLB、

NHL、NFL、NBA、FIGC、WWE、JBLなどなどほとんどの

主要スポーツのライセンスをおさえていました。


そしてこのライセンスを使ってのオフィシャルショップにおける

マーケティングプラン、そしサブライセンス営業にも携わるよう

になりました。2003年10月のことです。


どこの業界でも、人に話して理解してもらえるレベルでの実績

を積むことが肝心ですが、私が最終的にFCバルセロナと個人

レベルでも話がなった大きなきっかけになった仕事があります。


自分で企画を立てた仕事ではない仕事ではあったのですが、

今でもこの仕事のおかげで今の自分があると思っています。


それは集英社のヤングジャンプとのタイアッププロジェクトでした。







2007-04-12 01:00:33 posted by aslj

2003年8月29日FCバルセロナオフィシャルショップオープン

テーマ:小売業

2003年8月29日(金)、お台場のパレットタウン内にあった

グランドームというショップのショップインショップという形

でFCバルセロナのオフィシャルショップFCBOTIGAがオー

プンしました。


ショップは確か60平米ぐらいだったかと思う。

当時、クラブチームのファングッズはまだまだかなり珍し

くて結構手に入りにくいものでした。


当時、FCバルセロナは6季連続でタイトルを逃していて、

さらにその年は確かチャンピオンズリーグには参戦でき

なかった年で、日本ではバルサといってもほとんどの人

が見向きもしない状態でした。


そんな中でオフィシャルショップがオープンしたのですが

オープン時には金曜日の昼にかかわらず長蛇の列!

日本にはこんなにバルサファンがいるのかとびっくりした

のを覚えています。


そして、翌9月19日にはスペインからチキ・ベギリスタイン

が来日し、FCBOTIGAオープンイベントを行いました。


ご存知かもしれませんが、スペインという国はすべてが

ぎりぎりの国で、このときも9月の12日頃にいきなりバルサ

から連絡があり、「チキ連れて行くからさ~、なんかイベント

やろうよ」 みたいな感じでえらい軽いのりでイベントの

運営を頼まれたのです。


といっても、イベントまではあと1週間をきっていて、告知

期間はほぼ皆無。にもかかわらずバルサ側からは最低

でも200人ぐらいは集めてね~といわれ、考えた方法が

FCバルセロナのファンサイトを運営している人に声をかけ

て口コミで広がらせようという方法。


このときに当時バルセロナのファンサイトで一番有名だっ

BLAUGRANA  に声をかけ告知してもらうことになりまし

た。 ほぼこのサイトのみで告知したのですが、イベント

当日、ふたを開けてみれば200人どころか300人近い人

が行列を作っていました。 このときファンサイトのパワー

というのを知りましたが、最終的には一緒に仕事をやる仲

間になるとはこのときは微塵も想像していませんでした。


このころ私が働いていた株式会社日本スポーツビジョン

は経営が行き詰まり、出版社である幻冬舎という会社に

買収されることになりました。


私は、入社して2ヶ月。 おいおいーー騙されたという感じ

ですよ。







2007-04-10 16:51:00 posted by aslj

ライセンスビジネス

テーマ:サッカーエージェント業務

ライセンスビジネスの話が少しでてきたのでライセンスビジネスに

関して少し説明します。


ライセンス・ビジネスとは、商品化権許諾業と訳すことができると思

います。つまり、著作物や、商標を使用して、商品化する権利を使用

したビジネスということですね。


よくある例で言えば、キャラクターやデザイナーズブランド等を使用

した商品を製造販売する権利のことを商品化権といいます。


著作物として扱われるキャラクター等であれば著作権に含まれる

複製権、商標権の確立したブランド等であれば商標の使用権が、

この商品化権にあたります。

私が担当していたFCバルセロナなどの場合は、この中でも特にマス

ターライセンスといって、ブランドの包括的な独占的使用権のライ

センスでした。


そしてこのライセンスの中に含まれていたオフィシャルショップの

権利を使用し、オフィシャルショップを立ち上げる準備をしていた

わけです。


ただ、チームのロゴを使用して商品を製造したり、ショップデザ

インを決めたりするにはすべてチームのスタイルガイドというも

のがありまして、チームとしてブランドコントロールするために、

ロゴを使用する商品、販促物などすべてのものはスタイルガイ

ドに沿った運用をしているかどうか承認を得なければなりません。


バルサの場合だと、白を使用したデザインはすべてNGがでた

りします。(レアルマドリードの色は使用してはならぬという固

い掟があります。)


この承認作業というのがなかなか曲者でして、商品などを製

造するとグレーゾーンの商品が結構あるわけです。 つまりス

タイルガイドぎりぎりのデザインや、スタイルガイドから完全に

離れたデザインであって承認がとれたりするのです。


チームの承認担当者をどれだけ納得させられるかというのが

腕の見せ所なのです。


その承認作業というのが私の最初の仕事でした。ショップオ

ープンにそなえ、スタッフのユニフォーム、POP、ショッピング

バッグ、広告その他あらゆるものが承認にかかります。 特に

商品化に関してはさまざまな制約があります。例えば、選手

の肖像を使用して商品化する場合は、必ず3選手以上の肖

像を同時に使用しなければならないなどです。これは特定選

手の商品だけを製造させてしまうと、チームではなく、個人に

フォーカスされてしまうからです。


この選手の包括利用という概念はチームによってまちまちで、

3選手の場合もあれば、5選手の場合もあります。バルサで

言えば3年ぐらい前は3選手でOKだったのですが、現在で

は5選手を包括利用しなければならなくなりました。


実は、私はこの時までライセンスビジネスとはどういったもの

か全く知りませんでした。というより、海外サッカークラブの

グッズなどが商品化されているということすら知りませんでした。


地元にはサッカーグッズショップがなかったのです。笑


















2007-04-06 17:51:46 posted by aslj

スポーツマネジメントの世界へ。

テーマ:自己紹介

私のスポーツマネジメントとのかかわりは2003年7月21日

に始まりました。



6月末ぐらいに入社が決まり、7月に一度東京にきて、家を

探しました。東京には住んだこともなく、土地勘も全くなかっ

たのですが、東京滞在期間は2日しかなく、とりあえず不動

産屋さんに見繕ってもらったのを3つぐらいみて、そのうちの

一つに決めました。初台勤務ということでとりあえず、家から

電車1本でいけて20分以内という条件で適当に決めました。


最初の住まいは芦花公園になりました。

当時の家賃が7万6千円、会社での給料が額面20万9千円。

給料は大使館時代の三分の二ぐらいになりました。大使館

時代は、家賃は90%ほど負担してもらっていたので、実質

給料は半分ぐらいになった感じですね。


普通は、給料の3分の1以下でないと生活は苦しいらしい

ですが、正直東京での最初の1年の暮らしはきつかった

ですね。昼は5割ぐらいの確立で吉野家。とにかくお金が

なかったので牛丼にけんちん汁つけるかどうかですら悩

むぐらいでした。笑


入社して配属されたのが、ライセンスマーケティング部と

いうところで、簡単にいえば、海外から取得したのマーチャ

ンダイジングライセンスの管理という仕事でした。


当時、会社が持っていたライセンスは、ACミラン、インテル

FCバルセロナ、マンチェスターユナイテッド、ユベントス、

ハンブルガーSV、フェイエノールト、FIGC、MLB、NHL、

NBA、NFL、WWEなどなどです。


この会社は日本全国に25店舗ぐらいのスポーツファン

グッズショップを展開していて、特にお台場にあった

グランドームというオフィシャルグッズショップが集まっ

ているところは本当に物凄いとしかいいようがないほど

贅沢なショップでした。(内装が。)


お台場にはすでにACミラン、マンチェスターユナイテッド

のオフィシャルショップがあったのですが、僕が入社した直後

にはインテルミランのオフィシャルショップがオープンし、その

1ヶ月後にはFCバルセロナのオフィシャルグッズショップが

オープンすることになっていました。



ショップオープンそのものは仕事的にはそこまで大変な

仕事ではないのですが、海外のライセンスの取得している

ので、ロゴなどを使用するすべてのものはアプルーバルと

いってライセンサー(ライセンス元)の承認をとらなければ

ならないので結構大変なのです。



バルセロナのオフィシャルショップのオープンが2003年

8月29日を予定されていたにもかかわらず、ショッピング

バッグとか、内装とか、店員ユニフォームとか、そういった

様々なものの承認が全くとれていない状態で、会社はて

んやわんやの状態でした。



入社してから1週間ぐらいは、あまり仕事もなかったの

ですが、8月からは、いきなりバルセロナ担当として、

実戦に放り込まれることになりました。


というのも、当時会社にはスペイン語を使える人が一人

もいなかったために結構仕事が滞っていたのです。


私はそもそも小売業、ライセンスビジネスなどを一切やった

ことがなかったので、とりあえず適当に仕事を進めていた

のですが、もともとサッカーそのものには相当詳しかった

ので割とスムーズに仕事に入りました。


主に担当していたのは、承認作業で、いろんな部署から

まわってくるデザインなどをサクサク許可をとっていく仕事

です。 


実は、担当になってしばらく、自分が何のために、バルセ

ロナに承認を出しているかよくわかっていませんでした。笑


とりあえず承認に出してくれといわれて、いろんなファイルが

メールで送られてくるので、「承認よろしく!」みたいな感じで

すべてバルセロナに横流し。


まあ、完全に伝書鳩ですね。


バルセロナ側としては、スペイン語でやりとりができるので

楽だったようです。













2007-04-04 18:48:52 posted by aslj

JICAの試験

テーマ:自己紹介

2002年9月、ベネズエラ駐在から帰国しました。


帰国前描いていた今後の人生のシナリオは・・・


1. ベネズエラ永住


  → 仕事を探す(日系企業)

  → ベネズエラで起業する。


2. 国際協力の道へ進む


  → JICAを受ける

  → 青年海外協力隊を受ける

  → 国際開発関係の大学院へいく


3. 民間に戻る


  → スペイン関連の仕事

  → マーケティング関連の仕事


こういう感じでした。



ベネズエラ永住の道は早々にくずれました。

その理由はなんといっても、「日本人がいない」

ということです。日本人の女の子の友達とか

欲しいなあと思っても、カラカスにいる日本人の

女の子って、大使館の書記官の娘とか、いわゆる

不可侵の人たちなのです・・・。


ベネズエラ人もそれはそれでありっちゃあありなの

ですが、いかんせん、侘びさびが通じない。


すみません。話がそれました。

まあ、単に日本に帰ってきたかっただけですね。


残り2つの選択肢の中では、やっぱり国際協力かな

あってことで、JICAに絞りました。


JICAの社会人入試は5月だったので、つまり9ヶ月

間は強制的にぷー太郎なわけです。(浪人と呼ぶのか?)


そこで、帰国後は、日本で1ヶ月英語学校に通い、

その後、AMDAというNGOのスタディーツアーでネパール

の奥地へいき、1月からは、イングランドのボーンマス

に2ヶ月語学留学しました。


いや、ほんとに、超のんきな27歳でしたね。

ボーンマスの学校でも20代後半の男でのんきに語学留学

なんて来てるやついなかったですもん。


それもこれも、自分はJICAの試験に受かるという根拠の

ない自信からでした。 5月を迎えて、意気揚々とJICAの

試験を受けにいきました。結果は筆記で撃沈。


にもかかわらず、落ちても大して悔しくなかったんですね。


この時点で、27歳独身、実家で暮らし、無職期間9ヶ月。

転職暦3回。これってニ、ニ、ニートじゃないですか!


この頃、家で毎日リクナビNEXTとか見てました。

サッカーの仕事もないかなあと思って、サッカーエージェント

のジェブエンターテイメントのサイトを見たりしてました。


7月に入って、そろそろマジでやばいという時期にリクナビで

「スペイン語」でなんとなく検索し、引っかかった会社に

日本スポーツビジョンという会社がありました。


英語必須、スペイン語かイタリア語できれば尚良しみたいな

ことが書いてあって、急成長中のわが社で活躍しませんか?

とありました。


サッカー+スペイン語+英語ってことで、すぐに応募しました。

書類選考を通過し、次はいきなり人事部長面接。


実は、日本スポーツビジョンは、海外サッカーチームのマスター

ライセンスを5チームほど獲得していて、私が面接を受けていた

ときは、ちょうどFCバルセロナのオフィシャルショップをオープン

させる2ヶ月前のタイミングで、スペイン語が出来る人が欲しか

ったようです。


そのまま社長面接もすんなり通り、内定から2週間もしないう

ちに東京に引越し、入社することになりました。確か、2003年

7月21日だったと思います。


かくして、ぷー太郎期間は、10ヶ月9日で終わりを告げることに

なりました。







2007-04-03 21:34:53 posted by aslj

ベネズエラ勤務

テーマ:自己紹介

在ベネズエラ日本国大使館で働いていた期間は、2000年9月~

2002年9月です。


なぜスペインではなく、南米で勤務したかというと、大学時代に

学んでいた国際協力関係の分野に興味があったのです。

元々国際協力関連の仕事で食べていこうとは思っていなかった

のですが、日本での社会人生活をしているうちに国際協力の

仕事もしたいなという考えが浮かんできました。


おそらく大学時代に国際協力の勉強をしたことと、大学時代に

コスタリカ、エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコ

をバスで旅行したときに感じたことが影響してたんだと思います。


南米だと国際協力関係の仕事と接することが多いだろうという

のがベネズエラを選んだ理由です。 実際、働きはじめてから

はJICAの人や国際協力関係の仕事をしている人から情報を

得たり、国際開発学の本を読んだりして結構勉強してました。


ベネズエラという国の説明をすると長くなるので省きますが、

治安がめちゃくちゃ悪い国で、ホテルなどは、ドアの前に

鉄格子がありますし、夜、車に乗るときは信号で絶対とまっては

いかないというような国です。



市内

そういう予備知識が入っているので、町行く人の半分以上

は強盗に見えました。


いえ、これ本当です。

最初は少しでも誰かが近づいてくると、ゴルゴ13より

早いんじゃないかというぐらい急にふりかえってました。


実際、私が勤務していたときには強盗は日常茶飯事、

誘拐事件などもありましたし、クーデターも起こりました。


といっても、日中は結構のんびりで、町を歩けばマンゴーが

なっているというようなところです。



カラカス


大使館の仕事をしているうちに、国際公務員になりたいなという

思いが芽生えてきました。国際公務員になるためには最低でも

修士、かつ英語、スペイン語ができて、発展途上国での勤務経験

があると有利というような感じでしたので、ベネズエラ勤務中は

毎週2回プライベートレッスンで英語を勉強していましたし、

週1回はフランス語の学校にも行っていました。


この頃は正直サッカーのことは頭の片隅にしか残っていません

でしたね。ベネズエラでもプレーはしていましたが。。


ベネズエラでの2年間は本当に楽しかったです。

車で5日かけて、陸路でブラジルにもいきましたし。


国境


2001年9月11日ニューヨークのテロのときは、大使館で

テレビを見ているところでした。ちょうどその2日後に

姉の結婚式に参加するため、ニューヨーク経由で日本

へ帰るところだったのですが、テロでフライトキャンセル。

地球を逆まわりし、オランダ経由で帰りました。


カラカスから10時間のフライトで、アムステルダム着で

3時間待ち、そこからさらに12時間のフライト。まじで

死にます。




お気づきの方もいるかもしれませんが、私は2002年ワールド

カップはベネズエラでむかえました。


ベネズエラに行く最大のネックが日本で行われるワールドカップ

が見られないということだったのです。本当に悩みましたが、

やはり自分のやりたいことが大事ということで泣く泣く海外赴任

しました。



ベネズエラでの日本サッカーの注目度はゼロでした。

日本との時差が13時間もあったので、日本で行われる試合は

ベネズエラでは深夜でした。 有料放送に入っていないと

試合を見られないので、どこかパブリックビューイングをやって

いるところは・・・と探したものの、そんなことをやっているところ

はなく、最終的にたどり着いたのはホテルのロビーでの観戦

という荒技です。笑



大使館の何名かの面子に声をかけ、みんなでパブリックビュー

イングをしようといって集まったものの、ふたをあけてみると

集まった人数は2人。 ベルギー戦、鈴木のゴールでめちゃ

めちゃ喜んでいる我々の声がロビーにこだましてました。。



長くなってきたので話をまとめますが、ベネズエラから帰国

するときには、26歳。


帰国後社会人入試でJICAを受けようと思っていました。


そこから人生のどんでん返しが起こるわけです。

いや、まじで人生ってわからんもんですよ。









2007-04-03 01:03:34 posted by aslj

社会人になる。

テーマ:自己紹介

正直、社会人になってからは結構挫折の連続でした。


最初に入った会社では、1年以内にメキシコへという話だったの

ですが、入社して早々の工場研修で嫌気がさし、実際の配属が

茨城県の工場になるとわかった瞬間、辞表をだしました。


超高速です。4月に入社して、7月には辞表だしてましたから。

会社にもあと半年ぐらいがんばればメキシコにいけるのに・・・。

みたいなことを言われたのですが、自分としては、ノーモア工場

ですよ。 


こういう書き方をすると工場で働いている方には申し訳ないので

すが、工場の仕事は自分には全く不向きでした。


これが仮にメキシコに行ったとしても仕事内容が嫌だったら嫌だ。

という、まあ単なるわがままでしたね。


ただ、この4ヶ月での退職がその次の仕事を決めるのに結構

ネックになりました。今でこそ転職万歳!って感じですが、

当時はまだ転職はあんまりよくないというイメージが強かったのです。

勤務期間 : 1999年4月~8月


次の仕事がきまるまで7ヶ月かかりました。

実家で生活してたので金銭的にはどうってことはないのですが、

関西で探すとなかなか自分が希望する会社ってないんですよね。。


希望ってのがまた、「海外に行ける会社」というふざけた希望なもの

で、結構苦戦しました。最終的に、大阪にある繊維関係の商社に

決まったのですが、ここでは何が問題だったかというと、上司との

相性が最悪。たぶん、これまでの人生の噛み合わなかった人ランク

をつけると圧倒的ナンバーワンだと思います。


上司との相性の悪さと、あと仕事では英語しか使う機会がなかった

ということもあって、かねてから狙っていた仕事を受けてみることに

しました。在外公館派遣員という試験で、海外の大使館で2年働け

るという制度です。


実は、繊維専門商社に入社したときにはすでに願書を出していた

のです。笑  ただ、試験は5月だったので商社の仕事がよければ

試験を受けずに商社で仕事を続けようと思っていたのですが、

とりあえず受けるだけ受けて、受かってから考えようというスタンス

で受けました。


結果は、1次の筆記が通り、2次の面接も受かり、いよいよ最終試験。

なんと東京の外務省での試験でした。もちろん有給を申請しての

試験。 なんというひどい社員でしょう。。 (今だとそう思います。)


結局、最終試験もとおり、在ベネズエラの日本国大使館に2年勤務

することに決まり、商社もさくっと辞めることになりました。

ここでの勤務期間も約4ヶ月。 2000年3月~7月。


今の自分が過去を振り返ってみて、この在外公館勤務が2回目

の人生の転機ですね。 ちなみに1回目は、スペイン留学です。 






2007-04-01 16:16:27 posted by aslj

就職

テーマ:自己紹介

スペイン留学から帰った後は、25歳までには、英語、スペイン語

イタリア語を話せるようになろうという目標と、とにかく人生の早い

段階で海外で働くということに焦点をしぼって生活していました。


大学4年になる直前の春休みには、カナダへ1ヶ月短期留学した

り、日本では、関西外大にあった、スピーキングパートナーという

制度を利用して、イタリア人のスピーキングパートナーを作りま

した。基本的にはこっちが日本語教える代わりにイタリア語教え

てもらうというやつです。交換授業ですね。


就職活動は、動くのが非常に遅かったです。まわりは大学3年の

11月ぐらいからはじめているにも関わらず、僕が始めたのは大学

4年の4月から。かなりの数の会社がすでにエントリーを締め切って

いました。 (超氷河期だった??)


そんな中海外にいけるかも・・・。という会社だけに絞っていくつか

受けられるところをあたりました。 近鉄エクスプレス、海外新聞

普及社、近畿日本ツーリストなどです。


などといっても結局面接を受けたのは、全部で5社。最終的には

入社から1年以内にメキシコに行かせてくれるという話があった

日本ハムに行くことになりました。確か1998年4月です。


当時、将来は何をしたいという考えで動いていたのではなく、

入社から最短で海外へいき、海外で3年経験を積んだのち

海外での転職を考えていたのです。


今となっては、なんという浅はかな考えで就職したんやろうと

思います。笑







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